2025年7月27日 主日礼拝「主があなたがたを愛されたように」
賛 美 新聖歌284「ひたすら求めよ」
新聖歌438「悩む世人のために」
前奏(黙祷)
招 詞 申命記10章12〜16節
讃 美 讃美歌12「めぐみゆたけき主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 454「うるわしき朝も」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 10章23節〜11章1節
説 教 「主があなたがたを愛されたように」
讃 美 讃美歌318「主よ、主のみまえに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 10章23節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 10章23節〜11章1節
説教題
「主があなたがたを愛されたように」
今週の聖句
「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
コリント人への手紙 第一 10章23節
説教「主があなたがたを愛されたように」
コリント人への手紙 第一 10章23節〜11章1節
23、「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
24、だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
25、市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
26、地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
27、あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
28、しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
29、良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30、もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
31、こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32、ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
33、私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
1、私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
はじめに——あなたがたは賢いのだから
動物には心や感情というものはないのだという意見を耳にすることがありますが、本当にそうなのでしょうか。動物の親も子を守ろうとします。敵から守ったり、悪いことや危ないことをすれば噛んだりして叱って止めさせます。それはただの本能や習性であって、そこに子を愛する愛という心や感情は存在しないのでしょうか。また、例えば犬はとても表情が豊かです。表情というのは心や感情が顔に現れたものでしょう。動物のいたずら動画を集めたテレビ番組などでも良く見かけます。飼い主の留守中に犬が遊び心を我慢できず、クッションをくわえて振り回し、そのクッションが破けて部屋中に中身が散らばってしまい、しばらくして飼い主が帰ってくるとその犬は知らん顔をしようとするのですが、「ヤバイ、どうしよう、叱られる」という表情が顔に出てしまい、眉間にシワを寄せて困ったような表情で飼い主の顔をチラチラと恐れながら見るというもの。犬はしてはいけないことをちゃんと分かっているのですね。それが良心というものでしょうか。そのような心が犬にもあるように思います。また、数年前にフランスでツバメの夫婦の話が話題になりました。ツバメは基本的に一夫一妻制だそうです。だからと言ってツバメに夫婦愛があるのだとは一概に言えないのかもしれませんが、しかしそれがあるのではないかと考えさせられる話題でした。ツバメの奥さんが交通事故にあって瀕死の状態になってしまいました。旦那さんは何度もその奥さんに食べ物を運んで励まし続けるのです。けれども奥さんはついに命が尽きてしまった。食べ物を運んで来た旦那さんがそれを発見すると、それでも奥さんの体を揺さぶり、一生懸命に泣き声を上げて励まし続けるのですが、残念ながら奥さんは還って来ませんでした。その様子を収めた映像に、多くの人が涙しました。ツバメにも心があるのではないか。良心があるのではないか。ツバメにさえも今、愛する相手のために何をすべきかが分かっているような、そんな話題でした。
