2026年8月2日 主日礼拝「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」

前  奏  黙祷
招  詞  詩篇34篇8〜10節
讃  美  讃美歌2「いざや共に」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇103篇(新聖歌 交読文32)
讃  美  讃美歌9「力の主を」
      プレイズ「主は良いお方」
聖書朗読  民数記13章25〜33節
説  教  「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」
応答賛美  讃美歌534「ほむべきかな」
      新聖歌172「望みも消え行くまでに」
聖餐式   讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷  
報  告  
今週の聖句 民数記13章30節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記13章25〜33節

説教題

「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」

今週の聖句

「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」

民数記13章30節

説教「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」

民数記13章25〜33節

はじめに

皆さんは、同じ景色を見ているのに、人によって受け止め方が全く違う、という経験はないでしょうか。
例えば、山登りをしている時のことです。途中で立ち止まり、顔を上げると、まだ高い山頂が見えています。ある人は、「ここまで登って来た。あと少しだ。頂上からはきっと素晴らしい景色が見える。」そう期待するでしょう。しかし別の人は、「あんな所まで登るなんて無理だ。もう帰りたい。」と思うかもしれません。見ている山は同じです。山の高さも変わりません。違うのは、その山を「どのように見ているか」です。

今日の聖書箇所でも、同じことが起こっています。
12人の偵察隊は、全員が同じ土地を見ました。同じ町を見ました。同じ城壁を見ました。同じ巨人を見ました。そして同じぶどうの実を見ました。
ところが帰って来ると、10人は「私たちには無理です。」と言い、カレブは「ぜひとも上って行きましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言いました。
同じものを見たのに、どうしてここまで違う結論になったのでしょうか。カレブだけが特別に勇敢だったからでしょうか。恐れを知らない人だったからでしょうか。

そうではないと思います。
カレブにも敵の強さは見えていました。城壁の高さも見えていました。アナク人の大きさも見えていました。それでも彼は、「行きましょう。」と言いました。
カレブと10人との違いは、「何を見たか」ではありません。「何を見つめていたか」です。

私たちは、目の前の現実を、ただ目だけで見ているのではありません。実は、今見ているものは、これまで心に何を蓄えてきたかによって解釈されるのです。独自のフィルターを通して目の前の現実を見て、理解したり、判断したりしているのではないでしょうか。
心に恐れを蓄えていれば、困難はますます大きく見えます。しかし、主が今日までしてくださったこと、主の真実、主のいつくしみを蓄えていれば、同じ困難の中にも主の御手を見ることができます。

今日の御言葉を通して、私たちの心の倉には何が蓄えられているのか。そして私たちは今、何を見つめて歩いているのか。そのことをご一緒に考えてまいりましょう。

主は約束の実りを見せてくださる

40日間の偵察を終えた12人は、イスラエルの宿営へ帰って来ました。そしてモーセとアロン、さらに全会衆の前で報告します。
その時彼らは、約束の地から持ち帰った大きなぶどうの房を見せました。1本の棒に掛けて、2人で担ぐほどの大きさです。民の目の前に広がる光景は広大な荒野。荒野しか見ておらず、荒野しか知らない民にとって、約束の地から2人がかりで大きなぶどうの房を担いで帰って来た光景は、驚くべきものだったことでしょう。

彼らはこう報告しました。

13章27節    彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。

ちなみに、ここでいう「乳と蜜の流れる地」とは、文字通り、牛乳や蜂蜜が川のように流れているという意味ではありません。
「乳」は、羊や山羊などの家畜が豊かに育つことを表しています。家畜が育つためには、牧草と水が必要です。ですから乳が豊かに得られるということは、その土地が家畜を養うことのできる、恵まれた土地であるということです。
また「蜜」は、蜂蜜だけではなく、果実から作られる甘い蜜を含むとも考えられています。果物や作物が豊かに実る土地だということです。
つまり「乳と蜜の流れる地」とは、家畜にも農作物にも恵まれ、人が生活するために必要なものが豊かに備えられた、祝福の地を表しています。

主は、「あなたがたに与える」と言われた土地を、本当にそのとおりの豊かな土地として備えておられました。主の約束は偽りではありませんでした。そして先週学びましたように、主は民が約束の地に入る前に、その実りを見せてくださいました。まだ城壁は越えていません。まだ一つの町も占領していません。しかし主は、「わたしの約束は本当である。」という証拠を、先に見せてくださったのです。

