2024年4月28日 主日礼拝「聖書と神の力を知る」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌16「いときよきみかみよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌151「よろずの民」
聖書朗読  マタイの福音書22章23〜33節
説  教  「聖書と神の力を知る」
讃  美  讃美歌483「主とともならん」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書22章29節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書22章23〜33節

説教題

「聖書と神の力を知る」

今週の聖句

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力もしらないので、思い違いをしています。」

マタイの福音書22章29節

説教「聖書と神の力を知る」

マタイの福音書22章23〜33節

今の時代と言いますか、昔からなのかもしれませんが、合理的で効率的な生き方というものが求められているように思います。皆さんは「倍速視聴」で動画を見たことがありますか? 最近は若者を中心に1.5倍や2倍のスピードで映画やドラマ、バラエティなどの動画を試聴するのが当たり前になっているのだそうです。その理由はシンプルで、動画を試聴する時間が足りないから。YouTubeやサブスクが普及したことにより、動画コンテンツは情報過多に陥っています。そうした時代を生きる上で限られた時間を有効活用し、いかに多くの情報を得ることができるかが必要スキルになっています。いわゆる最近よく耳にする「タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視しているのです。私ももし聖書朗読をしてくれるアプリに倍速機能があれば、きっとそれを使ってしまうでしょう。またサブスクなどでは、せっかくお金を払っているのだから、できるだけ多くの動画を見なければ損だという思いもあります。いわゆる「コスパ(コストパフォーマンス)」を意識しているのです。いずれにしても、倍速で、例えば映画やドラマを見たとするならば、制作側が意図しているような、「この表情がいいんだよ」とか、伏線の部分などを見落としやすくなりそうです。ちょっとした間とか、例えば同意する「うん、いいよ」という台詞であっても、聞かれてから答えるまでの間によって同意の度合いというか意味が違ってくると思うのですが、それがまるで伝わらなくなってしまう。登場人物の感情などもはや関係なく、ただ情報として映画やドラマを見ることになってしまう。自分の中にストーリーの記憶も残らず、感情移入もできず、考えられず、自分なりの推測もしない。それでは色々な意味でもったいないですし、制作側の意図も十分伝わらなくなってしまいます。

そのようなコスパ、タイパ重視の姿勢は動画ばかりでなく、生き方にまで影響しているようです。子育てはコスパが悪いとか、恋愛はコスパ最悪と考える若者が増えていると聞いています。またある記事の中で、会社での帰りのあいさつなどをタイパが悪いと考え、あえてしない新入社員が増えていると書かれていました。若者があいさつをしないのは、あいさつができないのではなく、あいさつをすることで引き留められ、自分の時間を奪われることが嫌だからだそうです。タイパ、コスパ重視の生き方はこのような所にまで大きな影響を及ぼしているのですね。無駄な時間、人間関係、感情を捨てることによって物事がシンプルになり、シンプルに物事をとらえることで迷うことが少なくなる。そのような合理的で効率的な生き方は、果たして本当に自分を幸せにするのでしょうか。

今日の箇所には「サドカイ人たち」が登場します。ユダヤ教の一派のサドカイ派に属する人々のことを指すのですが、彼らは裕福な上流階級の人たちで、エルサレムの神殿を中心とする祭司の家系に連なっており、祭司長や宗教上の最高位である大祭司は彼らの中から選ばれていました。彼らは宗教的・政治的自治組織である71名からなるユダヤ議会「サンヘドリン」の構成メンバーで、サンヘドリンのメンバーの大半をサドカイ人が占めていました。ですから彼らは宗教的指導者でありながら、政治的指導者でもありました。その彼らの神学的立場というのは、モーセ五書だけを認めるというもの。モーセ五書というのは、モーセが編纂したと言われる聖書の最初の5つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことですが、彼らはこのモーセ五書だけを権威ある神のことばとして受け入れ、それ以外の書を重要視していませんでした。人の記憶とか経験、人の思いなどをすべて排除し、モーセ五書だけを重要視し、モーセ五書だけを基に、無駄なく論理的に物事を考え、そして判断する。そのモーセ五書には「復活」のことは何も教えられていない、だから復活や死後のいのち、魂の不滅は否定していました。また御使いの存在に対しても否定的でした。彼らの中でそれは合理的で効率的ではなかったのでしょう。さらに彼らは、人の運命を決定するのは自分自身だと信じていたというのです。そのような彼らが裕福な上流階級であり、宗教的・政治的指導者、トップであった。当時の世の人々は、そのような彼らが導く、人の苦しい経験や悲しみや悔しさなどの思いを排除する「モーセ五書にはこのようにあるのだから、そのようにすれば良いのだ」というような合理的で効率的な宗教、信仰をどのように捉えていたのでしょうか。当時の99%が貧しい人たちでした。その人たちは恐らく、合理的、効率的なだけではない神を求める思い、真の神とは本当にそのようなお方なのだろうか、そのような神に対する飢え渇きがあったのではないでしょうか。そこにイエス・キリストが世に現れました。この方は真の神でした。真の神が合理性、効率性を捨て、人の姿を取られ世に降られたのです。地道に、一歩一歩、一人一人の心に寄り添い、教え、癒やし、救われた。その教え、生き様、立ち振る舞い、声、表情などすべての中に神の権威、愛、あわれみが滲み出ていた。それを感じ取ったある人は、自分の職業を捨て弟子となり、またある人はイエス様につき従い、それは群衆と言われるほどにまでなった。それはまったくうなずけるのではないでしょうか。そのイエス様と群衆の前に、あの合理的、効率的なサドカイ人たちが近寄って来て、イエス様に質問しました。

