2024年2月18日 主日礼拝「気前のいい主人、嫉妬する労働者」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 伝道者の書12章1〜2節
讃 美 讃美歌8「きよきみつかいよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌262「十字架のもとぞ」
聖書朗読 マタイの福音書20章1〜16節
説 教 「気前のいい主人、嫉妬する労働者」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌525「めぐみふかき」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書20章1節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書20章1〜16節
説教題
「気前のいい主人、嫉妬する労働者」
今週の聖句
天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
マタイの福音書20章1節
説教「気前のいい主人、嫉妬する労働者」
マタイの福音書20章1〜16節
先日の2月14日㈬は何の日だったでしょうか。バレンタインデーで、チョコレートをあげたりもらったりしたでしょうか。バレンタインデーも皆さんにとって重要なイベントかもしれませんが、私たち教会にとって今年の2月14日は「灰の水曜日」で、今年もその日から受難節を迎えております。今年のイースターは3月31日㈰です。イースター前の日曜日を除いた40日間を「レント・受難節(四旬節)」と言います。神は私たちのために御子イエス・キリストを十字架にかけられることを御心とされ、主イエス・キリストは、私たちのために十字架への道を歩んでくださり、私たちのために苦しみを受けて、ご自分のいのちまでささげげてくださいました。私たちが神と仲良しだったからでしょうか。神に何か良いことをして差し上げたからでしょうか。そうではないことを私たちは知っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハ410)。私たちは今年も、イエス・キリストの十字架上での苦しみ、人の罪の悲惨さ、しかしイエス・キリストの十字架に表される神の恵み、愛とあわれみを深く覚えつつ、受難節をふさわしく過ごしてまいりましょう。
前回イエス様が、「金持ちが天の御国に入るのは、いかに難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが簡単である」。そう弟子たちに語られると、弟子たちはイエス様を非難して言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう」。非難めいた眼差しでご自分を見る弟子たちを、イエス様はいつくしまれ、じっと見つめ返して言われました。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と、まことに深いことを言われました。その意味は、ひとつに、全能の父なる神は救いに一番遠いところにいる金持ちをもお救いになることができるということ。そしてそれは、父なる神の愛とあわれみによってであるということです。つまりイエス様は、救いが人の力や努力によって獲得されるものではなく、無条件で子を愛し、最も良いものを与えたいと願われる天におられる父なる神の愛とあわれみによる恵み、賜物(ギフト、プレゼント)であることを強調して言われたのです。
すると「ちょっと待った!」とばかりに、ペテロがすかさず(間を置かずに、この機会を逃すまいと)弟子たちを代表して質問しました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」。イエス様は答えられました。「あなたがたには報いとして、神から最高の栄誉が与えられる。必ずこの世で捨てたものの何倍も受け、来るべき世では永遠のいのちを受けます。御国に入れられます」と。
