2021年2月14日 主日礼拝「あぁ、恵み!」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙4章9〜16節

説教題

「あぁ、恵み!」

今週の聖句

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

ローマ人への手紙4章16a節

訳してみましょう

2068 The real measure of our wealth is the treasure we have in heaven.

2069 The way to face Christ as judge is to know Him as your Savior.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  1番「神のちからを」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  514番「よわきものよ」
聖 書  ローマ人への手紙4章9節〜16節
説 教  「あぁ、恵み!」佐藤伝道師
讃美歌  529番「ああうれし」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/jhWhGN-BFTE

説教「あぁ、恵み!」

ローマ人への手紙4章9〜16節

佐藤伝道師

 月日が流れるのは本当に早いもので、ついこの間、新年礼拝を迎えたと思っていましたが、早くも今日で2月も半分終わってしまいます。今年もすでに一ヶ月半も過ぎてしまいました。気付いたらあっという間に過ぎ去ってしまっていたこれまででした。またこれからもあっという間に過ぎてしまう日々であるのだろうなぁと思わされましたが、そこでふと、実は神さまはずっと変わらずに、常に私たちを神の国に至るまで最善をもって守り導いてくださっているのだということを私自身改めて覚えさせられたことがあり、ただ感謝しました。

 今週も様々なことが皆さんの上に起こったことと思います。喜んでおられる方もおられるでしょう。悩み、気落ちしておられる方はおられるでしょうか。実は先週、私はある困難な問題を抱えて、とても気分が落ち込んでいました。一週間祈ってみようと決めて祈っているうちに、ふと詩篇のみことばが心に響いてきました。

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」(詩1214−7
「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩1272

 神さまは、私たちが気付かぬうちにも、私たちが最も無防備でリラックスして寝ている時でさえも、私たちを守ってくださっているのですね。色々なことがありながらも私たちは守られ生かされています。神さまが私たちを愛してくださっていて、それで私たちを神の国に至るまで最善を備えて、最善をもって守り導いてくださっている。恵み以外の何ものでもありません。ところが私など、目の前にあることで精一杯で、また恵みが当たり前のように感じているところがどこかにあったりして、自分に言い聞かせるようにして意識しないと、なかなかこの恵みを常に実感することができません。皆さんはどうでしょうか。

 ですから私たちは礼拝においてこそ、意識して、ずっとこのような主の守りの中、恵みの中で生かされて来たことを感謝しましょう。そして、今朝も私たちのために祝福を用意してこの礼拝を備えてくださっておられる主に向かって、私たちの目と心を天高く向け、祝福を求めて、私たちの最善をお献げして主を礼拝してまいりましょう。お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。過ぐる一週間も私たちを守り導いてくださったことを感謝いたします。そして今朝もこうして礼拝を備えてくださり、私たちを招き、導いてくださりありがとうございます。このひととき、主に全きの信頼をもって喜びも、心の嘆き、思い煩い、また頑なな心をもすべてお委ねして、ひたすらに主を礼拝できますようお守りください。みことばを祝福してお与えください。聖霊様が満ちていてくださり、祝福して与えてくださるみことばを従順に聞き、信仰をもって受け入れることができますようお守りください。すべて感謝し、主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。

 前回は、旧約の時代の中で最も義人とされているアブラハムが見出したこと、発見したことについて見ました。それは「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」。いわゆる「信仰義認」です。このことは、新約の時代を生きる私たちが、神さまの救いを受け入れるために唯一必要とすることを教えているということでした。それは父なる神さまが救い主としてこの世にお送りくださった御子、イエス・キリストを信じる信仰です。アブラハムのように自分の無力さを認めて、ただ神さまの約束にすがりつくようにして信じる。神さまは私たちの行いにはよらず、ただイエス様、イエス様が成し遂げてくださったことを信じるのみで救われるようにしてくださいました。恵みです。ですがこれを受け入れることは、一番簡単なようで一番難しいのかもしれません。