22章23節    その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

パリサイ人たちに続いて、今度はサドカイ人たちがやって来て、イエス様に質問をしました。その質問は「復活」に関する質問でした。これは先のパリサイ人たちと同じく、イエス様を罠にかけ、言葉じりをとらえてイエス様を失脚させようというものでした。同時に復活を信じるパリサイ人たちの敗北をみて、神学的に対立していたサドカイ人たちが近寄って来て、その復活に関する質問しました。あり得ない状況を仮定して、復活信仰の非合理性を証明しようとしました。それは彼らの根本原理であるモーセ五書からの質問でした。

22章24節    「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。

これは申命記25章5-6節にある「レビラート婚」と言われる法(教え・掟)です。

22章25節    ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
22章26節    次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
22章27節    そして最後に、その妻も死にました。
22章28節    では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

このように、サドカイ人たちは、復活の教理の矛盾を立証し、イエス様を苦しい状況に追い込むために、極端な状況を仮定して質問しました。それに対してイエス様は、彼らが重視するモーセ五書によって復活信仰の根拠を示されます。

22章29節    イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。

ここに「思い違いをしている」とありますが、このギリシア語は本来、「道に迷っている、あてもなく歩き回っている、さまよっている」という意味の語です。イエス様はまず、サドカイ人たちの質問の問題点を指摘しました。その問題点とは、彼らが聖書も神の力も知らないがために、あなたがたはあり得ない状況を仮定したりして、思い違いをしている、あてもなくさまよっている状態だということでした。そればかりでなく、合理的で効率的に、コスパ、タイパ重視で神のみことばである聖書を捉えているせいで、聖書も知らず、神の意図・御心も分からず、神の力も知らないので、生き方においても道に迷っている状態であると、暗に言われているところだと思います。

彼らはモーセ五書に通じていると自負していましたが、そのモーセ五書の最初には何と書かれているでしょうか。モーセ五書の最初の書は「創世記」です。そして創世記1章1節には何と書かれているでしょうか。そうです。「はじめに神が天と地を創造された」(創11)です。自分たちはモーセ五書に通じている。誰よりも知っている。本当にそうなら、無から有を造り出す力によって、神が死人を生かすこともできると信じるべきでした。私たちの教会にも、長い間仏教の修行をされてきて、しかしこの創世記1章1節のみことばで劇的に真の神を信じた方がおられますが、その方は恐らく何の疑いもなく復活も信じられているのでしょう。それなのに、ずっとモーセ五書を研究し、追求してきた彼らは復活を否定してしまい、自分たちが聖書に対して無知であり、神に対し不信仰であることを自らさらけ出してしまったのです。

このような無知は、彼らの神観が誤っていたこととも関係がありました。先ほどは彼らの神学的特徴を紹介しましたが、彼らにはこのような神観(神をどのようなお方だと捉えているか)がありました。彼らの神観によると、確かに神は天地を創造されたお方である。しかしその神は、天地創造以降、人間がすることには関心がないのだという神観を持っていました。また神は人間の行為に対する来世のさばきや報いには関心がない、今生きている世界がすべてという、現世中心の、まことに合理的で効率的な世界観をも持っていました。彼らのこのような神観と世界観が、復活を否定することにつながっていたのです。

