2021年2月28日主日礼拝「神との平和」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙5章1〜5節
説教題
「神との平和」
今週の聖句
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ローマ人への手紙5章1節
訳してみましょう
2072 The fear of the Lord is the beginning of knowledge, but fools despise wisdom and discipline.
2073 Christ is the greatest gift known to man.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 5番「こよなくかしこし」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 531番「こころのおごとに」
聖 書 ローマ人への手紙5章1節〜5節
説 教 「神との平和」佐藤伝道師
讃美歌 532番「ひとたびは死にし身も」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
動画はこちら
説教「神との平和」
ローマ人への手紙5章1〜5節
以前、テニスの大坂なおみ選手のお話しをしましたが、私はやっぱり彼女のファンなのでしょうか、なぜか彼女の言動に注目してしまいます。強さもそうですが、人格といいますか感じられる品性が素晴らしいと思います。そんな彼女が、先日は全豪オープンで2年ぶり2度目の優勝をされましたが、優勝後のインタビューか何かで自身の強さを自己分析していました。その中で、彼女を支えるチームのことを心から信頼してファミリーと言い、ファミリーと会話をすることで自分は強く変われたのだと言われていました。たとえば試合の1時間前に、自分がこの試合で何をしたいか、何を成し遂げたいか、どのようになりたいかを話すのだそうです。それが彼女の強さとなった秘訣らしいのです。強い相手に対して勇敢に立ち向かっていく勇気、精神力。最近は試合の途中でキレることがあまりなくなりましたし、試合後には相手に対してきちんと敬意を表しています。内から滲み出るような品性に、私を含め多くの人が注目し、また多くのファンを引きつけるものがあるのではないでしょうか。
今朝も私たちは、私たちを支え導いてくださっている父なる神さま、御子なるイエス様、私たちの内に住まわれる聖霊なる神さまに、みことばを通して会話をさせていただき、そして栄光を拝し、新しい力をいただきましょう。主の前に進み出て、ともに礼拝をおささげできる恵みを感謝します。主の御前にある主に愛されているお一人お一人に、主の豊かな祝福がありますように。お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も私たち一人ひとりを最善に守り、導いてくださり、今朝こうして御前に集えます幸いを心から感謝致します。様々な都合で集えない方々もおられますが、その心は、この同じ時間に主の御前にあることと思います。どうぞ祝福してください。今朝も主のおことばとして与えられているみことばを感謝いたします。主がお一人お一人に語りかけてくださいますようにお願いをいたします。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書の中には、素晴らしい珠玉のような言葉がいたるところに散りばめられています。「金言」、金のように価値の高い言葉がたくさんあります。金(Gold)というのは、供給量が少ないにも関わらず、今現在も世界中で取り引きされている価値あるものです。世界中で価値が認められているという点では、「世界共通通貨」として置き換えることができます。金は「無国籍通貨」と呼ばれているそうです。日本においては「有事の金」という言葉があり、昔から金は通貨や株の破綻リスクを避ける資産として購入されているそうです。語弊があるかもしれませんが、世界中で用いられている、世界共通、何があっても変わらない価値など、何だか聖書のみことばに通じるものがあるように思います。
世界共通、一般的に用いられている聖書のみことばもいくつかあります。何があるでしょう。「豚に真珠」、「狭き門」、「三位一体」、「信じる者は救われる」など。その意味は必ずしも信仰的な意味で理解されているとは限られません。そのように聖書のみことばには2つの種類があると言えるのかもしれません。ひとつは、信仰がなくても感銘を受けるようなもの。もうひとつは信仰がなければよく分からない、あるいは正しく理解されないもの。本当を言えば、聖書のみことばはどれも「信仰なしには理解できない」ものです。
信仰者にとって聖書の中の金のような価値あるみことば。キラリと光るみことば。そのひとつが今朝与えられましたみことば、ローマ書5章1〜2節です。ある先生に言わせると、この箇所は聖書の中の珠玉の言葉の中の最も有名なひとつだということです。
