2026年8月23日 主日礼拝「その祈り、本当にかなってほしいですか」
讃 美 新聖歌318「君はわが身の」
新聖歌329「御国への道歩むとき」
前 奏 黙祷
招 詞 哀歌3章19〜23節
讃 美 讃美歌4「よろずのくにびと」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇95篇(新聖歌 交読文29)
讃 美 讃美歌187「主よいのちの」
「聖い御霊よ」
聖書朗読 民数記14章26〜38節
説 教 「その祈り、本当にかなってほしいですか」
応答賛美 讃美歌252「主よ、今わが身は」
「主の前にひざまずき」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 民数記14章28節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記14章26〜38節
説教題
「その祈り、本当にかなってほしいですか」
今週の聖句
「わたしは生きている——主のことば——。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。」
民数記14章28節
説教「その祈り、本当にかなってほしいですか」
民数記14章26〜38節
はじめに——祈りが聞かれるということ
皆さんは、「祈りが聞かれた」と聞くと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。病気が癒やされた。必要が与えられた。閉ざされていた道が開かれた。長く祈ってきた願いがかなえられた。そのような時、私たちは「神様は祈りを聞いてくださった」と、心から感謝します。これは私たちにとって、大きな喜びです。聖書も繰り返し、主は私たちの祈りを聞いてくださるお方であると教えています。
けれども今日の箇所には、「祈りが聞かれる」ということについて、少し怖くなるような言葉があります。28節です。
14章28節 「彼らに言え。『わたしは生きている――主のことば――。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。』」
「わたしは生きている。」ここだけを聞くと、何だか励まされるような気がしないでしょうか。「大丈夫。わたしは生きている。」「今も生きているわたしが、あなたの今の祈りを聞いている。」「あなたがどんなに苦しくても、今もわたしはここにいる。」そんな慰めの言葉が続くように思うかもしれません。
ところが、続く言葉は違います。
「わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。」
これは、この場面では単なる励ましの言葉ではありません。「わたしは生きている」というのは、主がご自身のいのちにかけて宣言される、非常に厳粛な誓いの言葉です。
私も子どもの頃、友だちとの間で、「本当だよ。いのちをかけてもいい」というような言い方をした記憶があります。どうしても信じてほしい。絶対に嘘ではない。それくらい本気なのだと。もちろん、私たち人間が「いのちにかけて」と言っても、そのことばは完全ではありません。
しかし神が、「わたしは生きている」「わたしのいのちにかけて」と言われる。それは、「これは絶対に軽く聞いてはならない。」「わたしが語ったことは、必ずそのとおりになる。」という、これ以上にないほど厳粛な宣言です。
では、イスラエルの民は何と言っていたでしょうか。少し前の14章2節です。
14章2節 「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。」
すると主は言われました。
「わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。」
恐ろしい言葉です。
そして私たちも、一つ問われるのではないでしょうか。
「その祈り、本当にかなってほしいですか。」
私たちは、「祈りがかなえられることを願って」祈ります。けれども、「祈りがかなえられることを願う」その前に、一度、自分が何を願っているのかを振り返ってみる必要があるのかもしれません。自分のこと、また誰かのことを祈るその祈りを。なぜなら、生きておられる主は、私たちの声をすべて聞いておられるからです。
生きておられる主は、すべて聞いておられる
14章27節 「いつまで、この悪い会衆は、わたしに不平を言い続けるのか。わたしは、イスラエルの子らがわたしにつぶやく不平を聞いた。」
ヘブル語ではここの「不平」は複数形になっています。
そうです。主は聞いておられました。民がモーセとアロンに向かって言った言葉も。夜通し泣きながら語った言葉も。「エジプトに帰った方がいい。」「この荒野で死んだ方がましだ。」「妻や子どもたちは餌食になる。」そのすべてを、生きておられる主は聞いておられたのです。
私たちは時々、人に聞かれていなければ大丈夫だと思います。誰にも聞こえないところでつぶやく。心の中で悪態をつく。
「もう嫌だ。」
「どうして私ばかり。」
「あの人のことを何とかして。」
「神様は何をしているのだろう。」