22章30節    復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

復活に関してサドカイ人たちが誤解するようになった原因には、100歩譲ってたとえ復活があったとしても、今の世と同じ状態だと考えたことにもありました。イエス様はそれを指摘しながら、復活後の人生は今の世と全く異なり、婚姻をしない御使いたちのようだと言われます。それが神が備えてくださっている新しい世界なのです。

無から有を創造され、死人をも生かすことのできる神は、やがて世の終わりに新しい天と新しい地をもたらされます。そこでは男女の結婚はありません。なぜでしょうか。そのことについて、イエス様は並行箇所であるルカの福音書20章30〜34節でこのように言われています。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことはもうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです」(ルカ20 34-36)。この世の子らは、めとったり嫁いだりします。子孫を残すためです。人は皆罪人で、罪を犯し、罪は必ず死をもたらします。聖書が一貫して言っていることです。皆が罪のために死んでしまったら、誰が天の御国を受け継ぐのでしょうか。人が天の御国、約束の地を受け継ぐことは神の永遠の約束です。しかし神が定めておられる復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。それは彼らが死ぬことはもうあり得ないからであると。彼ら、つまり次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちとは誰でしょう。それは旧約の時代であるならば、神を信じ、神と契約を結び、割礼を受けた人たちでした。そしてイエス・キリストがこの世に来られ、イエス・キリストが十字架に架けられ死なれ、復活したことによって始まった新約の時代の今、神と人間との契約は更新され、イエス・キリストの血による新しい契約を結んだ人たち、人間の罪の身代わりとなり、十字架に架けられ、苦しまれ、血を流されたイエス・キリストを救い主と信じ、告白し、聖霊が注がれ、永遠のいのちを得た人たち。ただ信仰と恵みによって救われた者たちが、次の世、新しい天と地、神の国、天の御国に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちです。つまり私たちです。神が備えてくださっている新しい世界。神が長い時間をかけて準備万端に整えてくださっている新しい世界にすでに私たちは招かれており、やがて終わりの時、私たちはその時死んでいるかもしれませんが、復活し、そして入れられるのです。神は約束を必ず守られる方、守る力をお持ちの方だからです。そして神は今も約束を守ろうとされ、すべての人をイエス・キリストを通してその御国に招いておられます。

22章31節    死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
22章32節    『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

さらにイエス様は、復活に対する彼らの理解が間違っていることを、彼らが強調していたモーセ五書を通して反論されます。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」は、モーセがホレブ山で初めて神に会う場面で2回も語られています(出315-16)。それに続けてイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と告げられました。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは今も生きているということです。

「死んだ」というのは、「いのちを奪われた、息が断たれた」という意味の語で、「死体」というニュアンスがあります。そして「生きている」というのは、「今もいのちを持っている、息をしている」というもの。そして「いのち、息」は「魂、霊」とも訳せる語です。アブラハム、イサク、ヤコブは死に、肉体は土に葬られ、土に戻ったかもしれません。しかしいのち、息、魂、霊は神のもとで今も生きているのです。創世記には、神が人を地のちりから形づくり、その鼻に息、霊を吹き込んで生きるものとさたとあります。そして言われるのです。「土のちりは元あったように地に帰り、霊(息)はこれを与えた神に帰る」(伝127)と。残念ながらこの神のみことばはモーセ五書に含まれていないために、サドカイ人たちはこのみことば、神の約束を知らなかったのでしょうか。知ってはいても何となく倍速で軽く流していたのでしょうか。

イエス・キリストを信じ、死んでいったすべての人は、その肉体は土に葬られ、朽ちて土に戻ったかもしれません。しかし彼らのいのち、息、魂、霊は神のもとで今も生きているのです。そして彼らは、終わりの時、復活する。それが神の約束です。復活信仰は、実はモーセ五書にも土台があったということです。

サドカイ人は人の記憶とか経験、人の思いなど、ひいては神の思いなどをすべて排除し、モーセ五書だけを重要視し、モーセ五書だけを基に、しかも無駄なく論理的に物事を考え、そして判断していました。そのモーセ五書には「復活」のことは何も教えられていない、だから復活や死後のいのち、魂の不滅は否定していました。また御使いの存在に対しても否定的でした。彼らの中でそれは合理的で効率的ではなかったのでしょう。倍速ですっ飛ばして良い部分としていたのでしょう。さらには人の運命を決定するのは自分自身だと信じていました。彼らには神が天地創造以降、人間がすることには関心がないという神観がありました。また神は人間の行為に対する来世のさばきや報いには関心がないという考えがありました。しかし彼らが重要視していたモーセ五書にも、真の神の力、復活について教えられていたのです。彼らは合理的で効率的であるがゆえにそれらを見落とし、見過ごし、道に迷いさまよっていたのです。もし今、私たちが死に対し、復活に対して迷いさまよっているのだとしたら、さらには人生に迷いさまよっているのだとしたら、サドカイ人たちのように、聖書も神の力も知らずにいるせいかもしれません。聖書も神の力も知らずに道に迷っているのではないか、自らを振り返ってみる時を持ってみてはいかがでしょうか。そのような時間は無駄だ、コスパ、タイパが悪いとは思われずに、じっくりそのような時、静思(デボーション)の時を持ってみてはいかがでしょう。

