2020年11月22日 主日礼拝「真実の神」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙3章1〜8節
説教題
「真実の神」
今週の聖句
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。
ローマ人への手紙3章4b節
訳してみましょう。
2048 No life is more secure than a life surrendered to God.
2049 The Bible is the bread of life, and it never gets stale.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 11番「あめつちにまさる」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 85番「主のまことは」
聖 書 ローマ人への手紙3章1節〜8節
説 教 「真実の神」佐藤伝道師
讃美歌 529番「ああうれし」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
動画はこちら
説教「真実の神」
ローマ人への手紙3章1〜8節
佐藤伝道師
ユダヤの格言にこのようなものがあるそうです。
「人は転ぶと、石のせいにする。石がなければ、坂のせいにする。坂がなければ、靴のせいにする。人は、なかなか自分のせいにしない」。
これはユダヤだけでなく、全世界に通ずる格言ではないでしょうか。なかなか自分のせいにできない。自分の失敗を、悪を、また罪を正当化するのに長けている。状況や自分の気質を言い訳にして、自分のせいではないと、時にはまるで神さまのせいだと言わんばかり。そんなところがあるのではないでしょうか。私なんてそれこそ少し躓くと、「もう、神さま〜」と心の中で思ってしまいます。そんなちょっとしたことだったら、神さまももしかしたら可愛げがあるなどと思ってくれるかもしれませんが、重大な失敗や罪だったらどうでしょう。
旧約聖書の各所で神の民は神さまから「うなじのこわい民」などと言われてしまっています。うなじがこわくなる、うなじ(後頭部)が固くなって、つっぱてしまっているとどうなるでしょう。首を前に倒すことができなくなる。つまり首を縦に振ることができなくなるのです。頷くことができない。失敗を認めて「はい、そうです」「その通りです」と自分の非を認められない。そして「ごめんなさい」と謝れないということでしょう。またどうでしょう。「ありがとう」と言って深々と頭を下げることもできないのではないでしょうか。コントなどでよく見るのですが、相手が腰を曲げて感謝を現す格好をしてみても、顔だけが上を向いていては、何か本気の感謝の心が伝わってきませんよね。相手を馬鹿にするような表現にも使われます。
ところで、日本語では「感謝」と言いますが、感謝という漢字に「謝る」が入っています。日本人はよく「ありがとう」の代わりに「すみません、すみません」と言います。私の兄のお嫁さんは、いつもありがとうの代わりに「ごめんね、ごめんね」と言います。お茶をいれてあげると「ごめんねー」と言うのです。不思議に思っていたのですが、何か「謝る」ことと「感謝する」こととの間には深い関わりがあるのでしょうか。お茶をいれてくれた。自分のために労苦させてしまってごめんね。そしてありがとう。そんな気持ちがこもっているのでしょうか。
自分の非を認めて謝る。自分の足りなさを埋めてくれた相手に対して感謝する。私たちが今朝この礼拝において感謝すべき相手とは、やはり義であり、また同時に私たちに対する真実の愛をもって今日まで導いてくださった神さまです。
私たちは今朝も、私たちのうなじを柔らかくして、神さまのみことばの前にへりくだりたいと願わされます。お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から感謝致します。過ぐる一週間も、足りなさを覚える私たちを、ただ神さまの真実、変わることのない愛、憐れみによってお守りくださり感謝いたします。本朝もみことば祝福してお与えください。聖霊なる神さまが臨んでくださり、みことばと御心とを正しく知ることができますように。そして心から感謝と賛美を主にお献げできますように導いてください。私たちそれぞれの心の内には、それぞれにしか分からない思い煩い、恐れや不安、寂しさ、孤独、あるいは疑いがあります。弱さがあります。そのすべてを神さまはご存じで、なおみことばを与えてくださろうとされています。時には厳しさを覚えるみことばを私たちは聞かされます。ただ主の真実、愛と慈しみに信頼することができますようにお守りください。語るこの者の弱さ、足りなさをも、どうぞ全能なる主が聖めてお用いくださいますようにお願いを致します。主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。