神は信仰によってご自分に報いを求める者には喜んでその報いを与えられるお方です。しかし神から与えられる報いというのは、世の労苦に対する報酬ではなく、どこまでも恵みによる賜物(ギフト、プレゼント)です。しかし当時のユダヤ人は、神からの良い報いは、自らの労苦が報われて与えられるもの。頑張って敬虔に生きた分だけその報いは大きいというパリサイ人や律法学者たちの教えに影響されており、弟子たちもそのような考えの影響を受けてしまっていました。私たちも、やはりどこかでそのような影響を受けてしまっているのではないでしょうか。私たちはこの世では資本主義と言いますか、主人(雇い主)に仕え、労働の対価として報酬をもらうという世を、当たり前の様に生きているからです。そして自分はこんなにも大変な苦労をしているというのに、あの人は楽をして同じ報酬を得ている、自分よりも恵まれた生活をしていると感じるならば、それはもうブーブーと、ブツブツと心の中で不平不満をつぶやくのです。それは誰に対してでしょうか。神に対してでしょう。そのような労働の対価としての報酬という考えを、神から与えられる良いもの、報い、また究極の報いである天の御国、神の救いに対しても持ってしまってはいないでしょうか。
神から良いものが与えられるのは、天の御国に入れられるのは、救われるのは、私たちが主に献身したからではありません。主がこのような私を愛し、あわれみ、召してくださったからです。物や時間、肉体や心、多くのものを犠牲にしてきたからではありません。どこまでも恵みによる賜物(ギフト、プレゼント)です。そもそも、その犠牲は犠牲と考えるべきなのでしょうか。
イエス様は前回に続いて、神の救いが一方的な恵みであることをさらに説明ために、ぶどう園のたとえを語られます。
20章1節 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
旧約で神はぶどう園の主人に、イスラエルは神のぶどう園にたとえられています(イザ5)。1節の主人は、神の国(天の御国)の働き人として弟子たちを呼ばれるイエス様を指します。主人はそのために「朝早く(原語『夜明け』)」「9時ごろ」「12時ごろ」「5時ごろ」に出かけます。
ちなみに、朝早く(夜明けごろ)から人を雇うことはぶどうの収穫時に行われていました。ぶどうの収穫期というのは、雨期をすぐ後に控えた時季です。雨が降っては大変とばかりに、それはもう忙しい、一刻を争うもので、多くの人手を要するものでした。そこで農園主たちは夜明けごろに市場に出かけて行って多くの人々を雇ったのです。
またこのたとえ話を理解する上で、「収穫期」とは何を指しているのか考えてみるのは有益でしょう。先に語られた「毒麦のたとえ」を思い出してください。これはまさに終末を間近に控えた時を指しています。
20章2節 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
この地方の労働時間は普通、朝6時から夕方6時までの12時間で、賃金は1日1デナリでした。また、あらかじめ賃金の約束をして雇うことも特別なことではありませんでした。農園主は労働者たちと1日1デナリの約束をし、彼らをぶどう園に送りました。
20章3節 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
主人は9時ごろにも市場へ行き、「何もしないで立っている」人たちを見て言いました。
20章4節 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
主人は「相当の賃金を払うから」と言って彼らを雇いました。彼らは雇い主から「相当の」とだけ言われたので、先に仕事を始めた人たちよりは、遅く仕事を始めた分だけ賃金は少ないだろうと考えたはずです。彼らはそれでも良いと出かけて行きました。
20章5節 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
こうして主人は12時ごろと3時ごろにも市場に行き、同じように労働者たちを雇いました。金額は未定ですが、とにかく主人は働き手が必要でした。「収穫は多いが働き手が少ない」とイエス様が言われたように(937-38)、一刻を争う終わりの時、御国のための働きは多いのに働き人が少ないのです。
20章6節 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
仕事終わりである夕方6時まであと1時間というところで、なんと主人はまた市場へ行きました。それほど人手が足りなかったのでしょうか。それとも、1日市場に立っていても仕事にありつけなかった人たちに同情したのでしょうか。
彼らが5時まで仕事がなくてそこに残っていた理由は、雇う価値がない者たちと見なされたからです。
20章7節 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
