2023年1月22日 主日礼拝「主の祈りを祈る」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  15番「我らのみかみは」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  87A番「めぐみのひかりは」
聖 書  マタイの福音書6章9〜10節
説 教  「主の祈りを祈る」佐藤伝道師
讃美歌  312番「いつくしみふかき」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章9〜10節

説教題

「主の祈りを祈る」

今週の聖句

神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて、益としてくださることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙8章28節

今週の祈り

主は いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ…… られました。
(詩篇18:16)

天の父よ、私には辛すぎると思う時があります。あなたの助け、支え、平安、力や知恵が、常に提供されていることに感謝します。

説教「主の祈りを祈る」

マタイの福音書6章9〜10節

前回は「そこに信仰はあるか」として、私たちが神に祈るとき、そこに本当の信仰はあるのかということを考えました。私たちが祈る時、まず神がここにおられることを信じ、その神が私たちの祈りを聞き報いてくださっていることを信じ、そして神を心から信頼し、心から祈り、心から求め、心から期待しているかどうかを顧みました。私たちの祈りは、異邦人の祈りのように空しい言葉を積み重ねるようにして、ぶつぶつと、すらすらと、何も考えずに、そこに全知全能なる神に対する何の信仰も信頼もなく、偽善的な、演技のような、機械的のような祈りをしてはならないということをイエス様は教えてくださいました。神が喜ばれる祈り、神が満足され、心地よいと感じられ、受け入れてくださる祈りというのは、敬虔さを演じるような、習慣的、機械的のような祈りではなく、祈りを聞いてくださる神に対する信仰、心からの信頼、依り頼む態度による、空しくない熱心で大胆な祈りなのだということでした。「だから、彼ら異邦人のまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」として、イエス様はそこから具体的な祈りの模範を示してくださいました。それが「主の祈り」です。

ところで、アメリカ聖公会の礼拝式文では、司式者が主の祈りを導くとき、時々このような言葉を用いることになっています。「救い主キリストが教えられたように、大胆に祈りましょう」。実はこの「大胆に」という言葉は、主の祈りにおいてとても重要です。良く考えてみる価値があるものです。当たり前のこととされているかもしれませんが、私たちは主の祈りを軽々しく祈らない方が良いのです。この祈りを祈るためにはそれなりの勇気が必要なのです。もし私たちが主の祈りを何も考えないでなおざりに祈ることができるとしたら、実はそれは、自分が何を口にしているかを無視して祈る時だけなのです。

今回、ギリシヤ語の原文を調べて驚かされました。ギリシヤ語の原文を見ると、それはそれは大胆な祈りであることが分かるのです。主の祈りの中のすべての祈りは、ギリシヤ語を直訳すると「絶対になりますように」や「必ずしてください」という祈りだったのです。イエス様は私たちに、このように大胆に祈って良い、祈りなさい、祈るべきであると言われたのです。なぜならば、私たちの救い主イエス様が「私たちの父よ」と、私たちの側に立って、私たちとともに祈ってくださるからです。そして主の祈りは絶対に必ず聞かれる祈りです。ですから、本朝与えられました箇所では特に、神を信じる信仰、私たちが信じる神は天の父なる神、父のお心をお持ちの方であるという信仰、また私たちと一緒に祈ってくださるイエス様は、私たちの救い主であることを信じる信仰なしには祈れるものではありません。

