2020年11月15日 主日礼拝「不真実な者をも愛する神」
本日の聖書箇所
ホセア書1章1節〜2章1節
説教題
「不真実な者をも愛される神」
今週の聖句
あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と言い、あなたがたの姉妹には、「愛される者」と言え。
ホセア書2章1節
訳してみましょう。
2046 Nothing weakens the truth more than stretching it.
2047 Contentment is wanting what you have, not having everything you want.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 9番「ちからの主を」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 507番「ふかきみむねを」
聖 書 ホセア書1章1節〜2章1節
説 教 「不真実な者をも愛される神」佐藤伝道師
讃美歌 511番「みゆるしあらずば」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
動画はこちら
説教「不真実な者をも愛される神」
ホセア書1章1節〜2章1節
佐藤伝道師
ローマ書を続けて見て来ておりますが、前回で2章が終わり、3章に入る前にまたまた脱線をしたいと思います。パウロも手紙の中でたびたび脱線しますけれども、パウロが脱線する時と言うのは、どうでもいい話しで脇道に逸れるわけではなく、むしろとても大事なことを私たちに念押しして確かめさせる時なのだということです。
本朝与えられましたみことばは、ホセア書1章です。ここではローマ書3章に入って議論されていく一つのテーマ「神の真実」が語られるところです。回り道のようですけれども、是非とも確認しておきたいところです。
主なる神さまは今朝もみことばを通してご自身の真実を私たちにお語りくださいます。ご栄光をあらわしてくださいます。私たちは身を低くして恵みをいただきましょう。そして応答の感謝を献げてまいりましょう。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。主の憐れみと寛容、またご忍耐によって一週間の歩みが守られ、今朝もこうして御前に集めてくださり感謝致します。今、主が語られるみことばに私たちの耳と心を傾け、主の御声を待ち望みます。どうぞ聖霊なる主が臨んでくださり、霊的な知恵と洞察力を与えてくださって、私たちがみことばを、そして御心を正しく知る事、悟ることができるように守り、導いてくださいますようにお願いを致します。感謝して救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
今、日々のデボーションテキストであるみことばの光ではエレミヤ書を学んでおります。先々週の祈祷会ではエレミヤ書34章を学び、そこで示されたことは、人は苦しい状況の時には神さま依り頼み、調子が良い時には神さまから目を反らして、背を向けて、自分の欲望のままに自分勝手な道に進んで行ってしまう。そのような心の定まらない者であるということでした。今日のホセア書はエレミヤ書よりも100年以上前の預言ですが、ここでも神の民が神さまから離れて自分勝手な道を行ってしまっている様子が見て取れます。本当に人というのは、いつの時代も神さまに対する心が定まらないものであることを覚えさせられます。
突然ですが、皆さんはバブル期と呼ばれた時代があったことを覚えておられるでしょうか。1986年から1991年がそのバブル期でした。
異常なまでの好景気。日本中にお金が溢れていました。大都市の再開発が活発に行われるようになり、「地上げ」が問題となりました。土地を取得するために暴力団を雇い、土地の所有者への嫌がらせ、放火までしてしまうなんていう信じられないやり方までもが横行していました。
新しい価値観、感性を持つ若者が登場し「新人類」と呼ばれていました。みな贅沢に暮らし、大学生までもブランド品で身を包み、高級車を乗り回したり、巨大なディスコという所で、女性は全員がまるでユニフォームのようにボディコンというセクシーな衣裳を着てお立ち台と呼ばれる台に上って、男性たちを挑発するように踊り狂っていました。当時の人気ドラマも、流行歌もほとんどが性的に乱れたものばかり。「セーラー服を脱がさないで」なんていう、未成年者との淫らな行いを大胆に歌う、今だったら一発アウトのような歌が一番売れていたのです。