私たちにも同じ恵みがあります。
主は、私たちに約束の聖霊を与えてくださいました。聖霊は、主が救いを最後まで完成してくださる保証です。エペソ人への手紙には、私たちは約束の聖霊によって証印を押されたと記されています。証印とは、その人が誰に属しているかを示し、その約束が確かであること、決して取り消されないことを保証するしるしです。
また、今日は聖餐式にも招かれていますが、この聖餐式もまた、主の「わたしの約束は本当である」という証拠を、先に見せてくださるものです。やがて完成される神の国での祝宴の先取りであり、保証です。そのことを心に覚えて、心に蓄えて、感謝して聖餐式に臨みましょう。
私たちはまだ天の御国には着いていません。荒野を旅しています。病があります。悩みがあります。涙があります。それでも主は、「わたしは最後まであなたを導く。」という保証として、聖霊を与えてくださいました。聖餐式を定めてくださいました。
真実なお方である主は、何があろうと、途中で私たちを見捨てられません。真実な主は、私たちが変わってしまったとしても、決して私たちとの約束を変えてしまわれることなどないお方です。何があろうと、はじめに誓われた私たちへの愛を貫き通してくださり、始められた救いの御業を、ご自身の真実の故に必ず完成してくださいます。

「しかし」が視線を変えてしまった

「そこは確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。」
ところが、この偵察隊の報告は途中から変わります。
彼らは続けて言いました。

13章28節    ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。

訳によっては、ここは「しかし」となっています。この「ただ」「しかし」あるいは「でも」が、彼らの視線を変えてしまいました。

もちろん彼らは嘘を言ったわけではありません。敵が強いことも事実です。城壁が高いことも事実です。巨人がいたことも事実でした。問題は、「事実を語ったこと」ではありません。「主を語らなくなったこと」です。
彼らの言葉から、主が消えていきます。
エジプトから救い出してくださった主。葦の海を分けられた主。荒野でマナを与えられた主。岩から水を出された主。その主のことを語らず、目に見える困難だけを語り始めました。

私たちも同じではないでしょうか。問題については、いくらでも話せます。人が足りない。お金がない。体力がない。先が見えない。それらは確かに現実です。しかし、その現実を語る時、私たちの言葉の中に、考えの中に、眼中に主はおられるでしょうか・・・。

信仰とは、困難を見ないことではありません。困難よりも偉大な主を見上げることです。「城壁は高い。しかし、主はもっと偉大なお方です。」「敵は強い。しかし、主は真実なお方です」と。
10人は、「土地は良い。しかし(でも)敵が強い。」と言いました。
信仰は逆です。「敵は強い。しかし(でも)主は約束を違えられない。」
このように、「ただ」「しかし」「でも」を、どちら側に置くかによって、私たちの人生は大きく変わるのです。

恐れは共同体へ広がる。しかし信仰もまた広がる

その時、カレブが立ち上がります。

13章30節    そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」

10人の報告を聞いた民の間には、すでに動揺が広がり始めていました。否定的、絶望的な言葉がたくさん飛び交っていたことでしょう。それでカレブは、まず民を静めなければなりませんでした。
恐れは、とても速く広がるのです。彼らはまだ一度も戦っていません。まだ一つの城壁にも近づいていません。それなのに、人々の心は、もう敗北し始めていました。
その中でカレブは、「行きましょう。」と言いました。これは、根拠のない楽観論ではありません。カレブは、自分たちの力を見ていたのではなく、主を見ていました。エジプトから救い出してくださった主。葦の海を分けられた主。荒野でマナを与えられた主。今日まで真実に導いてくださった主。その主を見つめていたからこそ、「必ず打ち勝つことができます。」と言えたのです。

ところが10人は、その言葉を受け入れませんでした。

13章32節    彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

ここで「悪く言いふらす」と訳されている言葉は、単なる否定的な報告ではありません。それ以上の意味があります。「相手をおとしめるような悪評、中傷する」という意味を持っています。
つまり彼らは、「困難があります。」と報告しただけではありません。主が「良い。」と言われた土地を、「悪い。」と言い始めたのです。
土地を悪く語っただけではありません。10人はその土地を与えると約束された主の真実まで疑わせてしまいました。

ここには、私たちへの大切な警告があります。
私たちも、主が良いものとして与えてくださったものを、恐れのために悪く語ることがあります。主から与えられた働きについて、「でも、どうせ何をしても変わらない」と語る。主が集めてくださった教会について、「でも、この教会には何もできない」と語る。主がこれからなそうとしておられることについて、「でも、無理に決まっている」と言ってしまう。
もちろん、問題を問題として指摘することは必要です。現実を直視しなければならない時もあります。しかし、現実を語ることと、主の御業を初めから否定することは違います。
そして、心にある恐れが言葉となるとき、その言葉は自分1人の中にとどまりません。10人の言葉は、イスラエルの全会衆へ広がりました。恐れは伝染します。不信仰も広がります。1人の、「無理です」という言葉が、もう1人の勇気を奪うことがあります。1人のつぶやきが、1つの家庭を暗くすることがあります。1人の否定的な言葉が、教会全体の歩みを止めてしまうことがあります。不信仰は、まず1人の心から始まり、やがて共同体へ広がって行くのです。しかしその逆も然りです。信仰もまず1人の心から始まり、やがて共同体全体へ広がって行くのです。

