2020年4月26日 主日礼拝「網を右へ」
本日の聖書箇所
ヨハネの福音書21章1〜14節
説教題
「網を右へ」
今週の聖句
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」
ヨハネの福音書21章6節
訳してみましょう。
2189 Never underestimate the power of one small prayer. God hears the heart, not the words.
2190 When people put you down, God will pick you up.
礼拝式順序
開 祷
賛美歌 9番「ちからの主を」
主の祈り
賛美歌 369番「はたらきびとに」
聖 書 ヨハネの福音書21章1〜14節
説 教 「網を右へ」 伝道師
賛美歌 365番「わが主イエスよ」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷 牧 師
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説教「網を右へ」
佐藤伝道師
シャローム。おはようございます。
先ほどお読みいただきましたヨハネの福音書20書1節には「テベリヤの湖畔で」とあります。テベリヤ湖とは簡単に言ってしまうとガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖の別名はゲネサレ湖。それがヨハネの福音書ではテベリヤ湖となっています。当時のローマ帝国が絡む政治的な理由によって、ガリラヤ湖にテベリヤ湖の別名が付いたのです。
私はこの「ガリラヤ湖」と聞くと、1つの賛美歌を思い起こします。それは聖歌なのですが、聖歌580番の「主はガリラヤ湖の」という賛美です。この賛美は、私が新潟聖書学院での入学式に歌われ、そして卒業を数日後に控えた学院のチャペルタイム、礼拝で「卒業説教」をさせていただいた時にも、先生が選曲してくださって歌われた賛美です。歌詞は「主はガリラヤ湖の漁師に告げぬ『網を捨て置きてわれに従え』、また主は疲れし世人に告げぬ『罪を振り捨ててわれに従え』」。
とても感動したものです。図らずも最初と最後にその歌詞を味わったのです。最初、それは召された時。これは神学校に召されたことばかりではなくて、主の弟子として召された時、救われた時とも重なりますが、最初の召された時、そしてこれから遣わされて行こう、派遣されて行こうという時、その最初と最後に賛美しました。最初と最後があるということは、その途中経過があると言うことで、私は卒業までの数々の主のみわざ、主の恵みを思い起こし、心から慰められたものでした。心燃やされる思いがしたものです。
皆さんはどうでしょうか。今朝は人生で一番新しい朝です。ということは、昨日の夜は皆さんにとって、昨日の時点で人生で最後の夜だったということです。この一番新しい朝、これまでの歩みを振り返り、最初から最後までの主の恵みを一つ一つ思い起こして数えるならば、私たちは新たに主からの慰めと力を得るのではないでしょうか。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。本朝もこのようにして礼拝が持てます幸いを感謝致します。それぞれがそれぞれの形ではありますが、その礼拝を通し、みことばを通して、聖霊様が働いてくださり、今朝も私たちを教え整えてくださいますように。また力を落としておられる方がいますならば、どうぞ慰めをお与えくださいますよう、お願いをいたします。足らない者の奉仕をどうぞお守りください。救い主イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。
主がよみがえられた朝、御使いを通してこう告げられました。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、“(イエス様に)お会いできる”ということです。では、これだけはお伝えしました」(マタイ285-7)。
ペンテコステの10日前には、弟子たちはエルサレムにいたことが聖書に記されています。なぜ一度、ガリラヤへと戻されたのでしょうか。弟子たちは主のおことばに従い、ガリラヤのテベリヤ湖畔へと行きました。本朝与えられましたヨハネの福音書21章1節からは、そこでの出来事が記されています。
ガリラヤとはどのような場所なのでしょう。
ガリラヤはイエス様が公生涯、宣教を始められたところ。イエス様がカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡をされ、その後も人々の病を癒やし、悪霊を追い出しといった数々の奇跡をされたところ。
そして、弟子たちのほとんどがガリラヤの出身で、その弟子たちがイエス様によって召されたところです。
