2022年7月10日 主日礼拝「聖霊と火のバプテスマ」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 67番「よろずのもの」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 171番「なおしばしの」
聖 書 マタイの福音書3章11〜17節
説 教 「聖霊と火のバプテスマ」佐藤伝道師
讃美歌 199番「わがきみイエスよ」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書3章11〜17節
説教題
「聖霊と火とのバプテスマ」
今週の聖句
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
マタイの福音書3章11b節
今週の祈り
誠意とあわれみを互いに示せ。
(ゼカリヤ書7:9)
神よ、視野を広げ、隣人を助けようと行動できるように私を助けてください。
説教「聖霊と火とのバプテスマ」
アウトライン
はじめに)
- 前回の振り返り、バプテスマのヨハネの働きとメッセージ
- いのちを守るために「さとく、素直に」、「うとく」あってはならない
1)聖霊と火とのバプテスマ
- 私のあとから来られる方
- 水のバプテスマ、聖霊(新しい心= エゼ3625−27 )と火(精錬=マラ33−2)とのバプテスマ
- 地上での人生を通して実を結んで行く。聖化されて行く
2) 終わりの日の迫り来る怒り
- 終わりの日には、麦と殻、信じる者と信じない者、御霊による心の割礼を受けた者と受けない者とに徹底的に分けられる⇒備えをすべき理由(悔い改めて福音を信じなさい)自分は本当に大丈夫か
3)イエス様の受洗に見られる福音
- 「すべての正しいこと」(=神の義、みこころ)を「実行する」(=現実化する、成就する)ことは、今のわたしたちにふさわしい
- 「わたしはこれを喜ぶ」神の喜びとは
- 人となられた神
まとめ)
- 水のバプテスマによって新しいいのちをもって生き始めることを決意し、聖霊と火とによるバプテスマによって、地上での人生を通して聖められていく、実を結んで行く
- 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ111−12)
- 神の子とされ、聖霊(神の愛)が注がれた私たちは、聖霊によって、やわらかな新しい心をもって真に悔い改めへと導かれ、豊かに実を結ばせていただこう
先日車を運転して道を走っておりましたら、前方に鳩が何羽か道の真ん中を歩いていました。鳩たちは一向に危険を察知して逃げる気配がありませんでした。いよいよ轢かれそうになる頃に、私はブレーキをかけ、鳩たちは轢かれる寸前でようやく飛び立ちました。たまにそのまま轢かれてしまっているかわいそうな鳩を見かけることがありますが、鳩たちは何を考えていたのでしょうか。自分はきっと安全だ、人間は優しいからよけてくれるだろう、自分は絶対に轢かれないから大丈夫。楽観的で自己中心な私だからそんな風に思うのかもしれませんが・・・。そこで私は、マタイの福音書10章16節にある「蛇のようにさとく、鳩のように素直に」とのみことばを思い起こしました。様々な危険に満ちているこの世で生きるにあたって、自分のいのち、永遠のいのちを守るために用心しなさいということです。自分のいのちを守るためには素直さが必要でしょう。そこは危ないから逃げなさいという言葉に素直に従うことはとても大切です。ところが「素直に」という語は「うとく」とも訳されるものであることを少し前にご紹介しましたが覚えておられるでしょうか。危険に対してうとくある、また、それは危険だから注意しなさいとの警告にうとくあるならば、無関心でいるなら、道で轢かれてしまっているかわいそうな鳩のようにいのちを失ってしまうのです。いのちを失ってしまってから悔い改めても遅いのです。“うとい”というのは、言い換えると悔い改めようとしない頑なな石のような心でしょうか。人の警告を受け入れようとしない心でしょうか。自分は絶対に大丈夫という間違った全き信仰でしょうか。
前回のところで、マタイはイエス様の公生涯について記す前に、まずバプテスマのヨハネの働きとメッセージを記しました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(32)。ヨハネの最初のメッセージです。救い主が来られる。天の御国が近づいている。永遠のいのちを得て、永遠のいのちを守って、天の御国に入る準備をしなさい。悔い改めなさい。