だからこそ私たちは、自分が何を語っているかを、主の前でよく吟味しなければなりません。
私たちの言葉は、周りの人を主へ向かわせているでしょうか。それとも、主から目を逸らさせているでしょうか。
私たちは、恐れを広げる者でしょうか。それとも、主の真実を語る者でしょうか。

何を心に蓄えてきたのか

私が主学生だった頃のことです。
私より年上の50代の先輩神学生がおられました。その方には大学へ進学する娘さんがおられましたが、その時期と、ご自身が献身し、神学校へ入学する時期が重なりました。当然、経済的な不安がありました。ところが、その娘さんがこう言ったそうです。「私が大学へ行くことは神さまの御心だという確信がある。だから4年間に必要なものは、神さまが必ず与えてくださる。」その言葉によって進学を決めたそうです。
すると、入学時に必要だったものが、不思議な形で満たされました。もちろん、すぐではありません。期限ぎりぎりまで待たされ、何度も不安になったそうです。それでも主は必要を満たしてくださいました。
その後も、学費の納入期限が来るたびに、「もう難しいかもしれない。」と思うような状況がありました。しかしそのたびに、匿名の献金など、思いがけない方法で守られてきました。
そして、残る学費があと1回となった時のことです。その先輩は早天祈祷会で、こう証しされました。「ここまで守られて感謝しています。娘の信仰には本当に教えられます。学費はあと1回です。今回も主がどのように満たしてくださるのか、楽しみにしています。」
私は、その言葉を聞いて感動しました。「さすがに今回はもう駄目かもしれない。」ではなく、「今回は主がどのように導いてくださるのだろう。満たしてくださるのだろう」と期待しているのです。
それまで何度も主の真実を経験してきたからこそ、そのような言葉が自然に出てきたのでしょう。
私は、「私もこのように考える者になりたい。」と思いました。

そこで気づかされたことがあります。「今見ているものは、過去に何を心に蓄えてきたかによって解釈される」ということです。
心に恐れを蓄えていれば、未来にも恐れを見ます。しかし、主の真実を蓄えていれば。主の良くしてくださったことを心に蓄えていれば、未来にも主の真実を期待できるようになります。

私自身も同じでした

しかし私は、この10人を簡単に責めることができません。私自身にも同じような経験があるからです。どうしても乗り越えられないと思う壁の前に立たされたことがありました。何とか自分の知恵や経験や力で道を開こうとしましたが、どうしてもうまくいきませんでした。努力すればするほど、壁ばかりが大きく見え、生きる力さえ失いそうになりました。振り返ってみると、その時の私は、自分に何ができるかということしか見ていませんでした。
主は確かにおられました。しかし、私の眼中に主はおられませんでした。恐れと不安によって、視野が狭くなり、目の前の壁しか見えなくなっていたのです。
けれども、私が主を見失っていた時にも、主は私を見失ってはおられませんでした。私は忘れられていませんでした。主は私の苦しみをご存じで、私を見放してもおられませんでした。
そして主は、私の不信仰を越えて働いてくださいました。私には開くことのできない道を開き、思いもよらない方法で導いてくださいました。
その渦中では分かりませんでした。しかし後になって振り返ると、主は一度も私を離れず、すべてを働かせて益としてくださっていました。
その経験を通して私は、「主がどれほど真実なお方であるか」を、以前よりも深く知らされました。それでも同じ失敗を繰り返してしまうような、弱い者でもあります。

「何一つ忘れるな」

では私たちは、どうすれば目の前の問題よりも主を見上げ続けることができるのでしょうか。
ここで、詩篇103篇の御言葉に耳を傾けたいと思います。実は先週の祈祷会で学ばせていただいたところです。主の恵みです。今日の箇所に通じていました。
ダビデは、自分自身にこう語りかけました。

【詩篇】
103篇1節    わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。
103篇2節    わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

ダビデはまず、自分のたましいに命じています。「主をほめたたえよ。」「忘れるな。」
なぜなら、私たちは忘れやすいからです。
苦しみが1つ起こると、それまでの恵みを忘れてしまいます。
祈りが1つかなわないと、それまで聞かれた数え切れない祈りを忘れてしまいます。
1つの壁が現れると、今日まで導いてくださった主を忘れてしまいます。