5章1節 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。
5章2節 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで多いに喜んでいます。
私たちはローマ書を通して、実に4章をかけて厳しい中を通らされてきました。できれば直面したくない罪のこと、自分自身を顧みなければならなかったり、なかなか理解できなかったり、苦しい中を通らされました。その先に語られる5章1節からのみことば。
闇が深ければ深いほど、光は明るく輝くものです。そんな体験をしたのがあのヨブではないでしょうか。神さまに取り扱われ、激しい苦痛を味わったヨブは絞り出すように言います。「私は試されると、金のようになって出てくる」(ヨブ2310)。また「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(ヨブ425)。神さまのみことばをただ軽く耳で聞くだけではない。みことばの前に立ち、みことばと対面して人格的に、霊的に、心で、魂で聞く時に、あるいは体験する時に、私たちはみことばの中に、金のようにキラリと光る価値あるみことばを見るのではないでしょうか。その中のひとつとされているのが5章1〜2節です。
4章の最後では、パウロは重大で厳かな結論を述べました。
4章24節 すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4章25節 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
私たちは神さまの恵みによって、信仰によって義とされました。それは罪人が全く新しく生まれ変わることです。全く新しく創造されて、全く新しく造り変えられた私たちを見て神さまが「非常に良い」と仰ってくださった。その意味は機能的に完璧だということではなく、存在が喜ばしいということです。
罪人が神さまによってそのような者にされたら、どういうことになるのでしょうか。もう一度5章1節。
5章1節 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
私たちはすでに信仰によって義と認められ、私たちの主イエス・キリストによって、神さまとの平和を持っているのです。
「神との平和」とは、神さまとの関係においての平和です。神さまがキリストにおいて私たちを受け入れてくださるので、もはや神さまの怒りの下にはないということです。それは単に心が落ち着いているとか、安心しているとかいうことではなく、主イエス・キリストによって成し遂げられた贖い、宥めによって、神さまに対して何も心配することがないということです。もう神さまが私に対して怒っておられない、敵意を持っておられない。今、神さまが私に注がれる眼差しは、父が子に注ぐ眼差し、神さまの私に対するお気持ちは、愛に満ちていて、私は何も恐れることはない。その平和です。どんな状況にあったしても、神さまに対しては絶対の信頼を持てるという、必ず最善がなされるのだという平安、神さまにまかせきることのできる平安、すべてをおまかせして、安心できる。そんな平安が与えられるのは、信仰によって義と認められ、罪を赦されて神さまとすっかり和解して、平和な関係とさせていただいたからです。
ですから、たとえ信仰があっても、私たちの心に動揺があることもあるでしょうし、悲しみや苦しみがあることもあるでしょう。現実に様々な問題が次から次へとこの身に起こってくるではありませんか。しかし私たちは神さまとの平和を持っているのです。ですから何があっても神さまがこの私を愛していてくださることを信じることができ、すべてを安心しておまかせできる。それを信じるのが信仰です。その信仰から出てくるのが、信仰による平安です。
またここで「持っています」とされていることろも重要です。新共同訳では「得ています」と訳されていますが、実は原文では「得ようではありませんか」とも訳せるのです。ですが「持っています、得ています」と訳されているところに大きな意味があるのです。持っている、得ているという以上は、今持っている、今もうすでに与えられて、今ここにある、ということです。それが得ようではないかとなると、今はないけれども、何とかして得ようではないかということになります。そこが重要なのです。なぜなら、信仰生活というのは、ともすると私たちが励んで努力するもののように思われてしまうからです。神に対する平和ということも、神さまに対して平和を得ようではないかというのであれば、私たちが何とか努力して神との平和を得なければとなってしまいます。もしそうだったら、その平和はいつになったら得られるのでしょう。ただ一生懸命にやろう、あてもなく待って、熱心に励むということになってしまいます。そこに平安はありません。ところが、ここで言われていることは、神さまに対する平和は、今すでに与えられているということです。
