祈祷会まとめ(2020年8月5日㈬)ルカ14章25〜35節「信仰者の覚悟」
ルカ14章25〜35節「信仰者の覚悟」
みことばの光では、「信仰者の覚悟」というタイトルが付けられている。
これまでルカの福音書を見てきたのだが、イエスの周りには3種類の人間がいたことが分かるではないであろうか。
- イエスに反対した者(14章の最初、イエスを試そうとした律法の専門家やパリサイ人)
- イエスの周りでワイワイ言っていた人、つまり群衆
- 弟子たちで、最後までイエスに従った人たち(群衆はあるところまではイエスに従ったが、苦しくなると従うのをやめてしまった。その人たちも時には寝食を忘れてイエスに従ったが、自分に大事なことがあると、さっさとイエスを捨てて帰って行った)
25節からは、「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。」とある通り、その時にイエスの周りに付き従っていた「大ぜいの群衆」に対して語られたものであり、その内容は「信仰者の覚悟」である。
群衆は、政治的なことをイエスに期待していた。イエスがユダヤ人の新しい王となって、ローマから独立を勝ち取ることを願っていた。だからイエスについて行けばその勝利を見ることができ、その恩恵に与れると思っていたのであろう。また他にも、イエスの奇跡(癒やし、満たし)を求めていた者もいたのではないか。その群衆に向かって、イエスは言われたのである。
今日の箇所での鍵となるのは「わたしの弟子になることはでいません」である。そして3つの条件が示されている。
- 26節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」
- 27節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
- 33節「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
弟子とは何か?
- 先生から教えを受ける人。この場合「先生」とは当然イエスであろう。
- 職人の世界では師弟関係というものがあるが、弟子は師を真似して技術を自分のものとしていき、そして受け継いで行く
- 師に従う者
- 福音書においては、ユダヤ人の間でイエスに好意を寄せ、彼の一行に参加した人々をさしている
- イエスの直接の弟子であった十二弟子を指している
- しかし、ルカは使徒行伝では「イエスを救い主と告白するすべての人々、すなわちクリスチャン」のことを「弟子」と言っている
条件①(26節)について
「憎む」とここで言われているが、これは憎しみをもって憎むことではない。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロマ9:13)ともある。ユダヤ、イスラエル人は昔から「AよりもBを選ぶ」とか「AよりもBを優先する」という時に、「私はAを憎む」という言い方をするのである。つまりここは、「わたし(イエス)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタ10:37)と同じことを言っているのである。
【みことばの光】
1.決別の覚悟
26節は厳しいことばである。しかし、神を大事にすることは、家族を大事にしないということではない。信仰者は、時に大切な人との決別の覚悟を求められるが、神は何倍にも増して報いてくださる。 筆者の兄は、牧師になるために会社を辞め、神学校へ入学する決意をした時に父から勘当された。しかし数十年後、父は兄が牧会する教会の礼拝に集う者となり、信仰を持って人生を終えた。
ここは是非、聖書の中で語られるイエスの約束を併せて味わいたいところである。
ルカ18章29-30節(新改訳2017)「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。』」
マルコ10章29-30節(新改訳2017)「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。』」
条件②(27節)について
「自分の十字架を負う」ことについて思い出すのは、新潟聖書学院に行って初めての週の授業の中で問われたことである。「自分の十字架を負うとは、どういう意味か」との問いに、負うべき重荷・責任を負う、迫害を覚悟するなど、あれこれと意見が出たのだが、最終的には単純に「死を覚悟すること」だと言われた。
【みことばの光】
2.自分の十字架を負う覚悟
私たちが決して負うことのできない罪を、代わりに十字架で負われたイエス・キリストのために、試練や苦しみ、孤独や辱めなど、信仰ゆえに受けるようになる自分の十字架を負う覚悟が私たちに求められる。 ルカの福音書9章23-24節「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。』」