10人の偵察隊も同じでした。彼らは主の御業を知らなかったのではありません。エジプトでの救いも、葦の海も、マナも、岩からの水も、すべて経験していました。
それでも目の前に巨人が現れた時、それまで見てきた主の真実を忘れてしまったのです。
ですからダビデは、「何一つ忘れるな。」と自分自身に語りかけました。

そして詩篇103篇は、主がしてくださったことだけではなく、「主がどのようなお方なのか」を歌っています。

主は、すべての咎を赦してくださるお方です。あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵み豊かなお方です。私たちの罪に従って扱われず、父が子をあわれむように、私たちをあわれんでくださるお方です。そして、私たちが土のちりにすぎないことを、よくご存じのお方です。
私たちは弱いのです。恐れます。不安になります。信仰も揺らぎます。主は、それを責める前に、その弱さをご存じでいてくださいます。ですから私たちは、この主に信頼し、すべてを安心して委ね、依り頼むことができるのです。

聖霊は主を思い起こさせてくださる

しかし私たちは、自分の力だけで主を忘れないように歩むことはできません。
それで主は、私たちに助け主なる聖霊を与えてくださいました。

イエス様はこう約束してくださいました。

【ヨハネの福音書】
14章26節    しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

何という恵みでしょうか。
聖霊は、私たちに新しいことを教える前に、主がすでに語られたことを思い起こさせてくださいます。「わたしはあなたを見捨てない。」「恐れるな。」「わたしはあなたとともにいる。」その御言葉を、つまり約束を、恐れの中で思い起こさせてくださるのです。
そして聖霊は、主が最後まで約束を成し遂げられることの証印でもあります。
私たちはまだ荒野を歩いています。しかし、ゴールはもう主の御手の中にあります。

私たちの教会にはカレブのような人が必要です

だから私は思います。私たちの教会には、カレブのような人が必要です。
それは、恐れない人という意味ではありません。強い人という意味でもありません。不安があっても、なお主の真実を語る人です。
「主は今日まで導いてくださいました。」
「主は決して見捨てられません。」
「主は約束を違えられません。」
その一言が、1人の心を支えます。1つの家庭を支えます。教会全体を支えることがあります。
恐れは共同体へ広がります。しかし、信仰も共同体へ広がります。1人の祈りが、誰かを励まします。1人の賛美が、誰かを支えます。1人の証しが、誰かを立ち上がらせます。
主は、そのような信仰の言葉を通して、ご自身の民を励ましてくださるのです。
私たちも、主のいつくしみを味わい続けるなら、カレブのように用いられていくことでしょう。
そして教会もまた、暗い世にあって、灯台のような存在となります。私たち自身を見せるためではありません。私たちを通して、主の素晴らしさを見ていただくためです。

おわりに

私たちも今、荒野の旅の途中にいます。目の前に高い壁が立ちはだかることがあります。不安に押しつぶされそうになることもあります。
そのような時、思い出したいのです。主は確かにおられます。そして、私たちが主を見失うことはあっても、主は決して私たちを見失われません。ですから私たちは、目に見える現実だけではなく、生きて働いておられる主を見上げて歩んでいきたいのです。自分の力ではなく、神の力を見上げて歩んでいきたいのです。
今日まで導いてくださった主は、これからも真実に導いてくださいます。その主を、日々味わい、日々見つめてまいりましょう。

最後に、今日の礼拝に私たち1人ひとりを招いてくださった、主の招きのみことば、詩篇34篇8節を心に刻みたいと思います。

「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。」

この御言葉が、今週一週間、一人ひとりの歩みを支える御言葉となりますように。

【祈り】
天の父なる神様。
今日も御言葉を与えてくださり、心から感謝いたします。
私たちは弱く、目の前の問題や不安に心を奪われ、あなたよりも困難ばかりを見つめてしまう者です。そのような私たちを、どうかお赦しください。
しかし、私たちがあなたを見失うことがあっても、あなたは決して私たちを見失われないお方です。今日まで真実に導いてくださったことを感謝いたします。
どうか聖霊によって、あなたの御言葉と約束を日々思い起こさせてください。そして、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れない」者とし、「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」とのみことばを、自らの歩みの中で経験し続ける者としてください。
私たち一人ひとりが、不安を広げる者ではなく、心の倉に、主が良くしてくださったことの証しを蓄え、あなたの真実を語る者となれますように。そして、この教会を通して、多くの人があなたの素晴らしさを知ることができますように。
今週も、どのような状況の中でも、「主は今日まで導いてくださった。主はこれからも導いてくださる」と信頼して歩ませてください。
私たちの救い主、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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