「ネクラ」「ネアカ」という言葉もこの頃登場しました。イジメの問題がエスカレートしてきたのもこの頃からです。「真面目」は馬鹿にされ、「愛や正義」といったもっともらしいことを語ろうものなら「ダサい」と馬鹿にされてしまいました。
好景気で浮かれていた時代。富はまさに人々を魅了する大きな偶像のようでした。バブルははじけて消えてしまいましたが、その時代の影響は今でも色々な面で残っているのではないでしょうか。
ホセア書の冒頭部分、神さまがホセアを預言者として召された時代背景は、日本のバブル期と似たところがあると思うのです。
1章1節 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。
ホセアという人は、1章1節に名を連ねる王たちの時代に活躍した預言者です。そしてここに記されている王たちの名前から、その時代背景が見て取ることができます。
この時代は預言者イザヤが活躍した時代と重なります。けれど場所が違います。ソロモン時代の後、イスラエル王国は南ユダと北イスラエル、二つに分裂してしまいました。イザヤは南ユダに対する預言であったのに対し、ホセアは北イスラエルに対する預言でした。
当時ホセアが預言をした北イスラエルは、実は物質的にとても繁栄した時代でもありました。当時勢力を持っていたアッシリヤが一時的に弱体化し、そのお陰で、北イスラエルはかつてない繁栄を経験しました。領土もソロモンの時代に匹敵するほど広がり、イスラエルが最も繁栄した時代の再来かと思わせるほど。国内も平和でした。しかし、このような経済的、物質的繁栄は不幸にして、イスラエルに宗教的、道徳的、社会的腐敗をもたらしてしまったのです。
北イスラエルはその始まりからあの「金の子牛」という偶像がありました。さらにこの時、数代前の王アハブが妻イゼベルによって導入したバアル崇拝が盛んとなっていました。北イスラエルの人たちは、かつてないほどの繁栄を、神の惜しみない愛の表れとは見ることをせず、むしろカナン人の豊穣の神、偶像バアルがその繁栄をもたらしたのだと受け取ったのです。物質的な祝福の中で、ますます肉の欲望と偶像礼拝の中に溺れていったのです。そして偶像礼拝、バアル崇拝には淫らな行いが伴っていました。「あらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った」と他のところに書かれていますが、その文字の通り、バアル礼拝が行われていた所では、淫らな行いが盛んに行われていました。
ところで、偶像礼拝には大抵、淫らな行いが伴う。無関係ではない。それは全世界共通のようで、日本の神道や仏教においても、調べてみると性に関するものが意外と多いのです。不思議だと思いませんか。何故でしょうか。それは人間の欲、自分の願望を叶えたい、「もっと、もっと」という繁栄を求めることが関係しているようです。聖書にも記されています。「むさぼり(貪欲)が、そのまま偶像礼拝なのです」(コロ35)。
バアル崇拝もその一つ。それは土地の肥沃、農産物の豊かな収穫、物質的な繁栄を願うもので、豊穣の神バアルとその奥さんのアシュタロテという女神が性交渉をすることによって実現するとされていました。人々は、もっと、もっとと繁栄をむさぼり求め、神さま同士の性交渉だけでは足らないとばかりに、魔術的に自分たちの性交渉を献げるようになりました。それが神殿における儀式としても行われ、申命記はこれを「神殿娼婦、神殿男娼」と呼んで、そのようになってはならないと厳しく禁止しています。豊作豊穣のための宗教儀式は世の中の道徳倫理面の廃退につながりました。
これは冒頭にお話ししました日本のバブル期も同じでした。繁栄とともに道徳倫理が乱れ、ひどい世の中となってしまった。今はどうでしょうか。繁栄とともに道徳倫理が乱れるというベクトルに、時代は関係ないんだなぁと思わされるところです。
繁栄を隠れ蓑にして忍び寄るサタン。その目的は神さまと私たちとの関係を断絶すること。神さまから離れさせること。それがサタンの誘惑の本質です。人間を欲求のままに、どこまでも貪るままに進ませることを促し、気付かれないように神さまとの関係を断絶する。それがサタンのやり方、目的なのです。
その神さまとの関係とは、出エジプトの後に結ばれた神さまとイスラエルの民との間に結ばれた契約によるものでした。あの十戒が神さまとの契約書でした。
神さまは戒めを与えられました。「①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。②偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。③神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。⑤あなたの父と母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」
