2024年12月1日 主日礼拝「門を開いて王なる救い主を迎えよ」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌76「諸人こぞりて」
      新聖歌188「救い主は待っておられる」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇50篇1〜6節
讃  美  讃美歌161「イマヌエルのきみのみ」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌97「朝日は昇りて」
聖書朗読  詩篇24篇1〜10節
説  教  「門を開いて王なる救い主を迎えよ」
讃  美  讃美歌534「ほむべきかな」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 詩篇24篇9〜10節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

詩篇24篇1〜10節

説教題

「門を開いて王なる救い主を迎えよ」

今週の聖句

門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王 それはだれか。万軍の主 この方こそ栄光の王。

詩篇24篇9〜10節

説教「門を開いて王なる救い主を迎えよ」

詩篇24篇1〜10節

今日からアドベントに入りました。今年もアドベントの意味について確認しておきたいと思います。アドベントとは「到来、到着」、「やって来る、近づいて来る」という意味を持つラテン語から来ています。

昔、イザヤは預言しました。「…闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。…ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザ91-7)。

争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光、すべてを治めるまことの王として来てくださる。その出来事を待ち望む時を「アドベント、待降節」と呼びます。ここには4本のキャンドルが立てられていますが、救い主の到来、到着を、1本、また1本とキャンドルを灯しながら心待ちに待ち望むのです。では私たちは今、何を待ち望むのでしょうか。イエス様はおよそ2000年前にすでに来られました。ですから私たちが今待ち望むのは、イエス様の第二の到来、再臨です。依然として争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光、平和、さばき、正義をもってすべてを治めるまことの王として来てくださる。ヘブル書にはこうあります。「キリストは、多くの罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブ928)。今日からのアドベントを通して、相変わらず悩み、試練、苦難の多い日常の中にあっても、私たちがイエス様の再臨に備えて待ち望む信仰を深めて行く。救い主は確実に近づいて来られている。「見よ、神の幕屋、神の神殿が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(黙213-4)という希望、平安、喜び、愛を深めていく。毎年繰り返されるアドベントですが、私たちは今年も特別な4週間をふさわしく過ごしたいものです。

さて、世界で一番最初に町を築いた人は誰でしょうか。どうやらそれはあのカインのようです。彼は人類最初の殺人者でもありました。彼は弟のアベルを妬んで殺すという大きな罪を犯したのです。それを神から隠そうとしました。神はカインに問いただしその罪を明らかにし、そして裁かれました。カインは自ら神の御顔を避けて隠れるために神の前から出て行き、さすらい人となりました。彼は非常な恐れを持って出て行きました。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう」。カインは主の前から出て行って、エデンの東、ノデ(「さまよう」の意)の地に住み、そこに町を建てたのです。カインが町を建てたのは、自分を守るためです。人が自分を守るために、自分の周りに見えない壁を作ってしまうように。

旧約聖書では町を表す語がいくつかあるのですが、その中で最も使用頻度が高いのが「イール」で、1090回用いられています。しかし、その大きさや内容については千差万別のようです。カインが建てたのはこの「イール」でした。また、旧約聖書では、城壁があるのが町、城壁がないのが村と記される場合があります。しかし、村であってもある種の囲いはありました。もともと村を表す語「ハーツェール」は、垣(割合低くて、隙間のある囲い。垣根とか)などで囲まれた農村集落を指しています。これに対して町の場合は、それよりもしっかりしていて、容易には破られたりくずされたりしない城壁を持っていたと言うことができるでしょう。人は恐れや不安が大きければ大きいほど、自分を守ろうとすればするほど、心に村ではなく町、垣根ではなく堅固な城壁を築くのです。

そして当然、城壁には町を出入りするための門がどうしても必要となります。門は古代の町では一番もろく、攻撃の的になりやすい場所でした。そして良いものも悪いものもすべてこの門を通って中に入って来るのです。カインの時代は分かりませんが、後の時代になると町の門にはその町の長老が座ることになっていました。門の長老はその場で裁判を行ったりもしていましたが、何よりも町に入ってくる人を見て尋問し、怪しいと思ったらその人を中に入れないようにする、それが重要な役割でした。先ほどの賛美では「主は心の戸を開くのを待っておられる」と賛美しましたが、私たちは自分自身の心の町の門の長老として、何を心に通し、何を拒むのか。ここに考えさせられるのではないでしょうか。

