2023年2月19日 主日礼拝「光の指す方に」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 79番「ほめたたえよ」
聖 書 マタイの福音書6章19〜24節
説 教 「光の指す方に」佐藤伝道師
讃美歌 388番「みむねのまにまに」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書6章19〜24節
説教題
「光の指す方に」
今週の聖句
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
マタイの福音書6章21節
今週の祈り
あらゆる祈りと願いによって、どんなときも御霊によって祈りなさい。
(エペソ6:18)
愛する主よ、自分のため、人のために、確信をもって祈る祈りを携えて、御前に出るように助けてください。
説教「光の指す方に」
マタイの福音書6章19〜24節
先日、夜に犀川の土手沿いの道を走っていた時のことです。私の車はだいぶ痛んでおり、ライトも白く濁って暗い上に、片方のライトが切れてしまっており片目なのです。そこに土手に上がってくる前方斜め横の道から車が来ました。その車のまぶしいライトに私の車の暗いライトが負けてしまい、道がまるで見えなくなってしまって、少しパニックになり、気づいたら土手を転げ落ちる一歩手前だったのです。ヘッドライトの大切さを痛感させられる出来事でした。
本朝与えられましたみことばはマタイの福音書6章19〜24節ですが、22節には「からだの明かりは目です」とあります。共同訳では「目は体の灯(ランプ)である」とあります。私たち人間にとっての目の明かり、頭に位置するランプ、まさにヘッドライトですが、その大切さを覚えます。私たちは目が見えている方向に進んで行くものです。イエス様の時代はヘッドライトというよりも、手で持つ足もとを照らすランプでした。もし手に持ったランプを間違った方向に向け足もとを照らしていたらどうでしょう。もし他のランプの光に惑わされて間違った道に進んで行ってしまっていたとしたらどうでしょう。本当に危険です。私たちのランプは正しい方向に向けられ、私たちが進むべき正しい道を私たちに指し示すものでなければならないのです。イエス様は「目はからだのランプだ」と言われました。そして23節では「あなたがたの中の光(ここでは光源の意味)が暗ければ大変だ」と言われています。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩119105)。当時のともしび(ランプ)の光源はなんでしょう。油でした。ランプは油が燃えて光るのです。つまり聖霊です。聖霊の光によるのでなければ、主のみことばさえも私たちを間違った方向へと進ませてしまうものになってしまうでしょう。今朝も聖霊を豊に注いでいただき、みことばに聞いてまいりましょう。
前回までのところで、イエス様は施し、祈り、断食など、自分の敬虔さを表す行為を人々に見せびらかせ、人々の注目や尊敬を得るように偽善的に行ってはならないことを教えられました。それらを心から喜んで、謙遜に、ただ神さまに対して、神さまに喜んでいただけるように真実に行うならば、自然と人々から注目され、自然と尊敬されることになるだろうと。それは神さまの栄光を現すこととなり、人々を救いの道へと導く明かりとなることを教えられました。転じて今朝のところでは富について語られていきます。富とか物質に対してイエス様の弟子たちはどのような態度を持つべきかに関する教えです。そのことを天に宝を蓄えることと、地上に宝を蓄えることとの比較によって説明されます。それらはやはり文脈の中で語られているのであり、神さまに喜び受け入れていただけることと、自分を高ぶらせることとの比較にも関わっていることです。
イエス様は、人間の生活に富の問題がいかに大きな部分を占めているかをよくご存知でした。富と言うと裕福であることの方を思いがちですが、ちなみにイエス様は裕福になることそのものは決して否定されませんでした。また貧しいということも富に関する重大な問題でしょう。イエス様はしばしばそのような富の問題が人間の心を束縛し、完全に支配してしまう危険があることをご存知でした。それはもの凄く危険な状態であるということを知っておられ、そしてここから私たちに「あなたはどうですか?」と愛をもって問いかけておられます。私たちはその問いかけにどう答えるでしょうか。
イエス様は「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ることを教えてくださいました。そして箴言では「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください」と祈るように教えられています。これは、日々神さまの恵みによって生かされ、満足と感謝による生活を送るようにという教えです。ところが、この世の常識とはどのようなものでしょう。自分の生活を支えているのはお金の力であり、社会を動かすのもお金の力、自分の将来を保証するのもお金だと考えて、この世の富に固執するのです。ここに危険な問題があるのだとイエス様は言われます。
富をどう扱うか。そこにはその人の人生観が顕著に表れると言えるのではないでしょうか。富に対する考え方は、私たちの判断や行動の向かうべき方向を示すものとなるのです。その人をどこにどう導いて行くか、私たちの人生をどの方向に導くのかが問われる本当に重要なものなのです。
