2024年12月8日 主日礼拝「信仰をもって救い主を待ち望む」
賛 美 新聖歌82「牧人羊を」
新聖歌86「みつかいのたたえ歌う」
前奏(黙祷)
招 詞 テサロニケ人への手紙第一5章16〜24節
讃 美 讃美歌12「めぐみゆたけき」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌94「久しく待ちにし」
聖書朗読 ヤコブの手紙5章1〜11節
説 教 「信仰をもって救い主を待ち望む」
讃 美 讃美歌172「こころして待て」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヤコブの手紙5章7節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
ヤコブの手紙5章1〜11節
説教題
「信仰をもって救い主を待ち望む」
今週の聖句
ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。
ヤコブの手紙5章7節
説教「信仰をもって救い主を待ち望む」
ヤコブの手紙5章1〜11節
アドベント2週目となりました。今朝は2本目のキャンドルに火が灯されました。このキャンドルの火を見つめながら、主が来られる日がいよいよ近づいていることを待ち望む信仰を、主がますます増し加えてくださいますようにと祈ります。
「私たちを救う救い主が来られる」。旧約の時代から、特に「中間時代」と呼ばれたり、また神の預言が下らなかったので「空白の400年」とも呼ばれたりしますが、マラキ書の完成からイエス・キリストがこの世に現れる(クリスマス、第1の到来)までの400年という長い間、当時の信仰者たち、神と神のみことばとその成就を信じる人たちは、どのような思いでその時を過ごしたのでしょうか。それはイエス・キリストの第2の到来、再臨を信じ待ち望む今の私たちと同じ思いだったのではないかと想像します。預言者たちは救い主の到来を告げているけれども、本当に救い主は来られるのだろうか。心からの飢え渇きをもって救い主の到来を心から期待し待ち望む人というのは、やはり深い悲しみや大変な苦しみの中にある信仰者、迫害の中にある信仰者、主を信じ、主に期待する人でしょう。弱い立場の人が追い詰められ、ひどい扱いをされ、苦しめられる。だからこそ主を信じている、主のみことば、約束を信じているし信じたい。救い主の到来を心から待ち望み、心から期待している。私たちはどうでしょうか。皆それぞれに迫害の中を生きる信仰者です。それぞれが様々に程度は違えども、弱い立場に立たされ、追い詰められ、ひどい扱いをされ、苦しめられている現実があります。主を知る以前はまさにそうでした。他人によって、あるいは世の中によって弱い立場に立たされ、追い詰められ、ひどい扱いをされ、苦しみ、悲しみ、そこから救われたいと神を求めたのでしょう。そして神から信仰が与えられたのです。神の私に対する真実の愛が知らされ、神の真実の愛、何があっても決して変わることのない神の愛がこの私にも注がれていること。その頂点は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世(私)を愛された。それは御子を信じる者(私)が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ316)との神のみことばをもって知ったという人も多いのではないでしょうか。私のためにイエス・キリストがこの世に降られた。私の罪のために身代わりとなり十字架につけられ、よみがえられたイエス・キリストを通して知らされた。そして信じた。永遠のいのちが与えられた。心に平安と喜びが与えられた。「さあ立ちあがりなさい。ここから行くのです」と主によって励まされ、信仰者としての新しい人生が与えられた。そのような私たちは今、主の恵みによって生かされている中で、心からの飢え渇きをもって主がふたたび来られること、再臨を待ち望んでいる者でしょうか。また、厳しいことを申し上げますが、私たちは隣人に主の再臨を待ち望ませている者となっていないでしょうか。つまり、自分よりも弱い立場に立たされている隣人を追い詰め、ひどい扱いをし、苦しめているということはないでしょうかということです。あるのです。どこかで意識しながら、あるいは無意識のうちにあるのです。例えばどうでしょう。私たちは買い物をするにあたって、常に安くて良い物を求めて買っていますが、そのために私たちの知らないところで追い詰められ、ひどい扱いをされ、苦しめられている人たちがいるのです。