先週はローマ書2章を終えたところで脱線し、ホセア書1章を見ました。パウロも手紙の中で度々脱線をすることがあり、しかしその脱線というのは、どうでもいい話しで脇道に逸れるわけではなく、むしろとても大事なことを私たちに念押ししたい時なのだということを申し上げました。まさに本朝のローマ書3章1〜8節はその脱線の部分になります。よく見ますと、2章の終わり29節から3章9節へと直接繋がるのが自然のように見えます。しかしパウロはあえて脱線して今日の1〜8節を語るのです。ここで語ろうとしていることが「神さまの真実」「真実の神さま」です。
この脱線のための脱線として、先週のホセア書1章では、この「神さまの真実」「真実の神さま」を確認したところです。もう一度確認してみましょう。
神さまはご自身が結ばれた契約に対して真実、誠実であられる方。旧約聖書の歴史が証ししていることは、神の民が神さまとの契約にどれだけ違反しても、裏切っても、神さまはご自身の契約に対して真実であるお方であるゆえに、それをさばき、しかしまた赦して、契約の更新を図ってくださいました。神さまに対して不真実な神の民を、なおも愛して救おうとされた、そのことです。
そして、神さまの真実の根拠とは、「真実」という語が別のところでは「憐れみ、同情、慈悲、思いやり、愛」と訳されている通り、私たち不真実な人間に対する憐れみ、同情、慈悲、思いやり、愛なのです。
その決して変わることのない神さまの真実は、やがてイエス・キリストを救い主としてこの地上に降すという形で表されました。イエス・キリストが人間の罪の解決のための宥めの供え物となられるために十字架に架けられ尊い血潮を流された。死んでくださった。イエス・キリストの流された血による新しい契約。イエス様は十字架に架けられる前の晩、最後の晩餐の席で言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」(ルカ2220)。その新しい契約とは、イエス・キリストが流された血、十字架に架けられ死なれたことは、まことに私のためなのだと、ただ信じて受け入れる者には罪の赦しが宣言され、神さまとの関係が回復される。ただ信じて受け入れる者に対して主はこう約束されるのです。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレ3431b)。罪の赦しと救いを約束されるのです。宣言されるのです。さらに信じて受け入れ、罪赦され救われた者には、神の霊、イエス・キリストの霊である聖霊が注がれ、神のいのち、今から死の先まで続く永遠のいのちに生きることになる。これが新しい契約なのです。新約です。この契約はイスラエルの民だけを対象とするものではなく、キリストを信じるすべての人に与えられる神の恵みの業となりました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ316)。ユダヤ人も、異邦人も関係なく、すべての人がこの契約へと招かれているのです。新約の時代を生きるこの手紙の読者も、また私たちも、ただそれを信じて受け入れるしかできません。それがパウロが宣べ伝えるまことの福音、「信仰義認」です。それしか救いの道はないのです。
「それしか救いの道はない」。
すべての人は罪人。義人はいない、ひとりもいない。異邦人もユダヤ人も関係なく、すべてが罪人である。それはローマ書1章から2章にかけて、散々パウロが論証してきたことです。そんな人間に残された唯一の救いの道。信仰義認。「信じる者は救われる」。この私たちにとっては偉大な福音の真理ですが、どうもこの世の人々は何か馬鹿にしたように言うような気がします。
その「救われるための唯一の道」と聞いて、神さまは心が狭いとか、意地悪だとか言えるでしょうか。それは恵みのはず。感謝すべきはずのものでしょう。大きな神さまの真実、慈しみ深い愛に対して私たちが感動し、思わず謝ってしまうほどのものではないでしょうか。
それなのに、どうして人は馬鹿にしたように言うのでしょう。それはこの世の基準では考えられないことだからです。異常なことと思えるからです。この世の基準というのは、やはり行いが自分の義、正しさ、救いの根拠とされているのではないでしょうか。神さまの絶対的な義、正しさ、救いが、自分の出来不出来と関係ないことが、本当には信じられないのでしょう。それで人はそれを疑ってしまうのです。他にも自分たちが納得できる方法があるのではないかと探してしまうのです。この時のユダヤ人たちも同じでした。律法に生きてきた彼らですから、私たち以上だったはずです。信じられないような、異常なまでの神さまの愛であるがゆえに、素直に受け入れられないのです。神さまの真実を前にしてもなお、うなじをこわくしてしまうのです。