そしてこの戒めを契約書として、神さまはイスラエルの民と契約関係に入られました。「契約を守るなら祝福を。守らなければのろいを」。
この「契約」という言葉の中に、「結婚関係」が含まれていることに注意してください。契約とは契りの約束であり、契りとは、特に夫婦の約束をすること。また男女が通ずることなのです。
どうでしょう。北イスラエル繁栄の絶好調バブル時代では、これらすべての戒めが破られているのではないでしょうか。北イスラエルは国を挙げて、この神さまとの契約を明らかに違反していました。結婚の契りを交わした相手、神さまに対する不真実、不誠実。もうこれは、神さまから契約破棄、離婚を言い渡されても、のろいが宣告されても仕方がない状況です。
さて、北イスラエル国の不気味な繁栄に陰りが見え始めた頃。それは国の滅亡の前兆でもありました。そのような中で、神さまはホセアに語られたのです。
1章2節 主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
ホセアが主に召されたのは、「異常な命令」によってでした。姦淫の女であるゴメルと結婚しなさい。そんな異常な命令を下す理由はこうです。「この国は主に背を向け、淫行にふけっているから」。
神さまには理由がありました。明らかに神さまは、ホセアの実際の経験、姿、思いを通して、視覚教材を用いて、実物教育をされるように何かを伝えようとされています。
なぜ神さまはこのような異常に思えるような命令を下したのでしょうか。
先ほども見ました通り、神さまと北イスラエルとの関係は「霊的な結婚関係」でした。おかしくなってしまっているその関係を明らかに人々に示すために、まことに幸いな結婚関係の例を示すことも可能だったでしょう。しかし神さまはそうはなさいませんでした。姦淫の女との悲劇的な結婚を用いられました。それは、繁栄、絶好調と思える時には、たとえ「真面目」「愛や正義」といった、もっともらしいことを語ろうものなら、人はそれを馬鹿にし、「ダサい」と言わんばかりに耳を傾けることさえできなかったのではないかと思うのです。神さまは何としてもご自身との関係の修復を願われ、人々を真の悔い改めへと導くために、時に厳しいみことばを通して語らなければならないのでしょう。
1章3節 そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。
ホセアは神さまの命令、召しに従順でした。
1章4節 主は彼に仰せられた。「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。
1章5節 その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る。」
最初の子は、ホセアによる男の子でした。「その子をイズレエルと名づけよ」との神さまの命令に従い、イズレエルと名づけました。ホセアは最初、良い名前をいただいたと思ったかもしれません。「イズレエル」という名前は「神が種を蒔く」というものであり、そこから「集める」という意味を持つものです。しかしその期待はずぐに砕かれました。イズレエル、「神が種を蒔く」には「集める」という意味と相反する「散らす」という意味もあるのです。
イズレエルといえば、サマリヤとガリラヤの間を東西に走っている平原の名前で、その中にイズレエルという町がありますが、そこは北イスラエルの王アハブなどが宮殿を置いていた所でした。アハブは妻のイゼベルとともに盛んにバアル崇拝を行い、また隣人の土地を手に入れたいがために、元の土地の所有者を不正に殺して手に入れたということの他、まことに人道に反することを多く行いました。そこで神さまはエフーという人を裁きの器として用いられ、アハブ王は神さまによって裁かれ滅ぼされました。バアルの預言者たち、バアル崇拝の宮を徹底的に壊しました。エフーは主によって「あなたはわたしの見る目にかなったことを良くやり遂げた」(Ⅱ列王記10:30)と評価され、エフーは北イスラエルの王となりました。それなのに「エフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせる」と言われてしまいました。それは、エフーがあの金の子牛を拝むことをやめなかったからでした。あれだけ熱心に神のさばきの器として用いられ、バアルという大きな偶像を滅ぼしたのですが、エフー自身が偶像を捨てきれていなかったのです。いや、北イスラエル建国の初めからの偶像礼拝でした。それが偶像礼拝であるということすら気付いていなかった、分からなくなっていたのかも知れません。しかし、たとえ神さまに選ばれ、用いられたとしても、偶像を捨てきれなければ同じように滅ぼされてしまう。イズレエルという名には、それらのことを思い起こさせる目的があったのでしょう。
