2023年5月7日 主日礼拝「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」

礼拝式順序

賛  美  「鹿のように(As the Deer」
      新聖歌38「わが目を開きて」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌12「めぐみゆたけき主を」
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌58「かみよ、みまえに」
聖書朗読  マタイの福音書9章14〜26節
説  教  「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌324「主イエスはすくいを」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書9章17節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書9章14〜26節

説教題

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」

今週の聖句

また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

マタイの福音書9章17節

説教「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」

マタイの福音書9章14〜26節

いつの時代も「近頃の若者は」という嘆きが聞かれます。年配の人が眉をひそめて若い人たちを批判する時に使われることが多いようです。その嘆きは古代エジプトでも聞かれたとか。山本五十六という人物をご存知でしょうか。新潟県長岡市に記念館があるのですが、そこには彼が愛読した聖書が展示されています。今日の聖書箇所が念頭に置かれていたのかは分かりませんが、このように言っています。「我々年配の人間は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ」。世代による価値観の違いが「近頃の若者は」を生むのでしょう。多くの人が年を重ねると、新しいものを受け入れたり、変化に追いついていくのが難しくなります。つまり、自分が若いときの価値観、感覚がそのまま固定化されてしまうというわけです。最近はChatGPTというツールが注目されていますが、AI(人工知能)を使った最新技術で、人間の質問に対してまるで人間のように自然に答えることができるというものです。賛否両論ありますが、否定するのは大抵が年配の方々です。これは牧師界でもちょっとした話題となり、これからはAI牧師の時代になるのではないか。キーワードを入れると素晴らしい説教があっという間に出来上がって、牧師なんて不要になるのではないかと。しかしそれは説教と言えるのだろうかと眉をひそめる、批判するのです。けれども、批判は羨望の裏返しだと言うことです…。

さて、イエス・キリストの到来によって、時代は新しい時代を迎えました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ115)、「わたしとともに向こう岸へ渡ろう」。イエス様は新しい時代の到来を語りました。この新しい時代というのは、神の救いの計画における新しい時代です。そしてイエス様はこの新しい時代が喜びの時代であることを強調しています。これはパリサイ人や律法学者たちの禁欲的な暗い宗教とは明らかに対照的でした。またイエス様が説かれたのは、明るくてのびのびとした喜びの教えの数々でした。私たちの住む日本でも宗教と言えば禁欲的なものであるという一種の先入観があるように思われますが、イエス様の教えは決してそのような人を締め付けたり束縛するものではなく、むしろ古い伝統や習慣から解放された、真の自由を持つものでした。そのような教えに対して、古い時代の価値観や感覚が固定化されてしまっていた人たちは、イエス様に対して眉をひそめて批判していたのです。

今朝の聖書箇所であるマタイの福音書9章14節の最初には「それから」と記されています。これは前回からの続きであるということです。取税人マタイの家でイエス様は罪人たちとともに食事をし、律法学者やパリサイ人が敵意に満ちた質問をした後に、イエス様の行いに反対する次なるグループが現れました。それは「バプテスマのヨハネの弟子たち」でした。他の聖書箇所からは、ヨハネの弟子たちがイエス様とその弟子たちをライバルのように見ていたことが分かります。また自分たちをイエス様の弟子たちと比べる時に、パリサイ人と同類であるかのように話しています。実はこの時、バプテスマのヨハネは捕らえられていました。そのような中で彼らは自分たちとは違って罪人と食事をするイエス様とその弟子たちに対して疑念を持ったようで、「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と尋ねました。彼らの師であるヨハネは禁欲的でした。それが敬虔さの表れと見えていたのでしょう。そして敬虔なユダヤ人であるならば、旧約聖書が定める断食の他に、さらに週2回の断食をしていました。ヨハネの弟子たちは断食をしないイエス様の弟子たちに眉をひそめ、批判的な目で見て、弟子たちを正しく指導しないイエス様を戒めなければならないと考えたのでしょう。それに対してイエス様は答えます。

