2021年12月26日 主日礼拝「東から来た博士たち」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  539番「あめつちこぞりて」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  103番「まきびとひつじを」
聖 書  マタイの福音書2章1〜12節
説 教  「東から来た博士たち」佐藤伝道師
讃美歌  284番「主のとうときみことばは」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書2章1〜12節

説教題

「東から来た博士たち」

今週の聖句

彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

マタイの福音書2章12節

訳してみましょう

2158 Settle matters quickly with your adversary.

2159 Father, You know where the relational fissures are in my life. Forgive me for my slowness to attempt resolution. Give me the strength to take the next steps.

説教「東から来た博士たち」

マタイの福音書2章1〜12節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。過ぐる一週間、守り導いてくださいましたことを覚え感謝致します。アドベント、クリスマスを過ごし、今朝はまた主の日に兄弟姉妹ともに御前に呼び集められ、主に礼拝をお献げできます幸いを感謝致します。様々な事情によって集えない兄弟姉妹もおりますから、どうぞあわれんでください。この場にいる者、いない者も、皆がともにみことばに聞き、教えられ、そしてみことばに生きる者としてくださいますようにお願いを致します。聖霊様がこの場に満ちていてくださり、ひとりびとりに主がお語りくださいますように。みことばが分かるようにお守りください。語るこの者の上にも臨んでくださって、聖めてお用いくださいますようお願い致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

 クリスマスを終えて、再びローマ書に戻ろうかとも思ったのですが、ローマ書は新年からということにして、もう少し降誕節を味わいたいと思います。

 昨日はクリスマスでしたが、皆さんは幸いなクリスマスを過ごされたでしょうか? クリスマスケーキを食べたり、ご馳走をいただいたり、何か特別な日を過ごされたでしょうか。私たちはアドベントを過ごし、一昨日の24日にはイヴ礼拝を献げ、昨日はクリスマスを迎えました。それでクリスマス本番は終わったように思いますが、まだご覧の通りクリスマスツリーは飾られたままです。今年はクリスマスから次の主日礼拝までの日にちがなかったのでなおさらだと思いますが、恐らくほとんどの教会でも、まだクリスマスツリーやクリスマスの装飾は片付けられずに飾られたままだと思います。クリスマスと言いますか、「降誕節」と呼ばれる期間は、伝統的な教会暦を用いる教会では12月24日の日没から始まって、エピファニー/公現祭・顕現日と呼ばれる1月6日までなのです。カトリック教会の伝統を基にしてプロテスタント教会ではそれぞれの教会が自分たちで決めて取り入れています。私の記憶では、長野聖書教会もずっと以前から、クリスマスの装飾を外すのは1月に入ってからだったと思います。

 参考までに、1月1日はイエス様がお生まれになってから8日目ということで、イエス様の命名と割礼の儀式を記念する日で、日本聖公会では「主イエス・キリスト命名の日」、ルーテル教会では「主の命名日」、東方教会では「主の割礼祭」となっています。そして1月6日の「公現祭」、聖公会では「顕現日」と呼ばれるこの日は、幼子イエス様への東方の博士の訪問と礼拝を記念する日となっています。その記念の意味するところは、救い主が異邦人(そのトップバッター・初穂として東方から来た博士)に対してご自身をはっきりと現されたことを記念し祝うものです。異邦人である博士たちに救い主の誕生が知らされることで、神さまの救いがユダヤの民に留まらず、すべての民に及ぶことが明らかにされたことを、1月6日の公現祭・顕現日に祝うのです。そして神さまの救いはそこから実際にすべての民に及びました。それで今の私たちがある。感謝なことです。

 今朝はおもに、東方から来た博士に焦点を当てて見て行き、祝福に与りたいと思います。

 今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書2章1〜12節です。

2章1節 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

 マタイはわざわざ「見よ」と言って、東方の博士たちに注目させているようです。新改訳2017ではこのように訳されています。「見よ、東から来た博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った」。博士と呼ばれる人たちが東の方から来たと。東の方からとは、また不思議な言い方ではないでしょうか。私は、聖書はここで何を言おうとしているのだろうかと引っかかりを覚えたのです。「東」が単なる地理的方角を意味するだけのことなのか。それとも「東」ということばは聖書の中で何かしら深い意味を持つ言葉なのだろうか。そこから本朝の説教準備が始まりました。ですので、今朝の箇所には博士たちの他にも登場人物がいて、それぞれに興味深い反応を示しているのですが、すべてを扱うと長くなってしまいますので、それは別の機会にということにして、今朝は特に東から来た博士たちに焦点を絞ってみたいと思います。

