2020年6月10日 祈祷会「苦しみがもたらす幸い」
ルカの福音書6章20〜26節
みことばの光は、6月8日からルカ伝に入りました。
ルカという人について
マタイ、マルコ、ヨハネは生粋のユダヤ人で、ルカはギリシヤ人であり、ルカ伝は非常にギリシヤ的である。
職業は医者。アレキサンドリヤ(エジプト)、アテネ(ギリシア)、タルソ(現トルコ、パウロの生誕地)で教育を受けた。
タルソは紀元前66年ローマ帝国によって征服され、属州の一つとなった。ここで生まれ育った人はローマの市民権を与えられた。当時のタルソは学問の都として非常に栄えた。哲学、文学の分野では匹敵するところがなかったと言われている。ルカはこのタルソで医者の勉強をした。
パウロもまたタルソの大学で勉強をした。ルカとパウロは同じ場所で良い教育を受けたことになる。
ルカは「使徒の働き」も記した。
ルカとタルソは深い関係がある。パウロはルカの霊的な指導者であった。ルカはギリシヤ人であるので非常に論理的。資料を集め、またユダヤ教に傾倒することのないようにルカの福音書と使徒の働きを記している。他の福音書のように旧約聖書の引用を省いている。
もう一つ、ルカの福音書の特色は「女性の登場人物が多い」ということ。イエスに従った多くの女性たちを記している。 ルカはパウロに同行して面倒を見たようである。 1章1〜3節では、これはテオピロのために書かれたことが記されている。テオピロがどのような人物であったのかは聖書に記されていないため、はっきりとは分からない。 6章20節 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。 山上の垂訓に相当する箇所である。ルカは独特な選択をしユダヤ教に深入りすることなく人道的な立場で編集した。それで私たちには読みやすいのか。マタイ伝と比較すると随分違うところがある。恐らくルカが用いた資料に自分の考え方を適用した表現を加えているのではないであろうか。
20節からは各地から集まってきた群衆に教えるためであったことは明確。
「幸い」=マタイ伝ではこの「幸い」が8回出てくるのに対し、ルカでは4回である。その4回に対して4回のわざわいが出てくる。
「貧しい人」=マタイ伝では「心の貧しい人」。 群衆にとってはその心を打ち砕く強いことばであった。
「貧しい」という語は、貧しさに囚われそこから脱出を願う貧者の姿ではなく、物質的欲求を超越した人たちの姿を描いていると言われている。神の国、これよりも大きな富はない。神を自分の主として持つことは人生最大の幸福である。
21節 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
マタイでは「心のきよい者は」である。
満足すること。伝道者は貧困の生活を送るが、それはこの世での真の不幸ではない。かえって今、満ち足りている者こそ不幸なのである。涙も乾く間もなく嘆き悲しみ、そこで神を心から求める者は幸いである。そこから真の幸福が生まれる。
22節 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
マタイ5:11と並行している。「イエスのためにののしられる者は幸いである」。
クリスチャンであることによる迫害はいつの時代もあった。現在もそうである。
23節 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じ事をしたのです。
マタイ5:12と並行。
イエスの弟子たちが迫害の中でも喜んでいられたのは、彼らが天国の生活をしていたからである。
24節 しかし、あなたがた富む者は哀れです。やがて飢えるようになるから。
24節から26節の間に4つのわざわいが出てくる。マタイ伝にはこの部分がない。
祝福を裏返したものがわざわいである。これは弟子たちへの自己吟味のための警告。
物質的に繁栄している人もいたであろう。その富を自分のために使っていた人もいたであろう。しかしイエスの弟子は神の国と神の義を第一に求めるのである。そして永遠のいのちを求めるのである。
これを求めない者はわざわいである。
25節 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
21節の「いま飢えている者」に対応している。
飽食、何不自由していない安穏な日常生活。そのような中にいる人は神の国を求める事はない。イエスはこれもわざわいであると言われる。
26節 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。
イエスは何度も言われている。人にちやほやされている時が一番危ないのである。いつかストンと落とされるのである。
ユダヤ人の先祖は本当の預言者を迫害し、偽預言者を歓迎した。イエスの弟子であろうとする人は、この世の人から褒められようと考えてはならない。正しい者には必ず敵が現れる。本当の預言者は決して世に受け入れられない。世間の人々の要求に応える人、不義を責めることができない人(預言者)は危険である。
真の幸福とは何か
「あなたは幸せだ」と言われる時、何が幸せなのか。
英語では「Blessed(祝福される)」である。祝福されるとは、単なる「Happiness」ではない。この世が考えるような自分の楽しみを欲しいままにしたり、人々から好評を博することではない。イエスが言われる幸福はそれとは正反対である。貧しさ、迫害、涙、酷評が幸福であると。
文化と幸福において考えるてみると、文化とは民族、地域、社会などで作り出されて、その社会の人々に共通に習得されながら受け継がれてきた固有、独特な生活様式のことである。英語では「カルチャー」。動詞になると「耕す」。耕すことと文化には密接な関係がある。種まきのたとえがあるけれども、私たちには耕すことが重要である。精神的な耕作である。
文明とは何か。文化と文明とはどう違うのか。 文明とは人間の知識、技術が向上して社会制度などが整備されて、物質的・精神的に生活が豊かになった状態のことを文明という。
ここでの主題は「幸福」
【みことばの光から】
この世の常識とは相反する教えを聖書の中に見つけることがある。それを信じ、受け入れるのは常識人には難しい。しかし、正しいのは私たちの常識ではなく聖書のみことばである。
1.信仰者として受ける貧しさ マタイの福音書5章2節からの「山上の説教」で、心の貧しい者、義に飢え渇く者の幸いに言及したイエスは、「平地の説教」と呼ばれるこの箇所(20〜49)で、実際の貧しさ、飢えに直面する者の幸いに言及する。
「貧しい人」とは「物乞い」と訳すことのできることばで、衣食住に事欠く人を表している。やがて弟子たちは、ユダヤ人に受け入れられず、迫害を受け、実生活において貧しい者となった。しかし、彼らに約束されたのは、神の国で満ち足りる幸いだった。宣教の働きによって各地に誕生した教会には豊かな異邦人クリスチャンたちが数多くいたが、貧しさに苦しむエルサレム教会のために持てる富を神に献げた(ローマ15:25−26、Ⅰコリント16:1−4)。
私たちも、信仰のゆえにこの世における富を築けなかったとしても、約束された御国の希望を抱いて、「幸いだ」と言える者となりたい。また、富に恵まれたとき、それを神のため、教会のため、人のために献げる者となりたい。
2.信仰者として受ける憎しみ 信仰のゆえに憎まれ、排除され、ののしられることが起こる。信仰者は御国の国籍を持つ者として、この世と調子を合わせることができないからである。しかしそれは弟子たちが神を信じ、イエスを信じて生きている紛れもないしるしなのである。
私たちがこの世の評価を求め、この世と迎合したら、イエスが与える本当の幸いから遠ざかってしまう。王と国民にへつらい、神のみこころとは正反対の預言をした偽預言者に対し、たった一人になっても神の側に立ち、この世にすり寄らなかった預言者エリヤの生き方は、私たちにとって重要な指針となる。
考えよう クリスチャンであるがゆえに受けた苦しみがあるだろうか。その苦しみこそ神があなたにあたえた 幸いだと信じ、神をあがめよう。
幸福は誰でも求めるものである。しかし、「Happiness」ではなく「Blessed」を求めることが本当の幸福である。
(担当:北澤兄)