しかし、生きておられる主の耳には全部届いています。礼拝でささげる、よく整えられた祈りだけを聞いておられるのではありません。感謝も聞いておられる。賛美も聞いておられる。嘆きも聞いておられる。誰にも言えない心の叫びも聞いておられる。そして、つぶやきさえも聞いておられる。
それは少し怖いことでもあります。けれども同時に、何という慰めでしょうか。
誰にも分かってもらえなかった言葉も、主は聞いておられる。誰にも話すことのできなかった痛みも、主は知っておられる。声にさえならなかった思いも、主はご存じです。私たちは、神の前では取り繕う必要がありません。
けれども、ここで誤解しないでください。苦しくて、「もう嫌です。」「どうしてですか。」「助けてください。」と叫ぶことそのものが罪なのではありません。聖書には、そのような祈りがたくさんあります。詩篇を読めば、「いつまでですか。」「なぜですか。」という祈りが何度も出てきます。エリヤも疲れ果て、「もう十分です」と主に訴えました。
私たちにも、「明日なんて来なければいい。」と思ってしまうほど苦しい日があるかもしれません。「もう死んでしまいたい。」そんな思いが心をよぎることさえあるかもしれません。
私はそこで、「そんなことを思ってはいけません。」「そんなことを祈ってはいけません。」と言いたいのではありません。その苦しみも、その涙も、生きておられる主のところへ持って行けばよいのです。
「主よ、もう耐えられません。」そう祈ってよい。
「主よ、私には分かりません。」そう祈ってよい。
大切なのは、その苦しみを抱えて、どちらへ向かうのかです。
一つは、苦しみを抱えながら、それでも神へ向かっていく祈りです。
「主よ、苦しいです。」
「主よ、分かりません。」
「それでも、あなたに助けを求めます。」
もう一つは、苦しみを理由に、神から離れていく祈りです。
「こんなに苦しいのだから、神は信頼できない。」
「こんなことが起こったのだから、神は私を愛しておられない。」
「神に従っても仕方がない。」
イスラエルの民は、こちらへ向かってしまいました。
彼らの問題は、苦しんだことではありません。不安になったことでもありません。その苦しみを理由にして、神がどのようなお方であるかまで疑い始めたのです。そして最後には、「エジプトへ帰ろう。」と言いました。主に従って前へ進むより、かつて奴隷であった場所へ戻る方がよい。そこまで神への信頼を失ってしまったのです。
ですから私たちは問われます。
「あなたの祈りは、神をどのようなお方だと告白していますか。」
私たちの祈りは、私たちの神観を表す
祈りは、ただ願いを伝えることではありません。
祈りは、「私は神をどのようなお方だと信じているのか」という信仰告白でもあります。
「主よ、助けてください。」という祈りの中には、「あなたは私を助けることのできるお方です。」という告白があります。
「主よ、赦してください。」という祈りの中には、「あなたは罪を赦してくださる、憐れみ深いお方です。」という告白があります。
「主よ、あなたに委ねます。」という祈りの中には、「私には分からなくても、あなたはご存じです。あなたは真実です。」という告白があります。
「主よ、感謝します。」という祈りの中には、「今、私には理解できなくても、あなたは良いお方です。」という告白があるのではないでしょうか。
反対に、「どうせ祈っても無駄だ。」という言葉の中にも、一つの神観があります。
「神は聞いてくださらない。」
「神にはできない。」
「神は信頼できない。」
口では「神様を信じています」と言いながら、私たちのつぶやきが、別の神を語ってしまうことがあります。
ですから祈りは、単に、「私は何が欲しいのか」という問題ではありません。もっと深いところで、「私は誰に祈っているのか。」「その方を、どのようなお方だと信じているのか。」という問題です。
そして、その神観は生き方にも現れます。
思いどおりにならない時に、主を待つのか。不安の中で、なお主に求めるのか。礼拝をどれほど大切にするのか。人を赦す時に、どのように神の愛と恵みを信じるのか。
苦難は、私たちが本当は神をどのようなお方だと信じているのかを、表に出します。ですから、自分自身に問いかけたいのです。「私のことばは、どんな神を語っているだろう。」「私の祈りは、どんな神を告白しているだろう。」そして、「私の生き方は、どんな神を告白しているだろう。」
「わたしは生きている」
そこで、もう一度28節です。
「わたしは生きている――主のことば――。」
民は、自分たちの目に見える現実を見ていました。敵は強い。自分たちは弱い。このまま進めば負ける。子どもたちも危険にさらされる。それは彼らにとって、とても現実的な問題でした。
しかし彼らが見失っていた、もっと大きな現実がありました。
「主が生きておられる。」ということ。
これまで彼らが経験してきた神の真実は、過去の話になったのではありません。ここまで導いてくださった主が、途中でいなくなられたのでもありません。約束された主が、突然力を失われたのでもありません。その主が、今も生きておられる。
私たちも同じかもしれません。経済的に苦しい。健康に不安がある。年を重ね、できないことが増えてきた。教会の将来が心配になる。大切な人の信仰が心配になる。祈っているのに、なかなか状況が変わらない。そして、「どうしてですか、神様。」という声が出てくる。