6章19節 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
6章20節 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
ここでの「蓄える」とは、同じギリシヤ語が持つ「抱え込む」という意味で用いられています。イエス様の弟子は貯金をしてはいけないという意味ではありません。神さまの恵みを本当に信じない人々は、富に固執して貪欲になり、地上に宝を蓄えること、自分のために抱え込むことが現在と将来の生活を保障してくれると考えて、一生懸命に富を抱え込もうとしている。富を抱え込んで手放そうとしない、そういった姿勢を批判して言われたことばです。そのような人々が信頼している富は、永遠の価値を持っていないのだとイエス様は教えておられます。それらは虫やさびで傷物になる。時間経過とともに古くなったり腐ったりしてしまうもの。また世には盗人のような悪い者がいて常に奪おうと狙っており、思わぬ時にかすめ奪われてしまうようなもの。この世の富は自然に減少し、また誰かの手によって人為的に減らされてしまうような空しいもの。だから宝を蓄えるのなら永遠の価値のある「天に蓄えなさい」とイエス様は言っておられます。ここでの蓄えなさいとは、積み上げなさいということです。私たちは「徳を積む」と言うではありませんか。まさに徳を積みなさいとイエス様は言われるのです。徳を積む生き方というのは、自分自身を高める生き方です。しかし前回語られたように、偽善的に、またマウントをとったりすることによるのではないことはお分かりだと思います。徳を積む生き方とは自己実現ではありません。偽善的な宗教行為ではありません。自分自身や他人に対して誠実に、他人に思いやりと謙虚さをもって接し、他人に貢献し、他人を生かすように努力することです。それは聖書で言われていることです。そのような人として真に値打ちのある行い一つ一つは、隠れたところで見ておられる天の父なる神さまに喜ばれ受け入れられており、天に積み上げられており、天では自然に減らされてしまったり、人為的に減らされてしまう心配をしなくても良いどころか、その報い、利息は天文学的な数字で積み上げられていくのです。まさに天文学的な永遠にという素晴らしい報い、私たちの想像を絶するくらいの計り知れない祝福、将来の生活の保障(立場や権利が損なわれないように保護し守ること)が積み上げられていくのです。
ところで、ルカの福音書12章33節でイエス様はこのように言われています。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい」。宝を天に積み上げるというのは、富に対する執着から解放されて、自分の財産を神さまのために自由に用い、貧しい人々に偽善的ではなく喜んで施すことによって、神さまからの霊的な報いを財産として天に蓄えることを意味しています。それが徳を積む、天に宝を積み上げる、将来の生活が保障される生き方であると言われているのです。
イエス様の時代には貧富の差が激しく、富んでいる人は少数で、その少数の中には宗教的指導者も含まれていました。大多数の人々は富んでいる人々に支配され苦しめられ、貧しい生活をしていました。貧しい人々が生き延びる唯一の方法は、富んだ人の善意による施ししかなかったのです。ところが、少数の富裕層の人々(その中には宗教的指導者も含まれていました)は富を抱え込み、見せかけだけの偽善的な施しをするのみで十分な施しがされず、富んでいる人は益々財産をため込み、益々富む者とされ、その陰で貧しい人々は益々貧しくなっていきました。誰かが富むために誰かが貧しくされる。誰かが喜ぶために誰かが泣かされる。それは今の時代も同じかもしれません。日本においても貧富の格差は広がっています。世界に目を向けてみても、一部の先進国は経済的に非常に豊ですが、多くの発展途上国では餓死寸前の生活を余儀なくされている人々が大勢いるのです。富んでいる人は、それは怠惰のせいだと簡単に責めるかもしれません。しかしそうではなく、様々な事情によってどうしようもなくそのような状況になってしまっているのです。今の時代も、そのような貧しい生活を余儀なくされている人々が生き延びる唯一の方法は、富んだ人の善意による施しなのです。イエス様は、すべての物、すべてあなたを富ませるものは神さまの恵みによって与えられるのであるから、その富に固執して、自分のためだけに欲張ってため込むことは「地上で宝を蓄えること」と言われ、困っている人々に分け与えることこそ「天に宝を積み上げることだ」と教えられたのです。
すべてにおいて平等の生活、それは人間の理想ではないでしょうか。そしてそれは世界を創造された時の創造主なる神さまの理想でした。その世界は人間の罪、貪欲によって破壊されてしまいました。しかし神さまは、やがて創造の初めと同じように再創造され、神の国を完成されるのです。すべてにおいて神さまが支配され、神さまの愛による支えと配慮によって、すべての人が助け合い、支え合い、すべての人が生き生きと生かされるところが神の国です。今のこの世は罪によって汚された世界です。破壊された不完全な神の国です。この世にイエス様は来てくださいました。そして「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。そして人間の罪のすべてを負われ、十字架に架かられ死なれ、3日目によみがえり、神の国の福音をご自身の弟子たちに、私たちに託され、天に上り全能の父なる神さまの右の座についておられます。私たちのために聖霊を送り、私たちの日ごとの罪の赦しのためにとりなしてくださっています。さらに、私たちにイエス様に倣い、信仰と愛によってこの地上に神の国、教会を建て上げるようにと命じられました。そのためにはまず、罪赦され、弟子とされた私たち自身の不信仰、不信仰による貪欲と富に対する執着心が捨てられなければならない。それがイエス様のお考えです。