罪のゆえに神さまの敵となっていた私たち罪人が、神さまに対して平和を持つとは、つまり神さまと仲直りすることでしょう。
私たちがもし誰かに対して悪いことをしてしまった、罪を犯してしまったとしたら、その相手に対して「自分を赦さないと承知しないぞ」とは言えないのではないでしょうか。逆ギレです。たとえそれで仲直りしたとしても、きっと真の仲直りとはならず、心にも平安がないでしょう。本当の仲直りができるためには、相手が本当に赦してくれるのを待つしかないのです。そして最終的に、相手が赦してくれるからこそ安心があり、平安があるのではないでしょうか。私たちは神さまに対して罪を犯しました。悪いのはもちろん私たちでした。ですから私たちがどんなに頑張っても、神さまが仲直りをしてくださらなければ仲直りできないのです。ですが神さまは「もう仲直りしているよ」と仰ってくださっている。神さまの方からもう平和を与えてくださっている。もう赦した、救ったと仰ってくださって、平和が与えられている。それだからこそ、私たちには安心がある、平安があるのです。それだからこそ、信じられるのです。
私たちは赦しを信じて、感謝して受け入れましょう。赦されていないのではと疑っていては、やはり平安はないし、真の平和はないからです。
神さまのみことばである聖書は、私たちはすでに神との平和をもっていると言っています。
5章2節 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
私たちの今立っている立ち位置、神さまとの平和な関係。これこそ恵みでしょう。まさに与えられるにふさわしくない者に与えられる平和です。もうすでに与えられて、いまその中に立っている。信仰によって導き入れられた。自分の努力で探したり、もがいて這い上がったのではないのです。神さまによって導き入れられたのです。
そしてキリストによってということの重大さもあります。このような平和、和解は、人間の手段でできるわけがありません。人間がお膳立てをしてできるものではないのです。私たちが神さまに罪を犯したのですから。神さまがお定めになった方法、神さまの導き、主導によってしか平和、和解、仲直りはできません。それはただ、神さまが御子をおつかわしくださってこそ、出来ることです。出来たことなのです。
するとどうでしょう。私たちは神さまの栄光を望んで大いに喜ぶことになりました。もし、罪が赦されないままであったなら、神さまに対して平気でいられるでしょうか。神さまに対して申し訳ないと思ったり、神さまが自分に対しては敵になっておられるとしか感じられないのではないでしょうか。
私は生涯で一度だけ、犬の主人になったことがあるのですが、その犬が悪さをして、私がひどく叱った後、私の顔を真っ直ぐ見ることができないのです。背を向けて耳だけ私の方に向けて様子をうかがっていたり、上目遣いで申し訳なさそうに恐る恐る私の顔を見たりしました。そんな姿が可愛くて、「いいよ」と赦して手を差し伸べてあげると、もう尻尾を振って全身で喜びを表して抱っこ抱っことしてくるのです。そんな素直さを見習いたいものです。
ところで、クリスマスの夜に野宿していた羊飼いのもとに神の御使いが現れて、神さまの栄光が回りを照らしましたけれども、その時、羊飼いたちはどうしたでしょうか。「ひどく恐れた」と記されています。私たちの目の前に、もしものすごい光が輝いたらどうしますか。目を覆うでしょう。光を避けよう、逃げようとするのではないでしょうか。神さまの栄光とはそのようなものです。とっさに恐れてしまうものです。しかし神さまとの平和をいただいている私たちは、その恐れを恐れることなく、喜ぶ者とされています。どうでしょうか。今、この場に神さまの栄光が照らしたら、私たちはわんちゃんのように素直に全身で喜んで、神さまの懐に向かっていくことができるでしょうか。いや、すでに行くことができる者とされているのです。イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちのすべての罪、過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、すべて恵みによって赦されているからです。そんな信じられない出来事が、実際にこの身に起こっているのです。だから神さまが私に対してもう敵意を持っておられない、私に対するお気持ちは愛に満ちている。それを信じるのが信仰です。そこから出てくるのが、信仰による平安です。神さまとの関係における平和です。神さまとの関係における平和が、すでに与えられているのだというとても大切なこと、本当に価値あることを、金のような言葉を、パウロはここで私たちに示しているのです。
神さまとの関係における平和です。