また、そこには弟子たちの親や兄弟、家族との生活があり、マルコの福音書にはヤコブとヨハネはイエス様に召された時、「父と雇い人たちを残して従った」とありますけれども、つまりそこには会社組織のようなものがあり、仕事や仕事を通した社会生活の営み、人間関係もあった、というところです。
そのような、弟子たちにとっては色々な意味で「最初」の場所であるガリラヤへと、弟子たちは導かれました。
今日のこの箇所では、シモン・ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、それと誰だかは分からない2人の、合わせて7人の弟子たちがテベリヤ湖畔にいたと記されています。
- シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
皆は漁に出かけました。
この弟子たちの行動は、「わたしはあなたがたを遣わします」といわれた主のおことばを無視した行動なのでしょうか。違います。実はこの箇所は、ある注解書では「前章(20章)との関連を考えると、比喩的に『人間をとる』漁、すなわち使徒的宣教を指しているとみなすことができる」と説明しています。
3節を文字通りにとるなら、食べ物が必要なために漁をしたまでかもしれません。けれども、この夜の出来事を通して、弟子たちにあることを思い起こさせるには十分な出来事となったことは間違いないでしょう。それは「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ117)との、イエス様の最初の招きのおことばだったのではないでしょうか。
また、夜というのは漁に適した時でもあります。自分たちの力を存分に発揮できる時。それなのに何も獲れずに時間が有り余る静かな夜、暗やみの中で弟子たちの思いは自分の心の内へと自然に導かれたのではないかと思います。そして以前、同じこの湖で、漁師である自分たちの力を過信してイエス様抜きで舟で沖へ漕ぎだしたときに嵐に遭って死にそうになり、イエス様が風を叱りつけられ嵐を沈められた、あのイエス様に助けられた経験も思い出されたのではないでしょうか。他にも夜、闇の中でイエス様と過ごした日々を、出来事を色々と思い巡らせたのではないかと思うのです。
そんな夜が明けようとしていた時、イエス様は岸辺に立たれて問われました。
- イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
「食べる物」と訳されている言葉ですが、これは主食以外のもの「おかず」を意味するものです。別の訳では「おかずがありませんね」とか「獲物がありませんね」と訳されています。「子どもたちよ。獲物がありませんね」とイエス様に問われて、弟子たちは力なく「はい。」と答えるしかありませんでした。
家族や仕事仲間など、親しい人たちの中で主を証しして行くことは本当に難しいことだと思わされます。様々な困難や迫害がある。クリスチャンである故の、信仰がある故の生きにくさがある。なかなか成果が出ない。私たちも力なく「はい。」と答えるしかないような、落ち込んでしまうような状況と重なるような思いがします。
先週、図らずも「みことばの光」ではルカの福音書4章、5章を見てきました。4章では「預言者は故郷では歓迎されない」という厳しい現実がイエス様の口から語られました。
そしてその後の5章では、まさに弟子たちがこの時、思い起こした出来事が記されていました。そこには、人間を捕る働きに召し出される直前、1匹も魚が獲れずに失意の中にあったシモン(ペテロ)たち。しかしイエス様は、有能で力ある者ではなく、弱く愚かな者を選んでくださるのだということ。主は私たちの知恵や力、身分に期待してはいない。むしろ、神の力が現れ出るために、無に等しい者を召し出してくださるのである(Ⅰコリント126-28)ということを学ばされました。
そんな私たちにただ求めておられるのは、「おことばに従う」ことなのです。
そのおことばとは「舟の右側に網をおろしなさい」。
- イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
以前の同じような経験が思い出されたのでしょう。
- そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
- しかし、他の弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
イエス様であることを知らされたとき、裸だったペテロは上着をまとって海に飛び込みました。それに対して他の弟子たちは小舟を漕ぎながらイエス様がおられる岸辺へと行きました。