 ところで、日本で世界地図を広げますと日本が結構中心に置かれていますが、普通、世界地図を広げると大西洋を中心として東西南北に世界が広がっています。聖書の世界ではもちろん、聖書の舞台を中心にして東西南北の世界が広がっています。そうすると私たちが住むこの日本は東の方の端っこに位置していて、そこに住む私たちも、結構な東の方の人というわけです。これもまた興味深いですが、それはさておいて…。

 「東」。聖書を最初から辿ってみると、創世記4章で、アダムの子カインが自分の弟アベルを殺した後で、神さまの御顔を逃れて、エデンの東、「ノデの地」に住んだというところが出て来ます。カインは主に申し上げました。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう」。そしてカインは主の前から出ていって、エデンの東、ノデの地に住みました。

 このノデの地は実際には存在しません。しかし、ヘブル語の意味は「流浪の地」という意味で、カインはどこかに落ち着いて住みつくことを願うのですが、それがかなえられずにたださまよい続けている。神さまから離れてしまったことで、いつも誰かに殺されてしまうのではないかという恐怖に取りつかれていて、何とか平安を得たいという願いを持ちつつも平安が得られず、平安をたえず尋ね求め続けて……。そのような生き方を意味するのが「エデンの東、ノデの地(流浪の地)に住む」ということなのです。

 また、他に東の方には何があるかというと、シヌアルの地がありました。シヌアルの地、有名なところでは、創世記11章でのバベルの塔があります。新改訳2017でお読みしますが、「人々が東の方へ移動したとき、彼らはシヌアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ」。彼らは平安を求めて旅をして、やがて平地を見つけて喜んでそこに住んだのです。さらにそこから地の全面に散らされるといけないからと、あのバベルの塔を建てました。自分たちが神のようになろうと。結果、神さまによって全地に散らされてしまうことになりましたが、後にバビロンやアッシリアなどが興り、神さまに逆らう象徴のようなところとなりました。イエス様がお生まれになるまで、イスラエルを脅かす者たちは、いつも「東」からやって来ました。そこが東の方です。

 東の方バビロンについて、さらに興味深いものに黙示録があります。黙示録17章5節に「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という表現があります。つまり、バビロン、東の方というのは、偶像礼拝の母、偶像礼拝の生まれた所、偶像礼拝の本拠地ととれるのではないでしょうか。

 そのように東の方というのは、昔から偶像礼拝が盛んな地でした。思えばシヌアルの地にはウルがあって、アブラハムはそのウルから主によって導き出されました。アブラハムは、見渡す限り偶像、あの神さまは自分のお父さんが創った神さま、あれはおじいさんが創った神さま、誰かが創った神さま、そんな偶像のど真ん中でアブラハムは疑問を覚えて、そこから本当の神さまを求め、その信仰を神さまが見られてアブラハムを選び、そしてそこから連れ出したのです。東の方とはそういう所です。

 偶像礼拝というのは、繁栄への貪りです。自分の欲望を貪るようにかなえようとするものです。なぜそうなるのでしょうか。それはやはりカインのように、本当に信頼できる拠り所である神さまとの関係を失ったからでしょう。それでいつも不安で、心配で、拠り所を求めた結果、自分たちで自分たちが理想とする偶像の神を造り上げるのでしょう。以前、クリスチャン修養会で大和昌平先生をお招きして、諏訪大社の御柱のことや、仏壇の位牌などについて学びましたが、柱とか位牌というのは、空中を漂っている霊が恐れて、拠り所を求めて、それで宿る所、拠り所を提供するものなのだそうです(もっと複雑な過程があるのですが)。霊的な人間はそのように、奥深い所で真の拠り所、失ってしまった真の神さまとの揺るがない関係を求めているのでしょう。

 このように見ると、マタイの福音書2章1節「イエスが、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たち(東の方から博士たち)がエルサレムにやって来た」というのは、とても深い意味があるように思います。彼らも常に深い所で、安心できる拠り所、真の神さまを求めていたのだと思います。