私たちの実際は、信仰があっても心に動揺があることもあります。悲しみや苦しみもあります。生活の中で困難や患難に直面すると、「あぁ、神さまは私のあの罪に報復しておられるのだ」とつい考えてしまったりする。パウロはそのような私たちのために、神さまとの和解がすでに成立していることを受け止めさせようとして、ここに記しているのです。なぜなら、この世に生きている限り、困難や患難は避けられないからです。
聖書はこの世で生きるにあたって、患難があるのだとはっきりと言っています。イエス様も言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります、苦難があります」(ヨハ16)。イエス様の言われた通りです。ところがイエス様はこの後「勇敢でありなさい」とも言われました。主イエス・キリストによって神との平和を持っている私たちは、この患難、苦難に対しては勇敢でいられる、喜ぶ者とされているのです。たとえ現実の生活が苦難の連続であっても、勇敢でいられるのです。喜びを味わうことができるのです。何と心強いことでしょうか。
5章3節 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5章4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
驚くべきことが言われています。現在の患難さえもが喜びだと言うのです。患難の中でも何とかして喜ぶのだというようなことを言っているのではありません。患難そのものをさえ喜ぶのだと言っているのです。患難とは何でしょう。迫害でしょうか、貧しさや飢えでしょうか。病気かもしれません。この世での生きにくさ、生きる難しさ、周囲の状況によってもたらされる肉体的、あるいは精神的な苦しみ。パウロは「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(使徒1422)と言っていますが、これは神さまがわざわざ苦しみを与えるということを意味しているのでしょうか。そうではないと思います。この世は罪に満ちています。神さまとの平和がありません。神さまに全く逆らう世です。神さまとの平和をいただき、神さまの側に入れられた私たちは、神さまと敵対するこの世にあってはどうしても戦いがあります。信仰があるゆえの戦いです。激しい戦いです。負けてしまいそうな戦いです。肉体的な戦いであり、霊的な戦いでもあります。しかし、信仰によって義としてくださった神さまが、神の子としてくださった父なる神さまが、患難の中でも我が子を守るように支え、全能なる神さまが患難さえも用いて、私たちをまた新しく造り変えてくださることを信じて忍耐し、その時だからこそ気付かされることや与えられる変化を期待すべきです。神さまはこの世にあって避けられない苦しみさえ用いて、我が子がさらに良い実を結べるようにと引き上げてくださるのです。神との平和が与えられ、神の子とされている私たちだからこそ、そのことを信じられるし、その信仰によって生きていけるのでしょう。
それが今、私たちを支え、私たちが立っている、立つべき恵みです。
患難は忍耐を生み出します。忍耐とは、身をひそめてじっと我慢しながら悪や苦難が過ぎ去るのを待つような、そんな消極的な姿勢を言っているのではありません。悪や苦難に対する勇気、力、私たちが立つべきところにしっかりと立ち続けることを意味しています。私たちがしっかりと立つべきところとはどこでしょうか。私たちが信仰によって導き入れられ、今、私たちの立っている恵みの上です。神さまとの平和、神さまとの揺るぎない関係の上です。
そのような積極的な忍耐は、練られた品性を生み出します。品性と言っても、何か自分を鍛錬して得る道徳的な性格というものではありません。信仰ゆえの苦しみ、忍耐、それでも聖霊様の執り成しのもとで、神さまとの平和な関係に立ち続けることによってどのような品性が生み出されるかと言ったら、同じパウロが言っています、御霊の実なのではないでしょうか。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラ522-23)。私たちの内に結ばれたこれらの実を、他の人が見て感じるもの。そのような品性でしょう。しかし人が成長して実を結ぶ。それは大抵、苦難の中です。信仰ゆえの苦難の中で苦しむ。それでも今立たされている恵みの上、神さまとの平和、神さまとの揺るぎない関係を信じてそこに立ち続けて、練られて練られて、そうしてようやく結ぶ実なのでしょう。
その練られた品性が希望を生み出すのです。ヨブが「私は試されると、金のようになって出てくる」(ヨブ2310)と言っているように、試練や苦難の中、試されて試されて、練られて練られて、そこで私たちは価値ある金のようになって出てくる、顔を出すのです。「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(ヨブ425)と言っているように、私たちは患難の先に真の神さまの愛を見て確信することができるのです。