この「悔い改め」とは、心を180度方向転換させるという意味だと申し上げました。今まで神に背を向けて、神に背いていたのをやめ、方向転換をして神の方に向かい、神のもとに帰ることです。ただ後悔するというのとは違います。確かにこれまでの神に背いていた生き方を後悔するでしょう。しかしそこからもっと積極的に、これから新しく生きよう、生き直そう。それが悔い改めです。そこから神がおられる天の御国に続く道は“始まる”のです。天におられる神に向かって自分の足で、しかし自分勝手にではなく聖霊に導かれながら歩いて行くのです。バプテスマ(洗礼)というのは、人々が悔い改めたしるしとして授けられるものです。自分の罪を告白して、悔い改めて、さぁこれから私は、古い自分に死に、まったく新しく生まれ変わって、新しい生活をして行くのだという目に見えない意志を、目に見える形で公に表すために授けられるものです。多くの人々はヨハネが告げた通りに自分の罪を告白し、ヨルダン川の水に浸かるバプテスマを受けました。そこにパリサイ人とサドカイ人が洗礼を受けに来ました。しかし彼らには真に悔い改める気持ちはありませんでした。ヨハネは迫ります。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。ヨハネの働きは、見せかけの悔い改めを見破って、本当の悔い改めをさせることでもありました。悔い改めは決して神の厳しいさばきではありません。永遠のいのちを得るためにです。神の愛とあわれみによるのです。悔い改めが本物であるなら、必ずそれには結果が伴うはずなのです。どのような結果が伴うと考えられますか? 彼らのうちにその実は認められませんでした。だからヨハネは迫るのです。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。天の御国は近づいたから。斧はすでに木の根元に置かれています。良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」。ヨハネは聴衆に決断を迫りました。
もし私たちが先ほどの鳩であるならば、車、危険は目の前に迫ってきているのです。本当にそのままで大丈夫なのか。聖書はそのように問うているのではないでしょうか。
パリサイ人とサドカイ人に警告をし、そこにいた聴衆に決断を迫ったヨハネは、続いて自分と自分の後に来られるイエス様との関係について語ります。
3章11節 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
「私のあとから来られる方」とは、そのイエス様のことです。ヨハネは「私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない」と言います。履き物を脱がせるのは、当時の習慣では奴隷の仕事でした。つまりヨハネは、自分にはイエス様の奴隷になる値打ちもないと言ったのです。それほどこれから後に来られるイエス様はもの凄いお方、権威あるお方なのだと言うことです。ルカの福音書には、民衆はこのヨハネがメシヤ救い主なのではないかと思ったと記されていますが(ルカ315)、ヨハネは自分がメシヤとは根本的に異なる存在であることをはっきりと言い切るのです。
ヨハネは水でバプテスマを授けました。しかしそれはあくまでも「備え」でした。そして一度きりのものでした。私たちのバプテスマも生涯で一度きりのものです。それは「備え」です。「迫り来る怒りを逃れる」ための「備え、準備」です。本当の罪の洗いと赦しは、ヨハネが備えた水のバプテスマの後に、イエス様が現れて、イエス様を通して授けられる「聖霊と火」のバプテスマを通して得られるのです。
「聖霊によるバプテスマ」。旧約聖書のエゼキエルという預言者はこう預言しました。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼ3625−27)。また、ヨエルという預言者はこう預言しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」(ヨエ228−29)。悔い改めた者に聖霊が注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれ、神の愛を知り、私たちの石のようだった頑なで冷たい心は取り除かれ、新しい、肉のように、やわらかな、温かさを持つ心が与えられるです。その霊、心によって悔い改め、そして聖められるのです。聖められるというのは、神のものとして取り分けられることです。私たちは弱い者ですから、水のバプテスマの後にも染みついた自己中心はなくなりません。罪を犯してしまい、悪を重ねてしまうような者ですが、それでも神のものとして取り分けられる。神のものですから、神によって特別に扱われる。私たちのからだも心も、人生のすべてが神のものとされているのですから、神が特別にすべてを守られ、導かれ、支え配慮される人生を生かされている。天の御国に辿り着くまで変わらずに。何という恵みでしょうか。この恵みによって、地上での人生を通して私たちは聖められていくのです。聖なる神のものとされていく、私たちは聖なる者とされていくのです。聖霊によって。聖霊に、神の愛に教えられ、導かれながら。しかし、石の心のまま、再び石の心に戻ってしまっては危険なのです。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、聖霊に対する冒涜は赦されません」とイエス様は言われました(マタ1231)。イエス様に対する信仰を捨ててしまうならば、どうなってしまうのでしょうか。