彼らはなにも怠けて雇われるまで働かなかったのではありません。仕事を探したのに見つからずにいたのです。5時までそこに粘っていたのいうのですから、生活のために何とか仕事が与えられないかと、真剣にその機会を待っていたことが分かります。
遅い時間に何とか仕事にありついた彼らは、その主人に雇われなければ、働き口も収入もありませんでした。雇われるまで彼らはなんと不安だったことでしょうか。その不安の大きさを、先に雇われた者たちは知らないのです。あるいは忘れてしまっていたのかもしれません。先に雇われた者たちは、後に雇われ農園に送られてきた者たちを見て何を思ったことでしょう。こんな遅い時間に来てとか、何しに来たのかとか、様々な偏見の目で見たのかもしれません。
それにしても、主人はなぜそんな遅い時間に、雇う価値のないような者たちを雇ったのでしょうか。その非常識なところが、このたとえのポイントでもあります。この最後の労働者は、他の人たちと同じように雇われました。そして彼らの生きて行くために必要な費用は、早朝から働いた人たち同じ額をあげたいと、主人はそう考えたようです。
20章8節 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
仕事終わりの時間になったので、ぶどう園の主人は監督に言って、すべての労働者に賃金を払わせます。律法によると、雇い主は1日の終わりに必ず労働者に賃金を払い、貧しい者たちが飢えないようにしなければなりませんでした。またぶどう園の主人は、最後に来た者たちから賃金を支払うように命じます。最後に来た彼らこそ、生きるのに辛い、苦しい、不安を多く抱いていたのでしょう。そのような者たちから賃金を払ってやりなさいと、ぶどう園の主人はまことに深い愛とあわれみをお持ちの方だと思わされます。
20章9節 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20章10節 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20章11節 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
まず1時間足らずしか働かなかった者たちに1デナリが与えられました。する先に来た労働者たちはそれを見ながら、約束の1デナリよりも「もっと多くもらえるだろう」と内心期待しました。しかしその期待とは異なり、5時から働き始めた者と同じ1デナリしか支払われないので、彼らは主人に不満を言いました。夜明けに雇われ、一番早くに来て誰よりも早く働き始めた者たちは主人に腹を立て、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろに雇われた者たちまでもが5時ごろに雇われた者たちに腹を立て、主人にブツブツ不満を言いました。
20章12節 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
先に雇われ、先に働き出した者たちは主人に意見しました。彼らは自分たちの抗議は正当なものだと思ったことでしょう。たくさん仕事をした者の報酬が多いのが当然だと思ったからです。しかも、先に雇われた者たちは「私たちは一日、労苦と焼けるような熱さを辛抱したのだ」と言っています。確かにこの地の暑さは大変なものでした。太陽が昇ると焼けつくような熱をもたらし、草花を枯らすことさえしました。あのヨナは自分の頭を照りつけるあまりの焼けつくような暑さに、「生きているより死んだほうがましだ」とまで言ったほどです。自分たちは5時に雇われた人たちよりも長い時間労苦し、焼けるような暑さを辛抱して一生懸命働いたのに。日も沈みかけた5時から、たった1時間、自分たちよりも楽して働いた人と同じ報酬だなんてひどすぎる。もっと多く報酬をもらうのが当然だと。私たちもそう思うのではないでしょうか。同じ仕事をしていても自分より報酬の多い人、自分よりも楽して、しかも自分よりたくさん報酬を得ている人に対して、私たちは腹を立て、ブツブツと文句を言うのではないでしょうか。確かに資本主義の社会は多く働いた者、大変な仕事をした者にはより多くの報酬が与えられるべき。それを原則としていると思います。しかし、神の救いはそうではないことを、イエス様は分かり易く教えられます。
20章13節 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