その状況は現実です。無理に「何も問題ありません」と言う必要はありません。しかし、その現実よりもさらに大きな現実があります。
それは「主は生きておられます。」「いのちをかけておられます」ということ。
主は今も私たちをご存じです。今も私たちの声をすべて聞いておられます。今も私たちを導いておられます。そして、今もご自分の約束を忘れておられません。あの、「わたしは生きている」と、ご自身をかけて語られる主です。それほどまでに、ご自分のことばを真剣に扱われる主です。
私たちの思いどおりの道順ではないことがあります。しかし、主の約束が途中で消えてしまうことはありません。信仰とは、現実を見ないことではありません。現実をしっかり見ながら、その現実のただ中に、生きておられる主を見ることなのです。
「わたしは彼らを導き入れる」
ところが、今日の箇所は裁きだけでは終わりません。
14章31節 「おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえたちの子どもについては、わたしは彼らを導き入れる。彼らはおまえたちが拒んだ地を知るようになる。」
親たちは言いました。「子どもたちは餌食になる。」自分たちの不信仰の中で、子どもたちの将来まで決めつけてしまったのです。
ところが主は言われます。
「わたしは彼らを導き入れる。」
親が諦めた子どもたちを、神は諦めておられませんでした。人間が、「もうだめだ。」と言ったところで、神は、「わたしが導く。」と言われます。
第一世代が不信仰になっても、神の約束そのものが失敗したわけではありません。確かに道順は変わりました。しかも、それは罪によって生じた痛ましい遠回りでした。
しかし、神は目的地を見失っておられません。「わたしは彼らを導き入れる。」主は、ご自分の約束を必ず成し遂げられます。
私たちの言葉を、誰かが聞いている
しかし、親世代の不信仰は、親世代だけの問題では終わりませんでした。
14章33節 「おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。」
子どもたちにも、その影響が及びました。
これは私たちにも分かることでしょう。私たちの信仰は、自分一人だけのものではありません。特に親の信仰は、子どもに大きな影響を与えます。
しかし、これは親だけの話ではありません。私たちには、それぞれ、信仰を受け継いでほしいと願っている誰かがいるのではないでしょうか。子どもかもしれない。孫かもしれない。家族かもしれない。教会の若い人かもしれない。友人かもしれない。まだ主を知らない、大切な人かもしれません。
その人たちは、私たちの言葉を聞いています。そして、私たちの生き方を見ています。
神について何を語るのか。
困難な時に何を言うのか。
礼拝をどう大切にするのか。
失敗した時に、どうするのか。
私たちは、言葉だけで信仰を伝えているのではありません。生き方によっても、「私が信じている神は、このようなお方です。」と語っているのです。
なので私は、親として恐れを覚えます。
振り返ると、私は子どもたちに十分な信仰の姿を見せてこられたとは、とても言えません。不平を口にしたこともあります。落ち込んだ姿も見せました。だらしない姿も見せました。もっと良い信仰の姿を見せられたらよかった。そう思うことがあります。
私は、子どもたちに上手に信仰を語って聞かせられるような親でもありません。だから、「この子たちが主を信じることができますように。」と祈ってきました。そして、せめて自分自身が主を第一とすること。礼拝を大切にすること。そこから何かを感じ取ってくれたらと願ってきました。けれども、それさえ十分だったのか分かりません。
特に息子は、親元にいた頃、すすんで教会へ行きたがるような人ではありませんでした。中学生にもなれば、日曜日の朝になると、妻との死に物狂いの「行く、行かない」バトルがありました。高校生になると、「教会に行くメリットを感じない」と言って、午前中の礼拝には滅多に来なくなりました。だから親元を離れたら、教会からも離れてしまうのではないか。そんな心配もありました。
ところが今、親元を離れて暮らしている息子が、私たちが何も言わなくても、自分から礼拝へ向かっていることを知らされます。晴れていれば、自転車で40分ほどかけて教会へ行く。雨の日には、時間もお金もかけてバスで向かう。私はそこにいません。「今日は日曜日だよ。」「礼拝へ行きなさいよ。」と促しているわけでもありません。それでも、自分から教会へ向かっている。親元を離れれば、寂しい時もあるでしょう。不安になる時もあるでしょう。その中で、自分から主を求めている。その姿を知らされると、私は本当に慰められます。
そして思うのです。信仰を与えるのは、親ではないのだ。親が上手に教えたからではない。親が完璧な信仰者だったからでもない。私の手が届かないところで、神ご自身が、その子に働いておられる。親の手が届かないところにも、主の御手は届いています。そして、私たちの知らないところで、誰かの信仰は、主によって育てられているのかもしれません。