家の中に赤ちゃんの声が響く。愛する我が子が泣いたらすぐに駆け寄って抱き寄せたり、何度も何度も名前を呼ぶでしょう。そこまでではないにしても、我が子の泣き声が聞こえたら、「あぁ、イズレエルが泣いている」と思うでしょう。そのたびにホセアは名前に込められた民に対する神さまの厳しい預言、警告を嫌でも思い起こさせられるのです。そのたびにホセアの内に湧いてくる感情。悲しみ、失望はホセアを苦しめるのです。あるいは「集める」の方の良い意味に期待するかすかな希望を抱くホセアの姿。それは事ある毎に私たちの名を呼ぶ「義なる」神さま、悪は必ずさばかなければならないという、義なる神さまのお心を思わせるものではないでしょうか。
1章6節 ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。
1章7節 しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」
しばらくして、ゴメルはまたみごもって、女の子を産みました。神さまはホセアに、その子の名を「ロ・ルハマ」と名づけるように命じられました。今度はその名前の意味は明らかでした。「ロ・ルハマ」。ロは否定を表し、ルハマは「愛される」という意味。つまりロ・ルハマは「愛されない者」という意味です。この女の子は、ホセアの子ではなく、ゴメルが姦淫の末に産んだ子のようです。しかしホセアは神さまの命令、責任を放棄することはできませんでした。自分を裏切った姦淫の妻、そして自分の子でない子との生活が始まりました。「ロ・ルハマ」愛されない者。そんな名前を付けられてしまったかわいそうな女の子を見て、名前を呼んで、またその女の子を抱いている姦淫の女、妻ゴメルを見て、ホセアは何を思ったのでしょう。
「ロ・ルハマ」という名は神さまと民との関係の破綻を意味するものでした。その名に込められた神さまの思い。神さまの憐れみは、今や限界に達していました。この時のホセアの感情が神さまの感情でもありました。憐れみ、怒り、愛、憎しみ、複雑な思いが交錯していたのではないでしょうか。
そして女の子が乳離れした頃、大変な育児が一段落した頃、なんとゴメルはまたもや姦通に走りました。人の性質を良く表していると思いませんか。状況が少しでも楽になる、良くなるとすぐに自分の欲望に走ってしまう。
1章8節 ゴメルはロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。
1章9節 主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」
神さまはご自身の憐れみが限界に達していながらもなお忍耐され、待たれました。ホセアの人生をかけた預言を通して民の心が変えられること、悔い改めて神さまにもう一度立ち返ることを願われ、待たれました。しかし民の心は一向に変わらず、変わらないどころか、陰りを見せ始めた繁栄を留めるために、ますますバアル崇拝に、霊的姦淫に走ったのです。それを象徴するように、ゴメルはまた姦淫に走り、ついに神と民との関係が完全に断絶したことを意味する名が与えられる男の子が産まれました。その名は「ロ・アミ」。ロは同じく否定、アミとは私の民。つまり「私の民ではない」という名前の男の子です。神さまの深い悲しみ、絶望を思わせる名前です。果たして神さまは、このまま北イスラエルを完全に滅ぼしてしまわれるのでしょうか。
ところが、1章10節から、驚くことに、これまでの「罪」「裁き」の預言から一転して、「回復」の預言がされるのです。
1章10節 イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない」と言われた所で、「あなたはたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。
1章11節 ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。
2章1節 あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と良い、あなたがたの姉妹には、「愛される者」と言え。
預言は滅びではなく、神さまとの関係の回復預言でした。