コーヒーを毎日飲まれる方もおられると思いますが、本当にコーヒーを買おうと思うと高いですね。私も説教準備の時にはたくさんコーヒーを飲みます。私が飲むのは安いコーヒーです。「フェアトレード」という言葉をご存知でしょうか。公正に取り引きされたものを買いましょうという運動です。その代表例がコーヒーです。正直、公正に取り引きされたコーヒーは品質も良く美味しいのですが値段が高いです。それで普通に安いコーヒーを買ってしまいます。しかしその陰で、発展途上国のコーヒー農場では奴隷のようにひどい扱いを受け、働かされている人たちがいます。食品ばかりではありません。着るものもそうです。安い衣服が売られている陰で、安い賃金で原料となる綿を栽培する人、安い賃金で縫製工場で働く人などがおられます。やはり皆さん弱い立場に立たされている人たちでしょう。そして私たちは皆、そのような歯車の中に組み込まれているようなものです。弱い立場に立たされ苦しめられ、しかし誰かを弱い立場に立たせ苦しめてしまっている。それが罪の世に生きる罪人の姿でしょう。この世界を良いものに創造された神は、どのようにこの世を見ておられるのでしょうか。
アドベント2週目を迎えるにあたり、与えられましたみことばはヤコブの手紙5章1〜11節です。このヤコブの手紙の始まりはこうです。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。私の兄弟たち。様々な試練にあうときにはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なものとなります」(ヤコ11-4)。つまりヤコブの手紙は、罪の世に生きる、神と主イエス・キリストを信じる信仰者の信仰を励ます手紙です。主を信じ、恵みによって救われた者が救われたものとして、今この世にあって、罪の世にあって、目の前のことを誠実に行うようにと励ます手紙です。そのような手紙の終わりにあたる今日の5章のところで、富んでいる者への忠告がされます。その忠告のベースにあるのは「あなたがたは今、終わりの時にいるのに」という「終わりの時」。つまり「主が再び来られる時が近づいている」ということです。終わりの時、主が再び来られるということは、イエス・キリストを信じた者だけが知ることを許されたものです。ですからこの忠告は、未信者の富んでいる者に対してではなく、あくまでも信仰者に対する、私たちに対する忠告であることを心に留めなければなりません。私たちは自分のことを富んでいるとは思っていないでしょう。かえって貧しい者、虐げられている、苦しめられている側の者だと考えているかもしれません。しかし先ほども申しました通り、私たちは無意識のうちに罪の世で罪人として生きており、また意識しながらも罪の世で罪人として生きている者たちです。そのような私たちに聖書は問うのです。救い主イエス・キリストが私たち罪人のためにこの世に降られ、私たち罪人のために十字架につけられ死なれ、天に昇られ、今私たちがいるのは、主が再びこの世に来られる再臨に備えている時代だ。そしてこの時代に、神の愛に対してあなたはどんな生活をしているのかと聖書は問うのです。
旧約時代にエレミヤを通して語られた主のみことばを思い起こします。「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──主のことば──」(エレ22 13-16)。自分の富や快適な生活のために、自分の心を守るために隣人を迫害する者。弱い立場の人を追い詰め、苦しめる者はわざわいである。思い起こしてごらんなさい。あなたの父は食べたり飲んだりしたけれども、それは公正と義によってであった。自分だけを富ませるものではなかったではないか。追い詰められ、苦しめられ、悲しんでいる者をかばって守り、そのとき、彼は本当に幸せだったではないかと、時代を超えて神はエレミヤを通して私たちにも問うのです。
