2024年9月29日 主日礼拝「主と、みことばの成就を信じて」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌282「見ゆるところによらず」
      新聖歌275「信仰こそ旅路を」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇118篇25〜29節
讃  美  讃美歌3「あめつちの御神をば」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌140「いのちのいのちに」
聖書朗読  マタイの福音書26章47〜56節
説  教  「主と、みことばの成就を信じて」
讃  美  讃美歌252「主よ。今わが身は」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書26章52節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書26章47〜56節

説教題

「主と、みことばの成就を信じて」

今週の聖句

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

マタイの福音書26章52節

説教「主と、みことばの成就を信じて」

マタイの福音書26章47〜56節

最近、SNSの広告で良く流れてくるのですが、1話5分程度のドラマを見ることができるアプリで、アプリの中で広告を見るか課金をすると次の続きの回が見られるというものです。その「アプリを手に入れませんか」という広告の中で、1つのドラマのハイライトが小間切れで次から次へと流れてくるのです。ついその物語にはまってしまい、結局全部で100話くらいあるようなのですが、その全話のハイライトが次から次へと流れてくるものですから、ついぶっ通しで見てしまいました。どうやら中国で制作されているドラマのようで、設定やストーリーがとてもハチャメチャながらも分かり易いために、視聴者(私)は次の回、次の回へと興味を抱かせられ、何としても見たいと思わせられてしまう。そういうシステムで儲けようというものです。話はすでに冒頭でネタバレがされています。つまり結末が分かっているのです。結局は悪がこっぴどく裁かれ、正義が勝つのです。大逆転が起こるのです。その結末が分かっていながら、100話ある中の95話まで悪が正義を圧倒する。悪者が主人公をあの手この手で、これでもかというほどに侮辱したり、いじめたりする。結局は最後の5話くらいでスカッとする考えられないほどの大々大逆転劇が起こるという展開なのですが、視聴者はハッピーエンドになることを知っていながらも、知っているからこそドラマの展開にハラハラ、ドキドキ、悲惨な展開にイライラしたり悔しい思いをしたり、主人公と一緒になって「今に見ていろ、今に分かる」などと言いながら、間もなく起こるであろう大逆転劇、ハッピーエンドを今か今かと待ち望み、それを見届けたい、スカッとしたいという思いを抱かせられ、広告を見て、広告を見る時間が待てないとなると課金させられ最後まで見てしまう。その作戦にまんまと乗せられアプリをインストールしそうになった私。何とかそれを思いとどまり免れたわけです。もう少しで課金はしないとしても、次の回を見たいがためにたくさんの広告を見せられ、何話もドラマを見てしまうなどして大切な時間を奪われてしまうところでした。そんなものに時間を奪われるくらいなら、同じ大々大逆転、ハッピーエンドが約束され、深い真理が数々の人間ドラマを通してドラマチックに展開され、そして聖霊を通して個人的に語られ、各シーンを思い描くことができ、読者である私たち自身を間違いなくハッピーエンド、永遠のいのち、天の御国に導いてくれる力がある聖書を読んだ方が絶対に良いと思います。旧約聖書929話(章)、新約聖書260話(章)。合わせて1189話(章)。何の広告もなし、課金もなしでハラハラ、ドキドキ、イライラ、モヤモヤ、でもワクワク、最後の22話(黙示録)で完全なスカッと体験、いかがですか? 以上、聖書の広告でした。詐欺のような広告ではありません。

ようやくマタイの福音書の講解に入ります。マタイの福音書は進んで、本朝は26章47〜56節となります。先ほどご一緒にすでに拝読しました。今朝の箇所は約束されている大々大逆転、ハッピーエンド前のハラハラ、ドキドキ、イライラ、ムカムカの1シーンと言えるでしょう。

ついにイエス様を捕らえる作戦が動き出します。イエス様を捕らえようとする宗教指導者たちは色々と心配し、綿密に作戦を立てました。武器と兵士を用意し、イエス様の弟子であったイスカリオテのユダを仲間に引き入れ、暗号を決めるなど、まるで秘密作戦を成し遂げるかのようです。指導者たち、またユダは自分がこの場の主導権を握っていると確信していました。しかしイエス様はユダがご自分を引き渡すこともすでにご存知でしたから、秘密作戦でも何でもなかったのです。ネタバレしていたわけです。これからイエス様にとって悪いことが実際に起こるのですが、しかしそれは、悪いことが起こることを妨げることがイエス様には容易にできたのに、イエス様がそうすることを意図的に拒否されたに過ぎないのです。表面上は悪者が、悪が主導権を握っているようであっても、実際に支配しているのは神であり、イエス様であるというメッセージが今日のところで繰り返されています。