「火によるバプテスマ」。これは金や銀を精錬する火です。不純物を取り除いて、純粋な金や銀にする火です。厳しいさばきの火ではありません。私たちに災いではなく、真の平安をもたらす火です。聖霊の火、神の愛の火、熱です。この火によって、神の燃えるような愛に促されて、私たちの内にある罪、神に背こうとする性質は聖められていくのです。
そのようにして私たちは地上での人生を通して聖められていくのです。
イエス様は「聖霊と火によるバプテスマ」をお授けになるお方。愛なるお方。しかし同時に、終わりの日には、その人の内にある実の有無に関して厳しいお方でもある。実の有無に従って厳しいさばきを行うのだと、ヨハネは語ります。木曜日の祈祷会でも少し分かち合ったのですが、イエス様は迷える羊、罪人を探し求めてくださる優しいお姿をもって私たちの前に現れてくださいますが、その後、黙示録に出て来るような、それは恐ろしい姿で現れるお方でもあるのです。そのお姿を見た使徒ヨハネ(バプテスマのヨハネとは違う)は足もとに倒れて死人のようになってしまいました。それほど恐ろしかったのです。しかしイエス様はヨハネに右の手を置かれ「恐れるな。わたしは、最初であり、最後である」(黙113−18)と仰ってくださいました。恐れるな、そのどちらもわたしなのだと。
3章12節 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
「箕」というのは、木製の大きな熊手状の農具で、脱穀場の麦と籾殻を空中に放り上げて風で吹き分けるものです。実の入った麦は下に落ち、実の入っていない籾殻は風に飛ばされます。麦は倉に納められますが、籾殻は消えない火で焼き尽くされます。この「消えない火」は“消すことができない火”で、聖書ではさばきに関連して用いられる語です。つまり終わりの日、最後の大審判の場面です。麦は悔い改め、イエス様を信じる信仰の実を結んだ者を、殻はそうでない者を表します。メシヤ、イエス様のバプテスマはこのように、麦と殻、信じる者と信じない者、「御霊による、心の割礼」を受けた者と受けない者とに徹底的に分けられるのです。ヨハネの働き、備えは、この警告を与えて、真の悔い改めを迫ることでした。
13節からは、ヨハネによって「私のあとから来られる方」として紹介されたイエス様が、いよいよその公生涯、人々に神の国の福音を宣べ伝え、十字架への道を歩き始めるにあたって、バプテスマを受けるためにヨハネのもとに来られる場面が記されます。4つの福音書がすべてこのイエス様の受洗を記録しているのですが、それほど重要な出来事だったということです。ここに込められている重要な福音とは何でしょうか。
ヨハネはイエス様と親戚関係にありましたから、恐らく何らかの形でイエス様を知っていたのだと思います。ヨハネの福音書では、自分の方に向かって来られるイエス様を遠くから“さとく(鋭く、敏感に)”見つけて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです」(ヨハ129−30)と言っているからです。ところがその直後にヨハネは「私もこの方を知りませんでした」と言いました。これはまるで知らなかったというのではなく、「この方のことを本当に理解していなかった」という意味です。ヨハネはさとくもあり、すなおでもありました。
ヨハネはだれにでもバプテスマを授けていたわけではありません。自分の罪を告白した者にだけ授けていたのです。ということは、当然口頭での試験のようなものがあったはずです。私たち教会でも、洗礼希望者には試問が行われます。確認の時です。ヨハネはイエス様と真正面から向き合って、しかもイエス様の方から近くに来られて、その語り合いの中でイエス様を本当に知り、理解したのでしょう。イエス様をただ知るだけではなく、向き合って理解することの重要さが教えられます。
ヨハネはイエス様と向き合い語り合う中で「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言って、断ろうとしました。