ここで注意しておきたいことは、何度も言われていることではありますが、聖書は富そのものを非難とか否定してはいないということです。確かに正当な手段で得た富があるし、それこそが祝福であり、またそれを責任をもって正しく活かせば富は本当に素晴らしく祝福されたものとなるでしょう。ヤコブはここで不正な富を激しく非難しているのです。自分の利益だけを中心に考え、他人の立場などを考えない、そのような方法での金集め、つまり「労働者への未払い賃金」に始まり、「ぜいたくな暮らし、快楽にふけり」という富の使い方、「正しい人を不義に定めて殺しました」という自分の利益だけを中心に考え、他人の立場などを考えない対応。「彼らはあなたがたに抵抗しません」という、声をあげずに苦しんでいる人に対する無関心、分かっていても知らぬ振りの愛のなさ。それらをあげて激しく攻めるのです。本当に今の世の中の姿をここに見るようではありませんか。そしてヤコブは信仰者に向かってこの警告をしているのです。私たちはどちら側の人間なのか、しっかりと顧みなければなりません。
「わざわいである。不正な富によって自分を富ませようとする者は」と主は言われます。富に対する警告をされます。なぜなら、テモテが言っているように「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥る」(Ⅰテモ69)からです。ペテロが言っているように「その目は姦淫(もっともっとと求める偶像礼拝)に満ち、罪に飽くことがなく、心が定まらない人たちを誘惑し、心は貪欲で鍛えられている」(Ⅱペテ213-14)からです。ヤコブは言います。貪欲で鍛えられた心によって、「欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりする」(ヤコ42)からです。そのような者は祝福された神の子ではなく「のろいの子」(Ⅱペテ214)だからです。
腐ってしまう穀物、虫に食われる着物、さびがついてしまう金銀。やがて朽ちていく本当には価値のない物に対する欲望は、一時は満足し幸福を感じるでしょうが、実は恐ろしいウイルスのようなもので、人の体やたましいをやがて食い尽くして滅ぼしてしまうと言うのです。それが聖書の語る真実です。不正な富に巧みに騙され、言いくるめられ、滅びに至らされてはなりません。神は私たちを愛してくださり、私たちは神に愛され、イエス・キリストのいのちをもって贖われた神にとって大切な存在、神の子とされているのですから。神の子が罪の世に影響され、ウイルスに冒されるようにのろいの子に変わってしまうことを、父なる神はどれほど嘆かれることでしょうか。このような神の愛に対する私たちの責任というのは、神の恵みに正しく反応、応答していくことではないでしょうか。神の愛への責任を忘れて、ただ私腹を肥やしたり、自分の楽しみだけを追求し、主と隣人をなおざりにしたりしているならば、私たちは神の前で強く責められなければならないことを忘れてはならないと、ヤコブはここでそう警告しています。
「しかし、虐げられている者の叫びは万軍の主の耳に届いている」。このみことばを、私たちはどちらの立場で聞くべきでしょう。隣人を迫害する者としての立場としてしっかりと聞き、そして主の愛と恵みに応えて悔い改めるべきでしょう。同時に、弱らされている私たちの叫びをもきちんと聞いてくださっている主に信頼し、みことばに励まされ、神と神の時、様々な苦しみや悲しみの終わりの時を信じて耐え忍ぶ信仰が与えられるように、そして神の愛と恵みに応えて、信仰によって正しく生きられるように祈り求めるのではないでしょうか。
5章7節 ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。
5章8節 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。
5章9節 兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。
「ですから、兄弟たち」と、「兄弟たち」と、ヤコブは7節と9節で繰り返し呼びかけます。この手紙のテーマ「私の兄弟たち。様々な試練にあうときにはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なものとなります」(ヤコ12-4)と、罪の世に生きる神と主イエス・キリストを信じる信仰者の信仰を励ますのです。主を信じ、恵みによって救われた者が救われた者として、今この世にあって、罪の世にあって、目の前のことを誠実に行うようにと励ますのです。
