2026年7月26日 主日礼拝「約束を実らせてくださる神」

賛  美  新聖歌344「なおも御恵みを」
      新聖歌443「悩む者よ疾く立ちて」
前  奏  黙祷
招  詞  詩篇95篇1〜3節
讃  美  讃美歌66「聖なる、聖なる」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇121篇(新聖歌 交読文38)
讃  美  讃美歌312「慈しみ深き」
      プレイズ「なんと素晴らしい」
聖書朗読  民数記13章1〜24節
説  教  「約束を実らせてくださる神」
応答賛美  讃美歌354「牧主わが主よ」
      新聖歌486「雄々しくあれ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷  
報  告  
今週の聖句 民数記13章24節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記13章1〜24節

説教題

「約束を実らせてくださる神」

今週の聖句

その場所は、イスラエルの子らがそこで切り取ったぶどうの房にちなんで、エシュコルの谷と呼ばれた。

民数記13章24節

説教「約束を実らせてくださる神」

民数記13章1〜24節

はじめに

皆さんは、誰かから「見ておいで」と言われた経験があるでしょうか。
例えば、新しい家を建てようとしている人が、「一度見学してきたらどうですか」と勧められることがあります。あるいは、学校を選ぶ時にも、「実際に学校を見てきなさい」と言われます。

「実際に学校を見てきなさい」と聞いて、思い出されることがあります。
私が献身へと導かれ、神学校に進もうと考えていた頃のことです。いくつかの学校を調べましたが、一つだけ、私の中にあったいくつもの条件に、ほとんど当てはまらず、「ここだけは無理だ」「ここだけには行きたくない」と思っていた学校がありました。
そこで私は、その学校以外の道を一生懸命探しました。けれども、不思議なことに、考えていた道は一つ、また一つと閉ざされていきました。反対に、「行きたくない」と思っていたその学校への道だけが、少しずつ開かれていったのです。
それでも、私は納得していたわけではありません。「本当にここなのだろうか。」そう思いながら、一度自分の目で確かめようと、妻と二人でその学校を見に行きました。
正直に言えば、見学したからといって、劇的に気持ちが変わったわけではありませんでした。「これは自分の心の問題なのかもしれない。」そのような思いもありながら、最終的にその学校へ進むことを決めました。
ところが、実際に行って学び始めると、そこには私が想像もしていなかった神さまの備えがありました。素晴らしい学びがありました。心から尊敬できる恩師との出会いがありました。生涯の友となる信仰の仲間たちが与えられました。そして、私たち家族のために真剣に祈り、実際に支えてくださる兄弟姉妹との出会いもありました。
今振り返ると、はっきりと思わされます。私が一番行きたくないと思っていた場所が、私にとって最善の場所でした。主は私がそこへ行ってから備えてくださったのではありません。私が行く前から、すでに必要なものを備えて待っていてくださったのです。
今日の聖書を読むと、私はこの出来事を思い出します。

主はイスラエルに、「約束の地を探りなさい」と命じられました。それは、主がその土地をご存じなかったからではありません。主は、すでに備えておられる約束を、ご自分の民に見せようとしておられたのです。実際に自分の目で見て、安心し、期待を持って、勇気を出して踏み出すためです。
今日の箇所にも、そのような場面が描かれています。

「約束の地を探って来なさい」

主はイスラエルに12人の代表者を選び、「約束の地を探って来なさい」と命じられました。
私たちは、この出来事を読むと、「この12人が後に不信仰に陥った出来事」として読んでしまいがちです。もちろん、そのことはこの後の14章で大きな問題となります。しかし、今日はまだ13章24節までです。まだ民は失敗していません。まだ神は裁いておられません。
今日の本文でまず私たちが目を向けるべきなのは、人間の失敗ではなく、神が何をしておられるのかということです。

主はなぜ12人を遣わされたのでしょうか。
本当に主は、その土地の情報を知りたかったのでしょうか。もちろん違います。天地を造られた神が、その土地をご存じないはずがありません。
ではなぜでしょう。
それは、ご自身の約束を、ご自身の民に見せるためでした。

今日、私たちはここの御言葉から、「約束を実らせてくださる神」のお姿をご一緒に見上げたいと思います。

約束を見るために遣わされる神(1〜20節)

まず1節から見てまいりましょう。

12章1節      主はモーセに告げられた。
12章2節      「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」

