2026年1月26日 主日礼拝「十字架のことばは神の力、神の知恵」
賛 美 新聖歌272「救い主の愛と」
韓日讃頌歌483「主イエスの前に出で」
前奏(黙祷)
招 詞 哀歌3章21b〜24節
讃 美 讃美歌4「よろずのくにびと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌138「ああ主は誰がため」
聖書朗読 コリント人への手紙第一1章18〜25節
説 教 「十字架のことばは神の力、神の知恵」
讃 美 讃美歌225「すべてのひとに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一1章18節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一1章18〜25節
説教題
「十字架のことばは神の力、神の知恵」
今週の聖句
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
コリント人への手紙第一1章18節
説教「十字架のことばは神の力、神の知恵」
コリント人への手紙第一1章18〜25節
同盟教団誌「世の光」をご覧いただいた方はご存知かと思いますが、今年から1月の第4主日、つまり今日ですが、「国内宣教デー」となります。現在、3つの教団レベルの開拓教会と、3つの宣教区レベルの開拓教会、さらに東北宣教プロジェクトの開拓教会での宣教が前進しており、救われる方々、受洗する方々が起こされています。後で動画をご覧いただきますが、その証しには本当に励まされます。教会のなかった「未伝地」に、開拓教会を通して福音の種まきがなされ、人々が主のもとに招かれ、導かれ、そこに主の群れが形成され、神の国は広がり続けています。また、この春からは島根県での開拓が始まります。同盟教団261教会がますます聖霊に満たされ、肉の思いではなく御霊によって、そしてイエス・キリストの十字架の福音によって一致し、日本の宣教のために祈り、また実際に献げて行きたいと思います。教会の主である神を愛し、主が愛しておられる教会、そして日本の隣人を愛し、祈り献げ、前回のパウロの言葉を借りるなら、「皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致」し、恵み多い主の宣教のみわざに携わる者とさせていただきましょう。
前回の振り返り
コリント教会の最大の問題
さて前回は、パウロが彼のもとに、様々な疑問、質問が書かれた手紙を携えて来た人の口から、手紙の内容とは別に「パウロ先生、聞いてください。今、コリントの教会は、もうすったもんだしているんですよ」と聞きました。そのすったもんだというのは、「コリントの教会の中に分裂があり、争いがある」ということでした。それは一大事だとばかりに、パウロはいの一番にこの問題を取り扱ったというところを見ました。教会の中に分裂、争いがあることが、どれほど重大な問題であるかが分かります。
コリントの教会は急成長したのか、成長の段階にあったのか。とにかくそこに神の恵みによって群れが形成され、群れは大きくなっていきました。するとその群れの中にこの世とまったく変わらないことが起こってしまいました。イエス・キリストの十字架のことばを信じ、神に罪赦され、神との和解を恵みによっていただいた者たちの間に、仲間割れがあり、争いがあったのです。
教会が大きくなる、量的成長は必ずしも教会の成熟を意味しないのです。初期のコリント教会はその典型的な例であり、私たちへの反面教師とも言えるでしょう。彼らの問題と原因から、私たちは学ばなければなりません。
「どうか、皆が一致してください」
パウロは「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします」という優しい訴えかけをもって1つのテーマに入って行きました。それは「どうか、皆が一致してください」でした。
パウロは何によって一致してくださいとお願いしたでしょうか。教会の指導者のもとに一致してくださいとお願いしたでしょうか。自分の好みのスタイルで語る説教者を選んで、その人のもとに一致すれば良いと言いましたか。バプテスマを授けてくれた人だとか、自分を信仰に導いてくれた人だとか、教会界隈(○○界隈という言い方が流行っているようですが)で影響力のある人のもとに、あるグループのリーダーのもとに一致してくださいと言ったでしょうか。
