2026年8月5日 祈祷会「神を利用する信仰から、神を礼拝する信仰へ」
聖書箇所
使徒の働き19章11〜22節
神を利用する信仰から、神を礼拝する信仰へ
神はパウロを通して特別な奇跡を行われた(11–12節)
19章11節 神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。
まず注目すべきは、主語が「神」であることです。
ルカは決して「パウロは偉大だった」と書いていません。
「神が行われた」 「パウロの手によって」あくまで神が主体です。
「手ぬぐい」「前掛け」が病人に運ばれ、癒やしが起こりました。
これは通常の出来事ではありません。
ルカ自身も「驚くべき力あるわざ」と記しています。
つまり、これは教会の通常の働きを示すものではなく、エペソ宣教の開始において神が特別に与えられた「しるし」です。
それは、何かを読者である私たちに教えられるためにでしょう。
イエスの名だけを利用しようとした者たち(13–17節)
ここが本文の中心だと思います。
少し考えてみたいことがあります。
私たちは何のために教会へ来るのでしょうか。
何のために祈るのでしょうか。
何のために聖書を読むのでしょうか。
もちろん、「祝福されたい」「守られたい」「病気が癒やされたい」と願うことは悪いことではありません。
しかし、その願いだけが中心になると、知らないうちに神様を愛することよりも、神様を利用することが目的になってしまう危険があります。
今日の箇所は、まさにそのことを教えています。
イエスの名は呪文ではない
まず出てくるのは、ユダヤ人の祈祷師たちです。
彼らはパウロがイエスの名によって悪霊を追い出しているのを見て、「私たちも同じようにやってみよう」と考えました。
彼らはイエス様を信じたのではありません。
イエスの名に力があるらしいと思ったのです。
ですから、その名を利用しようとしました。
すると悪霊はこう言います。
19章15節 すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」
とても印象的な言葉です。
悪霊はイエス様を知っています。しかし、彼らはイエス様を知りませんでした。
名前だけを知っていても、本当にその方を知っていることにはならないのです。
皆さんは、この違いは何だと思われますか。
「イエスを知ること」と「イエスの名前を知ること」は、どう違うのでしょうか。
神様は利用するお方ではない
神様は私たちの願いを聞いてくださいます。
しかし、私たちは神様を思いどおりに動かすことはできません。
それは偶像礼拝と同じだからです。
偶像とは、人間が思いどおりに扱える神です。でも、生ける神は違います。
神は私たちのしもべではなく、私たちが礼拝する主です。
ですから祈りも、礼拝も、奉仕も、「願いをかなえていただくため」ではなく、まず神様を愛するためにあります。
私たちは知らないうちに、神様を「目的」ではなく、「手段」にしてしまうことはないでしょうか。
悔い改めによる真の変化(18–22節)
事件を見た人々は恐れました。
そして
- 告白する
- 自分の行いを打ち明ける
- 魔術書を焼く
という行動へ変わります。
ここで重要なのは、魔術書が5万枚の銀貨という莫大な価値だったことです。
現在の価値は正確には換算できませんが、労働者の日当を基準に考えると、何年分もの収入に相当する非常に高価な財産でした。
つまり彼らは「少しだけ整理した」のではありません。
人生そのものを主へ向け直したのです。
ここで大切なのは、魔術書を焼いたから救われたのではありません。
先に、イエス様の偉大さを知ったのです。なので、今まで頼っていたものが不要になりました。
私はここに福音を見ます。
もし「偶像を捨てれば神様が祝福してくれる」なら、結局偶像が十字架に置き換わっただけです。
ですから順番が逆なのです。
エペソの人々はまず主を知りました。それで偶像が不要になりました。
つまり、捨てたから救われたのではありません。
救われたから捨てられた。
ここは宗教と福音の違いです。
宗教は捨てれば神が受け入れる。
福音は受け入れられたから捨てられる。
ここはぜひ明確にしたいところです。
私たちは、「捨てれば神様に受け入れていただける」のではありません。
神様に受け入れられたから、喜んで手放せるように変えられていくのです。
ですから、偶像を捨てることは条件ではなく、結果です。
イエス・キリストというまことの宝を知るとき、私たちは今まで頼っていたものを、惜しみながらではなく、喜んで手放す者へと変えられていきます。主は私たちを、そのような自由へ招いておられます。
最後に20節を読みたいと思います。
19章20節 こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。
ルカは、奇跡が広まったとは書いていません。悪霊追い出しが広まったとも書いていません。
主のことばが広まったのです。
それは、人々が神様を利用する生き方から、神様を礼拝する生き方へと変えられたからでした。
福音が前進した理由は奇跡ではなく悔い改めだった。
神を利用しようとしていた人たちが神を礼拝する者へ変えられた。
その変化こそがエペソの町を変え始めたのです。
ここに、私たちの教会にも変わらなければならないところがあるのではないか、と問われるのではないでしょうか。
私たちも今日、自分の心を主の前に置いてみましょう。
「私は神様を愛しているだろうか。それとも、神様を利用しようとしているだろうか。」
主は、そのようにへりくだって主を求める者を退けられません。
私たちは、自分では気づかないうちに、主を礼拝するよりも、自分の願いをかなえていただくことばかりを求め、主を利用するような心を抱いてしまうことがないでしょうか。
主は私たちが思いどおりに扱えるお方ではなく、心から礼拝し、信頼し、従うべきお方です。そのことを改めて教えていただきましょう。
イエス・キリストを知る喜びによって、私たちが頼りにしているものや、心の偶像を、惜しみながらではなく喜んで手放すことができますように。
そして私たち一人ひとりの悔い改めを通して、この教会でも主のことばが力強く広まり、多くの方々が主を知るようになりますように。