 神さまが義と認められるというのは、「神さまが私たちを、神さまご自身がお喜びになる者としてくださることだ」と申し上げたことも覚えていてくださっているでしょうか。これは「義認」という言葉を本当に分かりやすく言っていることだと思わされます。神さまに逆らい、神さまに背き、神さまに対して罪を犯してばかりの私たちを、神さまが喜ぶ者としてくださる。喜びの存在として認めてくださる。それはただ信仰によるもので、行いによるのではありません。行いによるのであるならば、誰一人神さまに喜ばれることはないでしょう。神さまは一人として滅びることなく永遠のいのちを得て欲しいと願われるお方です。その永遠のいのちを得るために私たちに求めてくださっているのは、神さまご自身が私たちのために備えてくださった赦しの道、方法であるイエス・キリストを信じる信仰だけです。神さまはその信仰を私たちの内に見て、それだけで私たちを喜んでくださる。義と認めてくださる。私たちを喜んで約束の地である神の国に至るまでその道を守り、正しく導いて必ず招き入れてくださる。そんな約束が与えられています。これは恵み以外の何ものでも無いでしょう。驚くばかりの恵みです。私たちは神さまが与えてくださるこの驚くばかりの恵みを素直に受け取って、いつも感じて、信じて、心から味わい喜んでいるでしょうか。

 すでにもう先々週になるのですが、およそ2ヶ月ぶりに新潟聖書学院の聴講授業を受けに行ってまいりました。長野は穏やかな天気でしたが、新潟の海沿いはそれは凄い暴風雨、雪ではなかったことが幸いでしたが、ハンドルをとられるほどの暴風が吹き付けてきて、それは恐ろしい思いをしました。思い出してみると、学院で過ごした冬は毎年、特に夜、ほとんど毎晩、寮の部屋の中で建物が吹き飛ばされないか怯えていたことを思い出しました。夜中雷が鳴っていることも多くて、「昨晩も終末を思わせる夜でしたね」というのが次の日の朝の挨拶となっていました。

 それに比べて、長野市辺りは本当に穏やかだと思わされます。山に囲まれているからでしょうか。あまり暴風に悩まされることはないように思います。長野を出て初めて、風ってこんなに吹いているものなのだと思わされたほどです。毎日気付かぬうちに、大きな山が私たちを吹き付ける暴風から守ってくれているのでしょう。「恵み」とはこのようなものなのかもしれません。私たちが気付かぬうちに、気付かないところで、あるいはそこに山があることが当たり前すぎて忘れてしまっていても、私たちは私たちの力によるのではない大きな山に守られている。それが恵みの性格のある一面ではないでしょうか。

 恵みについてこんなことも考えさせられた出来事がありました。夕方、妻と車で買い物に出かけて、少し大きな交差点で待たされていた時、目の前を通り過ぎる何台もの車に目が留まりました。妻とこんな会話をしました。「人間はどもまでも怠惰だよね。座ったまま遠くに移動しようとしているんだから」。少し冷静になって通り過ぎる車を見ると、何だか異様な光景です。みんな座ったまま移動しているのです。確かに、車が出来たことは感謝なことだと思います。便利になりました。私たちはその恵みに与っていると言えるでしょう。その恵みは人間の要求によってどんどん発展して、形を変えて今のような快適な車となりました。完全個室、ソファー、エアコン、オーディオ完備。頑丈なフレームやエアバッグなど、命を守る機能満載。最近は自動ブレーキとかAIによる自動運転まで登場してきました。それで何百㎞と座ったままで目的地まで快適に移動できてしまうのですから、これもまた恵みと言えるかもしれません。しかしその恵みはどうでしょう。過信したり、油断したり、ちょっとした不注意によって他人を傷つけたり、あるいは殺してしまうこともあるでしょう。罪の無い小さな子どもたちの列に車が突進したなどという、本当に悲しく痛ましい事件もあったではないですか。このように、恵みは私たちを守り導くものではありますが、その恵みの取扱いには本当に気をつけなければならないと思わされました。それが恵みが与えられた者の責任でもあると思います。恵みとは与えられるのに相応しくない者に与えられるもの、神さまが私たちを愛し、そして信頼して与えてくださるもの、私たちの手に委ねられているものと言ってもよいものかもしれません。