そこには、それぞれの人たちの性格が表れているように思います。単刀直入に行動するペテロ、そして慎重に行動する他の弟子。けれども聖書はどちらにも軍配を上げていません。飛び込んだのが良いとか、ぽつぽつ行ったのが悪いとか言うわけではありません。イエス様に対する愛、主を慕い求めていく思いが色々な形で表れるのでしょう。それが、イエス様に喜ばれるかどうかが問題であって、人間が見てあの人が良いとか悪いとか言うべきものではない。それぞれが自分の持ち前、持ち味を発揮して、主に従って行く生活があるのだということが、ここから知ることができると思います。
- こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
- イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
- シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引きあげた。それは153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
- イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
- イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
これらの出来事を通しても、イエス様は弟子たちに、弟子として召された最初の日から、今日という日までに起こった様々な出来事を思い起こさせてくださいました。
「あの方は主だ」と聞いて急いでイエス様のもとに駆けつけたペテロの目に、炭火が燃えているのが見えた。そこでペテロは何を思ったでしょう。
他にも、イエス様のおことばに従って網を降ろしたところ、大漁となったこと。5つのパンと2匹の魚をイエス様が祝福されたことで、男だけで5千人もの人々の空腹を満たすことができたこと。それは一度ばかりではない。7つのパンと少しばかりの魚で4000人もの人々の空腹が満たされたこと。それ以外にも色々な事が思い起こされたでしょう。それらの恵みを一つ一つ数えるように思い起こされ、弟子たちはなんと慰められたことでしょうか。
そして13節は、あの最後の晩餐を思い起こさせるものだったのでしょう。
「弟子たちは主であることを知っていたので、だれも『あなたはどなたですか』と尋ねる者はいなかった」とあります。イエスとは何者か。イエスとは誰か、イエスとは私のために何をされたのか、何をされているのか、何をなさろうとしているのか。そのような深い問い、切実な問いに対して、弟子たちは主からの慰めを得ることによって何か答えを得たのでしょう。ぼんやりとかもしれない。でも、イエス様抜きでは何事もなし得ないこと、このイエス様にただ従って行けば良いのだという答えを得たのではないでしょうか。
イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。」と言われました。
聖書では「右」とは神の側をあらわし、「左」というのは、人の側を指します。
網を右の方におろすことと、左のほうにおろすこととはちょっとした違いではありますが、それは永遠の違いをもたらす大きな違いです。そして「網を右におろしなさい」という主のおことばは、私たちの生活の中で、親しい人間関係の中でも常に聞こえてくる声だと思うのです。
先週は、人々に喜びの知らせ、福音を伝えることによって平安が与えられると申し上げました。しかしこの伝え方にも、先ほども見ましたが、ペテロと他の弟子たちみな性格ややり方が違うように、私たちもみな違うのです。大胆に伝えることができる方もおられるでしょう。なかなか口に出して言えない状況の中にいる方もおられます。それぞれの性格もあります。しかし聖書は、どちらにも軍配を上げていないのです。
例えば、ある人に何か酷いこと、理不尽なことを言われたとします。その時、怒りにまかせてやり返すこともできるでしょう。しかしそこでぐっと我慢をして、「私は主を証しする者なのだ」ということで耐え忍ぶ、たとえ自分の心が責めるとしても、反対する、嫌だと言うとしても、その相手を何とか主にあって愛そうとする、愛を示していく。これこそ喜びの知らせを伝える者、福音を伝える者の姿ではないでしょうか。そのようにして主を証しし、その証しを立てる中で、私たち自身がイエス様の手とわき腹の傷跡を見せられ、平安と慰めが与えられるのです。もちろん、はっきりと言葉にして福音を語ることも重要なことです。でもやはり、神さまはそのどちらにも軍配を上げるようなことはなさいません。どちらも尊い大切な働きだからです。