イエスは単にご自分に興味を持って着いてくる人を求めているのではなく、ご自分と運命を共にする者を求めておられる。イエスに共鳴する者、イエスの理解者というだけでは、主の弟子になることはできない。自分の家族や財産、生命を、イエス・キリストと同じレベルのものであるかのように見なしたり、天秤にかけるようでは、キリストの弟子にふさわしくないと言われる。キリストの弟子になるためには、イエスをすべてに優先させ、イエスに従っていくこと、そして自分のすべてを二の次にする必要があると言われており、弟子(クリスチャン)となるにはこのような献身が要求されるのである。
そのためには、イエスのうちにこれだけの犠牲を払う価値があるかどうか、従うに値する者があるかどうかを計算してみるがいいと、イエスは28節から二つの喩え「塔を築こうと計画する人」「戦いを交えようとする王」の喩えをもって語られたのである。大きな犠牲は、やりがいのある大きな事業であるときにのみ払われるもの。だから、犠牲的精神とか出費の覚悟より前に、まず手に入れる者の値打ちをはかることが必要である。弟子(クリスチャン)となることが、いかに祝福に満ちた、恵み、賜物、幸いに満ちたことであるかを悟らせようとする、イエスのお奨め、奨励であろう。奨め、励ましであろう。なので決してご自分に従って行こうと願う者を冷たく突き放すものではない。本物の弟子(クリスチャン)となるために招きではないであろうか。
そしてその条件③とは、
条件③(33節)について
条件③(33節)は、どんなことがあっても「最後まで信仰を貫く覚悟を持って従わなければ」ということである。その覚悟をもって、「財産を全部捨てる」という、この世の放棄である。 マタイ6章24節(新改訳2017)「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」 神と富と、両方に仕えることはできない。
【みことばの光】
3.最後まで信仰を貫く覚悟
計算するという行為は信仰と相容れないもののように思える。信仰者には、この世的な判断では不可能に思えることでも、神ならできるという信仰をもって歩む生き方が求められるからである。しかし、28節以降で教えられているのは、信仰をもって生き抜く覚悟である。 塔を建てようとした者がそれを完成させられなかったら嘲られるように、信仰者として歩み出した者が途中で投げ出したら笑いものとなってしまう。また、戦いにおいて敵軍と自軍の戦力を計算できずに負けてしまったら取り返しの付かない結果を招くように、人間には神の側に立つか立たないか、人生をかけた応答が求められ、選択を誤ると人生が台無しになる。覚悟のない中途半端な信仰生活を送るなら、塩気を失った塩のように、最後は投げ捨てられる人生となってしまう。
クリスチャンになれば楽な生活、バラ色の人生が始まるなどという安易な期待を持ってスタートした場合も必ず躓き、失敗する。「こんなはずではなかった」と神に失望して教会から離れて行ってしまうことになる。永遠のいのちを受け損なってしまう。行き着く先は永遠の死という恐ろしい結果になってしまう。 そこでみことばの光は言うのであろう。
【みことばの光】
私たちは人を信仰へ導こうとする時、甘いことばで素敵な面だけを強調しがちになる。しかし、信仰には覚悟が必要なことも伝えなければならない。
もし、せっかく入った信仰の道、その途中で挫折してしまったら、塔を建てようとした人と同じく笑いものになる。戦いを交えようとする王に至っては、選択を間違えてしまうと自分自身の命はもちろんのこと、多くの人の命まで失ってしまうことになる。 イエスのアドバイスは、選択と決断には慎重さが要求されること、だからまず座ってよく考えよということであろう。 私たちにはそのような覚悟があるだろうか。今一度自分自身を顧みることへと招かれている。謙遜になってみことばに従いたい。
34節からは、クリスチャンの性格を表すのによく用いられる「塩」という表現が用いられた喩えである。
「外に投げ捨てられる」とは本当に恐ろしい言葉である。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしなら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。(マタ5:13)
私たちはすでに地の塩とされているということを覚えたい。私たちには塩として、この世に対しての責任がある。また、自分自身の弟子としての歩みの結果に対しての責任がある。
「塩」として、併せて覚えたいみことばがある。
マルコの福音書9章49-50節(新改訳2017)
人はみな、火によって塩気をつけられます。塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味を付けるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。
「火」とは聖書ではおなじみでもあるけれども、信仰生活では試練や迫害を象徴する。信仰生活に試練や迫害が全くないとしたら、もはや弟子ではない。弟子としての責任と覚悟をもって、信仰生活を送って行きたい。そしてクリスチャンの塩気というものは、世の人々に対する攻撃的なものではなく、平和的なものであるべきことが命じられていることも覚えたい。平和的であろうとするなら、そこにはやはり「十字架を負う」ことが求められるのではないであろうか。
<T.S>