主人は優しく、おだやかでありながらも強い態度で答えます。主人は彼らを「友よ」と呼びますが、ここに「友」として使われている語は、新約聖書ではほとんど否定的な場面で使われる語です。例えば22章12節では披露宴に礼服を着てこなかった人に使われ、また26章50節のイエス様に口づけするイスカリオテのユダに対してイエス様が「友よ」と呼ばれるところに使われています。つまり、親しい友よいうよりは、友のように親しくあるべき人が、ある点で過ちを犯していることをそれとなく示す呼び名として使われているのです。「残念な人」です。ここでもブツブツと不平不満を漏らす人に主人は「友よ」と呼びかけられています。主人から見て、彼らが犯している過ちとは何なのでしょうか。
主人は「友よ」との呼びかけに続けて、自分には法的には何の過ちもないこと。わたしは約束したとおりに、もっと厳密に言うならば、わたしとあなたとの間で信仰によって(口約束だった)契約を結んだ通りに、わたしは1デナリ(約束のもの)をこれからあなたに払うのだから、あなたに不当なことはしていないのだと言います。
20章14節 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
ここに主人の心が示されています。主人は先に来た者も、後から来た者も、差別することなく同じようにあわれみたいのだ、それがわたしの心なのだと告げます。「わたしの心だ」。イエス様も「わたしの心だ」と何度か言われましたが、ここに何とも言えない温かさを感じないでしょうか。私たちはこの主のあたたかな心によって、実はすでに、すべての必要が満たされ、良いもので満たされているのです。それなのに不満をもらす私たち。
20章15節 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
主人には自分が持っている豊かな富を、自分の思いのままに使う権利があって、その権利を自分の心、愛とあわれみをもって実際に用いようとしました。主人が最後に5時に来た人に愛とあわれみによる配慮をしなければ、彼らはその日の食べるのにも困っていたはずです。困っている人を助けたいという主人の心、それも気前の良い心が彼らの生活を守ることになるのです。
その愛とあわれみ、そして気前の良い主人の心をねたむ人たちが登場します。先の者たちです。「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」。
この「ねたんでいるのですか」は、直訳すると「あなたの目が悪だ」という意味です。嫉妬に満ちた目を表しています。主人は先の者たちの自分を見つめる目に、悪、ねたみの心、困っている者に対する冷たい心が満ちていることが分かったのでしょう。「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」。この主人からの問いかけたことに、このたとえの核心が示されています。そもそも、主人に雇われた者たち全員、主人の心をいただいた者たちです。朝早く市場に来た人たちも、その日のいのちの糧がどうしても必要だったために、朝早く市場に行ったのでしょう。その必要に主人は主人の心で応えたのでしょう。彼ら全員、ぶどう園で働く機会を提供してくれた主人の好意、心に感謝すべきでした。
主人の心は愛とあわれみ、そして気前のよさです。無理矢理に権威をもって従わせ、困っている、どうしても必要がある、その弱みにつけ込んで、ただ働かせよう、あるいは安い賃金で奴隷のように働かせようというせこいものではなかった。しかも9時ごろに雇われた人、12時ごろに雇われた人、3時ごろに雇われた人はどうでしょうか。皆途中から雇われながらも、きちんと1日分の賃金をもらうのではないでしょうか。それも恵みによって。恵みとは、自分にはいただく権利や資格がないにもかかわらず、一方的な愛とあわれみによって十分に与えられることです。先の者たちは自分たちも主人からの恵みに与っていたにもかかわらず、後に来た者たちに施された主人の常識を超える恵みをねたみました。悪い目で見て、主人が彼らをあわれんだことを責め、自分たちと同じように困っていた人たちが救われたこと、また救ってくれた主人に感謝もしなかったのです。それは12節に示されているとおり、より長い時間労働した者、より忠実に働いた者は、より大きな報いが約束されるべきで、より長く労苦を辛抱した者は、より多くの報酬を受けるべきだという考えが心の根底にあったからです。もし今、この考えに私たちも共感してしまうとするならば、私たちは神の心を共有していないということです。自分を先の労働者と同じ立場に立ち、同じ意見を持っているとするならば、私たちはいかに神の心とかけ離れているか、いかに私たちのうちに愛もあわれみもない者であるかを示すことになります。もし私たちがイエス・キリストに召され、イエス・キリストの十字架で流された高価で尊い血潮によって救われた先の者たち、そしてイエス・キリストに従う弟子とされている者であるならば、イエス・キリストが召されるどのような人でも妬むのではなく、悪い目で見るのではなく、受け入れ、一緒に喜び、愛さなければならないのではないでしょうか。