 注解書を調べて見ると、博士たちはそのバビロニア、あるいはペルシヤから来たと考えられるとあり、中でもバビロニアの博士たちとするのが最もふさわしいであろうとするものがほとんどでした。
 なぜかというと、ずっと昔、多くのユダヤ人たちはバビロニアに捕囚されました(バビロン捕囚と言いますが、バビロンはバビロニア地域にある年の名前。バビロンに捕囚された民はバビロニア地域全体に住まわされたのでしょう)。その捕囚されたユダヤ人によって、バビロニアにはユダヤ教が十分に確立していました。そして東の方、特にバビロニアにおいては、占星術が洗練された科学にまで発達しており、その影響がパレスチナにも及んでいたという証拠が残っているそうです。

 そして博士たち。新改訳聖書の欄外を見ますと「ギリシャ語でマゴス」とあります。これは元々、異教世界での祭司階級の名称で、同時に魔術師や占星術師という意味です。さすが偶像礼拝の本拠地、博士たちはその異教世界の祭司、その祭司は魔術師、占星術師でした。そしてその博士たち、占星術師がずっと研究していた本があったのですが、その中にユダヤ人のバビロン捕囚とともに入って来た旧約聖書の預言がありました。メシヤ・救い主に関する預言でした。その中に、占星術師たちの興味の対象である星に関する預言もありました。民数記24章17節、預言者バラムの告げたことば、「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり…」。民数記でこれが語られたのはイエス様から1300〜1400年前。博士、占星術師たちは1000年以上、その星についてずっと研究していたのです。真の王、真の拠り所を求めていたのです。そしてそろそろ星が現れるというところについに星が現れた。それは驚いたことと思います。そこで博士たちは、東の方からはるばる何千キロもの道を旅してやって来ました。道の途中には砂漠もあり、色々な予測不能な危険もあったことと思います。異邦人であり、偶像崇拝者である彼らには聖書についての十分な知識もなかった。それなのに東の方、流浪の地、偶像礼拝の本拠地から大変なお金と時間と苦労をかけてやって来たのです。なぜでしょうか。偶像、自分たちが安心するために造り上げたたくさんの神々では満足できなかった。偶像崇拝者ならではの、自分の欲望に対する貪りだったかもしれませんが、もっとすごい神、真の王を探していた。でもやはり根本は、人間は誰しも失ってしまった真の神さまを求め、神さまとの揺るがない関係というものを求めていて、彼らの霊、心もまた、そのことを渇望していたのではないでしょうか。

2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 「拝む」という語は、礼拝を意味していません。シェバの女王がダビデ王の子であるソロモン王を訪問し顔を拝んだ、もともとはその程度の語です。これは何を意味しているのでしょうか。偶像礼拝の盛んな所から、偶像礼拝の特長である貪りの思いで、ユダヤ人の王の顔を見てみよう。何か自分たちの益となるのではないだろうか。自分たちの平安につながるかもしれない。そのためにはお金も時間も苦労も惜しくはない。もしかしたら、最初はそのような思いからだったのかもしれません。

 そして彼らの大好きな星が彼らをヘロデ王のところに導きました。そこでユダヤの祭司長たち、学者たちから「ベツレヘムに」という預言を聞いて、またヘロデという王のことばに従って、そこから出発しました。

2章9節 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方でみた星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

 東の方から彼らを導いた星は一度消えたようです。そしてここで再び現れて、幼子、みどり子から幼子へと成長したイエス様のおられる所まで進んで行き、その上にとどまったのです。

 この星について、天文学的現象であるという証明をしようと、多くの学者たちが研究したようです。土星と木星が重なったのだ。いやいや彗星だろう。もしかしたら新しい星が生まれた時に一時的に異常なほどの明るさで輝いたのではないか。どれも証明に失敗しています。科学は神さまを証明するためのものであることがここでも分かります。この時の星は、まさに奇跡的な星だったのです。天地万物、天体もすべて創造された神さまですから、神さまにとっては全然奇跡ではなかったのでしょうけれども。

 東方で不思議な星を見た博士たちは、不思議な奇跡的な動きを見せる星によって導かれました。星大好きな博士たちの、新しい王に対する興味や期待がますます高まらないはずがありません。

