2026年8月19日 祈祷会「いつかではなく、今日」

聖書箇所

使徒の働き24章10〜27節

いつかではなく、今日

はじめに

今日の箇所でパウロは、総督フェリクスの前に立っています。
パウロは訴えられている側です。
フェリクスは裁く側です。
ですから、立場としては圧倒的にフェリクスのほうが強いわけです。
でも、この箇所を最後まで読んでいくと、不思議な感じがします。
本当に自由なのは、どちらなのだろう。
牢につながれているパウロでしょうか。それとも、総督として権力を持っているフェリクスでしょうか。
パウロであるとしたら、本当に自由になれる秘訣は何なのでしょうか。

「責められることのない良心」を保つ

まず、16節でパウロはこう言っています。

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」

私は、この言葉はすごいなと思います。
「私は、いつも神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つようにしています。」
私たちは、こう言えるでしょうか。
もちろんパウロは、「私は一度も罪を犯しません」と言っているわけではないと思います。
けれども、自分が何をするにしても、
「これは神様の前で正しいだろうか。」
「人に対して誠実だろうか。」
そういうことを大切にして生きている。
だからパウロは、フェリクスの前でも堂々としているのだと思います。
相手は総督です。自分を釈放することもできれば、牢に入れておくこともできる人です。
普通だったら、少しでも相手の機嫌を取ろうとするかもしれません。
ところがパウロはそうしません。
なぜでしょう。

パウロが一番気にしているのは、フェリクスからどう思われるかではなく、神様の前で自分がどう生きているかだからです。
ここで少し考えてみてもよいかもしれません。

私たちは普段、誰の目を一番気にして生活しているでしょうか。
人からどう思われるか。嫌われないか。自分が損をしないか。
それとも、「神様は今の私をどうご覧になっているだろう」と考えているでしょうか。

パウロが「節制」を語った相手

24節になると、フェリクスは妻ドルシラと一緒にパウロを呼び出します。
そして、「キリスト・イエスに対する信仰について」パウロから話を聞きました。
ところがパウロは、ずいぶん厳しいことを話しています。
25節です。
「しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり」とあります。
「正義」と「節制」と「来たるべきさばき」。
特に今日は、この中の「節制」という言葉に注目してみたいと思います。

節制というのは、簡単に言えば、自分を治めることです。
自分の欲望や感情のままに行動しない。
「したいからする。」
「言いたいから言う。」
「腹が立ったからぶつける。」
そうではなくて、自分の心や行動を治めるということです。

実は、フェリクスにとってこれは、かなり耳の痛い話だったと思われます。
フェリクスの隣には、妻ドルシラがいました。
当時の歴史家ヨセフスによれば、ドルシラはもともと別の男性と結婚していました。
ところがフェリクスはドルシラの美しさに心を奪われ、人を使って、夫と別れて自分と結婚するように説得したと伝えられています。
つまりフェリクスは、自分の欲望を抑えるのではなく、欲しいものを手に入れようとした人でした。
そして26節を見ると、「パウロから金をもらいたい下心もあった」とあります。
さらに27節では、「ユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして」パウロを牢につないだままにしています。

こうして見ると、フェリクスという人は、いろいろなものに支配されています。
欲望に支配される。
お金に支配される。
人からどう思われるかにも支配される。
外から見れば、フェリクスは自由な人です。
総督ですから、人を牢に入れることさえできます。

一方のパウロは囚人です。
でも、どちらが本当に自由なのでしょう。
牢につながれているパウロは、「私は神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つようにしています」と言える。
けれども、自由であるはずのフェリクスは、自分の欲望を自分で治めることができません。
そう考えると、人間の本当の自由とは、何でも好きなことができることではないのかもしれません。
自分の欲望や感情に振り回されず、神様に従って生きることができる。そこに、本当の自由があるのではないでしょうか。

私たちの怒りと言葉

そう考えていたとき、私は「怒り」のことを考えました。
私たちは、人間関係の中で腹が立つことがあります。
それ自体は誰にでもあります。
聖書も、「怒っても、罪を犯してはなりません」と言っています。
ですから、怒るという感情そのものが、すべて罪だということではありません。
でも、問題は、その怒りに私たちが支配されてしまうことです。
腹が立った。だから言ってしまった。
「あの人が悪いんだから、これくらい言って当然だ。」
その時はそう思います。
けれども後になって、
「あんな言い方をしなければよかったな。」
「言い過ぎたな。」
そう思うことがあります。
皆さんはどうでしょうか。

私自身も、そういうことがあります。そんな時に考えさせられます。

私は怒っているのか。それとも、怒りが私を支配しているのか。
ここには大きな違いがあります。
パウロが語った「節制」は、単に我慢強い人になりましょう、という話ではないと思います。
「今、私を支配しているものは何なのか。」ということではないでしょうか。
怒りなのか。
自分のプライドなのか。
人からよく思われたい気持ちなのか。
お金なのか。
「それとも、主なのか。」

「今は帰ってよい」

ところが、パウロの話を聞いていたフェリクスに、変化が起こります。

25節には、「フェリクスは恐ろしくなり」とあります。
つまり、パウロの話はフェリクスの心に届いたのです。
「これは自分のことだ。」そう感じたのかもしれません。
御言葉によって、良心が揺さぶられたのでしょう。
ところがフェリクスは言います。

「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」

この言葉が、私はとても気になります。
フェリクスは、「そんな話は信じない。」とは言いませんでした。
「二度と聞きたくない。」とも言っていません。
「また今度。」なのです。

これは私たちにもあるのではないでしょうか。
御言葉を聞いて、「ああ、これは自分のことだな。」と思う。
「変わらなければいけないな。」と思う。
でも、
「まあ、次から気をつけよう。」
「次は頑張ろう。」
「今度はちゃんとしよう。」
そう思って、そのままにしてしまう。

ところが面白いことに、フェリクスには本当に「今度」が来ました。
26節には、「それで、何度もパウロを呼び出して語り合った」とあります。
何度も機会があったのです。
けれども、フェリクスが悔い改めたとは書かれていません。
そして27節には、「二年が過ぎ」とあります。
2年です。
「また今度」と言っている間に、2年が過ぎました。

これは少し怖いことだと思います。
私たちは、「次の機会には変われる。」と思います。
でも、今日従わなかった私たちが、明日になったら自然に従えるようになっているとは限りません。
「今度は。」
「次こそは。」
そう思っているうちに、それが普通になってしまうことがあります。
怒って言葉をぶつけてしまう。「次は気をつけよう。」
また言ってしまう。「今度こそ気をつけよう。」また同じことをしてしまう。
そうしているうちに、2年とは言わなくても、長い時間が過ぎてしまうことがあります。

「いつも」と「いつか」

そう考えると、今日の箇所には面白い対比があると思います。

パウロは16節で、「私はいつも」と言いました。
フェリクスは25節で、「折を見て、また」と言いました。

「いつも」と「いつか」。
パウロは、今日、神様の前で生きています。
フェリクスは、いつか神様に向き合おうとしています。

私たちは、どちらでしょう。

もちろん、私たちは失敗します。
怒ってしまうこともあります。
言わなくてよいことを言ってしまうこともあります。
「またやってしまった」と落ち込むこともあります。

だから、「もっと自制心を持って頑張りましょう」というだけなら、私たちは疲れてしまうと思います。
でも聖書を見ると、「節制」はガラテヤ人への手紙5章で、御霊の実の一つとして挙げられています。
つまり、自分の力だけで自分を治めるのではありません。
聖霊に治めていただくのです。
「主よ、私は自分の怒りを治められません。」
「言わないほうがよいと分かっているのに、言ってしまいます。」
「自分のプライドを捨てることができません。」
だからこそ、「聖霊様、私を治めてください。」と祈ることができます。

そして、明日からではなく、今日、そう祈るのです。

おわりに

もう一度、パウロの言葉を心に留めたいと思います。

「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」

こんなふうに生きられたらいいなと思います。
完璧な人になるということではありません。
失敗しない人になるということでもありません。
「神の前にも人も前にも責められることのない『良心を保つように、最善を尽くす』」のです。

最善を尽くす。
失敗したなら、その時に主の前に出る。
怒ってしまったなら、その怒りを主の前に持っていく。
人を傷つける言葉を言ってしまったなら、「また今度」ではなく、今日、謝る。
御言葉によって示されたなら、「次から頑張ります」ではなく、今日、主に従う。

フェリクスは、「折を見て、また」と言いました。
でも私たちは、「主よ、今日、あなたに従います」と言いたいと思います。

今、自分を支配しているものは何でしょうか。
怒りでしょうか。プライドでしょうか。人の目でしょうか。何かの欲望でしょうか。それを一つ、主の前に差し出してみたいと思います。
「主よ、私には自分を治めることができません。どうか聖霊によって私を治めてください。」

そして、「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」
私たちも、そう言える者へと少しずつ変えていただきたいと思います。
「いつか」ではなく、「今日」。
「次から」ではなく、「今」。
今日も主の御声を聞いたなら、今日、主に従っていきたいと思います。

最後に、二つだけ一緒に考えてみたいと思います。
今、自分を支配しやすいものは何でしょうか。
そして、「次から」ではなく、今日、主に従いたいと思うことは何でしょうか。

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