さて、ようやく詩篇24篇に入りますが、表題に「ダビデによる。賛歌。」と記されています。この背景は、ダビデが契約の箱(神の臨在を現す神の箱)をエルサレムの町に運び入れた時の出来事があります。そして「門」は、エルサレムの城壁の門のことで、しかも擬人法で使われています。「門よ おまえたちの頭を上げよ」とは、門を開くことを意味しますが、どうして門を開くのかと言うと、それは「栄光の王」が入って来られようとしているからです。

「戸」の方は神殿の入り口の戸を意味していると思われますが、ダビデがこの詩篇を歌った当時、まだ神殿はありませんでした。「ダビデの幕屋」と言われる粗末なテントの中に「契約の箱」を安置したのであって、まだ神殿はなかったのです。エルサレムで最初の神殿はダビデの息子のソロモンによって建てられ、やがてバビロンによって破壊され、捕囚からの解放後、ゼルバベルによって第二神殿として再建されました。ヘロデ王の時代、イエス様の時代にはそれがさらに拡張されて華美なものにされましたが、AD70年にローマ軍によって破壊されました。つまり詩篇24篇はまさに預言的なメシア詩篇です。そしてイエス・キリストの再臨による千年王国の「栄光の王」、そして神が治める永遠の神の国、神の王国の完成という視点がなければ良く理解できない詩篇なのです。そして現代、皮肉なことにこの視点を最も大切にし、期待し、良く理解していたはず人たちが、やがてメシアが入城してくると言い伝えられている「黄金門」と呼ばれる門を堅く閉ざし、開かずの門としてしまっているのです。マタイの福音書を通して見て来たとおり、自分たちの立場や特権を守るためにです。メシア、まことの王が来られて、自分たちが思い通りに生きられなくなることを恐れてでしょう。

契約の箱を前にして、まずダビデの視線はこの世界を創り、すべてのものを統べ治めておられる偉大な神に向けられます。これほど偉大な神が、こんな小さな箱に収められるなど考えられないこと。信じられない。収まるはずがない。しかし神はこの小さな箱を通してご自身の臨在、「わたしはある」ことを明らかに現してくださいました。ちなみに箱の中には、神のみことばである石の板2枚、マナが入った金の壺、アロンの杖が入っていました。

そしてこの神の臨在を前にして、ダビデは恐れるのです。「だれが聖なる神の御前に立てるだろうか」と。「御前に」とありますが、ここを直訳すると「場所」になります。つまり、自分が主を礼拝する場所に立つにはふさわしくない者であることを自覚するのです。聖なる神の御前に立てる者、主を礼拝する場所に立つことができる者。それは本来「手がきよく、心の澄んだ人」。ダビデの手は多くの人の血を流した手。ダビデの心は真っ黒な思い、悪い策略に満ちたことがあった。それらの罪を主に赦されたダビデではありましたが、全く心が澄んでいたかと言えば、きっとそうではなかったでしょう。一切の罪は主のあわれみによって赦され、心の汚れは主によって拭い取られたけれども、過去の罪の負い目が自分の中で拭いきれない。本当に赦されているのだろうか。聖なる神の御前での恐れ。過去の罪ばかりではない。ただ主のあわれみによって、信仰によって罪赦された私であっても、なお日々罪を重ねてしまい、正しく生きることなどできないという自覚。神から目を逸らし、神から与えられている最善のものに目を留めず、ついつい目に見える虚しいもの、欲、情欲に心を移してしまう弱さ。もっと、もっとと求め、主を礼拝していると言いながら偶像を仰ぎ見て、主に対して姦淫の罪を犯してしまう。もっと、もっとと求め、主さえも偶像にしてしまう愚かさ。神に対して偽りの誓いをし、真実を尽くさず、隣人に対しても偽りの誓いをし、愛していると言いながら本当には愛せない、真実を尽くせない。そんな私は神の御名を汚してしまう者。こんな私が聖なる神の御前に立てるだろうか。こんな私が主を礼拝する場所に立つことが許されるのだろうか。ダビデは恐れるのです。

しかしダビデはそのことを認めながらも、それでも神の御顔を慕い求めるのです。主を求める者を決してお見捨てにならないと約束される神を信じ、神のみことばにおすがりし、なおも神の祝福、元々の意味は「膝を折られる」、神が膝をおられる、私たち罪人に自ら近づいてくださる、つまり神の愛、あわれみ、赦しを求めるのです。まことにダビデは大胆です。天地を造られ、すべてを統べ治めておられる偉大な神に、祝福を求めるのですから。あなたの膝を折って下さいと祈るのですから。私を愛し、あわれみ、赦してくださいと祈るのですから。ダビデは大胆ですが、神はこのダビデを喜び受け入れられるのです。神はこの大胆さを私たち罪人である人間に求めてくださっているのです。あなたを赦したい、愛したい、あわれみたい。あなたを祝福したい、あなたに近づきたい、あなたの中に入りたい。だからあなたがそれをわたし(主)に求めなさいと、主は言われる。あなたが求めないとそれができないのだからと。神に不可能なことなどあるのでしょうか。どうやらあるようです。主イエス様はご自分を信じ求めない人には力あるわざができなかったと、唯一できなかったことが聖書に記されているのです。