10節はアブラハムとの契約を思い起こします。旧約の「約」は契約の約です。神さまがユダヤ人に、そして全人類のために与えられた救いの約束のことです。最初にあるのは「虹の契約」(創912−16)。次にアブラハム契約(創171−8)。第三の契約は出エジプトの「シナイ契約」(出191−6)。これで旧約聖書が語る契約の歴史は終わるかと思うと、そうはいきませんでした。イスラエルの民の契約違反が連続したからです。預言者たちは神さまとの契約に生きるべき神の民の見張り役として、しばしば涙を流しながら、民の契約違反の罪を指摘しなければなりませんでした。ホセアもその預言者の一人です。
神の民が神さまとの契約、契りの約束、結婚関係においてどれだけ違反しても、裏切っても、神さまはそれをさばき、しかしまた赦して、契約の更新を図ってくださいました。神さまに対して不真実な神の民を、不誠実な民をなおも愛して救おうとされました。豊かな憐れみ、愛、忍耐と寛容をもって、人間が真に罪を認めて悔い改めることによって、本当に幸いな、祝福されたご自身との関係へと回復させようとしてくださった。そのような「神さまの真実」を証しするのが旧約聖書なのです。
その決して変わることのない神さまの真実は、新しい契約、新約となりました。イエス・キリストの血による新しい契約です。
神さまは預言者ホセアに対して姦淫の女と結婚するようにという異常な命令を下し、ご自身の真実、愛を示されました。そして神さまは、ご自身に対しても異常な命令を下し、ご自身の真実を示してくださいました。それは神さまご自身が人となってこの世に降られるということ。神のひとり子イエス・キリストがこの世に降られ、人の経験するすべての試みを受けられ、苦難を味わい、そしてすべての人の罪の解決のために、十字架に架けられ死ななければならないという異常な命令。不真実な者をも愛される真実な愛のゆえに下された、異常なまでの命令をご自身に下された主の前に立って、新約の時代を生きる私たちはどのように応えるのでしょう。
「真実」「誠実」という語は、新約聖書では「憐れみ」「同情」「慈悲」「思いやり」「優しさ」そして「愛」(契約に基づく決して変更されることのない「愛」)と訳されています。神さまの私たちに対する真実、誠実の根拠は、私たちに対する憐れみ、同情、思いやり、優しさ、決して変わることのない愛なのです。ただ一方的に注がれる恵みです。
私たちはこのような神さまの真実に対して真実でしょうか。
私なんて、妻に少しでも嫌な態度を取られたら怒り心頭、何とか仕返しできないものかなどと考えてしまう者です。そんな私がホセアを通して知らされる、不真実な者である私をも愛される神さまの真実、大きな愛を覚える時、もう謝るしかありません。ただ感謝しかありません。
もう一度自分自身に問います。このような神さまの真実に対して真実だろうか。誠実だろうか。神さまとの契約、契りの約束、結婚関係において、どんな時でも、好調なときも、病める時も健やかなる時も、神さま以外の何ものにも目を反らすことなく、ただ一筋に神さまだけを愛していると言えるだろうか。
はっきりと「はい」と答えられない、そんな心が定まらない者に、今日、ホセアを通して神さまが示してくださったこと。それは「神さまは不真実な私に真実であられる、愛してくださっている」ということです。それはただ、神さまが結ばれた救いの契約に、神さまご自身が真実であられるから、誠実であられるからです。
契約の回復は、一部は捕囚から帰還した時に成就しました。一部はキリストがこの世に降られた時に成就しました。そして一部はやがて来られるキリストの再臨の時に成就します。
契約が回復されたその時、救いが成就するその時、イズレエルという名前の意味は、「散らす」から「集める」へと変えられます。のろわれた地は祝福された地に変えられます。「愛されない子」は「愛される子」愛子さんに、「わたしの民ではない」は「わたしの民」民男君へと変えられる。ひとりの人、唯一の神、救い主イエス・キリストをかしらとした時、私の主、救い主と信じ仰ぐ瞬間に、私たちの名前、また名前の意味も、恵みによって変えられた、やがて完全に変えられるのです。そのような恵み、神さまの真実の前に立つなら、自ずと私たちがどのように応えて生きて行くべきかが見えてくるはずです。
ところが、次週見てまいりますローマ書3章では、これほどまでの恵みを目の前にしてもなお、かたくなである人の姿が議論されます。その姿もまた、私たちの姿なのです。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から感謝と賛美をお献げします。神さまの真実、愛、憐れみを改めて心に覚えて感謝致します。不真実であるこの者をお赦しください。イエス・キリストの十字架のゆえに、赦されていることを覚えて感謝致します。この恵みに感謝し、またただ信仰によって依り頼み、この新たな週を歩めますようにお守りください。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。