26章47節    イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。

イエス様が最後の食事の時に「ユダよ、あなたがわたしを裏切ります」と言われてから、聖書はユダの動きのことは言及していません。しかし、ユダはそれからずっと怠けていたのではありませんでした。彼なりに綿密な計画が立てられていたのです。密かに感が半端ないです。私たちの心を見るようではないですか。

イエス様が「まだ眠って休んでいるのですか。もう眠って休みなさい。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています」と、そう語られている間に、その話を遮るようにして、イエス様を捕らえるために大勢の群衆が押しかけてきました。大勢の群衆と言っても、内密の活動であったので文字通りイメージするよりは大勢ではなかったのだと思います。その群衆の中にいたのは、ルカとヨハネの証言によると、祭司長たち、長老たち、宮の守衛長たち、一隊の兵士などでした。一隊の兵士は剣と棒を持っていたのですが、ユダヤ人兵士は剣だけでなく棒も武器として持っていたことで有名なので、それは彼らがユダヤ人の敵であるローマ兵ではなく、同胞のユダヤ人兵士であること、それも宮の守衛長が率いる神の神殿を守っていた者たちであったということです。もしかしたら彼らは何らかの機会に、宮で教えておられたイエス様の説教を聞いていたのかもしれません。どうして彼らの身分が分かったのか。彼らの格好を見ればすぐに見分けることができたでしょう。その先頭には「12人の1人」つまり、まだイエス様の弟子の1人であるあのユダがいるではないか。ユダが案内役を務めているというのか? 弟子から裏切り者が出る、私たちの中から裏切り者が出る、弟子が裏切り者であった。そして裏切り者として先頭に立って群衆を案内して来た。その光景を見た他の弟子たちは、それは衝撃を受けたことでしょう。そして弟子たちにはすぐに理解できないような光景がこの後、目の前で展開されていくのです。

そのイスカリオテのユダは、「イエスを裏切ろうとした者」とはっきりとコメントされています。

26章48節    イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
26章49節    それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。

「裏切り者は合図を決めていた」。ユダはイエス様に近づいてあいさつをし、口づけをしました。これがイエス様を捕らえるための合図でした。そしてその合図は裏切り者のしるしともなったのです。

ここに「口づけする」とありますが、これはギリシャ語では「φιλέω・フィレオー」です。ご存知、聖書の中には「愛する」という3つの語がありますが、「アガペ(無償の愛)」「エロス(性的な愛)」「フィレオー(友情の愛)」。このフィレオーが用いられており、口づけする、友情の愛として表されています。

ラビの弟子にとって、先生に口づけすること、普通は何か促されるようにして手か足に口づけするのですが、それは日常的なあいさつではなく特別な尊敬のしるしでした。その心は「フィレオー」ではなく「アガペ」であったのでしょう。しかし弟子が勝手に率先して日常的に、普通のあいさつのように「フィレオー」の感覚(友だち感覚)で先生に口づけすることはなく、そうするのは故意の侮辱となりました。ユダのこの口づけは、イエス様につまずいてしまったユダによって考えられたと言いますか、計算されたいやらしい、嫌みったらしい侮辱、悪意の現れであったのでしょう。アガペではなくフィレオであった。それはイエス様の権威、イエス様への尊敬、イエス様の弟子であることをユダ自身が拒否したことを公に示すものでした。それが裏切り者のしるしとなるのです。私たちの心の内に、主に対する特別な尊敬のしるしの中に、例えば礼拝を守っていても、みことばを読んでいても、主の前にひれ伏すようにして祈っていても、その中にイエス様に対してのつまずきの故の故意の侮辱、計算された悪意、主を試すような思いが込められているなどということはないでしょうか。イエス様は私たちにフィレオーの愛をもって親しく臨んでくださいますが、私たちは身を低くして主イエス様に対してアガペの愛と尊敬をもって礼拝すべきなのではないでしょうか。

26章50節    イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

するとイエス様はユダに向かって「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と語られます。「友よ(ἑταῖρος)」。ユダの心の内を見抜いてのことでしょう。マタイの福音書におけるこの「友よ」という呼びかけは、すべて逆説的な意味で使われています。残念な人よ。ユダはイエス様の所から出て行って後、色々と考え、考え直し、そしてイエス様の真の友になるべきでしたが、裏切り者としてイエス様のところにやって来ました。「あなたがしようとしていることをしなさい」。しかし、ユダの用事をよく知っていたイエス様は、それにもかかわらず反抗せず、完成させるように励ましさえしたのです。そしてイエス様の予告どおり、みことばのとおりに、群衆はイエス様に近寄り、イエス様の励ましに同意し、手をかけて捕らえてしまいました。