そうではありませんでした。イエス・キリストを中心に、人を見上げるのではなくイエス・キリストをただ見上げ、人に入れ込むのではなくイエス・キリストを愛し入れ込んで、イエス・キリストの「十字架のことば」によって一致してください、この十字架のことばによってのみ真に一致できるのだからと、パウロは心からお願いしたのでした。
当時の手紙は口述筆記でしたから、パウロはイエス・キリストと何度も口にし、そして十字架と口にした途端、もう我慢できなくなったのでしょうか。得意の脱線をします。突然のように18節のことばが飛び出します。しかし、この脱線にこそ、とても重要なことが語られているのです。
十字架のことば
1章18節 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
ここにある「愚か」という語は、「まじめに取り扱う値打ちのない、つまらない、とんでもない、でたらめ、でまかせ、ナンセンス」という意味の語です。
「十字架のことば」とは、十字架についてのメッセージです。十字架のメッセージはいくつもありましたか。パウロ、アポロ、それぞれの方法によって十字架のメッセージは語られましたが、しかし十字架のことば、メッセージは1つです。
ただ1つの十字架のメッセージ
その唯一のメッセージは、「あなたは確かに悲惨な罪人である」という、とても厳しく、信じがたい、普通の人なら「は? 私がどうして」と思ってしまう、愚かだ、でたらめだ、でまかせだ、ナンセンスだと考えてしまう、そこから始まるのではないでしょうか。しかし、本当に罪と罪の悲惨さを知らなければ、神の愛が本当には分からないのです。
罪というのは、恐らくほとんどの人間の中に意識としてあるでしょう。人を殺してはいけないとか、人の物を盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか。しかしそういったすべての罪の根は、神を知らず、あるいは神という偉大な存在をどこかで意識しながらも、その神を無視し、自分の欲望のままに、自分勝手に生きることです。神を完全無視し、神に背を向けて生きているために、本当のいのちを生きられない。いのちを与えられ、それぞれに賜物(才能、特長など)を与えられた神が望まれる、生き生きとした人生を生きられない。それが聖書の言う人間の罪です。神はそのようにご自分に背く罪人を、それでも見放さず、見放すどころか目を離さずに、それでも愛されるのです。あわれまれるのです。
神の本質—愛、あわれみ
「あわれみ」というのは、本当にすごいことだということを先日の祈祷会で分かち合いました。「あわれみ」の語源は「内臓、はらわた」です。ヘブル人の中では感情が深く宿るとされる内臓が「深いあわれみ」を表す言葉として使われている。たとえば、イエス様はナインの町で、たった一人の息子を失い、涙も涸れ、悲嘆に暮れるやもめの母親の姿を見て、内臓がえぐられるほどの憐れみと同情の念を抱かれました。神が人間のありようによって感情が動かされるなど、本来は考えられないことではないでしょうか。バチをあてる神概念しかない日本人には特にそうかもしれません。弱い、愚か、まじめに取り扱う値打ちのない、つまらない、とんでもない、でたらめ、でまかせ、ナンセンス。
しかしイエス様は神でありながら人間の姿をとられた方であり、ここに神の愛の本質を見ることができるのです。人間(罪人)の悲しい、情けない、哀れな姿に、神の心はまるではらわたをえぐられるように動かされるのです。それがあわれみであり、神の真実な愛であり、その愛とあわれみによって神は罪人を愛し、あなたを愛し、滅ぶべき罪人であるあなたのいのちを救うために、神のひとり子イエス・キリストを地上に降らせ、あなたの身代わりとして十字架につけられた。マタイの福音書で見ましたが、イエス様が十字架のはじめから終わりまでで味わわれた苦難が、霊的な苦痛が、死が、本来罪人が味わうものであることを、神はイエス・キリストの十字架の姿をとおしてまざまざと見せられました。そしてイエス・キリストはあなたの罪の一切を負われ、死なれた。しかしよみがえられ、今も生きておられる。この神の愛とあわれみの現れであるイエス・キリストの十字架を見上げ、神の愛に立ち返って、イエス・キリストの十字架をとおしてわたし(神)のもとに帰って来なさい。イエス・キリストの十字架をとおして帰って来るなら、わたし(神)はあなたの罪を豊かに赦そう。祝福しよう。恵みを施そう。生き生きと生きられる永遠のいのちを与えよう。そう約束してくださるのです。旧約時代、荒野で罪を犯し、蛇の毒によって死にそうに倒れていた民が、モーセの青銅の蛇を見上げるだけで民を救うと神が約束されたように、イエス・キリストの十字架を信じることによってのみ救おうと神は約束される。それが神の知恵であり、愛であり、あわれみです。神は愚かだと思いますか。神は力の無い弱い方だと思いますか。