主の祈りは、イエス様がご自分に従う弟子たちに教えられた祈りでした。弟子たちが弟子として、信仰にとどまり続けて生きて行くには苦労の多い世の旅路を、信仰をもって全うできるように教えてくださった祈りの模範です。ところが、これも改めてハッとさせられるところなのですが、福音書の記録には弟子たちが主の祈りを祈ったとは記されていないのです。ルカの福音書では、この時から恐らく2年半も後になって、弟子たちはイエス様に「祈りを教えてください」と頼んでいます。そこで教えられた祈りは、今日の所で教えられたものと同じ主の祈りだったのです。そして2度目に教えていただいた後も、弟子たちが祈っていた姿というのは記されていません。本当のところは分かりません。しかし福音書記者は記していないのです。あのゲッセマネの園では、イエス様が祈っていなさいと命じられたにもかかわらず、すぐそばでイエス様が苦しみもだえながら「みこころがなされますように」と祈っていたにもかかわらず、寝てしまっていた姿を福音書記者は記すのです。弟子たちが本当に祈り始めたのは、イエス様が十字架に架けられ死なれ、3日目によみがえられ、弟子たちの前に現れ、そして天に上られてからのことでした。そこから弟子たちは心一つにして祈り始めたのです。すると何が起こったかと言うと、聖霊が注がれ、聖霊に満ちあふれ、恐れは取り去られ、真の信仰が与えられ、力に溢れてそこから立ち上がり、それぞれが迫害を恐れずに福音を携えて世界に出て行ったのです。出て行った先で主にある力強いわざを行い、立派に使徒として地上のいのちを全うしたのです。今はおそらく報われているでしょう。「よくやった、忠実なしもべ」と、主の温かい懐に抱かれ、パラダイスにて父なる神の完全なる支えと配慮の中で憩っていることでしょう。しかし私たちももし、絶えず主の教えてくださった祈りを祈らないでいるならば、かつての弟子たちのように数々の失敗をしてしまい、また主にある力ある働きができないのではないでしょうか。

主の祈りはイエス様が教えてくださった祈りです。公生涯を始められる前に、人間が味わうすべての試み、誘惑を、あの荒野で経験され、その激しい辛さや厳しさ、襲ってくる恐れや不安や悲しみをすべて経験されご存知のイエス様が、祈りの模範として教えてくださった祈りです。このように祈りなさいという模範ですから、もちろん主の祈りだけを祈っていれば良いというものではありません。主の祈りを模範として、主の祈りを一生祈り続けながら、日々の様々な経験を通して主に祈りを教えていただきながら祈りというものを知っていくものなのでしょう。本朝はそのための入口となれば幸いと思います。

6章9節        だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

イエス様が「だから、こう祈りなさい」と言われ、「私たちの父よ」と祈り始めるように教えられる。これは実は凄いことだと思われないでしょうか。神を恐れ多くも大胆に父と呼びなさいと言われるのです。ルカの福音書11章では「父よ」という呼びかけは、さらに大胆な「アバ、お父さん」、幼い子どもが父親を呼ぶ時の言葉で神に呼びかけるようにと教えられています。それはイエス様が神と独特な親しい関係にあることを示す特徴です。「父よ」と呼び求めなさい、呼び求めて良いのだと言われます。そして私たちは、イエス様を通してはじめて神とイエス様との親しい関係の中に招かれるのです。そのことを可能とするのは、イエス様が偉大なる神と私たちの間に大きな壁、深い溝となって関係を遮っていたすべての罪、神に対するすべての罪を解決してくださったからです。つまり主の祈りは、イエス・キリストを信じ救われた者が祈る祈りです。イエス・キリストの弟子の祈りです。イエス・キリストの弟子だけが、天におられる超越したお方、すべての力に満ち、天地万物の主である神を大胆に「父」と呼ぶことができるのです。そして神は私たちの父となってくださる。凄いことです。

この「父」は「私たちの父」です。前回も触れました通り、「私たち」とは、主にある兄弟姉妹、主にある共同体としての私たちであり、同時に「私とイエス様」「私たちとイエス様」としての私たちでもあります。ですから私たちは主の祈りを共同体の中で用いることもできれば、個人の祈りの中で用いることもできるのです。主の祈りは公の祈りであると同時に、真に個人的な祈りでもあるのです。そのように主の祈りを用いるならば、私たちは互いに愛し合うことができますし、自己中心的な祈り方に陥ることもありません。私たちの祈りは模範(手本)がなければ、簡単に自己中心的な祈りとなってしまうからです。当時のユダヤ人のように、私にひどいことをしたあの人が懲らしめられるようにとか、そのような祈りになってしまうからです。父なる神は私の神でもあり、私たちの神でもあるのです。私を含めたすべての人に関心を持たれる神です。神の御心は「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられ」(Ⅰテモ24)るのです。そして私たちは、すべての人たちの間に福音を携えて遣わされているのです。

