2026年7月29日 祈祷会「わがたましいよ 主をほめたたえよ」
聖書箇所
詩篇103篇
「わがたましいよ 主をほめたたえよ」
皆さんに、最初に二つの質問をしたいと思います。
一つ目は、「主は、あなたに何をしてくださいましたか。」
もう一つは、「その主は、どのようなお方でしょうか。」
すぐには答えが出てこないかもしれません。しかし、今日の詩篇103篇は、その答えを一つ一つ教えてくれます。
まず1〜5節で、ダビデは主がしてくださったことを思い起こしています。
主は私たちのすべての罪を赦し、病を癒やし、滅びからいのちを贖い、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、良いもので満ち足らせてくださるお方です。
続く6節以降では、その主がどのようなお方なのかを語ります。
主は、あわれみ深く、情け深く、怒るに遅く、恵みに富んでおられます。
私たちの罪に応じて扱われることなく、父が子をあわれむように、私たちをあわれんでくださるお方です。
そして15節以降では、人は草のように弱く、はかない存在であることが語られます。
しかし、そのような私たちに対する主の恵みは、とこしえからとこしえまで変わることがありません。
だからダビデは、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」と語るのです。
ここで心に留めたいことがあります。
ダビデは、最初に人々へ向かって「主をほめたたえなさい」と語ったのではありません。まず、自分自身の魂に語りかけています。
なぜでしょうか。
それは、賛美はまず自分自身の心から始まるからです。
私たちも、礼拝や祈祷会に集まっていても、心は不安や悩み、忙しさでいっぱいになっていることがあります。そのような時、自然に賛美があふれるとは限りません。
だからダビデは、自分の魂に語りかけます。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
しかし、それは無理に気持ちを奮い立たせるためではありません。
その理由が続く言葉にあります。
「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
つまり、賛美は感情から始まるのではなく、神の恵みを思い起こすことから始まるのです。
主が何をしてくださったのか。主がどのようなお方なのか。それを思い起こすとき、私たちの心にも、もう一度賛美が生まれてきます。
そして詩篇の最後では、賛美はさらに大きく広がります。
天使たちも、主の万軍も、すべての造られたものも、主をほめたたえています。
その壮大な賛美の中に、私たちも招かれているのです。
これは何という恵みでしょうか。
罪赦された私たちが、全被造物によってほめたたえられる主を、ともに礼拝し、ともに賛美する者とされているのです。
今日の祈りも、まず「主よ、ここまで良くしてくださいました。ありがとうございます」という感謝から始めたいと思います。
そしてダビデとともに、私たちも自分自身の魂に語りかけましょう。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
単なる賛美への招きか
しかし、詩篇103篇は、単なる「賛美の歌」ではないと思うのです。
ダビデが自分自身の魂を牧会している詩篇とも言えるでしょう。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
この二つの命令は、他人に向けられているのではなく、自分自身に向けられています。
なぜでしょうか。
それは、人間は放っておくと、神の恵みを忘れてしまうからです。
申命記でも、約束の地に入るイスラエルに向かって何度も「忘れるな」と命じられています。罪は、多くの場合、「神を忘れること」から始まります。
だからダビデは、自分の魂に命じるのです。
「忘れるな。」
「主をほめたたえよ。」
これは、まさに信仰者の霊的戦いではないでしょうか。
詩篇103篇の背景を考えると
この詩篇には表題がありませんので、いつ書かれたかは断定できません。
しかし、多くの福音派の注解者は、ダビデが神の赦しと憐れみを深く経験した後の詩として読むことに大きな違和感はないと考えています。特に、バテ・シェバ事件の後を思わせる表現が少なくありません。
例えば、「あなたのすべての咎を赦し」
これを読むと、ダビデ自身が「赦された者」として語っているように聞こえます。
また、「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことなく」という告白も、神の赦しを身をもって知った者だからこその言葉でしょう。
もしそのような背景を念頭に置くなら、この詩篇は、「神はこんなに素晴らしいお方ですよ。」というだけではなく、「ダビデが再び罪の道へ戻らないために、自分の魂を神へ向け続けようとしている祈り」とも読むことができます。
「賛美」は罪への対抗でもある
ここで一つ気付かされます。
ダビデは、「罪を犯さないように頑張ろう。」とは言っていません。その代わりに、「神を忘れるな。」と言っています。
これは非常に聖書的です。罪と戦うための第一歩は、自分の罪ばかりを見ることではありません。
神がどれほど恵み深いお方かを忘れないことです。
神への賛美は、単なる感情の表現ではありません。
神を神として心の中心に置き続ける信仰の営みです。
ですから、賛美を失うと、人の心には不平や高慢、自分中心が入り込みやすくなります。
逆に、神の恵みを思い起こし、主を賛美するとき、心は神の方向へと整えられていきます。
私たちも毎日、自分の魂に語りかける必要があります。
放っておけば、心は神から離れ、不安や不満、誘惑へと流されてしまいます。
だから毎朝、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」と自分の心に語りかけるのです。主が何をしてくださったのか。主がどのようなお方なのか。それを思い起こすとき、私たちの心はもう一度神へと向き直ります。
これは、まさに信仰者の霊的戦いではないでしょうか。