2章10節 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

 東の方から来た博士たちはこの上もなく喜んだのです。やっと自分たちに平安を与えてくれるかもしれない、何か益を与えてくれるかもしれない新しい王の顔を拝めるのだと、そう喜んだのではないでしょうか。

 ところが、この後、マタイは博士たちの中にもの凄い劇的な変化が起こったことを、静かに記すのです。

2章11節 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 幼子イエス様を見るなり、イエス様のお顔を拝むことができずに、ひれ伏して拝んだのです。

 イヴ礼拝では「光として来られた救い主」について見ました。光である救い主は、心の暗闇、死の陰を照らし、その人が本当に必要としている救い、どこから救い出されるべきか見せます。そして光である救い主は、平和の道へと導くのです。「安心して行きなさい」。直訳すると「平和の道へと歩き出せ」と声なき声、みことばを与えて、そこから導き歩き出してくださるのです。

 マタイはしばしば「拝んだ」という語を、イエス様に人間以上の威信があると認められる時に用います。例えばマタイの福音書14章33節では「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」とあります。異教世界の偶像に仕える祭司であり占星術師である博士たちは、この時イエス様を見ただけで、光として来られた救い主に照らされて、イエス様の中に「神の子」を見たのです。光を、栄光を見たのです。そしてひれ伏して拝みました。そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬をささげました。これはまさに礼拝です。

 シェバの女王がソロモン王に黄金、乳香をささげました。聖書の世界では黄金、乳香は王にささげるのにふさわしい贈り物でした。そして没薬。没薬はイエス様の苦難を象徴するという伝承が生まれましたが、旧約聖書においては、没薬はむしろ喜びと祝祭、喜びのお祝いの象徴なのです。博士たちの喜びは、真の意味での喜びへと変えられたのです。幼子イエス様の中に、自分たちが内なる人、霊的な部分でずっと探し求めていた真の平安、平和を見出して、そして喜んだのです。自分たちが一番求めていたものを見て喜んだ。その最上の喜びを救い主に献げたのです。私たちの見る喜びは何でしょうか。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ1020)です。

 東の方、流浪の地、偶像礼拝の地、神さまに敵対する地、そちらの方から来た博士たちはこの時、幼子イエス様の中に輝く栄光に照らされ、導かれ、真の平安を見出したのでしょう。

 ところで、博士たちは星によって導かれて来ました。星によって救い主と出会いました。だからと言って、神さまが占星術や偶像を肯定したわけでは決してありません。神さまは深いあわれみによって、たとえ異邦人であっても、深いあわれみによってすべての人を救おうと、それぞれの置かれた状況に合わせて救い主と出会わせようとしてくださるのです。博士たちには天文学という身につけた教養や技術がありました。偶像礼拝という背景がありました。神さまは深いあわれみ、主の熱心、真の愛、自己犠牲の愛をもって、それらをも用いてまでもひとりの人を救おうとされるのです。私もかつては偶像に熱心に仕える者でしたが、それを通して教会に導かれました。ある人はすべての物にいのちが宿り、神が宿っていると信じているかもしれません。太陽や月、星、山、木、それらを神さまと崇めているかもしれません。また神などいない、自分こそ神の存在だと信じている人もいるかもしれません。しかし真の神さまは、そのことを通してもご自身を現されるお方です。神さまがそれぞれ一人ひとりに最も効果的でふさわしい方法で導いてくださるのです。異邦人である博士たちは、星によって救い主の誕生が知らされ、星によって出会わされました。そこから神さまの救いがユダヤの民に留まらず、すべての民に及ぶことが明らかにされました。民族や文化や、そういったあらゆる違いを超えて、すべての人間に神さまの愛、あわれみが注がれていること、救いが訪れることが、イエス・キリストによって明らかにされました。それが東の方に住む今の私たちのところに届き、やがて同胞へと届いて行く。そのことを私たちは覚え、感謝し、期待していきたいと思います。そして東の方に住む私たち同胞の救いのために、諦めずに神さまの愛、あわれみを信じて祈っていきましょう。

 それにしても、博士たちの何千キロもの旅の動機には少し疑いはありますが、ただ、信じて探し求めて、はるばるやって来たことは立派な信仰で、見倣うべきことではないでしょうか。東方の博士たちの態度に、私たちの信仰のあるべき姿があることも確かです。