9章15節      イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。

パリサイ人やヨハネの弟子たちがこの時点で気づいていなかった点は、イエス・キリストの到来はメシアの時代に入ったということ。またユダヤの思想には「喜びの婚宴の時代」というものがありましたが、イエス・キリストの到来によって、彼らが待ちわびていたその時代に入ったことを意味するということに気づいていませんでした。「喜びの婚宴の時代」。旧約聖書では神とイスラエルの関係が花婿と花嫁の関係にたとえられます。そして神との婚姻(辞書:結婚、男女の結合=一心同体となる)は、神との関係が回復されることを意味します。その神との関係が回復される時「花婿が花嫁を喜ぶように、神が彼らを喜ばれる」(イザ625)のだと、旧約の預言者は神のことばを伝えています。そして新しい時代、メシアの時代に入り、花婿はイエス・キリストご自身であることがイエス様によって明らかにされています(251以下)。結婚の祝宴はユダヤでは盛大に行われ、一週間続きました。その間、断食したりする義務は免じられ、招待されたすべての人は花婿と花嫁と喜びをともにし、だれでもお腹いっぱい食べて飲み明かしました。イエス様はご自分の活動をこのような観点から見ていました。つまり、イエス様が罪人たちと一緒に食事をすることは、花婿である神・イエス様が来られて、罪によって捕虜となっていた妻イスラエル、つまり取税人と罪人と弟子たちとの関係が回復されたことを示していたのです。旧約聖書では罪の悔い改めやへりくだりのしるしとしての断食、哀悼の意(亡くなったことを悲しむ気持ち)を表す断食を教えます。結婚式(神との関係回復の時)は喜びの時であり、断食の時ではないのです。断食は結婚の祝宴の席にふさわしくないのです。イエス様が弟子たち、罪人たちと共にいる今は断食は見当違いなのです。イエス様が共におれることが喜びだからです。しかし「花婿が取り去られる日」、これはイエス様が十字架で死なれる時を暗示するのですが、そのときには断食をするでしょうと。しかしそれは一時的なことでした。イエス様はよみがえられ、今も生きておられ、私たちと血による新しい契約、契りの約束、婚姻の関係となってくださり、私たちといつもともにいてくださるのですから、私たちは断食をしなくても良いと言われるのです。喜びの時だからです。あなたがたは喜びなさいと言われるのです。しかし、イエス様が救い主であられ、恵みによって、信仰によって、罪人と血による新しい契約、婚姻関係を結んでくださることを信じない者たちは断食を続けるのです。そして恵みによって喜びの時を生きる幸いな者たちを見て眉をひそめ、批判するのです。しかし批判は羨望の裏返しなのです。

9章16節から、イエス様は断食だけでなく、ユダヤの伝統、習慣全体がイエス様によって始まった新しい時代に合わないことを、2つのたとえで説明されます。先にも申しました通り、新しい時代とは新しい契約による時代。新しい血による契約の時代。ユダヤ思想の言う「喜びの婚宴の時代」。神がイエス・キリストを通して罪人と和解し、関係を婚姻の関係までに回復してくださり、いつもともにおられる恵み、喜びの時代です。

1つ目のたとえは、古い衣の継ぎ当てのたとえです。「真新しい布切れ」はさらされておらず、縮んでいない布切れのことです。イエス様のメシア救い主としての働き、それはあわれみによって罪人を招き救う自由でのびのびとした働き、罪の奴隷となっている者を解放し、その人をのびのびとした喜びに生かすという新しい働きです。人の手によって本来の律法の目的を見失い、罪人に対するあわれみもなく、厳しさをもって人を不自由にし縮こまらせるものになってしまった古いユダヤの伝統、そのようなほころび、破れを補うために、縮こまっていない真新しい布切れを継ぎに当てたら、新しい布切れまでもが縮んで、縮こまってしまい、かえって回りの古い部分を駄目にし、結果は両方とも悪い状態に、以前よりももっと悪い状態になってしまう。ヨハネの弟子たちは断食、またユダヤの伝統、習慣を守ろうとしないイエス様を戒めようとしました。このヨハネの弟子たちのように、メシア救い主イエス・キリストを古いものに押し込めようとするのではなく、自分自身が新しくされなければならないということです。布切れの継ぎのたとえは、罪人を招くメシヤ救い主イエス・キリストの新時代は、ユダヤの伝統、様々な規定、制度と根本的に両立しないものなので、古いものは新しいもののために捨てられなければならないことを教えているのです。そうでないと引き裂かれ、ひどく破れ、駄目になり滅んでしまうのです。

2つ目は当時のぶどう酒の皮袋を用いたたとえです。新しい皮袋は柔軟で伸縮性もありますが、古い皮袋はかたくなって伸縮性を失ってしまうものでした。新しいぶどう酒はまだ発酵を終えていない、成長過程にあるので、発酵による圧力が皮袋にかかり、古い皮袋では張り裂けてしまうのです。中のぶどう酒も失われてしまうことになってしまいます。新しい皮袋だけがこの圧力に耐えられるのです。新しい皮袋、古い皮袋が何を意味しているのか。当時の皮袋というのは、子牛とか子羊の皮をきれいに丸々剥いで、ひっくり返して、首と四つ足の先端を閉じて袋状にしたものです。動物そのものの形をしていました。そうすると何となくお分かりでしょう。そして中身のぶどう酒は、聖書では終末的な回復を祝う宴会を象徴するものです。今日は聖餐式があり、ぶどう酒ならぬぶどう液が注がれた杯が分配されますが、これは終わりの時における天の御国での婚宴、神と私たちとの結婚、完全な結合、一心同体となる幸いな関係の完全回復を祝う喜びの大宴会の前味です。そのぶどう酒を、古い皮袋に入れておくならば皮袋が張り裂けて無に帰してしまう。