2種類の人間、2種類の受け取り方
十字架に込められたメッセージは、滅びに向かって現にその道を進んでいる人々と、救われて現に救いの完成を目指して前進している人々とでは受け取り方が全く異なるのです。滅びに向かって現にその道を進んでしまっている人々は「愚かだ」と考える。しかし救われて現に救いの完成を目指して前進している人々には「神の力」となる。
「力」と訳されたギリシア語はダイナマイトの語源となった語です。もの凄い爆発力、威力、力。そして何と「神ワザ」とも訳せる語です。まさにイエス・キリストの十字架、罪人さえ愛される神の愛とあわれみ、罪の赦しは、神ワザとしか言えないのではないでしょうか。神ワザというのは、人間には決してできないことというものです。
そして私たちはパウロが言うところの「救われる私たち」です。なぜなら私たちは、イエス・キリストの十字架、罪人さえ愛される神の愛とあわれみを愚かだとはまったく思っていないからです。それは神ワザだと思っているでしょう。神ワザとも言える神の恵みをいただいていると思っているでしょう。心からありがたいと、感謝しているでしょう。であるなら、教会の中で仲間割れや争いがあるものでしょうか。しかしコリントの教会にはあった。ということは、コリントの教会の中に、イエス・キリストの十字架のことば、メッセージに対する不信仰と誤解があったのかもしれません。パウロがそれは一大事だと、いの一番にこの問題にとりかかったのにもうなずけます。
そして、救われた私たちには、十字架のメッセージを愚かだと言う人たちに、それは神ワザだと宣べ伝えることが委ねられています。神の栄光を表すという教会の存在意義があります。ですから教会の中で仲間割れや争いなどしている場合ではありません。世の人々は私たちのことばだけではなく、生き様にも注目しているからです。それが宣教というものです。
世の知恵を滅ぼし、消し去る神
1章19節 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
パウロは、世の知恵がどれほど愚か(まじめに取り扱う値打ちのない、つまらない、でたらめ)で、神の力がどれほど偉大かを説明するために、イザヤ書29章14節を引用しています。
ここで「知恵」と訳されているギリシア語は「σοφία・ソフィア」です。ギリシア人の哲学的知識、学問を研究する知恵を表しています。私が学んだ新潟聖書学院の近くに、ソフィアセンターという図書館がありました。いわゆる知識を集め、学問を研究する施設です。柏崎の人たちはどうか知りませんが、ギリシア人が多数住み、その文化が色濃く残るコリントの人たちは知識を蓄えること、学問の研究が大好きでした。好奇心旺盛、論じ合う(悪く言えば言い争い)のが大好きでした。コリントの教会の中に、イエス・キリストの十字架のことば、メッセージに対する不信仰と誤解があったとするなら、この辺りが原因だったのかもしれませんね。
世の知恵と神の知恵
1章20節 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
「知恵ある者」とは、先ほどのソフィア、ギリシア人の哲学的知識、学問を研究し探求する教師たちのことを指しています。「学者」というのは、コリントの町にも住んでいたユダヤ教の律法学者のこと。「この世の論客」というのは、その両方を指しています。
コリントの町に暮らす彼らは皆、古代ギリシアの修辞学(相手をうまく説得する方法、人を引きつける表現方法などを研究する)に傾倒し、互いに論じ合っていました。論じ合っていたというよりも、どちらが優れているか争っていた。それが教会の中にも持ち込まれ、パウロ派、アポロ派、ペテロ派、キリスト派に分かれて争っていた。その論じ合い方というのも、やはり古代ギリシアの影響があり、詭弁に満ちていたようです。
詭弁というのは、間違った内容や意見を正しく見せかけたり、自分の意見に言いくるめようとしたりする話し方のことです。相手を言い負かして自分の意見を認めさせたい。この人の意見には何が何でも反対したいなどの意志を持って論じ合っていた。コリント教会の分裂争いの実態が見えてきます。パウロが「キリストが分割されたのですか」と嘆いてしまったのも分かりますね。こんな教会に連なりたいと思いますか。