それに対して、最後に雇われ、たった1時間しか働かなかったのに1日分の報酬が与えられた人たちはどうだったのでしょうか。「あぁ、私たちは常識を超えた恵みに与った」と、主人に心から感謝し、主人の愛とあわれみに満ちたあたたかな心に触れ、その人の内になにか悔い改める思いが起こってきたのではないでしょうか。明日もあなたのために働かせてくださいという、献身の思いも湧いてきたのではないでしょうか。より主人を愛し仕える者となったのではないかと思います。
20章16節 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
イエス様はそう言われ、このたとえを締めくくられます。
このたとえに出て来る主人は、この世的に、あるいは人間的に、自己中心的に見て「無価値」な労働者、働くことにおいて価値がない者たちと見なされ、誰も雇ってはくれなかった、そのような者たちを雇って自分のぶどう園で働かせ、さらには同じ報酬を与えるという、何ともあわれみ深い人でした。そしてイエス・キリストは、人々に蔑まれ、弱くされ、低くされ、誰からも見向きもされない、この世の隅に追いやられたような人々、罪人をあわれみ、関心と愛をもって天の御国に招かれます。誰も好き好んで自分から罪人になろうなどという人はいません。それぞれがそれぞれにしか分からない、誰からも理解されない、どうしようもない事情があって罪人となってしまう。ただそこにうなだれて立ち尽くすしかない。そのような人々のために、そのような人々を救うために、すべてをご存知であるイエス・キリストは一人ひとりの名を呼ばれ、天の御国に招かれます。主人が一日に何度も労働者を雇いに出かけたように、イエス・キリストは今も、すべての人を天の御国に招いておられます。それがいつ、どこで、どのようにして、その人が何歳の時かというものには、イエス様の最善の時があるのです。イエス様の心があるのです。そして招きに応じる者に「わたしの心だ。きよくなれ」と、イエス・キリストはその人のためにもご自身の心を示され、十字架に架かられ、尊く高価なご自身の血潮を流されるのです。
さて、ぶどう園で働く者のたとえでは、もう一つ、「働く動機」についても教えられていると思います。労働者たちは報酬にだけ関心があったので、自分よりも後に雇われた人が同じ報酬をもらったのを見て不満を抱きました。なぜでしょうか。
それは、労働者たちが主人のぶどう園で働くことを、辛く苦しいことと捉えていたからではないでしょうか。ペテロが「自分たちはこれだけ主のために捨てたのだから、当然受けるべき報酬があるに違いない」という考えもまた、主に従う、主に仕える、福音に仕えることを労苦、それも辛く苦しいことと捉えていたからではないでしょうか。もしペテロが、主によって主の働きに召されたことを喜びとし、「このような私が主に召されたのだ」ということを大きな喜びとしていたなら。主とともに歩み、主のために働く時間を本当に愛し、喜びとしていたならどうだったのでしょうか。今日のたとえは語られなかったのかもしれません。教会の中に「天国泥棒(さんざん好き勝手に生きてきたいわゆる罪人が、死ぬ間際に洗礼を受けて天国に行けることを、人生の早い時期に洗礼を受けて、その後も忠実にキリストに仕えてきた人が批判した言葉)」などという何とも情けない言葉は存在しなかったのではないでしょうか。主とともに歩む時間、それが喜びであり、その時間が長ければ長いほど幸い、良い報い。そう思われないでしょうか。
神が与えられる報いは賃金ではなくて贈り物。神から与えられる報いというのは、世の労苦に対する報酬ではなく、どこまでも恵みによる賜物(ギフト、プレゼント)。私たちの心の内にある神からの良い報い、何よりも永遠のいのち、救いに対する考えを、今一度深く顧みたいと思います。そして私たちの良い行いやその量ではなく、このような私に神の愛とあわれみによって神からの良い報いが与えられること、日々良いもので満たされること、何よりも天の御国が約束されていることの感謝を深めるならば、自ずと主への献身の思いは高まるでしょう。
これからも神の心をもって、また悪い目、嫉妬心ではなく神の眼差し、愛とあわれみの目で、すべての隣人を愛し、歩んでまいりましょう。