「御名があがめられますように」。2017の訳では「御名が聖なるものとされますように」。この祈りは、私たちが敬虔を装うための祈りでは決してありません。必死の祈り求めです。「あなたの御名が、絶対にあがめられますように、必ずあがめるようにしてください。聖なるものとされるようにしてください」。どこにおいてでしょうか。私の中で、私たちの間でです。私の中で、私たちの間で、真にあなたの御名だけがあがめられるように、あがめることができるように、あなたがしてください。私たちがあなただけを聖なるものとできるように、必ず、絶対にあなたがしてください。私が、またすべての人々があなたをあがめるのを見たい、主の勝利を見たいという大胆な願いです。本当に大胆な、必死な叫び求めです。イエス様はこのように祈りなさい、祈って良いと言われるのです。そしてその祈りもまた、必ず聞かれる祈りなのです。

6章10節      御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

「御国」。それは死者が行く天国ではありません。神の御国です。聖書の御国とは「王国・キングダム」という概念があり、誰の王国かと言うと、神の王国です。天の父である神が愛によって支配し、愛の働きをしておられるところ、それが神の国です。その神の国が私たちが住むこの地上に来ますように、神の国を絶対に必ず完成させてくださいと、そのように祈りなさいと言われます。現在、地上には依然としてサタンの力が働き、私たちを罪によって支配しようとしています。キリスト者はそのような世にあって、どうかサタンの支配下から救い出され、神の完全な勝利、支配、愛による支配が実現するようにと必死に祈るのです。そして祈るならば、それは必ず聞かれるのです。

私たちの生活、家庭、教会も、私たちが神から与えられる愛で、隣人を愛する生活をし、家族や兄弟姉妹が神の愛で互いに愛し合っているなら、そこは、愛の神が支配しておられる神の御国となるのです。私たちの内に真実な愛が溢れているでしょうか。愛の足りなさを覚えるならば、私たちは悔い改め、神の愛を真実に求めて祈ろうではありませんか。そうするならば、私、家庭、教会は本当に変えられ、そこが神の御国となり、私、家庭、教会を通して神の栄光が表されて行き、地上での神の国は拡大し、神の子とされる人たちが増し加わり、完成へと向かって行くのです。主イエスを本当に信頼して従う私、家庭、教会は必ず成長し、完成されるのです。

「あたなのみこころが絶対に行われますように。必ずあなたのみこころがなりますように」。私たちの目の前には最悪と思われるような出来事が多くあるのではないでしょうか。けれどもそれらを通しても、あなたの最善のみこころがなされることを心から期待することができる。期待し続けなさい、信じ求め続けなさいと主は言われるのです。そしてその祈りもまた必ず聞かれる祈りです。

創世記37章からアブラハムの子であるヨセフの物語が記されています。ヨセフは、兄弟たちに憎まれ奴隷としてエジプトに売られてしまいました。ヨセフにとっては最悪の出来事でした。長い間苦しい目に遭いました。紆余曲折の後、ヨセフは奴隷の身でありながらついに成功を収めました。ヨセフの聡明な知恵がエジプトの主人に認められ、パロのおかかえの人物となったのです。そこに飢饉に遭い、穀物を求めてエジプトまでやって来た一団がいました。ヨセフの兄たちです。兄たちは、自分たちが穀物を乞うているエジプトの為政者が、長く見捨てていた弟ヨセフであることに気がつきません。ついにヨセフが自分の身を明かすと、兄たちは震え上がりました。けれども、そこでヨセフは兄たちに言葉をかけ、心を落ち着かせようとします。ここに「みこころが行われますように」という祈りと重なり合うものがあります。

【創世記】
45章4節      ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45章5節      私をここに売ったことで、今、心を痛めた入り自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
45章7節      神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
45章8節      ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」