もしもパウロがこの話題を耳にしたならば、こう言うのではないでしょうか。「私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。決心してください。あなたがたは犬や鳥よりも賢いのだから、何がして良くて、何がしてはいけないことかをちゃんと自分で判断し、自分で決心できるでしょう」(Ⅰコリ1015)と。
「偶像礼拝を避けなさい」
先週は「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」(Ⅰコリ1014)。「ですから、私が霊的に生んだわが子たちよ、私の愛する者たちよ。コリントの教会よ、○○よ、(長野聖書教会よ)。偶像礼拝を避けなさい。そこから必死に逃げなさい。私はあなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくないのです」(Ⅰコリ1020)というパウロの愛による懇願、勧告を見ました。
偶像とは何か。それは神よりも愛するもの、神よりも大事にするものすべて。私たちは簡単に神を後回しにし、自分のやりたいことを優先してしまいますが、それが偶像礼拝であると。「貪欲は偶像礼拝です」(コロ35)と聖書ははっきり言います。そしてそれを軽く考えてはならない。実はそれは悪霊と交わる(ギリシャ語でκοινωνία/親密な関係、まったくの結合、一心同体となる)ことになってしまうのだから。そして悪霊と心も体も1つとなって行く道の先は永遠の滅びなのだから。そのようなことの上に神の怒りがくだるのです(コロ36)。神はご自身が「ねたむ神」であると言われます。それはねたむほどに私たちを愛しておられるということです。動物の親子だったら親が子に噛みついて懲らしめて叱るところです。私たちは現実世界に生きながら、そのような目に見えない霊的な世界にも生きているのです。
そしてまた、「あなたがたはわたしの愛する子だから、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくない。あなたがたはイエス・キリストの十字架と復活によって神の怒りが宥められ、すべての罪が恵みによって赦され、恵みによって主と交わる者、主との幸いな親密な関係、まったくの結合、一心同体、愛し愛される関係に入れられているのです」という、聖書が示す私たち、そして私たち教会に対する父なる神の御心、愛が教えられたところです。信じられますか。かつてはこれほどまでに私たちを大切に思ってくださる神を無視し、神を忘れ、自分勝手に生き、神を悲しませ、怒らせ、苦しませてきたこの私が、悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに神の子とされているのです。聖なる者、この世から神のものとして特別に取り分けられているのです。そして臆することなく神の御前に進み出ることが許され、「アバ、父よ」と神に祈ることが許されているのです。そして、神の何としても幸いであれという親心が注がれているのです。神の霊、心、聖霊を私たちに注がれ、私たちの内に住まわせ、私たちの思いのすべてを知ってくださり、すべてのことを教え、良い方向へ、真の幸いへ、永遠のいのちへと守り導いてくださっているのです。
私たちはそのことを知らされ、信じ、神の恵みに感謝し応えようとする者たちです。しかし悪い心、悪い欲、偶像もいまだに根深く残っているのが現実でしょう。最近みことばの光を通して学んでいる旧約聖書に記されている神の民の歴史を見ても、神の神殿の横に偶像の神殿も建てられていた。あちらこちらに「高き所」があり、そこでいけにえ(犠牲=愛、心)が献げられていた。そのように真の神に仕えながら、偶像にも当たり前のように、あまり罪の意識なく仕えていた。その結末はどうだったか・・・。もしかしたら、いや確実に私たちも旧約の神の民の歴史と同じ道を歩いているのではないでしょうか。しかし今、その道にイエス・キリストが介入してくださっている。本当に感謝なことです。
今朝もコリント人への手紙第一の講解を進めてまいります。
あなたがたは賢いのだから
さて、私たちは賢い者とされているのです。どのようにでしょうか。神の素晴らしい恵み、良いもの、良いお取り扱いをたくさんいただいて、良い経験を積んで、良い知識が日々増し加えられてです。また神のみことばがすぐ身近にあるからです。ですから私たちはすでにそこから私たちの内に住まわれる聖霊の助けをいただきながら自分で判断し、自分で決心することができるのではないでしょうか。何がして良くて、何がしてはいけないのかを。
10章23節 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
「すべてのことが許されている」とは、当時のコリント教会に集う人々の間で掲げられていたスローガンでした。私たちの心にも掲げられているかもしれませんね。コリントの教会の中には、「キリストにあって自由である」ということを誤解したか、あるいは当時の一般社会の悪い影響を受けてそのスローガンを掲げ、自由気まま、自分勝手、自分の欲望のままに普段の生活をしていた人たちも一定数いたようです。