テモテへの手紙第一6章17〜19節「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい」。この世の富に囚われず、神さまを心から信頼し善を行うこと。立派な行いに富むこと。惜しみなく施し、喜んで分け与えること。それが「天に宝を積み上げる」ことになります。それはやがて完成される神の御国において、私たちの立派な土台となるのです。そのしっかりした土台があって初めてそこに永遠に住まうことができるのです。保障されるのです。将来天の御国の住民となる立場や権利が損なわれないように保護し守ることになるのです。イエス様の弟子、すでに天に名が記され、天に相続地が与えられている私たちは、この世にではなく天の御国での永遠の住まいの土台となるものを一個一個積み上げるように、イエス様の教えを実践しなければなりません。
ここで私たちは、地上に宝を蓄えるか、天に宝を蓄えるかを決断しなければならないでしょう。なぜならば、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」からです。
6章21節 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
イエス様が関心を抱いておられたのは、実は富そのものではなく、弟子の心でした。弟子の忠誠心でした。素直で偽りのない心でご自身に従うことでした。ここで弟子たちは地上の宝を第一とするか、神さまを第一とするか決断させられるのです。この後の24節のイエス様の言葉にもあるように、私たちは両者を同時に選ぶことはできないのです。神さまに服従するか、富の奴隷になるかのどちらかなのです。来るべき世ににおいて永遠に幸せに生きるか、それとも限りある世においてむなしい幸せに生き、滅びに至る道を歩いて行くかのどちらかなのです。どちらの道を見出し、どちらの道をあなたがたは自分の足で歩いて行くのか。そのことをイエス様は「目」の喩えで語っておられます。
6章22節 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
6章23節 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
目は情報の入口です。その目を向ける方向によって私たちの関心のありかが分かるのです。その目を向ける方向に私たちは自分の足で歩いて行くのです。ヨハネの手紙第一2章16節には「目の欲」という表現があります。私たちの欲望の多くは目から入ってきます。エバが蛇の誘惑に負けて罪を犯したのも目からでした(創36)。祈祷会ではロトが目に見えるところによってソドムの町を選び取った所を学びました(創131-13)。目が明るく正しい方向にむけられていないと、そこで見るものは誘惑となり、私たちの全身を間違った方向に導いて行ってしまうのです。気づいたら崖の手前、滅びの手前かもしれないのです。
目のおかげで体は道を見出すことができるのです。その目が効果を発揮するのは、その目が「健やかであるかどうか」にかかっています。この22節の「健やか」という語はとても重要な語です。イエス様はここでとても深いことを教えておられるのです。注意深く見てみましょう。この「健やか」という語には、「単一の、分割されていない」という意味もあります。目、体のランプが神さまの方向だけを照らしているかどうかなのです。目の欲によってあちらこちらに目が向けられていては良くないのです。「分割されていない単一の目」というのは、神さまに奉仕するために完全にささげきった生活を意味する喩えです。さらにもう一つ、「健やか」という同じ語が、他の聖書の箇所では「気前が良い」という意味で用いられています。例えばローマ人への手紙12章8節では「分け与える人は惜しまずに分け与え」として用いられているのです。この語と対照的な目が、23節の「悪い目」です。悪いとは不健全という意味であり、更には健やかと同じく興味深い他の意味をも持っています。それは「嫉妬、妬み」、そして「けちんぼ」という意味です。ある人は自分よりも富んでいる人を見て嫉妬するかもしれません。ある人は自分よりも貧しい人に対して出し惜しみして何も与えないなどということもあります。それもまた良くないのです。
「あなたの目が健やかなら全身が明るくなる」。神さまに対する二心のない忠誠心。神さまだけを信じ、神さまだけを見上げ、神さまの恵みに満足し感謝することによって物質的な関心を捨てることができるでしょう。すると嫉妬や妬みから解放されるのです。その生き方は貧しい人に惜しまずに分け与えることに表れるでしょう。そうすると必然的に全身が明るくなるのです。全身つまり人格全体が明るい光に満ちるのです。明るくて朗らかで喜びに満ちあふれる人になるのです。他人が見てまぶしいくらいの私たちになるでしょう。そして私たちの人格全体、心も身体も目的のある人生、真の目的、神の国、天の御国に向かう生き方へと進ませることになるのです。