モーセ五書はじめ、聖書全体に示されている本当の神の御姿、そして本当の神の力。それは真に非合理的で非効率的なものなのかもしれません。それはイエス・キリストに表れています。神が人を救うために人間となられこの世に降られた。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた。それは罪を犯してしまう人間を救うために。これほど非合理的で非効率的なことはないでしょう。イエス・キリストに表れる本当の神の御姿は、サドカイ人たちの神観とは真逆の、人の悲しい記憶や苦しい経験に真に寄り添い、人の思いを尊重し、長い時間をかけて関係を築き、一歩一歩、愛とあわれみ、忍耐をもってともに歩き、確実に天の御国へ、永遠のいのちへと導かれるというもの。そして神は、サドカイ人たちが考えていたのとは真逆の、人間の行為に対する来るべき世の報いには大きな関心を持っておられるお方です。今生きている世界がすべてではない。罪が満ちているこの世での様々な労苦、試み、悩みや苦しみ、痛み、悲しみ。それらは必ず来るべき世において報いたいと願われる神がおられる。たとえこの世の生涯が不完全に終わろうとも、神は来るべき世においてはすべてを完全に、美しく完成してくださる。私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみの、叫び声も、苦しみもない。本当の神の御姿とは、神ご自身が膝を折られ、身を低くされるもの。本当の神の力とは、神ご自身が膝を折られ、身を低くされ、人に寄り添い、長い時間をかけてまでも助け、救うことができるという力です。神ご自身が気に入って選ばれた人を即座に天に引き上げてしまえば手っ取り早いのに。ガツンと権威をもって教え、権威をもって有無も言わさず従わせればコスパもタイパも良いのに。主はまったく非合理的で非効率的なお方です。長い時間をかけ、ゆっくり、じっくり語りかけ、教え、考えさせ、経験させ、色々な思いをさせ、真の悔い改めへと導かれ、人が自ら救われたいと願うようにされる。真に時間をかけられる。神は愛だからです。愛は非合理的で非効率的。神は私たちを救うために、どんな犠牲をもいとわれないのです。神は私たちを愛しておられるからです。私たちを救い、永遠のいのちを与え、やがてその永遠のいのちをもって栄光のからだに復活させる。そして死ぬしかない体で生きる世とは全く異なる御国に住まわせることができる。そのような力をお持ちの方。そのような力を持っておられるのに、弱い者に寄り添い、思いに寄り添い、とことん付き合って天の御国に至るまで時間をかけ、手間暇をかけて導くことができる力、愛、あわれみ、忍耐する力をもお持ちの方。このようにコスパ、タイパ度外視で愛してくださる主に対して、私たちはどうでしょうか。コスパ、タイパを重視して、歯を磨きながら祈ったりしていませんか? 何かをしている時に自然と祈る心になって祈るのは素晴らしいことです。主は絶えず祈りなさいと言われているのですから。しかし、コスパ、タイパ重視でという姿勢の場合はどうなのでしょう。本当に主を愛しているということになるでしょうか。

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」。イエス・キリストを信じ、救われた者は、死んでも生かされている。世ではたとえ世の力によって死んだ者のようにされていたとしても、神のみことばと力によって生き生きと生きるものとされているのです。

22章33節    群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。

群衆はイエス様の教えに驚嘆しました。合理的、効率的が求められる世で、そのように生きるように求められる世で、飢え渇きをもって真の神を求める群衆はイエス様の教えを褒め称え、賛美しました。私たちも今朝、この群衆のようにイエス様の教え、そして神の力を褒め称え賛美しましょう。神が与えてくださる復活に対する信仰をいただき、それまで全力で従って行くことのできる力を与えていただきましょう。後の日に復活にあずかることを信仰によって待ち望み、この世での日々の生活、そして主の働きに最善を尽くし、心から主を尊敬し、愛してまいりましょう。

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