2015年9月6日 主日礼拝「十字架のことば」
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一1章18~31節
説教題
「十字架のことば」
今週の聖句
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
(Ⅰコリント1章18節)
訳してみましょう
1725 Christ, the Rock, is our sure hope.
(キリスト、すなわち岩は、私たちの確かな希望である。)
1726 To be found, you must admit you are lost.
(見つけられるということは、あなたは自分が失われた者であることを認めなければならない。)
説教メモ
神の知恵
先日、テレビで進化論の話題が放映されていました。
その中で、「ある時、急に脳が増えた」とか「急に目が見えるようになって」魚が人間へと進化してきたなどと、神さまの創造を知る私たちにとっては到底あり得ないと思うようなことがまことしやかに語られていました。
世の大抵の人たちはこの進化論になんら疑問を持つことなく、進化論者が語ることがらを何の抵抗もなく信じ、そしてそれが事実として受け入れています。
私たちはそれをにわかに信じることはできません。
しかし同じように、創造(神)をにわかに信じられない多くの人々がいることも覚えましょう。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
イエス様を通して私たちに救いのメッセージが語られました。
宣教のことばの愚かさを通してです。
「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1章21節)
ユダヤ人はしるしが重要でした。しるしがないものは受け入れられませんでした。
ギリシア人は理性的でした。理性的でないことがらは受け入れられませんでした。
しかしパウロは十字架につけられた「イエス様」そのものを宣べ伝えました。
それは、しるしを重要とするユダヤ人にとってはつまずきとなり、理性的なギリシア人にとっては愚かなことばでした。
その中でも「宣教のことばの愚かさを通して」信じる者がおこされました。
「しかし、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント1章24節)
神さまは私たちのような者たちを選び、ご自身のもとに召してくださいました。
「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(Ⅰコリント1章27~29節)
「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』」(マタイ11章25節)
続けて次のように語られます。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(Ⅰコリント1章30節)
義と聖めと贖い
●キリストは私たちにとって義となられた
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5章21節)
●キリストは私たちにとって聖めとなられた
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12章1節)
●キリストは私たちの贖いとなられた
贖い=買い取る
イエス様が罪の奴隷であった私たちを買い取られました。
そして私たちは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
クリスチャンは「自分であって、自分ではない」のです。
私たちの所有権は、買い取って(贖って)くださった神さまにあります。
私たちが愚かであっても、弱さを覚えている者であってもそのようです。
どのようにして買い取られたのでしょうか。
それは、イエス様の十字架の血潮という、尊い代価によってです。
私たちは今、どのような状態でしょうか。
それは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
イエス様が十字架上で発した7つのことば
- 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。
- あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
- 父よ、わが霊を御手にゆだねます。
- わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
- 女の方。そこに、あなたの息子がいます。そこにあなたの母がいます。
- 私は渇く。
- 完了した。
イエス様の十字架の血潮という、尊い代価によって私たちは買い取られ、罪の奴隷から解放されました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)
このみことばは、私たちの信仰の原点です。
私たちはキリストと共に十字架につけられました。
この事実をいつも心にとめておくなら、私たちは様々な誘惑に打ち勝つことができるでしょう。
キリストは、愚かで弱い私たちの確かな希望なのです。
讃美歌271番
勲なき我を 血をもて贖い
イエス招き給う み許に我ゆく
罪咎(つみとが)の汚(けが)れ 洗うに由(よし)なし
イエス清め給う み許に我ゆく
疑いの波も 恐れの嵐も
イエス鎮め給う み許に我ゆく
心の痛手に 悩めるこの身を
イエス癒し給う み許に我ゆく
頼りゆく者に 救いと命を
イエス誓い給う み許に我ゆく
勲なき我を かくまで憐れみ
イエス愛し給う み許に我ゆく