ですから神さまが患難を赦されるのは、忍耐、品性、まことの希望が私たちのうちに生み出されるからなのです。
5章5節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
この希望は失望に終わらない。患難、忍耐、品性を土台にして生み出された希望は、決して私たちを裏切らないのです。
別の訳では「希望はわたしたちを欺くことがありません」とあります。また「その希望は恥をかかせません」ともあります。神さまによって与えられるまことの希望は失望に終わりません。神さま以外のもの、神さま抜きによって得る希望、品性、御霊の実以外のものによって得る希望はむなしく、私たちを失望させます。裏切ります。恥をかかせます。「肉の行い、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類いのものです。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラ519-21)。
私たちは神の国を相続するために、今、旅をしているキャラバン隊だとしましょう。ある先生が仰っていることです。「砂漠を旅して進むキャラバン隊は、しばしば蜃気楼を見る。はるかかなたに緑と水に恵まれたオアシスをながめ、やっとの思いで近づいてみると、オアシスは忽然と消え去ってしまう。旅人は、蜃気楼に望みをかけていた自らを深く恥じ、ひどく落胆する。恥をかくとは、そのような旅人の心情を描き出していることばである」。
しかし神さまにある希望、品性を土台にして生み出された希望は私たちに恥をかかせることはありません。落胆させることはありません。なぜなら、私たちの内に住まわれる、聖霊が示してくれる希望だからです。
私たちはそんなに強い人間ではありません。いられません。いつも喜んでいられません。それが正直な思いでしょう。私たちは世にある多くの患難、苦難に負けそうになる時があります。しかし神さまは私たちを愛し、私たちに聖霊を注いでくださいました。私たちが弱く信じられなかったり、喜べない時であっても、私たちには聖霊なる神さまが内に住んでおられます。私たちが神さまを信じられなくなっている時でも、聖霊様は信じておられます。私たちが神さまを喜べなくても、聖霊様が喜んでおられます。言葉にならないうめきをもって執り成していてくださっているのです。聖霊が、私たちに注がれ、私たちのうちに住まわれ、私たちを愛をもって導いてくださっているのです。導くというのは、どこか遠くにいて、あっちに行け、こっちに進めと教えるようなものではありません。導くというのは、羊飼いが羊を導くように、常に共にいて、共に歩き、杖と鞭をもって守り、導くというものです。たとえ間違った祝福以外の道を進んでしまったとしても、すぐに引き戻してくださる、そんな導きです。
「御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ロマ814)と聖書は宣言しています。私たちは神の子ども、神との完全な平和な関係をいただいている神の子どもです。聖霊によって愛が注がれ、守られ、導かれています。私たちは神さまに愛されている神の子どもとして歩んでまいりましょう。歩んでいけるからです。この世にあって、特に終わりの時を生きている今、多くの患難が襲ってきます。それこそ私たちが神さまとの平和な関係をいただき、神の子どもとされている証拠です。そんな時、私たちの父である神さまに、私は何をしたいのか、何を成し遂げたいのか、どのようになりたいのか、すべてをお話しし、祈り、打ち明けて、そして聖霊に導かれ、困難な相手に立ち向かっていく勇気、力をいただき、勇敢に、希望に向かって歩んでまいりましょう。神さまは私たちをご自身との完全な平和な関係へと導き入れてくださいました。そして神さまは私たちを子として愛してくださっているゆえに、真の最善をもって導いてくださいます。私たちはそのことを確信することができます。その確信をもって、神に愛され、神と隣人とを愛する者として、この世にあって、この世の人々との関係の中で御霊の実を結んでまいりましょう。人々との関係の中で私たちは、「平和を作り出す者は幸い。その人は神の子と呼ばれる」とのイエス様のおことばをも覚える者でありたいと思います。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。私たちはすでに、神さまとの平和をいただいております。神さまとの平和な関係が確立されているからこそ、多くの困難をも経験します。どうぞそのような中にあって、私たちは神さまに罪赦され、義とされ、子とされ、愛される存在とさせていただいているのだという信仰をもって歩んで行くことができますように。信仰によって強められ、真の希望をいただき、歩んで行くことができますようにお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。