2つのたとえ、それはつまり、断食をはじめとするユダヤの伝統、習慣(律法ではない。律法が曲解されたもの。変質してしまったもの)は、イエス・キリストがもたらした新しい時代、恵み喜びの婚宴の時代、イエス・キリストによって神との関係が回復され、主が私たちとともにおられる時代にはふさわしくないとイエス様は言っておられるのです。神のあわれみによって、メシア救い主イエス・キリストを通して罪人が救われる、私たちが救われキリスト者になるということは、自分を締め付け縮こまらせ、不自由にさせる古い宗教的習慣や伝統、先入観から解放されて、自由に、喜びをもって新しく生きるということです。古い時代にとどまる人は、新時代に生きる新人類(キリスト者)に対して眉をひそめるのです。それは羨望の裏返しです。

さて、18節からは新人類のような人たちが登場します。新時代の恵みを恵みとして大胆に受け取ろうとする人たち。イエス・キリストの到来によって始まった新時代において、聖書、イエス様はそのような信仰を勧めているようです。鍵となるのは「信仰」です。それも実践の伴う信仰です。実践と言えば律法学者やパリサイ人たちが得意とするものでしたが、それはいわゆる形式だけのものとなってしまっていました。信仰がない、信仰が死んでしまっていました。新時代においての実践は信仰の実践、つまり生きた信仰、生かす信仰ということでしょう。

会堂司とは会堂の管理と監督をする者で、パリサイ人と律法学者のような指導者層の人でした。そのような人が、律法学者とパリサイ人たち、またユダヤ社会がタブー視し、異端のように疑って警戒するイエス様のところに来てひれ伏し(礼拝し)たのは、今しがた死んでしまった自分の娘を生き返らせる力がイエス様にあると信じたからです。助けを求める、彼の娘の実に悲しい状態が彼にそうさせたのです。すでに彼はイエス様の奇跡を見たり聞いたりしていたのでしょう。イエス様が手を置いていやされたことを知っていたのでしょう。見たり聞いたり知っているだけではなく、彼はイエス様に対する信仰を実践したのです。するとイエス様はマタイの催した罪人との宴会の席から立ち上がり、彼について行かれました。弟子たちも従いました。

イエス様が会堂司の娘を癒やす話しの間に、長血をわずらう女性の癒しの話しが差し込まれてサンドイッチ構造になっています。こうすることで、この2つの話しを一緒に解釈すべきことを示しています。

ユダヤ人の社会においては、このような出血のある女性は汚れた存在とされ、その人が触れたものはすべて汚れるとされ、さらにそれに触れる者も汚れると考えられていました。そのため彼女は人前にも出ることができず、孤独であったに違いありません。そのうえ、他の福音書は、彼女は病気の治療のために財産を使い果たして貧困にあえいでいたと記しています。しかも、病気は良くなるどころか悪くなるばかりでした。このように彼女は12年という長い年月、肉体的にも経済的にも社会的にも全く希望がありませんでした。その彼女が、切実な思い出イエス様のうしろから近づいて、衣の房に触れました。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからです。

彼女は絶望的な状況にありながらも、イエス様を信じて近づきました。「着物に触れさえすれば癒やされる」という信仰は魔術的に見えますが、イエス様はその魔術的な考え方を叱責なさいませんでした。人目を気にしながら、しかし人混みに紛れて、群衆に囲まれもみ合いになっていた中で必死に手を伸ばす彼女のひたむきな信仰、生きた信仰、信頼にイエス様は応えられました。群衆の中で多くの人がイエス様の着物に触れたに違いありません。しかし信仰の願いを込めて触れたのは彼女だけだったのです。イエス様はご自分に近づいて来る者たちをみなご存知です。その人がどのような者であるかもすべてご存知です。主は今も私たちの信仰による祈りをご存知でいてくださいます。人に明かすのもはばかることや、理解を得られにくい苦しみも、イエス様は覚えてその思いを知ってくださいます。ですからあきらめることはありません。悲しむことはないのです。何という恵みでしょうか。イエス様がもたらされた新しい時代とはそのような時代であり、私たちはその時代に生き、生かされているのです。喜び、心から神に感謝すべきではないでしょうか。古い宗教的習慣や伝統、先入観に縛られていては、福音も自分も滅びてしまうのです。