 本朝はローマ人への手紙4章9節からです。9節から12節では「信仰と割礼」をテーマに、そして13節から16節では「信仰と律法」をテーマにして、神さまから恵みとして与えられている信仰義認という教理、教え「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということを重ねて実証します。割礼も律法も、行いに通じるものです。パウロは3章から続けられている行いにはよらない信仰による義、信仰義認をしつこいほどまでに続けて論証していきます。なぜでしょうか。信仰義認というものは、ユダヤ人、あるいはこの手紙の読者が簡単には受け入れられないことであると、パウロは承知していたからでしょう。先週の祈祷会で姉妹が仰っていました。「行いの方が分かりやすい。これをやっておけば大丈夫としておいた方が簡単だと人は考えてしまう」と。私も全くその通りだと思いました。

4章9節      それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、

 「この幸い」とは何でしょうか。それは前回見ました通り、パウロが4章7節のところでダビデが歌った詩篇を引用して言っている幸いのことです。

4章7節      「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4章8節      主が罪を認めない人は幸いである。」

 では、この幸いは、割礼のある者、すなわちユダヤ人だけに限られるものなのか、それとも割礼のない者、ユダヤ人以外の者にも与えられるのか。パウロは問いかけます。「あなたたちが義人と認めている父祖アブラハムの場合、『その信仰が義とみなされた』と言われているけれども」と。

 ユダヤ人はもちろんのこと、教会の中にいたパウロの論的、ユダヤ主義的キリスト者たちも、幸いが及ぶ範囲を割礼のある者に限定していたようです。そんな彼らの考えの根底にあったものは何でしょうか。それは聖書に記されている信仰についての誤解でした。また自分たちには割礼があるからという特別意識でした。特別意識による異邦人への蔑み、差別。あからさまではなかったかもしれませんが、そのような思いが根底にある人たちに対してパウロは問いかけます。そしてもう一方で、そのような雰囲気を感じて自分たちの救いに自信を失ってしまっていた割礼のない人に対しても、信仰と割礼の関係を聖書はどう証ししているのか。自分たちの声ではなく、聖書が語る主の御声から聞いて確認してみてはどうなのか。それで本来の信仰の根本に戻ってはどうか。そのようにパウロは問いかけます。

4章10節   どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

 聖書の答えは明らかです。アブラハムの信仰義認は割礼を受けていない時でした。その事実が記されている創世記によれば、割礼の契約が結ばれたのは創世記17章のところです。それは創世記15章のところで「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と記されているこの信仰義認の出来事のおよそ14年後です。

4章11節   彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。

 アブラハムは信仰によって義と認められたことの証印として、14年後に割礼というしるしを受けました。これは何を意味していますか。割礼という行いが義と認められるための手段とか条件ではなかったことは明らかです。

 割礼は、ただ神さまを信じる信仰によって義と認められたことの証印として、神さまから与えられたしるしでした。割礼という目に見える儀式は、信仰による義認という目に見えない霊的なみわざがこの身にあったことの確かな証拠として与えられたものでした。人はこの目で見て確認しないとなかなか信じられないものです。ですからしるしは神さまからの恵みです。その恵みの取扱いを間違えて、神さまの義を獲得するための条件として扱ってはならないのです。

4章11節   それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
4章12節   また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