この手紙の読者には、少なくとも4種類の人がいました。血統的ユダヤ人で既にキリスト者となった人と、現在求道中の人、また異邦人でキリスト者になった人と異邦人求道者。今日の箇所は特に、求道しているユダヤ人たち、また信仰に反対するユダヤ人たちのことを念頭において書かれているようです。反対するまでではないにしても、自分たちはそれまで、神との契約の民として生きてきて、神のみことばを、律法を厳格に守って生きてきたのに、ローマという異教の地で次々と異邦人たちが十字架の福音によって、ただ恵みによって救われていく様子を、「あとの者が先になり」というみことばもありますが、そのような様子を目の当たりにして、神さまに対して疑いを持ち始めてしまったのでしょうか。文句が湧いてきたのでしょうか。自分たちの特権、また労苦は無駄だったのか。無意味となってしまったのか。それはもしかしたら、旧約聖書が証ししているように、どこかに自分たちの神さまに対する不真実があったことが原因なのではないか。パウロはこれまで、異邦人もユダヤ人も関係なく、すべての人が罪の下にあるのだと散々主張してきたからです。パウロはそこで湧いてくるはずであろう疑問、文句に答えようとしています。
3章1節 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
これまでのパウロの主張の流れなら、「全くありません」となるはずです。ところがここでは「大いにあります」と答えるのです。
3章2節 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
この「ことば」には「約束」という意味もあります。また、「ゆだねられた」とありますが、これは「信仰」という言葉のもとになる「信じる」という動詞の受身の形です。つまりユダヤ人は神さまから信じられて、信頼されて神さまのいろいろなおことば、いろいろな約束を任せられたということです。ユダヤ人の何か涙ぐましい努力の結果与えられたものではありません。もともと身に着けていたものでもなく、神さまから与えられたものなのです。少し進んで9章4〜5節をご覧ください。そこにはここで「第一に」と語られた他の約束のいくつかの例が記されています。
9章4節 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
9章5節 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。
これらすべて、ユダヤ人の努力の結果ではありません。ユダヤ人が勝ち取ったものではありません。神さまが神さまの契約、最初の「虹の契約」、次に「アブラハム契約」、そして「シナイ契約」。これら神さまが神の民と結ばれた契約や諸々の約束に真実であるからこそ、ユダヤ人たちを信じて、信頼して与えられた、任されたのです。この点において、クリスチャンはユダヤ人と通じる所があるのではないでしょうか。
神のことば、特に契約と約束と預言の中心、つまり旧約聖書全体のテーマはメシヤに関わるものでした。それはイエス・キリストによって成就されたのですが、それこそ神さまの真実の表れだったのです。新約時代のクリスチャンもまた、イエス・キリストを通して新しい契約が結ばれて、神さまに信じられて、信頼されてたくさんのものが与えられている、任されているのでしょう。この神さまの恵みに対して、ユダヤ人は、あるいはクリスチャンは神さまに文句を言う筋合いはないはずです。疑わず、むしろ素直に感謝して受け取るべきことなのではないでしょうか。
しかし彼らは神さまの「真実」に対して「不真実」な態度を取りました。ここでの真実とは信仰とも訳せる言葉。そして不真実とは不信仰とも訳せる言葉です。彼らは自分たちを信じ、信頼する神さまに対して、感謝ではなく、疑いの思いを、不信仰な思いを抱いたのです。それはパウロの中では想定内だったのでしょうか。ユダヤ人であるパウロもまた同じ悩みを経験をしたのかもしれません。神さまはご自分の約束を決して破られないというのなら、もし相手が破った場合にはどうされるのか。すでに約束が破られたため、神さまも守られないのではないか。それでも守られるのか。パウロはその点について質問形式で断言します。
3章3節 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
3章4節 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
「絶対にそんなことはありません」。先週のホセア書でも確認した通り、神さまは人間の不真実に対しても、どこまでも真実な方であることもまた、旧約聖書は繰り返し証ししているのです。
うなじのやわらかいユダヤ人ならば、ここで「そうでしたね、ありがとうございます」で終わるのでしょうが、そうは行かないようです。パウロはここからなおもうなじのこわい人の姿を示すのです。