だからこそ、ただイエス・キリストを見上げ、唯一の十字架のことばに聞き、そこで一致しなければなりません。そこでしか真に一致できないのだと、パウロは言ったのです。十字架のことばによって、イエス・キリストを信じる信仰によって一致した教会は本当に成熟した教会です。そしてその教会はますます神の恵みによって量的にも、霊的にも成長して行くでしょう。どっしりとした揺るがない教会になるのではないでしょうか。
「知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか」。このパウロの質問は、当然キリスト中心の教会にはいないでしょう、いるはずがないでしょうというものです。なぜなら「神が、この世の知恵を愚かなものにされた」のだから。神の愛、神のあわれみ、その現れであるイエス・キリストの十字架のメッセージは神の力、ダイナマイト。知識やこの世の愚かな知恵を誇るその愚かさを爆破して粉々に砕くことのできる力です。
1章21節 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
21節は、20節の「神がこの世の知恵を愚かなものにされた」その理由が説明されています。
神の決定、御心
この世は自分の知恵や力によって神を知ることがなかった。できなかった。しかしそれもまた、神の知恵、御心によるのでした。それで神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされた。原文では「それが良いと思って」とも訳せます。また「喜んで救うことにされた」とも訳せます。
神は私たちの宣教のことば、宣べ伝えることば、それはこの世の人たちが「愚か、馬鹿げている、真面目に取り扱う値打ちのない、でたらめ、でまかせだ」と思う「十字架のメッセージ」を信じる者を救おう、それが良い。十字架のメッセージを信じる者を喜んで救うことにしよう。そう決められたのです。神の決定です。
また、ここは17節の「福音がことばの知恵(人を引き寄せる、美辞麗句)によって宣べ伝えられるものではない」という説明ともつながります。
恐れず、語り続けよ
いずれにしても、十字架のメッセージが真っ直ぐ語られ、それを信じて救われ、恵みをいただいた私たちは、恐れずに十字架のメッセージを真っ直ぐに語れば良いのでしょう。自分の身に起こった神ワザを、真っ直ぐに、自分を良く見せようとする必要もなく、真っ直ぐに語れば良いのでしょう。愚かと思われるかもしれません。しかし、愚かと思う人の中に、神が召しておられる神の民がいる。愚かと思う人の中からも、神は救われる魂を起こされるのです。パウロはこのコリントの町で聞いた神の御声を記しています。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあたなとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使189)。
十字架につけられたキリスト
1章22節 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
1章23節 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1章24節 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
世の人々のキリスト(メシア・救い主)像
ユダヤ人とギリシア人は、この世の人々の代表と言って良いでしょう。
ユダヤ人にとっては、木にかけられた者は神ののろいを受けた者であり、メシアのしるしになるはずがないと考える。
ギリシア人の知恵によっては、十字架の上につけられた敗北者が、自分たちが求め、自分たちを満足させるものになることはあり得ない。愚かだ。
異邦人は他の神々のような救い主を想像する。例えば私の頭にすぐに思いつくのは、不動明王のように手には大きな剣を持ち、背後には燃えさかる炎。今この世で生きる現世で願い事を叶え、悩める人々を力強く救い出すという神、そのような姿を思い浮かべてしまいましたが、異邦人はそのような救い主を想像し期待するのでしょう。求めるのでしょう。
ですからこの世の知恵によると、残忍でおぞましい十字架につけられたキリストは、その真逆のような者でしかあり得ないのです。愚かで、弱いものなのです。
宣教のことばの愚かさを通して
しかし神は、宣教のことば、十字架のメッセージ、その内容の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。神は愚かだと思いますか?