この物語は、はじめは純粋な家族の内輪もめであり、問題を抱えた家族内のねたみや争いを示す典型のような物語でしかありませんでしたが、実はこの世界に対する愛の神の目的が実現する大いなる物語の一部であったことが明らかになるのです。物語の背後には、何ものかが、どなたかが、愛に満ちた方の存在があるのです。そこにあるのは兄たちの罪と悪の行いよりもずっと大きな御手がありました。神はある一人の人、またあるひとつの家族を通して世界を祝福しようとしておられるのです。

ヨセフはそれまでの紆余曲折の道筋を振り返りながら、物語の最後で次のように言うことができました。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(創5020)。これは、すべてのことは神があらかじめ定めた通りに起こり、私たちが行うことすべても、神の計画通りでしかないというような愚かなことではありません。そうではなく、神は驚くべき力をもって、ご自分の目的のためにあらゆる事柄を回復なさるのです。神のこの世界に対するご意志は、私たちの計画によって妨げられることはありません。神の御心は天で行われているように、この地においても行われるのです。しかしこの世界で起こるすべての悪いことは、神がそれらを望んでおられるから起こるのではありません。もしかしたら私たちは、この身に起こるすべての悪いことや不都合なことは、神がそう望んでおられるからだと信じ、神を憎んでいるということがあるかもしれません。しかしそれでも、私たちが自分の紆余曲折の人生を振り返る時、まるでそこに御手があり、私たちの思いを超えた目的があり、神の思いがあるかのように、すべてがしっくりしているように思えて驚きに襲われることもあるでしょう。まるで神がすべてを守り、導き、そのようになさっているように思えるのではないでしょうか。私たちはここでパウロとともに、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを」(ロマ828)を知るのです。

神の御心は、天で行われているように、この地においても行われている。だから私たちは「あなたのみこころが必ずこの身になりますように」と大胆に祈り求めることができますし、是非とも祈り求めるようにとイエス様は言われるのです。

しかしそれは私たちが「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとき、自分の願いや理想を押し殺して、自分の心を神の心に従わせ、神が天で行われていることを、あなたがたもこの地においていそしみ行いなさい」と厳しくせき立てているものではありません。神の御心は「愛」です。愛に基づく最善をなしたいと願われる父の心です。「あなたの御心が、愛が、愛に基づく最善が、天においてもそうであるように、この地にも、この私たちの身にもなされますように。神の御心が、完全な姿で私たちの前に、必ず、絶対に現されますように」という、切望する祈りなのです。そのように祈りなさい、祈ることができるのだとイエス様は教えてくださるです。

私も神学校を選ぶ時、新潟聖書学院への道が指し示された時に祈りました。嫌ですと。それが一番望んでいない道ですと。けれども最後は降参して、あなたの御心がなりますようにと祈りました。今になってみると、その道が最善であったことを知るのです。みこころがなるようにと祈ることは本当に良いことなのです。しかし残念ながら、その時は本当に苦しく、大抵は随分後になってこれが最善であったことを知ることになるのです。

イエスは「みこころをなさせたまえ」と口にするとき、その期日まで定めて祈るようには教えておられません。明日、必ず私たちにとって正しいものとならなければならないと、祈ってはいません。それはやはり、神の最善の時があるからです。伝道者の書3章では、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝31)と記されます。そして色々な時があることを示し、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」(伝311)と言っています。神は人の心に過去を思い、未来を思い描き待ち望む、そのような(人間以外の動物にはない)心を与えられたのです。その心を与えられ、人を“生きるもの”とされたのです。