まず心に留めたいのは、主は、「もし良い土地なら与えよう。」とは言われなかったことです。「勝てたら与えよう。」でもありません。
主は、「わたしが与えようとしている地」と言われました。つまり、約束はすでに与えられているのです。
探りに行くことによって約束が決まるのではありません。約束があるから、探りに行くのです。この順番はとても大切です。

私たちも時々、この順番を逆にしてしまうことがあります。もっと信仰があれば主は祝福してくださる。もっと頑張れば主は導いてくださる。もっと立派になれば主は用いてくださる。そのように考えてしまうことがあります。
しかし聖書は逆です。主が先に約束してくださる。主が先に恵みを与えてくださる。だから私たちは安心して従って行くことができるのです。

そして、2節にはこうあります。「各部族から一人ずつ、その部族の族長を遣わしなさい」と。ここから16節まで、12人の名前が続きます。
正直に申しますと、私たちはこういう箇所を読むと、「早く次へ進みたい」と思ってしまうかもしれません。けれども、主はこの名前を一人ひとり記してくださいました。

主は、「12人」とだけ書くこともできたはずです。それでも、一人ひとりの名を記されました。それは、主にとって一人ひとりが大切だからです。主が一人ひとりの名を呼ばれ、主が遣わされ、主が用いられる一人ひとりが尊く大切だからです。
また一人ひとりの名前が覚えられていることを知るために。
イエス様が父なる神、主の御心を私たちに教えてくださっていますが、

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタ10 29-31

この父の御心を、遣わされる者たちが覚えるためでもあるのでしょう。
名簿に名前が記された人たちは、誇らしかったでしょう。心強かったでしょう。しかし、私たちの一人一人の名前も、天の書物に記されていることを忘れてはなりません。

さて、17節以降、モーセは12人に詳しい指示を与えます。土地がどういう所か。民は強いか弱いか。少ないか多いか。町はどうか。木はあるか。土地は肥えているか。

そして20節で、こう命じます。

12章20b節  「勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。」

ここで「勇気を出して」と訳されている言葉は、後にヨシュア記で何度も語られるあの有名な言葉と同じです。ヘブル語で「ハザク(חזק)」です。訳すと「強くあれ。」「雄々しくあれ。」です。ここで初めて、この言葉が登場するのです。

私たちは、この言葉を聞くと、「もっと頑張れ」「もっと勇気を出せ」という命令のように受け取ってしまうことがあります。
しかし、本当にそうでしょうか。

ここまで主はイスラエルをどのように導いてこられたでしょうか。エジプトから救い出し、海を分け、マナを与え、水を与え、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。つぶやく民を戒めながらも、決して見捨てることなく、ここまで育ててこられました。その主が今、約束の地の入り口に立つイスラエルに向かって語っておられます。「さあ、行って見ておいで。」「雄々しくあれ。」と。

それは突き放す言葉ではありません。父親が初めて一人で歩き出す子ども(少年)の肩にそっと手を添え、「大丈夫だよ。行ってごらん。」と励ますような言葉ではないでしょうか。

神は、ご自身の約束が確かであることを知っておられるからこそ、「見ておいで」と送り出されたのです。

約束は、すでに実っていた(21〜24節)

13章21節    それで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を偵察した。

12人は、モーセに命じられたとおり、約束の地へ入って行きました。
ここに「彼らは上って行き、その地を偵察した。」とあります。
主は、ご自分が与えると約束された土地を、「よく見て来なさい」と言われたのです。
ですから神は、その土地の情報が欲しかったのではありません。神は、ご自分の民に約束の確かさを見せようとしておられたのです。

そして彼らは、ネゲブからヘブロンへと進みます。
ヘブロンと聞くと、私たちは後にカレブが相続する町として思い出します。また、アブラハム、イサク、ヤコブが葬られたマクペラの洞穴も、この近くにあります。つまりここは、主が族長たちに約束を与えられた、その約束を思い起こさせる場所でもありました。
主は、ご自分の約束を忘れてはおられません。何百年という時が流れても、主は約束を実現へと導いておられるのです。