ギリシャ語の「信仰」という名詞が動詞になると「委ねる」になると以前に申し上げました。信仰というのは一切を神に委ねることです。けれども、諦めたり任せっきりにして自分は何もしなくて良いということではありません。神を信じ、一切を神に委ねることによって心に平安をいただき、安心して神と神の時を信じて、目の前のなすべきことをしていくということです。私がこのことを痛切に感じる時というのは、説教の準備をしている時です。神学生時代に、説教は自分から取りに行くのではなく、待つべきものであることを教えられました。与えられるまで待つのです。そのことを教えてくださった先生も言われていました。「それはそれは恐ろしいよ〜」と冗談のように、でも真顔で言われていました。このまま与えられないのではないかという焦りがある。ひどい時には日曜日の朝に与えられることもある。待ちきれずに説教原稿を書き上げてみても、日曜日の朝にすべてをひっくり返して書き直すことになる。だから神と神の時を信じて待ちなさい。だからと言って、待っている間、何もしなくて良いというわけではない。その時を信じ、その時のためにしっかりと準備をしておきなさい。訳が分からなくても原文にあたり、言語の意味や時代の背景、書かれた事情を調べなさい。すると神の時が来ると、すべてが不思議なほどに繋がる。そのための長い準備の時間が必要ではあったけれども、その時間も祝福であったことを後で痛切に感じるのだ、と。
ノアはどうだったでしょうか。神のみことばを信じ、人々に馬鹿にされながらも神がしなさいということを一生懸命しました。神のしなさいということを一言一句守り、たくさんの時を費やして、決して沈むことのない箱舟を作り上げました。やがて神の時が来て全地は水で覆われすべて滅んでしまったのですが、ノアは神の祝福を受け継ぐ者とされたのです。またその長い準備の間、ノアは神に色々と問うたことでしょう。主との対話の時となった。その時間も祝福であったことと思います。その祝福の時間があったからこそ、ノアは世に流されずに途中で投げ出すことなく最後まで成し遂げたのでしょう。
また、ある先生がこんな例話を語られ、私もそれにとても励まされたのですが、1人の年老いた鍛冶屋がいたそうです。その人は大きな町の真ん中にある店で働いていました。同じ店で働いていた仲間たちは言いました。「あの人は大きな鎖を作る時は、慎重すぎてバカ正直なくらいだよ」と。しかし彼はそんなことばなど気にもかけずに、一段と精魂を込めて働き、大きな鎖を作り続けました。鎖の輪は1つ1つ丁寧に作られ、ついに完成して運ばれて行きました。その鎖は大きな錨につけられ、大きな船のデッキにぐるぐる巻きにして置かれました。けれどもそれは普段使われることがなく、ただ放置されたままで、何の役にも立たないように思われました。ある晩のこと、ものすごい嵐がきて、船は波に翻弄され大きな岩の上に放り出されそうになりました。錨が次々と投げ込まれましたが、何の役にも立たず糸のようにきれてしまいました。ついに非常用の大きな錨が投げ込まれることになり、あの年老いた鍛冶屋が1つ1つ丁寧に作った輪がつなぎ合わされた鎖が解かれました。その鎖が恐ろしいほどの大嵐に耐えられるかどうか、みんな見守っていました。何千人もの命と、たくさんの荷物を積んでいる船の安全は、今やこの鎖1本にかかっていました。あの年老いた鍛冶屋が、この鎖の輪の1つでもおろそかに作っていたら、今ごろどうなっていただろうか。しかし彼は鎖の1つ1つを、どの部分にも正直と真実と最大の力を込めて作り、またテストもしていました。それで、鎖は嵐が止んで朝がくるまで船を安全に保つことができ、船にいた人々とたくさんの荷物は輝く朝を迎え、そして無事に目的地に着くことができた。
ヤコブの手紙か書かれた時代の初代教会は、イエス・キリストが約束された再臨と、その時がすぐにでも来るという期待を持っていました。しかし中には、まだ来ないのかと疑い、待ちきれずに不信仰となってしまい、この世の流れに流されそうになってしまう信仰者たちもいたようです。それでヤコブは、耐え忍んで待つべきであると勧告しています。このイエス・キリストが来られることを待ち望む時の間、イエス・キリストを信じる信仰者はしっかりと信仰に結びついていなければなりません。神と神の時を信じ、委ね、罪の世にあって、罪に翻弄される世にあっても平安をいただき、安心して目の前にある今すべきこと、準備をしていくのです。神と隣人に対する態度をもって備えるのです。
5章9節 兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。
5章10節 兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5章11節 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。
互いにさばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。自分が喜ぶために他人を傷つける。自分が生きるために他人を殺す。そのようなことがあってはならないし、他人が喜ぶために自分が傷ついたり、他人が生きるために自分が殺されてもならない。誰かのせいにしたり責めたりせず、まず私たちがそのような世を求め、そのような世になるために信仰をもって生き、耐え忍び、主が再び来られるその時に、私たちは裁かれることのないように、また、この世界と世界に住むすべての人々を主にお献げできるように、サタンと滅びに引き渡してしまうことのないように、しっかりと主が喜ばれる人生を歩んで行きたいものです。主が来られる時を信じて、平安をもって、安心して主が来られる時まで耐え忍びましょう。備えてまいりましょう。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです」(ヤコ112)とヤコブは励まします。
ヤコブはその耐え忍ぶ人たちの模範を語っています。農夫の場合、種を蒔いて次の日に収穫というわけには行きません。芽を出し実を結ばせるまでに多くの時間と労力を要します。しかも、自分の力で晴れの日、雨の日を調整することなどできません。農夫は収穫を自分から取りに行くのではなく、与えられるまで、豊かな実りを与えられるために必要な初めの雨や後の雨を降らせてくださる、自然をも支え配慮される神を信じて待ち、耐え忍ぶのです。信じて種を蒔き、土を耕したり、すべきことをするのです。そのようにイエス・キリストを信じる信仰者も、主が再臨されるまで耐え忍んで待ちなさいということです。普段の生活の中で、悔い改めにふさわしい実を結ばせるために、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実)を結んで行くために、イエス・キリストの再臨が近いと信じて油断せず、時が良くても悪くても福音の種を蒔き続けるのです。自分に対して、世の中のすべての人に対して福音の種、みことばの種を蒔き続けるのです。私たちは主を信じ、主の収穫の時、再臨の時を信じて、決して無駄になることのない準備を、安心してその備えをしっかりとして行くのです。
安心して備えをして行く。私たちがこれから経験しなければならないことを他の人が経験済みであり、その結果が知らされているということはとても慰めになります。預言者たちは、たとえ彼らの声に耳を傾ける人々がいなくても、神のみことばを語り続けました。私たちの証しや宣教のことばに耳を傾ける人は少ないかもしれません。それどころか、そのことのゆえに辛い目に遭うこともあるでしょう。しかし私たちには、苦難を背負いながらも神のみことばを語り続けた預言者たちの模範があります。
また、ヨブという人は、人生を諦めたくなるような試練に合っても主を信じ続けました。慈愛に富み、あわれみに満ちた主は、ヨブの人生を豊かなものへと回復してくださいました。私たちの人生に於いて、耐えがたいと思える状況に置かれることもあるでしょう。今も置かれているでしょうか。しかし私たちは思い返したいのです。主がみことばのとおりに、約束のとおりに、どんなときでも私たちとともにおられ、私たちに目を注がれ、御手を伸べて転ばないように支え続けてくださっていたことを。
私たちは主を信じ耐え忍んだ人たち、主と主の時を信じ、平安をいただき、安心してすべきことをしてきた人たちの幸いな結末を知っています。今、私たちの生きている世には様々な苦しみがあります。しかしヤコブの手紙を通して主が語られることは、主が再び来られる。それも主を信じ待ち望んでいる者たちを救うために来られる主を信じ、そのことにフォーカスを当てて生きて行きなさいと言うことです。
今年のアドベント、2週目を迎えました。2本目のキャンドルに火が灯され、4本目のキャンドルに火が灯される時が必ず来ます。2本のキャンドルの火を見つめながら、今年はヤコブの手紙からみことばをいただきました。イエス様は言われました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(マタ2413)。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ2820)。今日、主のみことばから平安をいただき、主を信じ耐え忍ぶ信仰を新たにさせていただき、またクリスマスの喜び、救われた喜びをここに新たにしていただきましょう。