26章51節    すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

ヨハネは、イエス様を捕らえようとする群衆に抵抗しようと剣を振り回した弟子が「シモン・ペテロ」であり、大祭司のしもべが「マルコス」だと記しています。

26章52節    そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

イエス様はここで、「剣を取る者はみな剣で滅びます」という有名なみことばを語っています。このみことばは平和主義の根拠にされることもあります。確かに平和を、平安を、シャロームを本当に大切にされる神、そしてイエス様ですから、そうなのかもしれません。しかしイエス様が弟子(ペテロ)にそれをやめさせた理由は、何よりも「聖書」と「預言者たちの書」、つまり神のみことば、神の御心・未来における神のご計画は必ず成就され、神の救い、神との平和・平安な関係回復が必ず成し遂げられるためであったことを覚えて解釈する必要があります。

そしてイエス様はこのみことばを、ペテロに対してと同時に、「イエス様を捕らえようとしてきた者」に対しても語ったのです。神のみこころに剣をもって立ち向かうように、何としても自分の欲望、願望を押し通そうとするならば、あなたがたは必ず自ら滅びへと向かうことになるということです。ですから私たちもよくよく注意しなければならないでしょう。神の御心と思い、そこに向かって勇敢に、命がけで一生懸命進んでいる、追い求めていると思っていても、果たしてそれは本当に神の御心なのかどうかを顧みる必要があるのではないでしょうか。本当の神の最善、私たちにいのちを与える本当の御心が成し遂げられ、私たちが滅びを免れるために。

26章53節    それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
26章54節    しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

御使いは、イエス様はもちろん、神の民をも助ける存在です。イエス様はいつでも父なる神にお願いして12軍団(72,000人)よりも多くの御使いを味方につけてもらい、わずかな剣や棒を持って捕らえに来た者たちと戦い、あっという間に圧倒的勝利を収めることもできましたが、聖書が成就されるために反抗せず、自ら進んであっという間に群衆に捕らえられるのです。御使いに命じる力があるのにイエス様がそれをなさらなかったのは、聖書の預言(神のみことば、未来における約束、ご計画、御心)が成就するために「自分から」苦難を受けられ、「自分から」いのちを捨てられるためであったのです。イエス様は前に言われていました。「だれも、わたしからいのちを取りません。取ることができない。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令(自分から苦難を受け、いのちを捨てること)を、わたしの父から受けたのです」(ヨハ1018)と。イエス様は決して無力なのではありません。イエス様が捕らえられようとしているのは、ご自分で父なる神の御心を信じ、選び取り、従順されたからです。しかしそれもイエス様にとっても決して簡単なことではありませんでした。ゲツセマネにおいて祈り、血の汗を流された末の勝利だったのです。人間の目には惨めな敗北のように見える目の前の光景も、実は大勝利であった。この時は父なる神と御子イエス様だけがご存知であったのです。

26章55節    また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。

イエス様はご自分を捕らえに来た群衆にこのように言われました。彼らは多くの民衆の目を恐れ、昼間ではなく暗闇の時にひっそりとイエス様を捕らえに来た。イエス様は宮で民衆に反乱を指導するどころか、ラビがするように座って教えていた。彼らの思い、彼らの計画が本当に神の御心であるという確信が彼らにあったなら、神の宮で、民衆の目の前でイエス様を捕らえれば良かったのにそうしなかった。イエス様は彼らに問うことによって、彼らを批判すると同時に、よく考えて見なさいと、彼らに考え直して悔い改める機会を与えられたのではないでしょうか。

26章56節    しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

「すべてのこと」が預言者たちの書が成就するためでした。そのことが本当に分かるのは、もう少し後の話です。

そしてイエス様が逮捕されると、弟子たちはみなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。イエス様が予告されたとおりでした。それもまた実は預言の成就だったのです。

以上見て来たように、ハラハラ、ドキドキ、イライラ、ムカムカの展開。イエス様にとって圧倒的不利な状況。しかし表面上は悪者が、悪が主導権を握っているようであっても、実際に支配しているのは神であり、イエス様であるというメッセージが今日のところで繰り返されていると冒頭で申しました。この場面を通して、神は私たちそれぞれの心に何を訴えられ、何を教えられたのでしょうか。

今なお、目の前の状況がハラハラ、ドキドキ、イライラ、ムカムカ、また涙であっても、神の主導のもと、神のみこころの成就に向かって確実に進んで行っているということ。その神のみこころとは、私たち人間を一人残らず愛され、裁きではなく、永遠の滅びではなく、イエス・キリストによる救い、永遠のいのちを得させることです。