3章15節 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
「すべての正しいこと」、それは神の義、神の御心のことです。そして「実行する」という語は「現実化する、実現する、成就する」という意味の語です。「神の義、神の御心を今、現実化するのは、今のわたしたちにふさわしい」と。“わたしたち”とは、イエス様とヨハネのことです。
3章16節 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3章17節 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
ヨハネの福音書によると、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に来られるのを、ヨハネも見たと記されています。それを見たヨハネは言いました。「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハ133−34)。ヨハネはこの出来事、神の義、神の御心が現実化された出来事を目の当たりにし、自分のしてきたことはまさに神による働きであったこと。その働きが今、終わったということ。「もう十分だ」と神が言われる。労苦が認められ、慰められた。この後、ヨハネは静かに退いて行くわけです。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハ330)と。しかしこれは働き人にとっては幸いなこと、喜びなのではないでしょうか。慰めなのではないでしょうか。
自分の働きを衰えさせて行く。水のバプテスマの働きを終え、イエス様による聖霊と火によるバプテスマへと引き継がれて行く。悔い改めのしるしから、まことの悔い改めへの道、天の御国に向かって聖化の道を歩ませて行く。神に遣わされる働き人の目的はこうあるべきだと思わされます。ヨハネはイエス様の受洗、そして聖霊が下るしるしを目の当たりにし、素直にそれを受け入れ、喜んで自分の働きを手放すことができました。私たちもイエス様を人々に紹介し、人々をイエス様の前にお連れし、そして人々が自分ではなくイエス様と向き合い、イエス様とともに歩み始めるのを見届ける。それが喜びとなるのではないでしょうか。
イエス様もまた、ご自分の上に聖霊が来られるのをご覧になり、そして天の父の声を聞きました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。まさに聖霊が、神の霊、イエス様に対する神の心、親心が神の御子、神であられるイエス様に注がれたのです。その親心によって、イエス様はこれからの十字架へと続く公生涯を、励まされて力強く立ち、力強く歩んで行かれました。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリ27−8)。イエス様がそのように生き抜かれたのは、ここで神の愛が、神の御心がはっきりと示され、はっきりと注がれたことを見て、聞いたからでしょう。
また、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。「わたしの喜びがこの者の上にある」、「この者の上に人類の救いというわたしの計画がかかっている」。メシヤは実にこの預言を成就するために立てられた「神の愛する子」でした。そして、神の子、メシヤの犠牲、苦難のしもべとしての働きは、神によって「喜び」だと言われるのです。神には大きな痛みであり悲しみであるはずなのに、喜びだと。それほどまでに罪人である私たち人間は神に愛されている、高価で尊いと評価されているのです。信じられるでしょうか。
ヘブル人への手紙にはこのように記されています。「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」(ヘブ217)。イエス様のバプテスマは、メシヤ救い主として人類の救いの計画を達成するために、当然通らなければならないものだったのです。イエス様がバプテスマを受けられたことは、神の御心が成就るために必要なことだったのです。