「わたしの顔を慕い求めよ」。主よ、どうか私に御顔を向けてくださいと求める。主が御顔を向けるというのは神の祝福を求めること、それはやはり赦しを求めることでしょう。私を見てくださいと主に主の愛とあわれみを求めることでしょう。恵みを注いでくださいと求めることでしょう。主ご自身が、罪人であるこの私にそれらを求めてくださっている、求めることを許してくださっている。なんという幸いでしょうか。

しかしこの幸いをいただくために、唯一私たちがしなければならないことは、主を信じ、主を私たちの中に王として喜んでお迎えすることです。

24篇7節      門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
24篇8節      栄光の王とはだれか。強く力ある主。戦いに力ある主。
24篇9節      門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
24篇10節    栄光の王それはだれか。万軍の主この方こそ栄光の王。

冒頭でも申しました。町は自分をがっちり守るものです。そして門は自分の敵の侵入を防ぐものです。自分自身を敵と思われる者から守るものです。そして門は、町の内側から大人の男20人以上の力でようやく開けられるものでした。皆で相談して開けようと決めて、力を合わせて開けようとしなければ、そう簡単には開けられないものなのです。

今日のみことばの光も詩篇24篇を扱っていました。そこに記されていたのですが、屠殺場に引かれて行く牛や豚は、死を察知して抵抗し、恐ろしい断末魔の叫びを上げるそうです。罪人である私たちが神の御前に立つ時、そこに待っているのはさばきと死の予感なのです。聖なる神、偉大な神を前にしての罪の自覚、主に対する負い目、神のさばきに対する恐れ。また自分の思うように自由に生きたいという思い。それらはすべての人間が持ち、なかなか拭いきれない思いでしょう。そのような思いがあって、私たちを愛し、あわれみ、赦したい、救いたいと願われる主を、時に私たちは拒絶してしまう。ある人は強い意志を持って。ある人は無自覚のうちに。

そのような私たちに詩篇は歌うのです。主は願われるのです。恐れないで、わたしを信じなさいと。「門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。どうか上がってくれ」と。門の外に立ち、門を叩き、声で呼ばわるのです。「門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。どうか上がってくれ」と。門が内側から開かれるまで、叩き続け、呼ばわり続けられるのです。これが「万軍の主の熱心」。私たちも主の熱心、恵みに応え、自分自身の心に命じるのです。心の戸を開くのは、私たち自身だからです。「門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。どうか上がってくれ」と。

ダビデが高らかに褒め称える「栄光の王」とはだれか。栄光の王とは、全能なる御力により、あわれみにより、ダビデに数々の敵に対する勝利と罪の赦しを与えられたお方。後に、私たちの罪を贖い、救うためにこの世に降られ、そして、私たちの罪を負うためにご自分を献げ、十字架つけられ死に、人間の最後の敵である死に勝利され復活されたイエス・キリスト。終わりの日まで守り導かれるイエス・キリスト。そしてやがて終わりの日に、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために再び来られ、心に信じ受け入れる人々を永遠の御国、天の御国へと招き入れてくださり、神が完全に支え配慮される神の国を完成され、神とともにその国の王として治められる再臨のイエス・キリストです。

私たちの本当の勝利、自由、救い、そして天の御国に至るまでの私たちの真に幸いな人生、真に幸いな毎日の生活とは、栄光の王である神の御子救い主イエス・キリストを私たち自身の中に喜んでお迎えすることです。喜んでお迎えすることを主ご自身が熱心に願ってくださっているのです。

栄光の王、主を喜んで迎え入れるならば、すべての罪を赦す権威を与えられこの世に降られた神の御子イエス・キリストが、すべての罪を赦し、インマヌエル(主われらとともにおられる)神として、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」となってくださり、聖霊を注がれ、常にこの世にあって天の御国に至るまでその者を祝福し、日々みことば、約束を与え、その道を守り、この世にあって導いてくださいます。すべて万軍の主の熱心によるもの、恵みによってです。私たち自身には何も良いものなどないのに、主がこれほどまでに祝福して下さるのです。私たちは何も偉くないのです。