イエス様の言動につまずきを覚えていたユダは、聖書から姿を消し、その間、密かに主を裏切るための綿密な計画を立て、ついに行動に移しました。私たちはこのユダの姿に、少なからず自分自身を映すのではないでしょうか。そのユダに対してイエス様は「友よ」と呼びかけられました。目を真っ直ぐに見つめられ、あわれみをもって呼びかけられたのでしょう。「友よ」。これは英語では「コンパニオン」と訳されます。コンパニオンの語源は「パン(食事)を共にする人」という意味であり、また、ある行動を共にして親密な関係にある仲間、友という意味もあります。それは明らかに、最後の晩餐で親しくパン(食事)を共にした仲間、聖餐をともにした仲間だということです。イエス様はユダに「それでもあなたは今も、この瞬間もわたしの大切な友であるのだよ」と訴えかけ、ユダを悔い改めへと導こうとされたのです。しかし先ほども申しました通り、マタイの福音書ではこの「友」という語は残念な人という意味で用いられており、まさにユダは残念な人となってしまったということをマタイは読者に示しています。イエス様はご自身の特別な友に、言葉と眼差しをもって愛とあわれみを示され、悔い改めの機会を与えられた。友を信じ期待された。「今、あなたがしようとしていることをしなさい」。しかし残念なことにその友は悔い改めることはせず、最終的に彼は自らの命を絶ってしまった。彼は滅んでしまったのです。イエス様にとっても本当に残念なことであったでしょう。

イエス様は同じ友であるペテロに、また同時に他の弟子たちに、そしてご自身を捕らえに来た者たちに言われました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と。私たちに永遠のいのちを与えられるという神の御心に対し、私たちは剣をもって立ち向かってはならないのです。自分の願望、欲望を何としても押し通そうとしてはならない。それは結局、自分が血を流し滅んでしまうことになるのです。私たちは神の御心に剣をもって命がけで立ち向かうのではなく、自分の罪と戦い、自己中心と戦い、自我と戦い、血を流すほどに戦うべきでしょう。イエス様は「神の義のために迫害を受ける者、辛く苦しい経験をする者には祝福があり、神の国、天の御国は彼らのものである」と語られました(510)。パウロも「神を信じる者が受ける患難は、忍耐を通して希望を得させる」と語っています(ロマ53-4)。さらに主は、「勝利する者には世の終わりの日に、いのちの冠を与えてくださる」と約束されています(黙210)。私たちは自分の罪と闘い、自己中心と戦い、それゆえにどんなに苦しい思い、体験をしても屈することはありません。神のみことばは必ず成就するのですから。今はハラハラ、ドキドキ、イライラ、ムカムカ、涙であっても、ハッピーエンドで終わるドラマのように、終わりの日には主の完全な勝利にあずかり、永遠の御国に入れられるという祝福を必ず受けるのですから。その喜びに今も満たされなから、信仰をもって、たとえ涙の谷を歩くとしても、すべてにおいて権威をお持ちで、すでに勝利をおさめておられる主が今もともにおられることを信じ歩ませていただきたいものです。

弟子たちはイエス様が逮捕されると、イエス様を見捨てて我先にと暗闇に紛れて逃げ去ってしまいました。しかしこのことさえも預言の成就だと言われるのです。あまりにも情けない、悲しい成就です。彼らはゲツセマネの祈りの時に、眠ってばかりいて十分に祈らなかったのです。そのために、彼らにはイエス様のような心の準備ができていなかったのです。祈る者と祈らない者との違いは、普段はあまりはっきりしないのかもしれません。しかし、試練が来た時にはその差がはっきりと現れることを覚えておかなければならないでしょう。

それにしても、イエス様はご自分を見捨てて逃げ去る弟子たちをただ見送られました。弟子たちを巻き添えにしないようにと言う配慮があったことも考えられるでしょう。このことさえもみことばの成就、主のみこころであったことに気づかされるのです。ヨハネは証しします。「これは、『あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった』と、イエスが言われたことばが成就するためであった」(ヨハ189)。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハ639-40)。

これほどまでに主は主を信じ従って来た者たち、従う者たち、従いたいと願う者たちを心に留められ、愛し、あわれまれ、そして完全な主導権をもって守り導かれる。本当にいまだ罪人、イエス様の残念な友である私たちにとって、恵みであり感謝ではないでしょうか。

これまで私たちはこのような主の愛とあわれみよって、また完全な主の御心が成就されるために、ただ恵みによって守られ、導かれて来ました。そして苦しみを耐え抜かれ、神の御心を成し遂げられ、私たちのために十字架にかけられ死なれ、しかしよみがえられた勝利の主は、この先も変わらずに私たちを、天の御国に至るまで守り導いてくださいます。私たちはそのことを確信し、目の前のハラハラ、ドキドキ、イライラ、ムカムカ、涙の展開に心と目を奪われてしまうことなく、主を愛し、フィレオではなくアガペの愛で、真実の愛で主を愛し、主を信じ、祈り、その祈りさえも主の御心にまで高めていただけるように祈り求めてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す