さらに22節には、アヒマン、シェシャイ、タルマイというアナク人の名前が記されています。主は敵の名前も記され、すべてを覚えておられるのですね。そしてこれは後に、イスラエルの民が恐れる理由にもなります。
確かに敵はいました。町は堅固でした。人々は強そうでした。主は、それを隠されませんでした。
信仰とは、現実から目を背けることではありません。困難がないと思い込むことでもありません。敵がいる現実も、課題がある現実も、そのまま見ることです。しかし、その現実よりもなお大きく、主の約束を見ること、主の約束の成就を見つめるのが信仰なのです。

そして、一行はエシュコルの谷へやって来ます。

13章23節    彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ。また、ざくろやいちじくの木からも切り取った。

皆さん、このぶどうは、誰が実らせたのでしょうか。イスラエルでしょうか。12人でしょうか。
違います。神です。
イスラエルは、まだ一歩もその土地を耕していません。まだ種を蒔いてもいません。水をやったこともありません。それなのに、ぶどうはすでに実っていました。
主は、ご自分の約束を、人が到着する前から実らせておられたのです。

私たちは、ここに今回の聖書の中心を見ることができるのではないでしょうか。
神は、「さあ、努力しなさい。」とは言われませんでした。「まず、見てごらん。」と言われました。その実りを見たとき、12人は何を思ったでしょうか。「こんなに豊かな土地なのか。」「主のお言葉は本当だった。」そう驚いたのではないでしょうか。

私たちも、このことに大きな慰めを覚えるのではないでしょうか。神は、約束だけを語られるお方ではありません。約束を実らせてくださるお方です。そして、その実りを、ご自分の民に見せてくださるお方なのです。

実は、この「実り」は、ぶどうだけではありません。もう一度、今日の本文を思い返してみてください。神は12人のかしらを備えられました。それぞれの部族を代表する人々を新たに立てられました。新たに任命された族長の中に、カレブとホセア(ヨシュア)がいました。初代の族長たちが退き、新しい族長たちが任命されているのです。彼らはこれまで、図らずも様々な試練や困難をとおして荒野で訓練され、育てられ、ここまで導いてこられた者たちでした。
これも神の実りではないでしょうか。神は土地を備えただけではありません。その土地を受け継ぐ民を育ててこられました。約束の地も神の備え。それを受け継ぐ人も神の備え。どちらも神の恵みによる実りなのです。

教会も同じです。神は今日も教会を育て、必要な人を備えてくださっています。だから私たちは、目の前の不足だけを見るのではなく、神がすでに実らせておられるものを見つめたいのです。

13章24節    その場所は、イスラエルの子らがそこで切り取ったぶどうの房にちなんで、エシュコルの谷と呼ばれた。

「エシュコル」とは、「房」という意味です。一つのぶどうの房が、この場所の名前になりました。それほど、この実りは人々の心に深く刻まれたのでしょう。
私は、この地名には大きな意味があると思います。
これまでイスラエルは、「タブエラ(燃える)」や「キブロテ・ハ・タアワ(欲望の墓)」という、人間の罪を思い起こさせる地名を経験してきました。しかし、ここには違う名前が刻まれました。

「房」。その語の意味には、「豊かに連なる実り」そして「慎ましく整った佇まい」「内に温もりを抱く優しさ」というものがあるそうです。私が大好きなヘブル語「トーブ」、その意味は「良い、美しい、秩序正しい」また「慈しみ」とも訳される語です。
「エシュコル・房」という名前。それは、主がご自身の約束を、とても美しく完全な形で実らせてくださる慈しみ深いお方であること。また、主の愛と義、恵みとまことが、実際にここにあらわされたことを忘れないための名前でした。

私たちの人生にも、「エシュコル」があるのではないでしょうか。
振り返ってみると、「あの時、主が備えていてくださった」「あの時、主はすでに働いておられた」と思い返す出来事があります。その一つ一つは、「約束は、すでに実っている」という主からの励ましなのです。

「雄々しくあれ」と励ましてくださる主。

今日、私たちはここまで、主のお姿を見てまいりました。
主は約束を与えられました。
主は12人のかしらを備えられました。
主は約束の地に豊かな実りを備えておられました。
そして神主は、「雄々しくあれ。」と、ご自分の民を送り出されました。

この「雄々しくあれ」という言葉を、私たちはもう一度心に留めたいと思います。
この言葉は、聖書の中で何度も繰り返されます。
モーセはヨシュアに語りました。主はヨシュアに語られました。ダビデもソロモンに語りました。そして、それらはみな、「自分の力で強くなりなさい」という意味ではありません。「あなたは一人ではない。わたしが共にいる。だから雄々しくあれ。」という主の励ましなのです。