それに対してパウロは、「すべてのことが益になるわけではない」と反論します。また「すべてのことが人を育てるとはかぎらない」と反論します。「育てる・οἰκοδομέω」というギリシャ語は「建て上げる」というものです。その語源は「家・οἶκος」です。「オイコス」というヨーグルトが売られていますが、それを見たら10章23節を思い起こしてください(?)。
あなたがたは「すべてのことが許されている」と言いますが、「すべてのことが益となるわけではない。すべてのことが人を建て上げるわけではない。すべてのことが教会を建て上げるわけではない。すべてのことが互いの霊的成長に役立つわけではないのだ」とパウロは反論するのです。私たちの耳にも痛い言葉です。
そのパウロは、ローマ人への手紙の中でこのように勧めています。「ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」(ロマ1419)と。この「追い求める・διώκω」というギリシャ語も興味深い語です。その意味は「熱心に探索する」という意味の他に、「逃げる」そして「追う、ついて行く」という、何だか真逆の意味があるのです。パウロは「偶像礼拝を避けなさい。偶像礼拝から逃げなさい。自分の貪欲から必死に逃げなさい」と言いました。そして平和に役立つこと、互いの霊的成長に役立つことの方に逃げなさい。そちらを追って行きなさい。そちらの方にこそついて行きなさいと言うのです。
偶像礼拝、あるいは異端の特徴とは何でしょうか。それは、その人を自由にすると見せかけて、実はがんじがらめに支配することです。その人を悪い支配の形の下に置くことです。献金を強要されたり、高価な物品を買わされたり、その人をがんじがらめにして支配したり。その人を自由にすると見せかけて、実は奴隷にして滅びへと引いて連れて行くことです。ですから、私たちが何をしても良いという自由を行使する時に、その自由が良いものなのか悪いものなのか、キリストにある自由なのか、サタンが見せる自由なのかを判断しなければならない。その基準というのは、自分にとっても他人にとっても、本当にそれが平和をもたらすものなのか、自由にするかどうか、そこに悪い支配の形がないかどうかなのです。イエス様は言われました。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハ831-32)と。私たちはイエス様から目を離してはならないし、イエス様のみことばにとどまらなければなりません。私たちには聖霊が注がれています。聖霊が私たちの内に住んでおられます。その聖霊が、イエス様が言われたすべてのことを私たちに思い起こさせ、教えてくださいます。そのイエス様のみことば、真理が私たちを自由にするのです。もしイエス様が言われていないことが聞こえて来たら、それは私たちを自由にする真理ではありません。私たちを悪い支配の下に置き、罪の奴隷にして滅びへと引いていこうとする試みの声です。その声を聴き分けることにおいても、聖霊の助けと賢い知恵が必要です。
神にある自由というのは、他人のことを無視して思いのままに振る舞うという、この世でよく考えられていることとは違います。聖徒は罪と悪から自由にされたのであって、罪と悪の奴隷だった時にはできなかった良い行いを、思いのままにできるようにされたというのが、神の自由の意味です。神の自由、神が与えられる自由、つまり私たちにとって真の自由、罪と悪の奴隷だった時にはできなかった良い行い、私たちが追い求め、選び取るべき良い行いとは何でしょうか。自分を、他人を、そして教会を建て上げることのできる自由な良い行動とは何でしょうか。パウロが示す答えは24節にあります。
神の栄光を求めて生きて行く
10章24節 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
パウロは言います。自分の利益をそこに見いだそうとしてそれを探し求めずに、他人の利益となることの方を見いだそうとしてそれが何かを探し求めなさいと。あなたがたは一人ひとり、自分自身、また他人、そして教会の霊的な成長のために益となることは何かを一生懸命にイエス様のみことばの中から、イエス様の御姿の中に探し求め、それを正しく行って「互いを」喜ばせるべき、互いを、つまり相手を受け入れ、自分も相手に受け入れてもらうべきであると。それが互いの霊的成長、あなたがたの教会、コリント教会の、あるいは私たちが仕えている長野聖書教会の霊的な成長へとつながるのだと教えるのです。
互いを喜ばせるべき、互いを受け入れるべき、自分を相手に受け入れてもらうべき。だからと言って、それはこの世と調子を合わせることではありません。神の栄光を現すためにするのです。神の栄光とは何でしょうか。イエス様がこの世にお生まれになる夜、天使たちは神を賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」(ルカ214)。神はご自身のひとり子であるイエス・キリストを人の姿にへりくだらせ、この世に降らせることでご自身の栄光を現されました。イエス・キリストをこの世で人の中で人として生かされることにより、ご自身の栄光を現されました。イエス・キリストの御姿、生き様、語られるみことばによってご自身の栄光を現されました。そしてイエス・キリストを人の罪の身代わりとし、十字架につけられることによってご自身の栄光を現されました。イエス・キリストが死んで葬られ、3日目によみがえられたことによってご自身の栄光を現されました。そしてこのイエス・キリストを通して悔い改めへと導かれ、イエス・キリストを救い主としてただ信じることによってのみ、その人を救われる。それによってご自身の栄光を現されました。この神の栄光を現すために、私たちは神の栄光を求めて生きて行くのです。生きて行きたいと自由に願う者とされているのではないでしょうか。