ダビデは思った。天地に満ちているすべてのものを創造され統べ治めておられる偉大な神、栄光の王、主が、こんな小さな「契約の箱」に収まることなどできないだろう。信じられない。しかしそれは実際に起こったのです。神である御子イエス・キリストは、この世に降られ、小さな町の家畜小屋に来られ、飼い葉桶の中に寝かされたのです。「わたしはある」と言われる神がここにその臨在を明らかにされたのです。本来ならば、罪人であるすべての人間は神の御前に立つことなど許されません。しかし神は罪人を招かれました。最初に招かれたのは、この世の罪人を代表して、世の人々に罪人と決めつけられ、蔑まれていた羊飼いたちでした。彼らは夜通し羊の番をしながら火を見つめ、彼らの思いは自分の内へ内へと入って行ったことでしょう。そして自分たちの境遇を思い、神に対する憤りや怒り、敵対する思いもふつふつと湧いて来たのではないでしょうか。世の人々に対する憤りや怒り、敵対する思いもあったことでしょう。そのような自ら神の御前に立つにはふさわしくないと自覚していた羊飼いたちが、突然主の栄光に包まれ、そこに現れた神の御使いに「恐れてはならない」と招かれ、人類の中で最初に神の御顔を慕い求め、御子の御前に立ち、御子の御顔を拝することが許されました。そして神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、自らご自身の膝を折られ祝福しようと、しもべの姿をとり、人間と同じようになられたへりくだりの主の前に、さらにへりくだり、主として、王として受け入れ、主を礼拝しました。そして神をあがめ、賛美しながらまたもとの生活へと戻って行きました。

主が「恐れるな」と言われるのはなぜでしょうか。主が「わたしの顔を慕い求めよ」と、心の門を叩き続けるのはなぜでしょうか。主は主を慕い求める者たちをお見捨てになれないからです。あなたを見捨てない、いつもともにいて祝福したいと願われるからです。主は主を慕い求める者たちが、いつも主にあって楽しみ喜ぶことができるようにしてくださる。主は主を慕い求める者たちの口を「主は大いなる方」「主は聖なる方(神々に勝って唯一の神)」とほめたたえることができるようにしてくださる。だから主は、私たちを愛し、あわれみ「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ」と言われるのです。本当に恵みです。感謝です。主を警戒したり恐れたり、それゆえに主を拒むことをせずに、心の門を、心の戸を自ら開けて、主を喜んでお迎えする者は本当に幸いです。そこから幸いな人生が始まるのです。私たちの幸いな人生、それは信仰により、神が私たちに送ってくださった神の御子救い主イエス・キリストを、栄光の王として私たち自身の中に喜んでお迎えすることです。

イエス様、イエス様、神さま、神さまと言う人は多いでしょう。しかしそれは一体何のために主イエス・キリストを迎えようとしているのでしょうか。自分の都合の良いように、すべてのことがうまく行くように、欲望がかなえられるために主を迎えようとしているならば、それは王を迎えようとしているのではなく、自分の言う通りに動いてくれる僕を探しているにすぎないのです。王を迎えるというのは、自分が僕になることでしょう。神が人となられ、十字架にまで、死にまで従われたへりくだりの主の前に、私たちはさらにへりくだらなければなりません。主の前にひれ伏して、その方の言われるとおりに従って言うことであり、それが王を迎える僕の姿です。しかしそれは決して奴隷ではありません。罪から自由とされるため、幸いのため、本当の祝福のためです。

私たちは主を王として迎え、神のみことばを王の命令として聞いているでしょうか。自分の都合の良いものばかり、悪影響を及ぼすものを迎え入れてしまってはいないでしょうか。

イエス・キリストは羊小屋の飼い葉桶に寝かされました。神の永遠の約束、神のみことばが、日毎に人を養うマナが、人々を守りそして正しく導く杖が、イエス・キリストとして飼い葉桶に寝かされた。弱く、でも頑固で迷いやすい羊のような私たちのために。そしてみことばを食べ、反芻して、自分のいのちのための栄養としなさいと。神のみことば、みことばなるイエス・キリストを通して、正しい方向に導くイエス・キリストに導かれ、神ご自身のもとに来なさいと今日も私たちを招いてくださっています。神は今も、イエス・キリストを通して「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙320)と、私たちが心の戸を開け、キリストを招き入れることを願っておられます。

この後、聖餐式が執り行われます。アドベントの初日に聖餐式にあずかることは幸いな機会ではないでしょうか。感謝し、主の臨在を覚えつつ、いのちのパンであるイエス・キリストを、みことばなるイエス・キリストを味わい、そして私たちの内に栄光の王としてお迎えし、主の導きに従う者とされましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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