 彼らはメシヤ、救い主を求めてはるばる何千キロもの、危険も大変な出費も伴う道をやって来たのです。自分の人生という時間を割いて、犠牲にしてまでも救い主を求めてやって来た。それにひきかえ、ユダヤ人の信仰指導者はどうだったでしょうか。博士たちと同じ階級、祭司であり学者である彼らは、博士たちとはまったく対照的です。救い主に関心を示さなかったのです。十分な知識はあったのにもかかわらず。博士たちが何千キロもの道を多くの犠牲をもって求めてやって来たのに対し、わずか8キロとも言われる目と鼻の先にあるベツレヘムにも行こうとしなかったのです。彼らにはメシヤを求める心がなかった。宗教的指導者であれば、救われるのは当然と考えていた。そのようなことがあったのではないでしょうか。イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ1128)。光であられる救い主のもとに来なければ、救いは与えられず、真の平和、心の平安も得られないのです。

 そして博士たちは星に導かれてやって来て、ついに幼子に会ったのです。キリストに出会ったのです。そしてキリストを見出したのです。この時イエス様はごく当たり前の一人の幼子でした。しかし彼らはこの幼子こそメシヤであると信じたのです。神さまに導かれて、やって来て、出会う。それぞれの持つ興味とか教養とか背景とか。神さまはそういったことを用いて導かれると先ほど申しましたが、私たちは日々、神さまに導かれてイエス様の前にやって来て、そして出会い、そしてイエス様の中にメシヤを見出すのではないでしょうか。見出し続けて行くのではないでしょうか。

 さらに博士たちは「ひれ伏して拝」みました。そして自分たちの宝を、最も大切なものをささげたのです。それは博士たちの信仰が本物だったからでしょう。もし幼子に出会っても、その子がメシヤであるという信仰がなかったら礼拝などしません。礼拝するということは、その相手が信仰の対象であるということです。そして真の礼拝とは、主を伏し拝み、そして自分の最も大切なものを喜んでお献げすることです。

 「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ者として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ロマ121)。

 そして最後に、

2章12節 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 博士たちはこれまで、偶像礼拝を通して、心の貪りの声に聞き従って歩んで来ました。エルサレムに入ってからは、ヘロデという王の声に従いました。しかしここからは、神さまのみことばに従って出ていったのです。そこから神さまのみことばに聞き従って歩み出す者とされたのです。

 東の方から来た博士たちは、また東の方の自分たちの国へと帰って行きました。主のみことばに従って。その後の博士たちのことは分かりません。けれども、きっと彼らは幼子イエス様の成長を、遠くから注意深く見ていたのではないでしょうか。やがて十字架に架かられ、死んで葬られ、天に戻られたことを伝え聞いて、そしてそれを実際には見ていなかったと思いますが、でも彼らは信じたのではないでしょうか。

 私たちは今日、ユダヤの宗教的指導者のようでしょうか。それとも、東から来た博士たちのようでしょうか。今一度、主の前に静まり、自らを省みたいと思います。

 今日は2021年最後の主日礼拝。この一年も、礼拝を守り続けられた恵に感謝したいと思います。そしてもうすぐ新年を迎えます。どうぞ主にあって幸いな新年をお迎えください。今年もクリスマス、待降節のこの時期に、私たちはそれぞれの生活の旅路を通って幼子イエス様の御前にやって来ました。そしてみことばを通してイエス様に出会った私たちは、東の方から来た博士たちのように変えられて、主を心から礼拝し、喜んで献げ、そして主のみことばに従って新しい年のこの世の旅路へと、今日から歩み出したいと思います。心新たに、信仰を新たに、信仰による平安な一歩を踏み出したいと思います。これからもイエス様から目を離さずに。主を礼拝しながら。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。2021年最後の主日礼拝でした。この一年も私たちを主を礼拝する群れとして守り導いてくださいましたことを、心から感謝致します。東の方から来た博士たち。それはかつての私たちであり、今の私たちでもあると思います。待降節を過ごし、今年もみことばを通してイエス様と出会いました。日々、イエス様と出会います。どうぞ私たちも変えられて、主のみことばに従って歩む者へと日々変えられて行き、平安の内に、主の祝福と守りの内を歩み続けることができますように、これからも導いてください。私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

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