また、9章22節でパウロは、自分がすべての人にすべてのものになったのは、彼らを救いに導くためだと説明しました。それと同じ目標をコリントの聖徒も持つように勧めているのです。そのためには、パウロはすべてのことですべての人を喜ばせ、自分ではなく多くの人々の利益、つまりその人が救われることを求めなければならないと説明します。そしてパウロは「同じように私も努力している」と言っています。
10章31節 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10章32節 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
10章33節 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
結局のところ、イエス様が十字架にかけられる前夜、最後の晩餐の席で言われた「互いに愛し合いなさい」ということでしょう。
【ヨハネの福音書】
13章34節 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13章35節 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。愛があるなら礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。愛があるなら苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。愛があるならすべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません(直訳・私訳『愛があるなら決して失敗することはありません』」(Ⅰコリ134-8)。パウロはこのように愛を捉え、その愛を生きました。その具体的な生き方の例として、10章25節以下のところが記されています。
愛によって決して失敗しない生き方。「私、失敗しないので」とは、医療ドラマの中で天才女医が放つ一言ですが、自分に与えられている賜物を活かし、「私、失敗しないので」という生き方を実際に可能にするのは、神の恵みに感謝して生きるということでしょう。
恵みに感謝して
10章26節 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
詩篇の記者も歌います。「地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの」である(詩241)。そしてパウロは霊的なわが子テモテにはこのように言っています。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」(Ⅰテモ44)。この「もの」と言われているものは何でしょうか。
そしてここにある「受ける・λαμβάνω」ですが、これは投げられたボールをキャッチするイメージです。ボールが投げられたらキャッチ(受け取る)しようとする。せっかく投げられたボールは、キャッチせずにはいられない。それを落とさないように大事にキャッチしなければならない。そのように、神が恵みによって私たちにくださったものを、信仰によって感謝して受け取るならば、捨てるべきものは何もないのだとパウロは教えるのです。
10章28節 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
実は原文のギリシャ語には、28節の最後に26節と同じ「地とそこに満ちているものは、主のものだからです」というみことばが記されています。26節のところでは、「もの」は食べ物のことを言っているのでしょう。しかしこの28節では「すべての人」のことを言っているのではないでしょうか。すべての人は、神があなたがたに投げて、あなたがたが大事に信仰によって感謝してキャッチする(受け取る、捕らえる)ことを願われているのだと。なぜならば、「あなたがたのためと同じように、この兄弟のためにも、この人のためにも、キリストは死んでくださった」(Ⅰコリ810-12)からです。