イエス様は彼女の信仰を見て、振り向いて、彼女を見て言われたのです。「娘よ、しっかりしなさい。安心しなさい。勇気を出しなさい。元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。感動的な場面ではないでしょうか。イエス様は生きた信仰の手を感じ取られ、それにこたえてくださるお方なのです。そのまなざしはきっと慈愛に満ちたまなざしだったことでしょう。たとえ衣に触れるといった一見迷信的、魔術的ともとれる不完全な信仰であっても、「その時から」癒しが直ちになされ、しかもそれは完全な癒やしであったのです。【癒やし】新約聖書の手紙の部分では通常「救われる」の意味で用いられていますが、福音書では肉体の癒やしに使われている語です。前回の中風の人のところと同様、癒しと救いは深い関係にあるということです。

さて、イエス様は会堂司の家に着きました。会堂司の家には、娘の死を悼み悲しむ笛吹きや群衆が集まっていました。その群衆を見て「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われました。それを聞いた人々は、イエス様が今の状況を正しく把握できていないと考えて「あざ笑った」のです。敵対して、批判して笑ったのです。

24節の【眠る】という語ですが、これは一般的な睡眠とは区別された語で、復活までの一時的な死の状態を暗示する語が用いられています。ユダヤ人の中には復活を信じる人もいたはずですが、その復活を本当に信じることができずにあざ笑った。私たちは他人事として批判できるでしょうか。イエス・キリストは死をも超越する方です。この娘の状態も、イエス様にとっては眠っているにすぎなかったのです。人々はそれが分からずに、イエス様のことばを聞いてあざ笑いました。敵対し眉をひそめ、批判したのです。しかし批判は羨望の裏返しです。

「その子は死んだのではない」と語るイエス様をあざ笑う人々は、奇跡を目撃することが許されませんでした。群衆が外に出され、イエス様は中に入り、少女の手を取られました。すると少女は起きあがったのです。目を覚ましたのです。イエス様はなんなくその少女を生き返らせました。メシアにとって死は究極的なものではありません。イエス様は死にも打ち勝ち、支配することのできるお方です。ご自身が復活されただけでなく、イエス・キリストを信じる者を死からよみがえらせる力を持つお方なのです。キリストがどのようなお方であるかを知るなら、復活を信じることができます。そして希望がない人間を、イエス様は生かしてくださるのです。長血と同様に、死んだ者は汚れた状態とされていたために、触れてはなりませんでした。死人は生き返り、長血の女性は癒やされなければ、イスラエルの社会に復帰できませんでした。イエス様は会堂司の信仰を見て彼の娘を生き返らせました。長血をわずらっている女性を信仰によって癒やされました。神の民になる資格のない汚れた者であっても、イエス様の力とあわれみに依り頼むならば、イエス様がその状態から癒やしてくださる、救ってくださるのです。

マルコの福音書には、イエス様が「タリタ、クミ」(少女よ。あなたに言う。起きなさい)と言われたとあります。イエス様の癒やし、救いには常に力あることばが発せられています。この後、聖餐式がありますが、イエス様は言われます。「取って食べなさい。これはわたしのからだです」「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。

イエス・キリストは新しい契約を結び、新しい時代を開かれました。イエス・キリストがもたらされた新しい時代。イエス様の流された血によって罪の奴隷から贖われ、解放され、花婿なる神、花婿なるイエス様の喜びの花嫁とされた、関係が回復された私たち。主がいつも私たちとともにおられる今。花婿としてこられたイエス様とともに、私たちは新しい信仰をもって祝宴に参加すべき時ではないでしょうか。そしてそこに招かれています。果たしてこの時、私たちは断食をすべきでしょうか。断食しているからと招きを断り、ぶどう酒もご馳走もお断りするでしょうか。私たちを喜ばれる主の前で、悲しむことが敬虔でしょうか。神を喜ばせることでしょうか。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ517)。古い宗教的先入観を捨て、私たちのすべてをご存知で、すべての思いを知ってくださり、私たちの信仰にこたえてくださる主に、私たちを癒やす、救うことのできる主に、新しい信仰をもって、完全な信頼をもって、愛をもって、大胆に主の恵みに近づこうではありませんか。主は純真無垢な心で求める者に、たとえ汚れた者であったとしても、そこから豊かな恵みを注いでくださり、赦し、癒やし、救ってくださいます。

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