神の御心が時満ちて、最善の時になされる。そのことを待つ時に直面する問題のひとつは、この「待つ」ということそのものにあります。私たちは、自分たちが求めているものが、今すぐに与えられることを求めたがるのです。しかし私たちは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようだ」(Ⅱペテ38)という時の中で待ち望むのです。神は何事においても速やかに御心をなされるのですが、神の時というのは「一日は千年のようで、千年は一日のよう」なのです。私たちは祈りながらその期間を過ごすのであり、それもまたこの祈りが果たす大きな役割なのです。神の御心が現れるのを待つ間、私たちは祈り続ける。神を信頼し、神に求め続ける。信仰に留まり続ける。その力、信仰を与えてくださいと祈るのが、「みこころを必ず、絶対になさせたまえ」という熱心な祈りなのではないでしょうか。パウロは私たちに勧めます。「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます(別訳では「喜ぼうではありませんか」)。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます(別訳「喜ぼうではありませんか」)。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ52-5)。私たちはイエス様とともに「御国を必ず、絶対にきたらせたまえ、みこころを必ず、絶対になさせたまえ」と祈るのです。ゲッセマネの園で忍耐をもって神にみこころを求めて祈られたイエスとともに「私たち」と祈るのです。イエス様は私たちに忍耐する力を与えてくださいと、父なる神にとりなしてくださっていることでしょう。忍耐がないとき、私たちはどうなるでしょうか。わめき散らしたり、暴れたり、何かを叩きのめしたくなる誘惑に引きずられてしまうのではないでしょうか。そのことによって、赦しという愛の神を裏切る結果となってしまいます。そうではなく、私たちは、私たちを忍耐してくださっている十字架につけられた主の忍耐に学びながら、それでも神を信頼し、信仰に留まり続けるのです。信仰に留まり続けることのできる信仰を与えてくださいと祈るのです。

主の祈りがこれから物質を求める祈りに進んで行くその入口で、まず神の御心が私たちに明らかになることを神に求めることを教えてくださいました。神の御心、それがたとえ、自分たちが欲しているものとはまったく違うものとして(それがひどいものとして、あるいばすばらしいものとして)私たちの目に映るとしても、まず神の御心を問うことから始めるのです。私たちの罪のために苦しみに遭われ、忍耐され、神の御心を求め成し遂げられたイエス様とともに、イエス様を思い、イエス様に信頼し「私たちの父よ」と祈る。「御国を来たらせたまえ、みこころをなさせたまえ」とは、自分の欲しいものを願う祈りではなく、私たちの望むものよりも、私たちの思い描く人生計画よりもずっと大きな計画に、自分の人生が導かれるようにということを大胆に、父なる神に祈り求める祈りです。私の恩師である朴先生は「信仰の旅路はアドベンチャー(冒険)だ」と言いました。先の見えない危険が予想される冒険へと一歩踏み出す力は、真の神への絶対的な信仰、信頼です。そして踏み出した歩みを続ける力もまた信仰なのです。

弟子たちはこの祈りを祈らなかったのではないかと申しました。本当に祈ったのはイエスの復活の後でした。兄弟姉妹が心一つにして祈っていた時に聖霊が注がれ、本物の信仰が与えられた時からでした。以前の弟子たちはイエスとともに歩みましたが、失敗の多い歩みでした。十字架を前にしての失敗は大きな失敗でした。なぜ失敗してしまったのでしょうか。主の教えてくださった祈りを祈っていなかったからでしょう。祈りによって整えられていなかったからでしょう。祈りによって十分な力を得ていなかったからでしょう。私たちはどうでしょうか。もし失敗の多い歩みであるのだとしたら、主とともに、主の祈りを祈りましょう。主を心から信頼し、主がこう祈りなさいと教えてくださった、大胆な祈りを模範として、私たちはこれからも祈ってまいりましょう。主はともにおられる。私たちとともにおられ「私たちの父よ」と一緒に祈ってくださっている。ご自身の十字架を神に指し示し、罪の赦し、そしてとりなしの祈りをしてくださっている。その主の臨在をいつも覚えつつ、主の祈りを祈ってまいりましょう。主の祈りに日々教えられつつ、励まされつつ、御国に至るまで、最善の時に、最善をもって必要を満たし、終わりの日まで守り導いてくださる父なる神への信仰を日々新たにしつつ、また強めていただきながら、大胆に祈り、大胆に歩んでまいりたいと思います。

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