10章31節 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい」(コロ317)。そうです。私たちはことばであれ、行いであれ、何かをするときには常に父なる神が罪人のかしらであったこの私に、イエス・キリストを通してなしてくださったこと、大きな恵み、救いの恵み、十字架のみわざを思い起こし、自分に重ね合わせて、他人に重ね合わせて、何をして良いのか、何をしてはいけないのかを考えるのです。判断するのです。そして決心するのです。また、今も未だに罪人のかしらのようであるこの私に、神がイエス・キリストを通してなしてくださっていること、すべての恵み、愛、赦し、あわれみに目を留めて、覚えて、自分に重ね合わせて、同じように他人に重ね合わせて、私だけではない、私のためだけではない、目の前にいるこの人に対しても、教会に対しても主がご自身の愛を注がれておられる。ご自身の赦し、救いを示しておられる。そして私はこの人に対して、教会に対して何をして良いのか、何をしてはいけないのかを考えるのです。判断するのです。そして決心するのです。
「あなたがたは賢いのだから、それができるのです」と聖書は私たちを励まします。わたしたちは日々、聖霊の助けをいただきながらみことばに聞き、みことばに学び、みことばに生き、みことばによって生かされ、そしてみことばを教え、それらによって神の素晴らしい恵み、良いもの、良いお取り扱いをたくさんいただいて、良い経験を積んで、良い知識が日々増し加えられているのです。私たちは神の恵みによって、神との親密な関係が与えられ、イエス様がともにいてくださり、私たちの内に住まわれる聖霊を通して、みことばによって怠惰なこの私を諭してくださり、小心な私を励ましてくださり、弱い私の世話をしてくださり、寛容でいてくださり、私のする悪に対して悪を返されることはなさらずにいてくださる。日々のその恵みを覚えるならば、私も同じように他人を愛する、愛したい、愛そう。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に寛容であろう。悪に対して悪を返さないように気をつけて、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めよう。いつも喜んでいよう、絶えず祈ろう、すべてのことにおいて神に感謝しよう。これがキリスト・イエスにあって神が私に望んでおられることだから。注がれている神の愛、神の親心、御霊、聖霊を消してはならない。日々聖霊を通して私に語られるみことばを軽んじることはしない。ただし、私に語られるみことばを良く吟味し、それが本当にイエス様が語っておられることなのか、それともイエス様が語っておられないことが語られているのかをよく吟味して、イエス様が語られるみことばであるならば、私を真に自由にしてくれるイエス様の真理のみことばであるならばそれをしっかり保って、あらゆる形の悪から離れよう、避けよう、振り返りもせずに必至に逃げよう。そう心に決めるのです。
10章32節 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
10章33節 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
パウロは言います。あなたがたは賢いのだから。
神の似姿に造られ、聖霊が内に住まわれている私たちは、実際に犬よりも賢く、何をしてはいけないのか、何が主人を悲しませ、何が主人を喜ばせるのかを識別できるでしょう。鳥よりも賢く、何が愛なのか、愛による行動がどのようなものかをはっきり識別する力があるでしょう。ですから私たちは聖霊の助けをいただきながら、自分で判断し、自分で決心することができるのです。すべてのことが許されている。しかしすべてのことが人を育てるとはかぎらない。すべてのことをしても良い。しかし自分を、他人を、教会を建て上げるために何をすべきか、何をしてはいけないのかを考え、決心する。
主のように
最後にパウロは勧めます。
11章1節 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
私たちは常に主イエス・キリストのみことばに聞き、主イエス・キリストの御姿を心に映し、主に倣い、主のように歩んでまいりたいと願います。そして一人ひとりが、自分を、他人を、教会を建て上げる者、建て上げたいと心から願う者とされたいと願います。「主のように、主のように」と歌う賛美があります。「世の宝を捨て、同情に満ち溢れ、愛に富み、優しく。迷う人を見いだして主の許に導く。謙遜と忍耐と勇気とに溢れて、人々を救うために苦しみもいとわず、いつも聖霊に満たされ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて神に感謝する。主のように、主のように、きよくしてください」。そのようにして父なる神の栄光を現されたイエス様に目を留め、この心に御姿を映し、私たちは自分の欲望に目を留めるのではなく、主のみことば、御姿にこそ目を留め、追い求める者へと変えられて行きましょう。イエス・キリストを通してすべての罪が赦されていることを信じ、そして感謝し、大胆に主の御前に進み出て、祈り、聖霊、主の愛で満たしていただき、主が住まわれる宮としてふさわしいものへと整えていただきましょう。そしてこの現実世界にあって、主の栄光を現してまいりましょう。