神は十字架のメッセージをとおして、ご自分の愛を余すところなく示されました。神は計り知れない、人の想像を超えた優れた知恵と愛によって、自分の弱さと罪を認め、この世の知恵を捨て、イエス・キリストの十字架を信じる者が救われて、ご自身を知ることができるように、ご自身との本当に親しい交わりを持つことができるように計画されました。
神に召された者の幸い
神は十字架のメッセージをとおして、高慢を悔い改め、そしてへりくだる者に、世にはない本物の知恵を注ぎ、聖霊を注ぎ、その力で十字架の愛を悟れるようにされました。この上よりの知恵を得ることは、神に召された者たちだけが可能なことなのです。神の上よりの声、呼びかけ、招きにこたえ、神のもとに呼び集められた者たち。そして聖なる者とされた者たち。罪人でありながらも、罪に汚れていながらも、神の恵みによって神のものとしてこの世から取り分けられた者たち。
ここでパウロは、召された者という聖徒の恵まれた幸いな身分を再び強調するのです。あなたたちは本当に幸いであると。「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです」(9節)。
私たちは間違いなく神に召された、本当に幸いな者たちです。神は愚かだと思いますか?
神の知恵と力
1章25節 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
私たちは何事も人の知恵、人の力に依り頼むのではなく、神の賢い知恵、神の力に依り頼むのです。救いもそう。一致することもそう。召しもそう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザ558-9)。神はそう言われるのです。
なぜ私が救われたのか。どうして私の罪が赦されようか。どうしてこんな私が主に召されていると言えるのだろうか。どうしてこんな私が宣教など、十字架のメッセージを人に伝えることができようか。
心配するには及びません。すべて神のお考えがあるのです。すべて神の力、ダイナマイト、もの凄い威力、神ワザによるのです。
私たちは自分の知恵や力を信じて頼るのではなく、ただ神の賢い知恵と、もの凄い力を信じ、頼って、イエス・キリストの十字架のメッセージを信じる信仰によって一致し、宣教のために出て行きましょう。この世で、置かれている所で、神を愛し、神に頼り、神を喜んで毎日を生きる。それも立派な宣教です。神がそれぞれに御心によって与えられた賜物を十分に活かしながら、主を喜び、一致して主の御業を成して行く。そこに神の国が広がって行くのです。神の国は喜びの国です。皆が、活かされて、喜んでいる世界です。そこに主が私たちに望まれる、喜びに満ちた生き生きとした本来の人生があるのです。
終わりに
冒頭でもお知らせしましたが、これから1つの動画を見ます。そこから励ましを得させていただきましょう。その動画には、現在日本国内で開拓という福音未伝地において主の宣教のみわざに一致して励んでおられる教会の姿があります。宣教において、きっと弱さをひしひしと覚えておられることでしょう。しかしだからこそ、どの教会も信仰によって心を1つにし、思いを1つにして、祈り、主に依り頼んで歩んでおられます。主はその群れに、1人また1人と主の御名を呼び求め、救われて、交わりに入れられる魂を起こしてくださっています。弱さを認め、主にあって一致することの素晴らしさ、それこそが本物の賢さ、力であることを覚えさせられます。そこに神の国、喜びに生きる世界があることを見ることができます。そこから私たちも励まされて、知恵と力をいただき、ここから新たに主の御心、ご計画に従って、この地における宣教のわざへと出て行く者としていただきたいと思います。