3章5節 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
「だったら」と言わんばかりに、「だったら、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら」と問うのです。「だったら、怒りを下す神は不正なのではないのか」。「人間の罪によって神の義が対照的に明らかにされるのであるなら、罪は神のために役立つことになるのではないか。私たちが罪を犯す時、かえって感謝されるべきで、神が怒りを下すのはおかしいのではないか」と屁理屈を言うのです。聞き分けのない子どものようです。例えばこどもが悪ふざけをした。危険なことをした。父親は真剣に怒るのです。「お前をこんなに叱るのは、お前を愛しているからだよ」。そう言われて当の子どもは「僕が悪ふざけをしたお陰で、お父さんは自分の正しさを主張できたし、僕をどれほど愛しているかも僕に教える事ができたんだから、僕を怒るのはおかしいんじゃないの? 僕に感謝してよ」。屁理屈です。
3章6節 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
パウロは答えます。「決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう」。神さまは不義を受け入れることができず、罪を必ずさばかれるお方です。私たちは、そうでないと困るのではないでしょうか。悪は必ず正しくさばかれるべき、それこそ私たちが神さまに求めているものです。私たちは他人の罪に対しては積極的に神のさばきを求めながら、自分の罪に対しては寛大なのではないでしょうか。
3章7節 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
7節は5節と似ています。「真理」とは「真実」に通じる言葉です。また「偽り」は「不真実」に通じる言葉です。ですからこのように言い換えることができると思います。「神が不真実な私にもずっと真実なら、神は世の終わりのさばきの時にも私を罪人としてさばかず、無罪判決を下されるのではないのか」。今のこの自分のままで、変わらずとも問題ないのではないか。これは神さまの真実に対する甘え、高ぶり、怠惰です。
3章8節 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか−−−私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。−−−もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
「『善をもたらすために、悪をしようではないか』とわれわれが言っていると、ある人々はわれわれを中傷して非難しています」とパウロは言います。パウロが宣べ伝えた恵みの福音は、しばしば誤解されてしまったようです。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とイエス様は言われました(マタ913)。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」とパウロは主張しました(ロマ328)。この恵みの福音を、福音の真理を正しく理解できなかったユダヤ人の多くの者たちが、パウロを非難したのです。しかし非難されるにはそれなりの理由があるはずです。もしかしたら、クリスチャンの共同体の中に、信じられないほどの神さまの恵み、真実、憐れみ、愛に対して、あぐらをかいて甘えている姿が、世の人々から見られたのかもしれません。自分の罪を軽く見て、罪に対する神さまの思いを軽く見て、神さまの真実に甘えて、以前とまるで変わらない生活をしていたのかもしれません。それなのに他人には厳しく罪を問う。それは私たちも気をつけなければならないところでしょう。そこでパウロは、「神は私たちが真実な時だけでなく、不真実な時にも真実なお方だ。だからいくら悪を行っても、神はさばきではなく永遠のいのちを与えてくださるのだ」との主張に、「そうではない。悪を行えば、あなたもさばきをうけるのだ」と答えています。
今日の箇所は短い箇所でした。それなのに何だかややこしく感じるところでした。それは何故なのだろうかと考えると、神さまはご自身の契約、約束にどこまでも真実であるが故に、「わたしがあなたをわたしの子として顧みる」と約束されたことを最後まで真実に守られる。だからといって、私たちがその約束を決して忘れてしまわないようにと願われている。神さまの真実を私たちが心から信じて、感謝して、そして素直に受け取ることを願われている。神さまの真実を間違って受け取り、自分の欲のままに生きてはならないのだと。そのような甘え、高ぶり、怠惰によって犯す罪に対しては、義である神さまは怒りのさばきをなさらなければならない。そのような神さまの思いが、神さまの真実と義が、ここではせめぎ合っているからではないでしょうか。