考えてみますと、主はこれまで何度もイスラエルを励ましてこられました。エジプトを出た時もそうでした。紅海の前でもそうでした。荒野で水がなくなった時も、食べ物がなくなった時も、主は決して民を見捨てられませんでした。つぶやき、失敗し、それでもなお、主は導いてくださいました。

その主が今、約束の地を目の前にした民に、「さあ、見ておいで。」「雄々しくあれ。」と語っておられるのです。
それはまるで、父親が子ども(少年)の肩に手を置いて、「大丈夫。行っておいで。」と送り出す姿のようです。父親が子どもの方に手を置く。そして一言だけ。「大丈夫。行っておいで」と。私は主の「雄々しくあれ」という言葉は、そのような声に聞こえるのです。

私たちも人生の中で、不安になることがあります。先のことが見えない。将来が心配になる。教会の歩みを考えても、家族のことを考えても、自分の健康や仕事のことを考えても、不安になることがあります。
そのような私たちにも、主は今日、同じように語ってくださいます。「雄々しくあれ。」
しかし、何度も言いますが、それは私たちに無理をさせる言葉ではありません。「もっと頑張りなさい。」という言葉ではもありません。
「わたしが約束したことは、わたしが必ず成し遂げる。」だから安心して歩みなさい、という言葉なのです。

そのことを、私たちは新約聖書において、さらにはっきりと知ることができます。
神は、約束の地だけを与えて終わられたお方ではありません。ご自身の御子イエス・キリストを、この世に遣わしてくださいました。イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪を赦し、復活されました。神は、救いの約束もまた、完全に実らせてくださったのです。
ですから、私たちは今、「いつか救われるかもしれない」と願って歩んでいるのではありません。キリストにあって、主の約束はすでに成就しました。その恵みの中を歩ませていただいているのです。
ですから私たちは、主の約束を信じることができます。主は約束を語られたお方です。そして、その約束を実らせてくださったお方です。だから私たちは、安心して歩めるのです。

私たちは、自分の人生を見ると、まだ足りないものばかりが目につくかもしれません。「まだここが足りない。」「あれもできていない。」「教会も、まだまだだ。」そう思うことがあるでしょう。けれども、今日の御言葉は、そのような私たちに問いかけます。

「あなたは何を見ていますか。」

私たちは何を見ているでしょうか。不足でしょうか。困難でしょうか。それとも、神がすでに実らせてくださっている恵みでしょうか。「エシュコル」でしょうか。

イスラエルの民は、エシュコルの谷で、約束が実っているのを見ました。
私たちは、十字架と復活において、主の約束が成就したのを見ています。
そして今日も、主はすべての必要、すべての最善を備えておられ、実らせておられます。また主は、教会を育て、私たちを育て、約束を実らせ続けてくださっています。だから、恐れなくてよいのです。

主は今日も語られます。主に育まれ、乳飲み子から少年にまで成長した私たちに。未だ幼くて、知恵もなく、力のない私たちに向かって、主はまことの私たちの父として、今日も語られます。「雄々しくあれ。」「強くあれ。」「恐れてはならない。」「わたしがあなたとともにいる。」

お祈りをいたします。

【祈り】
天の父なる神さま。
今日もあなたのみことばをありがとうございました。
あなたは、約束を語られるだけのお方ではなく、その約束を私たちの知らないところでも着実に育て、豊かに実らせてくださるお方です。
私たちは目の前の困難を見て恐れます。自分の弱さを見て立ち止まります。しかしあなたは今日、「見なさい」と語ってくださいました。
「わたしの約束は、すでに実っている。」そう励ましてくださいました。
どうか私たちが、目に見える現実よりも、あなたの真実を見上げる者とならせてください。
病の中にある兄弟姉妹を励ましてください。心の重荷を負っている方に平安をお与えください。将来への不安を抱える方に希望を与えてください。教会を一つにし、あなたが備えておられる実りをともに見る群れとしてください。
そして今週も、あなたが私たち一人ひとりに語ってくださる「雄々しくあれ。」「強くあれ。」この御声を胸に、あなたに依り頼み、それぞれの遣わされた場所へ歩み出すことができますように。
私たちを決して見放さず、いつもともにいてくださる主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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