イエス様はこれらのことを通して私たちの心が今現在どのような状態か、どのような方向に向いているか、どのような道を照らし私たち自身に見せているか。そして道を照らすランプの光源は、きちんと明るい光を発することのできるものか。聖霊、神の愛、神と隣人への愛で満たされているか。混ざり物はないか、あるいは別の物にすり替わっていないか。それらを今一度しっかり顧みるようにと私たちに問いかけておられるのです。私たちを道の先の危険から守ろうとしてくださっているのです。永遠のいのちへの道へと確実に導こうとされるのです。
6章24節 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
「仕える」とは「○○の奴隷となる」という意味です。私たちは二人の雇い主に雇われても十分に働くことができるかもしれません。ダブルワークをされている方も大勢おられます。しかし、二人の主人に所有されたのでは十分な働きがどうしてもできないということもあるでしょう。ここでは二心のない神さまへの忠誠心、そしてあなたはどちらの道を照らすかという同じテーマが再び強調されているところです。
聖書ではしばしばある表現ですが、ここの「憎む」というのは積極的に嫌うという意味では必ずしもなく、もっと忠誠を尽くしたい相手が現れたので、今の相手を降ろすという程度のものです。一方を重んじて他方を軽んじるということです。ダブルワークを例にとってみても、どちらかの仕事を優先し、どちらかを後回しにする状況はどうしても起こってしまうことで、避けられないことです。まさに神と富との両方に同時に仕えることはできないのです。人は天に至る道、滅びに至る道のどちらか一方にしか歩いて行けないということです。ヤコブ書4章4節では「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです」と強烈に言われています。ヨハネの手紙第一2章15節では「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません」とはっきりと言及されています。
さて、ここで先週も覚えたところですが、イザヤ書58章10〜12節にある主の約束をもう一度覚えたいと思います。「飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる」。
「光」。これは人生の闇と行き詰まりの中で神さまが与えられる最初の祝福です。私たちが闇、悩みの中にいて、すべてのものに行き詰まり、もうどちらに進んで良いのか分からないときに与えられる光です。もし今、ご自分が闇の中にある、悩みの中にいると思われるならば、あるいは順風満帆に歩んでいると思われる方であっても、今一度、その道は真の光の源から発せられる明かりによって照らし出されている道であるかを、主のみことばに聞き、問うていただきたいと思います。主のみことばは私たちの闇の中で足もとを照らし導くランプとなります。私たちは本当に神さまに忠誠を尽くしているかどうか、本当に神さまを愛し神さまだけを信頼しているかどうか。私たちの目は何を見させられているだろうか。光の源は何であるか。その光は今、どのような方向を照らし、私たちをどこに向かわせているかどうかを、今朝のイエス様の、富という切実な問題を通して問いかけられたみことばから今一度確認したいと思います。神さまに仕えることを妨げるのは外部からの誘惑だけではありません。むしろ世を愛して貪欲になる自分の心の方が大きな誘惑となることがあるのです。その誘惑によって私たちの目、ランプは間違った道を照らしてしまい、私たちの人格全体を間違った方向へ導いてしまうことがあるのです。イエス様は私たちに崖の手前で急ブレーキをかけさせ救われるために、今朝の富への執着という核心を突く教えを与えられたのかもしれません。
真の弟子の富に対する態度は、この世の常識とは正反対の生き方でしょう。富、物質的な関心を捨てて、まず神さまに忠誠を尽くすこと。神さまのみを信頼し、与えられている恵みに満足し、感謝して生きること。神さまの愛、神さまの完全なご配慮、神さまの恵みに対する満足と感謝と期待(信仰・信頼)は、神さまへの忠誠と、神さまからいただいた恵みを出し惜しみすることなく他に注ぎ出していくことに自然と表れます。この生き方によって真の弟子は人々の中で自然と目立った存在となるのです。そこに神さまの栄光が現されるのです。偽善を捨て、真に神さまと隣人を愛し、頼りにならない富にではなく、むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神さまに望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために積み上げ、まことのいのちを確実に得るような生き方をしていく。私は中村哲医師を思い起こします。
神さまの御心、みことばに従って生きる時、私たちは真の光に照らされた永遠のいのちに至る安全な道を歩んでいます。私たちは主に導かれ、すべての必要が満たされていきます。その私たち自身が、今度は世の人々の間で光となり、人生の闇と行き詰まりの中で苦しんでいる人々、先を見失っている人々を導く光となるでしょう。励ましとなるでしょう。そのように「わたしの弟子であるあなたがたは、世の光であれ」と主は言われるのです。
私たちは今日からも聖霊に満たされて、聖霊の光に導かれて、目をまっすぐに神さまに向け、天の御国を目指して一心に歩み、人々の間で一人ひとりが主の栄光を輝かせ、徳を積む、天に宝を積み上る人生を歩んでまいりましょう。そしてともに主の教会を建て上げ、教会を通してこの地上に神の国を表し、人々を神の国に至る道に導いてまいりましょう。