私たち同盟キリスト教団では、多くの宣教師を海外に送り出しています。皆さんのニュースレター等を通して、あの先生はあそこで奉仕されているんだなぁとご存知の方もおられるでしょう。ですが実は、宣教師を危険から守るために、宣教師の名前すら表に出してはならないという厳しい現実もあるのです。厳しい状況での宣教活動があるのです。そういった国では決して聖書のみことばを語ることも、神さまのことを伝えることも許されません。ではどうやって宣教しているのかというと、社会や人に対する奉仕によってです。厳しい状況の中にあっても、愛をもって仕えることによってです。その姿を通して、キリストのかおりを放つのです。気の遠くなるような、途中で挫折してしまいそうな働きでしょう。
そのような、厳しい状況の中で「網を右におろす」、おろし続ける、神さまの側の働きをすることができる、続けられる力とは何なのでしょうか。
恐らくその一つには、「主からの慰め」というものがあるでしょう。最初から今日までの、すべての主から受けた愛、恵みの数々を思い起こさせられる時、私たちに与えられる主からの慰めが、「網を右におろしつづける」ことのできる力となるのでしょう。
私は「慰め」という言葉をずっと用いてきました。私は「慰め」という言葉が大好きなのです。この「慰め」という言葉の深い意味を知れば知るほど、すごい言葉だと思わされるのです。
「慰め」の意味を調べてみると、悲しんだり苦しんだりしている人にやさしい言葉をかけたりして心をなごやかにさせ静まらせる。心にうるおいを与えたり楽しませたりする。心の波立ちを静める、労をねぎらい、いたわる、とあります。それは皺が寄って硬くなっている布に湿り気を与えて、アイロンで少しずつのばしていくイメージだそうです。ギリシャ語では「傍らに招く」「そばに呼ぶ」。また、ヘブル語の一つ(ナーハム)を見ると「大きく息をさせる」という響きを伴う言葉であることが分かります。悲しみ苦しむ私たちを傍らに招き、呼び寄せ、言葉をかけ、心の波を静めてくださる。労をねぎらってくださる。そして大きく息をさせ、落ち着かせてくださる。慰めとは一見、どこか悩みや悲しみをなだめすかして和らげるだけのような、消極的なイメージがあるかもしれませんが、主からの慰めとはもっと積極的なもの。大きく息をつかせ、大きく息を吐かせて、そこから新たな息を吸い込むような、新しい力を与えるものです。
これまでの主から受けた愛、恵みを思い起こさせられて慰めを受ける。その慰めが私たちに一息をつかせ、落ち着かせ、力を与え、「右側に網をおろす」力が、日々与えてくれるのです。
今朝は人生で一番新しい朝です。この一番新しい朝、これまでの歩み、最初から最後までを振り返り、主の恵みを数えるならば、私たちは新たに主からの慰めと力を得るのです。
そして私たちは新しい朝ごとにこの世の人々の間に遣わされて行く者たちです。家族の中に、仕事を通しての人間関係の中へと遣わされて行きます。私たちはきょうも色々な形で社会生活をしており、社会生活の中で人々と交わり、その人々の間に遣わされていくのです。
私たちは心と目を開いて、色々な出来事の中に主の恵み思い起こさせていただき、慰めをいただき、励まされ、力づけられてまいりましょう。すべてのことを思い起こさせ、教えてくださるのは聖霊です。イエス様が息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われた、その与えられている聖霊が、私たちを慰め力づけてくださいます。そして聖霊によってこの世の中に向かって「イエスは主である」と、それぞれがそれぞれのやり方で、主を証しすることができます。ことばにおいても、主にあって生きようとする弱くも必死な姿を通しても、主を証しすることができます。その中で、ますます主からの慰めと平安を日々いただくことで、たとえ厳しい、苦しい、悔しい状況の中でも、網を右側におろすことができるのです。そして、イエス様が不在の働きは決して実を結ばないのだということ。弱くなんの力もないこんな者をも尊いと仰ってくださる主。私たちに注がれているあらゆる主の恵みを数えつつ、常に主に依り頼んでまいりましょう。
「舟の右側に網をおろしなさい。」
そして主はこの後、ペテロに問われたように私たちにも問われるのです。
「あなたは、わたしを愛しますか」。
お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。これまでの主から受けた数々の恵み、愛に感謝致します。すべてのことを思い起こさせ、慰めを与え、力を注いでくださる聖霊が与えられていることを感謝致します。どうぞ私たちに与えられていく新しい毎日に、日ごとに最初から最後まで、過ぎ去ったこれまでの主の恵みを数えることができますように。今日も私たちは世に遣わされて行きますが、その先々で私たち一人ひとりを守り祝福し、またそれぞれにキリストのかおりを放つ者として、神さまの栄光を現す者として用いてください。あなたを心から愛する者といさせてください。私たちの救い主(キリスト)、イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。