イエス様は罪人と同じ姿となられました。自分を卑しくし、罪人とまったく同じ立場に立たれました。神であるイエス様は、人となられ、人として生きられたのです。時には本気で涙を流し、笑い、怒られました。人間の喜怒哀楽を実にご存知の神です。人として荒野の世を生きられたのです。聖霊によって処女マリヤのもとに生まれ、地上での父として立てられたヨセフは早くに亡くなってしまったようです。ですから貧しさも経験したことでしょう。その中で恐れや不安、不信仰とも戦ったのかもしれません。人々からのけものにされ、罵られました。そのように他人から扱われて平気な人がいるでしょうか。罵られても罵り返さず、屠場に引かれていく羊のように。豚は何かを察知して断末魔の叫びを上げるそうですが、羊はおとなしく従い、泣き声も上げないそうです。私など、些細なことで断末魔の叫びのような不満を神にぶちまけてしまう者です。イエス様は100%神であり、100%人であられました。罪は犯されませんでしたが、罪を知っておられました。イエス様はご自分が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。世捨て人のように生きて、自分は汚いものには一切触れず、何の痛みも感じない、感じようとしない。きれい事を並び立てて。そのような救い主であったら、果たして私たちは本当に信じることができるでしょうか。私たちが心から信じられるように、この救い主に心から信頼し依り頼むことができるように、神は100%人となられたのです。そのはじめに、罪のないメシヤは、罪人のための水のバプテスマを罪人とともに受けられたのです。私たちの神、私たちの救い主は、まことに人となられた神なのです。
私たちは神が人となられた。その凄さ、恵みを本当に知っているでしょうか。理解しているでしょうか。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ111−12)。人となられたメシヤ、王としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れる人、その名を信じる人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。福音であり、神の真実な約束です。私たちはまず悔い改めて、神の方に方向転換をし、その公の告白、しるしとしての水のバプテスマによって、新しいいのちをもって生き始めることを決意するのです。そして聖霊と火によるバプテスマ、地上での人生を通して聖められ、ますます神のものとされて行くのです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。聖霊が、神の霊、神の心、親心が、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して神の子とされた私たちにも注がれたのです。その親心によって、聖霊によって私たちもイエス様とともに、天の御国へと続く生涯を、励まされて力強く立ち、力強く歩んでまいりたいと思います。さとく、素直に、悔い改め、歩んでまいりましょう。
人となられたイエス様の内に見られる神の燃えるような愛は、聖霊は、私たちを真の悔い改めへと導くことでしょう。神の愛にさとく、悔い改めることにはやわらかな肉の心、素直に受け入れる者でいたいと思います。悔い改めることにうとい心、かたくなな石の心を神の愛、聖霊によって砕いていただけるように祈り求めたいと思います。私たちは時に、なぜ私が悔い改めなければならないのか、悔い改めるべきなのは神の方だと言わんばかりの、堅い冷たい石の心を持つ者かもしれません。しかし主は悔いた心、砕かれた魂、その道を通って私たちに近づいてくださいます。私たちも同じ道を通って主に近づいて行きます。そこでイエス様に出会い、イエス様と向き合い、ますますイエス様を理解してまいりましょう。イエス・キリストの十字架の血潮によって罪の奴隷から買い取られ解放されたこと、バプテスマによって私たちは生まれ変わり、喜ばしい道を今歩まされていること、その感謝をもって、霊とまことをもってこの身を主にささげ、御名をほめたたえつつ幸いな日を過ごし、聖霊によって励まされ、天の御国を目指してこの世の信仰の旅路を歩ませていただきましょう。
お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。悔い改めに導かれ、イエス・キリストを信じる者とされた私たちが、一度きりの水のバプテスマを通って新しく生き始め、地上での生涯を通して聖霊と火のバプテスマによってますます聖められていく、そのような幸いな人生を歩ませていただいていることを覚えて感謝致します。天の御国に至るまで、どうぞ聖霊によって、あなたの私たちに対する愛によって励まされ、教えられ、導かれ、そして守られますようにお願いをいたします。あなたの様々に私たちを導いてくださいます。時には悔い改めへと導かれるでしょう。その導きに、いつもさとく、従順でいられますように。私たちにイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって与えられている永遠のいのちをあなたが守ってくださり、私たち自身もさとく守って行くことができますように。主キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン