2026年8月16日 主日礼拝「この主に従い通す」
前 奏 黙祷
招 詞 イザヤ書55章6〜7節
讃 美 讃美歌1「神の力を」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇67篇(新聖歌 交読文24)
讃 美 讃美歌262「十字架のもとぞ」
「御前に行きひざまずき」
聖書朗読 民数記14章11〜25節
説 教 「この主に従い通す」
応答賛美 讃美歌532「ひとたびは死にし身も」
「明日を守られるイエス様」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 民数記14章24a節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記14章11〜25節
説教題
「この主に従い通す」」
今週の聖句
「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので…」
14章24a節
説教「この主に従い通す」」
民数記14章11〜25節
はじめに
以前、フィリップ・ヤンシーの本を読んでいたとき、その中に紹介されていた一つの言葉が心に残りました。教会を、大きな古い船にたとえた言葉です。
「その船は、ギーギーときしみます。激しく揺れます。時には、乗っているだけで気分が悪くなってしまうほどです。それでも、その船は行こうとしているところへ行く。これまでもそうだったし、これからもそうだ」
私は、この「船」というたとえは、教会の姿、また私たち一人ひとりの信仰の姿をよく表していると思います。
信仰の航海には、穏やかな時ばかりではありません。突然、荒波を受けることがあります。いくら前へ進もうとしても、向かい風に押し戻されるように感じる時があります。そして長い航海に疲れて、「もうこれ以上進めない」「少しここで休みたい」「もうここでやめたい」と思うこともあります。
世の荒波や時代の向かい風によって信仰が揺れる。神を信頼したいのに、思いどおりにならないことが続くと、「どうして神は何もしてくださらないのだろう」と思う。兄弟姉妹を愛したいのに、ちょっとした言葉が引っかかって、心にわだかまりが残る。「主にお任せします」と祈ったのに、しばらくすると心配になって、もう一度自分ですべてを握り直してしまう。そんなことがあります。私がそうなのです。
いろいろなところから、ギーギーときしむ音が聞こえてくるように感じることがあります。そして教会を大切に思っているからこそ、「この教会は、これから大丈夫なのだろうか」と心配することもあります。
けれども、そう思う私は、船の外からこの船を眺めている人ではありません。私も、この船に乗っている一人です。私自身の弱さも、この船をきしませている一つなのです。それでも、この教会を愛しています。この教会が主に用いられてほしい。これからも「福音を伝え続ける教会」「神の栄光をあらわす教会」であってほしい。だからこそ心配するのです。皆さんもそうなのではないでしょうか。
今日の民数記14章に出てくるイスラエルという船も、激しく揺れていました。船の中から聞こえてくるのは、「主はすばらしい」という賛美の声でも、「私たちは主に従います」という信仰告白でもありません。「エジプトの地で死んでいたらよかった。」「この荒野で死んでいたらよかった。」「エジプトに帰る方がよくはないか。」「かしらを一人立てて、エジプトへ帰ろう。」そんな主への不平の声です。主に背を向ける声です。信仰がきしむ音です。
約束の地は、もう目の前です。それなのに、「引き返そう」と言い始めた。神の救いの計画そのものが、ここで頓挫してしまったようにも見えます。
しかし今日、本当に問いたいのは、船がどれほど丈夫なのかということではありません。「この船を導いておられる主とは、いったいどのようなお方なのか。」ということです。
そして最後に24節の、「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通した。」という主の言葉を心に留めたいと思います。
私たちも、この主に従い通す者でありたい。そのためにまず、
「この主」とはどのようなお方なのかを、御言葉から見ていきたいと思います。
世界は、神の民を通して神を見ている
14章11節 主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。
主は、イスラエルの問題をはっきりと言われました。「いつまでわたしを信じようとしないのか。」
彼らは巨人を見ました。城壁に囲まれた町を見ました。そして恐れました。恐れること自体は、私たちにもあります。しかし、その恐れのさらに深いところにあったのは、「主は本当に私たちを守ることができるのだろうか。」「主は本当に約束を果たすことができるのだろうか。」という不信仰でした。
しかも神は、「わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず」と言われます。
彼らは何も見ていなかったのではありません。葦の海が分かれるのを見ました。エジプト軍から救い出されました。荒野で毎朝マナをいただきました。岩から水を与えられました。雲の柱、火の柱によって導かれてきました。神の栄光を何度も見てきたのです。
ここで私たちは単純だけれども、大切なことに気づかされます。「神の栄光を見ることと、その神を実際に自分の人生の計算に入れて生きることとは、別個の問題」なのです。
前回、私たちは「神を計算に入れていますか」と問われました。
イスラエルは神の栄光を見ていました。しかし、いざ巨人が目の前に現れると、その計算から神を外してしまいました。巨人の大きさは計算に入れた。城壁の高さも計算に入れた。自分たちの弱さも計算に入れた。しかし、葦の海を分けられた主、マナを与えられた主、ここまで自分たちを導いてくださった主を、今、自分たちが直面している問題の計算には入れなかった。つまり、神の栄光を「見た」。しかし、その神を「信頼して従う」ところまでは行かなかったのです。
これは、私たちにも問われます。
私たちも、これまでどれほど主の恵みをいただいてきたでしょうか。何度御言葉を聞いてきたでしょう。祈りが聞かれたこともあったでしょう。苦しい時に支えられたことも、必要を満たされたことも、罪を赦され、もう一度立たせていただいたこともあったでしょう。それなのに、またつぶやく。また心配する。また「無理です」と言う。
私自身、本当に小さなことでそうなります。家の中で何かにつまずいたり、お皿を落として割ってしまったりすると、瞬間的に「神様、なんでですか」と言ってしまう。実際は「もう、何なんだよ!『神様』」。
神は何も悪くありません。自分で落としたのです。それなのに、なぜか神に文句を言ってしまう。
でも、そんな自分を見ながら思うのです。「神に文句を言っているということは、少なくとも私は、神が本当におられると信じているのだな」、と。本当に神などいないと思っているなら、神に文句など言いません。
主につぶやいてしまった。「神様、どうしてですか」「もう、何なんだよ!神様」と言ってしまった。そして、「なんて信仰のない者だろう」と落ち込む。
確かに、つぶやきは悔い改めなければなりません。しかし、そこで終わらないことです。「主よ、私は今、腹を立てています。」「悲しいです。」「納得できません。」そう申し上げながら、それでも、「しかし、あなたは主です。」と、生きておられる主に向き直る。そして主に帰る。そこから信仰は、また歩き始めるのです。
さて12節で主は、この民を疫病で打って滅ぼし、モーセから新しい強くて大いなる国民を起こす、と言われます。しかしモーセは、それを喜びませんでした。もしモーセが自分の名誉を第一に考えていたなら、悪い話ではなかったでしょう。
しかし、モーセが心配したのは、自分の名ではありません。「神の御名」でした。
13節。エジプト人が聞きます。
14節。この地の住民たちも、イスラエルに起こっていることを見聞きしていました。
「イスラエルの神とは、いったいどのようなお方なのだろう。」と、イスラエルを取り巻く世界の人々は見ていたのです。
この数日間、私たちはお盆の時期を過ごしました。日本では、お盆の時期になると、普段以上に宗教的な習慣や、さまざまな信仰のあり方、信仰の戦いを身近に感じることがあります。
古代の人々にとっても、「どの神が本当に力ある神なのか」ということは、決して抽象的な問いではありませんでした。戦いは、人間と人間との戦いであると同時に、その背後にいるお互いの神々の力が現れるものとも考えられていました。
ですから、もしイスラエルが約束の地へ入ることができなければ、「イスラエルの神は、カナンの神々より弱かったのではないか。」と思われかねません。
だから16節でモーセは恐れて言います。
「主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ。」
「できなかった。」これは非常に重い言葉です。
「あの神は、エジプトから出すところまではできた。しかし、目的地まで連れて行くことはできなかった。」
「約束はした。しかし、それを果たす能力がなかった。」
そのように主の御名が侮られることを、モーセは恐れたのです。
これは今の私たちにも無関係ではありません。
私たちの周りにいる人々も、私たちが思っている以上にクリスチャンを見ています。
時々、「クリスチャンのくせに」と言われることがあります。
言われなくても、そう思われているのではないか、と感じることもあります。
そして、誰かに言われるより前に、自分自身で、「私はクリスチャンなのに……。」と心を痛めることもないでしょうか。
「またこんなことを言ってしまった。」
「また人を赦せなかった。」
「また神より自分の思いを優先してしまった。」
それで落ち込む。
しかし、その痛みは、少なくとも私たちが「どうでもいい」と思っていない証拠でもあるのではないでしょうか。
私たちが悲しいのは、自分の評判が傷つくからだけではありません。私たちを通して、私たちが愛する主が誤解されてしまうことを、実は悲しんでいるのではないでしょうか。「あんな神を信じても、人を愛せないのだ。」「あんな神を信じても、何も変わらないのだ。」そんなふうに、私たちの大切な主が誤解されたら悲しい。
なぜでしょう。「この主」を愛しているからです。
では、私たちが信じている「この主」とは、どれほど力ある神なのでしょうか。
この主の本当の力とは何か
14章17節 どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。
私たちは「神の大きな力」と聞くと、何を思い浮かべるでしょう。海を二つに分ける力。エジプトを打つ力。敵を倒す力。もちろん、それも神の力です。
しかしモーセは、「あなたが本当に力ある神なら、この反逆者たちを滅ぼしてください」とは祈りませんでした。「あなたの大きな力を現してください」と言った直後、18節でこう続けます。
14章18節 主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。
驚くような言葉です。海を割ることだけが神の力ではない。敵を打ち倒すことだけが神の力ではない。ご自分に背く者を忍耐することにも、神の力は現れる。罪人を赦すことにも、神の力は現れる。そして、赦した罪人を見捨てず、もう一度立たせ、造り変えていくことにも、神の力は現れるのです。
考えてみれば、イスラエルを滅ぼすことは神にとって難しいことではありません。しかし、何度背かれても忍耐する。何度つぶやかれても、すぐには捨てない。ご自分に背を向けた民を、それでも愛し、赦し、もう一度立たせる。そこにも、神の大いなる力が現れるのです。
そしてモーセは、神の御言葉を盾にして、神を操作しているのではありません。神を脅しているのでもありません。モーセは、神ご自身が語られた御言葉にすがっています。「主よ、あなたはどのようなお方なのでしょう。」「怒るのに遅く、恵み豊かなお方ではありませんか。」「咎と背きを赦すお方ではありませんか。」
これは、私たちの祈りにも大切なことを教えます。「神様、私はこれだけ頑張りました。これだけ奉仕しました。これだけ祈りました。だから聞いてください」ではありません。「主よ、あなたはどのようなお方でしょうか。あなたは真実なお方ではありませんか。」自分の立派さではなく、神が神であることにすがって祈るのです。
そして19節。
14章19節 どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。
すると20節。
14章20節 主は言われた。『あなたのことばどおりに、わたしは赦す。』」
なんという言葉でしょう。イスラエルには、赦される資格などありません。立派になったからでもありません。これから頑張ると言ったからでもありません。それでも主は、「わたしは赦す。」と言われました。
そして21節です。
14章21節 「しかし、わたしは生きている。主の栄光は全地に満ちている。」
私は以前、絶望のどん底にいたことがありました。暗い部屋の中で、布団の上に仰向けになり、ただ天井を見つめていました。何か解決策が見つかったわけではありません。状況が変わったわけでもありません。ところがその時、どういうわけか、一つの思いが心に満ちてきました。
「ああ、神はどこまでも神なんだ。」
うまく説明することはできません。けれども、その時、なぜか救われたような気がしたのです。何も解決していない。でも、「神は神なのだ」ということが分かった。私が分からなくても、神はご存じです。私が先を見通せなくても、神には見えている。私が揺れても、神は揺れない。私が「もう駄目だ」と思っていても、神が神でなくなったわけではない。今日の御言葉を読みながら、その時のことを思い出しました。
「わたしは生きている。」と言われる主。
主は、ご自身の御名のためにすべてをなさいます。しかしそれは、冷たいことではありません。むしろ、私たちにとって大きな慰めです。なぜなら、神は、ご自分が神であることをおやめにならないからです。
私たちは変わります。信仰も揺れます。しかし神は変わらないからです。恵み深いお方は、恵み深いお方であり続けます。真実なお方は、真実であり続けます。聖なるお方は、聖なるお方であり続けます。そして、ご自分の約束を最後まで成し遂げられます。
私たちが従いたいと願うのは、この神なのです。
この主は、愛するからこそ、そのままにはされない
主は言われました。「わたしは赦す」と。これで一件落着でしょうか。「ああ、よかった。神は恵み深い。赦してくださった。」それで終わるのでしょうか。
いいえ。22節から非常に厳しい言葉が続きます。
14章22節 「わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、
14章23節 わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。」
「赦す」と言われたのに、約束の地には入れない。
ここで私たちは、大切なことを知らなければなりません。
赦しは、罪の結果をすべて消去することと同じではないのです。
神に罪を告白し、赦されたとしても、罪によって生じた結果がすべて消えるとは限りません。
もちろん、人生に起こる苦しみを何でも、「あなたが罪を犯したからです」と決めつけることはできません。しかし聖書は決して、「神が赦してくださるから、罪なんて大したことではない。」とは言いません。
では、そもそも罪とは何でしょう。
罪とは、ただ「何か悪いことをしてしまった」というだけではありません。神に背くことです。神の御言葉よりも、自分の思いを正しいとすることです。
イスラエルはすでにシナイ山で十戒を与えられていました。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」どのように神の民として生きるのかを、すでに教えられていた。それでも彼らは荒野で、主の御言葉に背きました。
私たちも同じです。
御言葉を知らないからだけではありません。知っていても、背いてしまう。
神よりも、自分がどう見られるかを第一にする。
神よりも、人から認めてもらうことを大切にする。
スマートフォンの向こう側にあるものには心を奪われるのに、主の御声には耳を傾けなくなる。
誰にも見られていないところで、「これは神が喜ばれることではない。」と分かっていながら、やめられないことがある。
人には知られたくない習慣や、
人には知られたくない関係や、
人には知られたくない心の思いを抱えている人もいるかもしれません。
「こんな自分を神はどう思っておられるのだろう。」と恐れている人もいるかもしれません。
しかし、そんな私たちに主は、「汚れている。もう来るな。」と言われるのでしょうか。いいえ。むしろ主は言われるのです。「あなたを愛している。だから、その罪から出て来なさい。」「そこに居続けなくてよい。」「わたしのところへ帰って来なさい。」これが神の愛です。
「そのままのあなたを愛している」ということは、「そのままでいてよい」という意味ではありません。愛するからこそ、本当に変わって欲しいと願っておられるのです。もし神が私たちに無関心なら、放っておけばよいのです。しかし神は言われるのです。「あなたを愛している。だから、そこから出て来なさい。悔い改めなさい。変わりなさい。」と。
子どもの頃、「あれをしなさい」「これはしてはいけません」と言われて、「もう放っておいてよ」と思った経験があるかもしれません。けれども、本当に親が何も言わなくなったらどうでしょう。どこへ行こうと、何をしようと、何時に帰ろうと、もう何の関心も示さない。最初は「自由になった」と思うかもしれません。しかし、本当にそれは幸せでしょうか。何も言われないことが、いつも愛の証とは限りません。
ローマ人への手紙1章では、人が神に背を向け、自分の欲望を選び続けた結果について、神がその人々を彼らの欲望に「引き渡された」と語られます。「神なんていらない。」「自分の好きなように生きる。」そう言い続け、ついには自分が選び続けた道へ引き渡されてしまう。それは本当に恐ろしいことです。寂しいことです。悲しいことです。
もちろん私たちは、誰かを見て、「あの人は神に見捨てられた」などと判断することはできません。しかし、自分自身については問うことができます。「もし主が、もう二度と私に関わってくださらないとしたら、それで本当によいのだろうか。」と。
罪を犯しても何も示されない。御言葉を聞いても何も感じない。主に背を向けて歩いていっても、もう呼び止められない。本当に、それが自由でしょうか。本当に、それが幸せでしょうか。
ですから、主が罪を示してくださることは恵みなのです。
御言葉によって胸が痛むこともある。
自分の間違いを認めなければならないこともある。
時には罪の結果を刈り取ることもある。
しかし、それもまた、主が生きておられ、生きておられる主が今も私たちに関わり、愛してくださっている証しなのです。
祈りが答えられたから、「主は生きておられる」。必要が満たされたから、「主は生きておられる」。守られたから、「主は生きておられる」。それだけではありません。罪を示される。呼び止められる。悔い改めへと導かれる。それもまた、「主は生きておられる」ということなのです。
だから、イザヤ書55章は言います。
【イザヤ書】
55章6節 主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。
5章7節 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
「帰れ。」と言われています。神の方にむき直して歩き出すのです。悔い改めて神のもとに帰るのです。なぜでしょう。「豊かに赦してくださるから。」
罪を示されたなら、逃げなくて良い。「もう私は駄目だ」と絶望するのでもありません。帰ればよい。「主よ、私です。」「あの人ではありません。私です。」「私が愛していませんでした。」「私が赦していませんでした。」「私がつぶやいていました。」「私があなたより、ほかのものを大切にしていました。」そう言って、この主のところへ帰ればよい。なぜなら、豊かに赦してくださるからです。
しかし、なぜ神はそんなにも豊かに赦すことができるのでしょう。
18節には、「主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す」とあります。しかし同時に、「罰すべき者を必ず罰する」ともあるではありませんか。
赦す。しかし、罪を軽く扱われない。この二つは、どこで一つになるのでしょう。
十字架です。神は私たちの罪を見て、「まあ、いいでしょう。」とは言われませんでした。私たちの罪は、本当に裁かれなければならない罪でした。しかし神は、その裁きを私たちに負わせるのではなく、御子イエス・キリストに負わせてくださいました。
モーセは、罪深い民と神との間に立って、「どうか赦してください。」と祈りました。しかし、イエス・キリストはそれ以上のお方です。キリストはただ、「彼らを赦してください」と執り成されたのではありません。私たちが受けるべき裁きを、ご自身が引き受けてくださったのです。
ですから、もう一度、十字架の前に立ちたいのです。十字架を見ながら、二つのことを知りたいのです。
一つは、「私は、こんなにも愛されている。」ということです。
御子を与えてくださるほどに愛された。私が立派だったからではありません。役に立ったからでもありません。罪人であった私を、神は愛してくださいました。
しかし十字架は、もう一つのことも語ります。
「私の罪とは、それほど重大なものだった。」ということです。
御子が死ななければならないほど。神の御子が、私の代わりに裁きを負わなければならないほど。
ですから十字架を見ながら、「神は赦してくださるから、このくらいいいでしょう。」とは言えないはずです。むしろ、「これほど愛してくださった主を、私は悲しませていたのか。」と気づかされるのではないでしょうか。
これほど愛してくださったお方に、私はつぶやいていた。これほど赦してくださったお方の前で、私は人を赦さずにいた。これほど忍耐してくださったお方を信頼せず、「無理です」と言っていた。これほど私を大切にしてくださったお方よりも、ほかのものを第一にしていた。
「主よ、私は何をしていたのでしょう…。」
本当の恵みを知れば知るほど、罪が軽く見えてくるのではありません。むしろ、「このお方を悲しませたくない。」と思うようになるのではないでしょうか。罰が怖いからではありません。愛されているからです。これほど愛されたのだから、この主をもっと愛したい。この主に喜ばれる者になりたい。この主を悲しませる罪から離れたい。本当の恵みは、本当の悔い改めを生むのです。
だから、この主に従い通したい
そして24節です。
14章24節 「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。」
ここに「ただし」とあります。別訳では「しかし」です。
多くの人が不信仰に陥りました。しかし、カレブは…。
多くの人が主の御声に聞き従いませんでした。しかし、カレブは…。
彼には「違う霊」があった、と主は言われます。これは、心のあり方、姿勢が違ったということでしょう。カレブには、ほかの人に見えないものが見えていたわけではありません。同じ巨人を見ました。同じ城壁を見ました。同じ困難を見ました。しかし、一つ違いました。カレブは、その現実の中に主がおられることを見ていたのです。神の栄光をただ過去の出来事として見ていたのではありません。その神を、今、自分の人生の計算に入れていた。「あの時、葦の海を分けてくださった主。」「あの時、私たちを救い出してくださった主。」「あの時、マナを与えてくださった主。」その主が、今もここにおられる。だからカレブは、「主が私たちとともにおられるのだ。」と言うことができたのです。
そして主は、「わたしに従い通した。」と言われました。
これは、カレブが一度も失敗しなかったという意味ではありません。一度も恐れなかった、と聖書は言っていません。しかし神ご自身が彼について、「わたしに従い通した。」と言われました。
この言葉には、「主の後に十分に従う」「心を尽くして主について行く」という意味があります。主に従い通すとは、一度もつまずかないことではないでしょう。一度も迷わないことでもない。一度も恐れないことでもない。大切なのは、主から離れないことです。つまずいたら、主のところへ帰る。罪を犯したら、主のところへ帰る。怖くなったら、主の約束へ帰る。方向を見失ったら、御言葉へ帰る。そしてまた、主の後について歩き始める。
先ほどのイザヤ書55章の続きには、このようにあります。
55章8節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。」
私たちには分からないことがあります。なぜこんな道なのか。なぜこんなに遠回りするのか。なぜこんな波が来るのか。分からないことがあります。
しかし主は、さらに言われます。
55章11節 「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」
神がなさろうとしていることは、必ず成し遂げられるのです。
イスラエルは揺れました。神の計画は終わったように見えました。それでも、主は主であり続けられました。主の約束は失敗しませんでした。
私たちが従っているのは、ただ漠然とした「神」ではありません。「この主」なのです。
罪を決して軽く扱われない主。しかし、罪人を見捨てない主。
怒るのに遅く、恵み豊かな主。
「わたしは赦す」と言われる主。
愛するからこそ、罪の中にそのままにはしておかれない主。
「帰れ」と呼んでくださる主。
帰る者を豊かに赦してくださる主。
私たちの罪のために御子を与えてくださった主。
そして、「わたしは生きている。」と宣言される主です。
この主だから、従いたいのです。
罰が怖いからではありません。ただ命令されたからでもありません。このお方が、これほどまでに私たちを愛してくださった。このお方が、これほど真実でいてくださる。だから、この主について行きたい。この主に従いたい。この主に従い通したいのです。
そして、そのような思いで主に従い通す私たち教会の姿を通して、私たちを取り巻く世界の人々は、素晴らしい主の力と栄光を見るのではないでしょうか。
おわりに
最初に、古い大きな船の話をしました。ギーギーときしむ船です。
荒波を受けます。向かい風に押し戻されることもあります。長い航海に疲れることもあります。
私たちの信仰生活も、教会もそうです。人間関係がうまくいかない。祈っているのに道が見えない。自分自身の罪や弱さに嫌になる。教会のこれからを考えて不安になる。「本当に大丈夫なのだろうか。」と思うこともあります。
しかし私たちは、船が決して揺れないことを信じているのではありません。この船を導かれる主を信じているのです。
イスラエルという船は激しく揺れました。不平の声が響きました。「エジプトへ帰ろう」と言う人たちまで現れました。それでも主は言われます。「わたしは生きている。主の栄光が全地に満ちている。」
主は生きておられます。だから日々、罪深い私たちを赦してくださいます。
主は生きておられます。だから日々、愛する私たちの罪をそのままにはされません。
主は生きておられます。だから日々、罪を示し、悔い改めへと呼び戻してくださいます。
そして、私たちが揺れることがあっても、主の御心は揺れません。主の口から出た御言葉は、空しく終わりません。主が望まれることを、必ず成し遂げられます。
ですから、罪を示されたなら、この主のところへ帰りましょう。つぶやいていたなら、帰りましょう。人を愛せなくなっていたなら、帰りましょう。主よりほかのものを第一にしていたなら、帰りましょう。
主は言われます。「帰れ。」なぜなら、「豊かに赦してくださるから。」です。
そして、もう一度この主について行きましょう。私たちが、どこまでも真実でいられるからではありません。この主が、どこまでも真実でいてくださるからです。
揺れることがあっても。つまずくことがあっても。そのたびにこの主のところへ帰り、また立ち上がり、また主の後について行く。そして最後まで、この主に従い通していきたいのです。
【祈り】
天の父なる神様。
今日も御言葉を通して、あなたがどのようなお方であるかを教えてくださり、ありがとうございます。
主よ、私たちはこれまで多くの恵みをいただきながら、あなたにつぶやき、人を責め、あなたよりもほかのものを大切にしてしまう者です。
これほど愛してくださったあなたを悲しませてきたことをお赦しください。
けれども、あなたは私たちを放っておかず、罪を示し、「帰って来なさい」と招いてくださいます。その愛と恵みを感謝いたします。
そして、私たちが受けるべき裁きを御子イエス・キリストが十字架で負ってくださったことを、心から感謝いたします。
主よ、人生が揺れる時にも、目の前の困難だけを見るのではなく、そこにあなたがおられることを覚えさせてください。
つまずいた時にはあなたのもとへ帰り、罪を示されたなら悔い改め、もう一度あなたについて歩む者としてください。
私たち自身の強さではなく、どこまでも真実であり続けてくださるあなたを信頼して、この主に最後まで従い通すことができますように。
私たちの歩みを通して、あなたの御名があがめられますように。
救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