 アブラハムは割礼を受けないままで信じて義と認められたすべての人、つまり異邦人キリスト者の父となり、同時にまた割礼を受けていて、なおアブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者、遠回しな言い方ですが、これはつまりユダヤ人キリスト者ということです。その割礼のあるユダヤ人キリスト者の父ともなるために、割礼というしるしを受けたのです。アブラハムは割礼のある者にも、割礼のない者にも父とされなければなりませんでした。アブラハムは何より、信仰の模範、信仰の手本とされることのために、割礼のある者にも、割礼のない者にも、その信仰の父とされているのです。そしてアブラハムが神を信じたように信じること、自分の無力さを認めて神さまに寄りすがるように信じることが、私たちをアブラハムの子孫とするのです。アブラハムの子孫とされた者に約束されているものは何でしょうか。何のために私たちはアブラハムの子孫とされなければならないのでしょうか。その答えは続く13節にあります。神さまは私たちに、神さまの世界、神さまが統べ治められる世界、神の国を是非とも相続させたいと願われているのです。すべての人がアブラハムの信仰にならって救われることを願っておられるのです。アブラハムが信じて義とされたように、キリストを信じて義とされることを求めてくださっているのです。これもまた恵みでしょう。

 「信仰と割礼」をテーマに語られたこれまでのところで、私たちはどうしても考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは「洗礼」についてです。私たちは洗礼という儀式によって罪赦され、義とされた、救われたのでしょうか。罪赦され、義とされた、救われたから洗礼の恵みに与ったのでしょうか。アブラハムの手本からして答えは明らかです。洗礼はしるしです。洗礼という儀式に人を救う力があるのではありません。洗礼の水に何か特別な力や効果があるわけでもありません。父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げ、聖霊によって私たちのもとにもたらしてくださった救いの恵み、目に見えない霊的な出来事を目に見えるかたちで保証するしるし。それが洗礼です。洗礼も条件ではなく神さまからの恵みです。

 私たちは神さまに逆らっていたのに、今は神さまを愛しているではありませんか。私たちは神さまに罪を犯し、自らの罪に苦み、死んでいたようであったのに、今は罪赦され、普段当たり前のように喜んで、感謝しているではありませんか。誰も聖霊によらなければ、イエスは主であると言うことはできないのだと聖書は言っていますが、私たちはイエス様を主と仰いでいます。イエス様にはまるで関心も無く生きてきた私たちでしたが、今はイエス様が大好きでしょう。この目に見えない霊的な変化こそ、福音を信じ、その信仰によって神さまに義と認められたことの証拠です。洗礼という目に見える儀式は、私たちの内には確かに信仰があること、その信仰によって義と認められていること、また、聖霊による証印が押されたという目に見えない霊的なみわざがこの身にすでに起こったことの確かなしるしとして与えられるものです。

 またどうでしょう、エペソ人への手紙でパウロはこのように記されています。「このキリストにあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(エペ113)聖霊が与えられたということは、神さまの御手によって契約書に判子が押されたということです。それは契約が必ず果たされることの確かな約束です。

 その契約とは、4章13節に記されている通り「世界の相続人となる」という約束です。創世記17章では「わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる」とアブラハムに約束されていました。アブラハムはすべての信仰者の父。その子孫とされている新約の時代を生きる私たち信仰者に対する約束は、約束の地、神の国が相続として与えられるということです。パウロは人が義とされること、救い、幸い、つまり恵みを、ここでは「世界の相続人となる」という言葉を用いて説明します。すべての人は行いではなく、恵みによって、ただ神さまを信じる信仰によってのみ義とされるのだ、罪赦されて救われるのだ、そして幸いを得るのだ。

 そのような原点、信仰義認というところに帰そうとする試みは13節から「信仰と律法」をテーマにして重ねて実証していきます。

4章13節   というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
4章14節   もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。

 この意味も明らかです。世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、またその子孫に与えられたのは、すでに見て来た通り創世記の時代においてでした。では律法が与えられたのはいつだったでしょうか。パウロは別の手紙でこのように言っています。

「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後430年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」(ガラ317

 パウロによると律法は、アブラハムに信仰による義が示されてから430年も後になって与えられたものでした。このことからも、人が義とされるためには律法の行いではない、信仰だけが必要であること、信仰によってのみ義とされるのだということが実証されます。