もう一度3章4節のみことばを振り返りましょう。
3章4節 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
「すべての人が偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」。ある神学者は、これは祈りの言葉だと言っています。
パウロはこの後、ダビデが歌った詩篇51編4節を引用します。70人訳という訳からの引用なので、ヘブル語本文とは少し違うところもありますが、しかし人間の罪と偽りとに対する神さまの絶対の「真実と義」を強調しているのです。この詩篇は、あのダビデ王が人妻バテ・シェバを手に入れるために、彼女の夫ウリヤを戦死させた本当に恐ろしい罪を預言者ナタンに指摘された時(Ⅱサム112〜)、自らの罪の恐ろしさを深く自覚して、そして悔い改めの中で歌ったものです。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」。ダビデは赦されないはずの罪を犯した自分を、それでも憐れみ赦す神さまの真実を経験するのです。「それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩514)。神さまのさばきの正しさ、神さまの義、そして神さまの聖さを告白して、そこで神さまの真実を、憐れみを、変更されることのない愛を経験するのです。
私の不真実に動かされない神さまの絶対の真実。たとえ私が誰からも赦されないほどの罪人であったとしても、神さまあなたはあなたの真実のゆえに赦してくださるお方です。お方でいてください。私を憐れんでください。イエス・キリストの十字架のゆえに信じます。「お前の罪は赦されない」そのように言う人たちは偽り者だ。「あなたの罪は赦された」と言われる神さまこそ真実なお方だ。あなたの真実だけが私の拠り所。あなたの真実に私は依り頼みます。ごめんなさい。そしてありがとうございます。私たちの必死の祈りではないでしょうか。
真実の神さま、神さまの真実は私たちの祈り求めるもの、生きる力、依り頼むべきものです。それを高ぶりの土台、甘え、怠惰の理由にしてはいけません。真実の神さまの前に、わたしたちはうなじをこわくしてはならないのです。
真実の神さまの前に、神さまの真実を信じ、祈り求め、依り頼んで生きて行くならば、私たちの生き方は、本当に愛に満ちた、喜びに満ちた、平安に満ちたものとなるでしょう。そのような私たちの姿を通して、世の多くの人たちは私たちの内に神さまの真実を見出すことになるでしょう。そして教会は神さまの栄光を現すことになるのです。「あぁ、イエス・キリストは本当に罪人を招くために来てくださったんだね」、「あぁ、信じる者は、本当に救われるんだなぁ」と、私たちの姿を見て、今度は馬鹿にしたようにではなく、本当にそう思ってくれるのようになるのではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世に降られました。十字架に架かって死んでくださいました。三日目によみがえられました。それは変わることのない神さまの真実のゆえに、私たちの罪を赦すためでした。私たちが「ごめんなさい」と言う前に、私たちはすでに赦されていたのです。神さまは私たちを赦して、受け入れてくださっているのです。私たちは神さまの真実によってすでに受け入れてくださっていることを、疑わずに、高ぶらずに、素直に「ごめんなさい」「ありがとう」と言って受け入れる。
3章に入って、いよいよパウロの教える信仰義認「救いは行いによらず、信仰による」を語るローマ書前半のクライマックスを迎えようとしています。その前にどうしてもパウロが確認させておきたかった、真実の神さま、神さまの真実。先週、今週と見てまいりました。それらをしっかりと覚え、私たちの歩み、信仰の土台としてまいりましょう。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から感謝して賛美いたします。みことばより、真実の神さまのことを覚えました。あまりも偉大な事柄に、私たちは少し難しささえ感じてしまいますが、そこで疑ってしまうのではなく、また間違って受け取って、高ぶってしまうのではなく、私たちはうなじをやわらかくして御前にぬかずきたく願います。信じられないほどの大きな神さまの真実、憐れみ、愛。それらが分かるように聖霊様が臨んでくださいますようにお願いをいたします。この新しい一週間も、主の栄光を現していくことができますように。感謝して、救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。