 しかしユダヤ人は、と言いますか私たち人間というものは、恵みを恵みとしてなかなか受け入れることができないゆえに、律法を守り行うことによって救われようとしてしまうものです。確かに律法は人が生きるために、神さまによって祝福されるために与えられたものでした。ところが、律法遵守を救いの根拠としようとするとき、皮肉にも本来私たちにいのちを与えるための律法は、恐ろしい、自分を殺してしまう律法へと変えてしまいます。パウロは依然としてどこかで律法を守り行うことによって救われようとする考えが残るユダヤ人たちに対してこのように言いました。

4章15節   律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。

 律法を完全に守り行うことのできる人は一人もいない。律法はただ、私たちに罪の意識をもたらすだけであると。私たちに罪を一つ一つ突きつけて、私たちを攻撃するだけであると。律法は私たちを救うことはできないのだと言っています。

 このことからも、律法の行いが私たちを義とする、救うのではなく、律法が示された時からずっと前に示された信仰によってのみ義とされるというものが聖書の教えの根本であることが分かります。この聖書の教えの根本に立ち返って、そこに私たちの信仰の土台を据えるべきであることを、ここでもパウロは教えているのでしょう。

4章16節   そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

 4章16節は今週の聖句にも取り上げさせていただきましたが、新改訳2017の訳で載せていただきました。新改訳2017の訳とあわせて味わいたいところです。このように訳されています。

4章16節   そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。

 世界の相続人となることは信仰による。私たち人間の救いのすべて、それは信仰によるのです。アブラハムが信仰によって義とされたように、決して行いによるのではありません。ただ信仰によって、神さまの恵みによって救われるからこそ、私たちの救いは確かなものとして保証されるのです。

 こうしてローマ書は、私たちはすでに信仰によって、恵みによって義とされていること、信仰によって義とされた私たちは世界の相続人とされているという事実を、この手紙の読者、新約の時代を生きる私たちに向けて明らかにしています。私たちは今日、改めて私たちの罪が赦されていること、義と認められていること、神さまに喜ばれる存在とされていること、神の子どもとされて、世界の相続人とされていること。またそのような者として生かされていること、神の国の相続人となる約束が果たされるように、約束してくださった神さまご自身によって守られ、導かれていることがどれほどの幸い、恵みであるかを覚えさせていただきましょう。今の幸い、大きな大きな恵み。大きすぎて、当たり前となりすぎて、見逃していることはないでしょうか。改めて私たちに与えられている幸い、恵みを覚えましょう。恵みを恵みとしてしっかりと受け取りましょう。そうするならば、私たちは決して恵みの上にあぐらをかくことはないでしょうし、恵みを変に発展させて、武器にしてしまうような間違った使い方をして、私たちのすぐ周りにいる隣人、家族や友人、親しい人たち、何らかの関係がある人たち、今はまだ救われていない人たちを傷つけたり殺したりしてしまうものにすることはないでしょう。恵みに対する正しい取扱いとは、これほどの恵みを与えてくださった神さまに心から感謝して、へりくだって、神さまと隣人、今はまだ救われていない人々に仕える者とすることなのではないでしょうか。

 私たちが神さまから信仰によってのみで与えられた幸い、恵みを存分に味わい喜ぶなら、私たちはその喜びによってなお生きて行くことができるでしょう。そして私たちの喜びは、私たちの周りにいる多くの隣人を生かすことになるでしょう。神さまが恵みによって私たちを世界の相続人としてくださった。その責任もまた大きいものだということも覚えたいと思います。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝致します。私たちに与えられている恵みがいかに大きいもの、素晴らしいものであるかというところを改めて覚えさせていただきました。その恵みをしっかりと受け取り、心に覚え、そして私たちに委ねられている恵みを正しく取扱い、今週も神さまと隣人とを愛し、人々の間で主の栄光を現していくことができますようにお願いをいたします。主キリスト・イエス様の御名を通してお祈りを致します。アーメン。

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