「わたしは彼らを導き入れる。」このことばに、私は慰められます。これは親だけに与えられている希望ではありません。誰かに主を知ってほしいと願っている人。長い間、家族の救いを祈っている人。友人のために祈っている人。次の世代のために祈っている人。私たちには見えなくても、主には見えています。私たちの手の届かないところにも、主の御手は届いています。
「さまよった四十年」から「主に歩ませていただいた四十年」へ
しかし、それでも疑問が残ります。
神が第二世代を約束の地へ導き入れるのであれば、なぜ40年も荒野を歩かせられたのでしょうか。
34節では、40日間の偵察に対して、1日を1年として40年間、自分たちの咎を負うと語られます。
ですから民数記14章では、この40年は明らかに罪の結果です。裁きの40年です。彼らからすれば、「親の失敗のために、私たちは40年間も荒野をさまよわされた。」そう感じても不思議ではありません。
ところが40年後、約束の地を目前にした第二世代に、モーセは同じ40年間をこう語ります。
申命記8章2節です。
「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。」
民数記14章では、「40年間、荒野をさまよう。」しかし、40年後に振り返ると、「主が、この40年間、荒野であなたを歩ませられた。」
同じ40年です。変わったのは、過去ではありません。荒野が楽な場所だったことになったのでもありません。しかし後から振り返ると、「ただ、さまよわされていたのではなかった。」「主が、私たちを歩ませてくださっていたのだ。」と知ることができたのです。
申命記8章3節では、その40年について、主が民をへりくだらせ、試し、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」ことを分からせるためだったと語ります。さらに5節では、「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練される」と語られます。
そこには、父が子を愛するような神の愛がありました。裁きで始まった40年。しかし神は、その40年を無駄にはされませんでした。
第二世代にとって、その40年は、「主に依存して生きることを学ぶ40年」にもなったのです。
私たちにも、「あの年月は何だったのだろう。」と思う時があるかもしれません。「あの10年は失った10年だった。」「あの苦しみは何の意味もなかった。」そう思うことがあるでしょうか。
しかし、いつか振り返った時に、「私はただ、さまよっていたと思っていた。けれども、主が私を歩ませてくださっていたのだ。」と知る時が来るかもしれません。そこにも神の深い愛があった。そこでしか学べなかったことがあった。そこで主に頼ることを覚えた。そこで、生きておられる主を知った。そう知る時が来るでしょう。荒野は荒野です。しかし、生きておられる主と歩く荒野は、決して無駄な荒野ではないのです。
失敗した人を通してさえ、主の真実は伝わっていく
第二世代は、親世代の失敗を知っていました。しかし彼らが見たのは、親の失敗だけではありません。その失敗のただ中でも、神が真実であり続けたことを見たのです。
人は不信仰になった。しかし主は約束を忘れなかった。
人は失敗した。しかし主はご自分の民を見捨てなかった。
荒野になった。しかし、その荒野にも主はおられた。
もしかすると、私たちが信仰を伝えたいと願っている人たちも、私たちの失敗からさえ、大切なことを学んでいるのかもしれません。
「この人は完璧な信仰者だった。」ではない。
「この人も弱った。」
「この人も失敗した。」
「この人も泣いた。」
「それでも、この人が頼っていた主は、この人を見捨てなかった。」
そういうことを見ているのかもしれません。
信仰を継承するとは、完璧な信仰者を見せることではありません。私たちの失敗の中でも、「それでも主は真実だった。」ということを残していくことではないでしょうか。
そして、今、主を求めている方にも申し上げたいと思います。どうか、人だけを見ないでください。親にも失敗があります。信仰の先輩にも失敗があります。教会にも失敗があります。牧師にも失敗があります。人を見れば、がっかりすることがあります。しかし、その人たちが信じてきた主を見てください。
人は失敗します。しかし主は真実です。
人は変わります。しかし主は変わりません。
人は約束を破ることがあります。しかし主は、ご自身の約束をご自身のいのちをかけて必ず成し遂げられます。
裁きのことばが成るなら、約束のことばも成る
36節から38節には、厳しい現実が記されています。
悪い知らせを言いふらし、民を不平へと導いた10人の偵察者たちは、主の前で疫病によって死にました。
しかし38節には、
「あの地を偵察しに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブは生き残った。」
とあります。
10人は死んだ。ヨシュアとカレブは生きた。主が語られたことは、そのとおりになりました。
ここでも私たちは、「わたしは生きている」「わたしのいのちにかけて」ということばの重さを知らされます。神は、ご自分のことばを軽く扱われません。裁きのことばさえ、真実に行われる。
だとするならば――その神が語られた約束のことばも、私たちは信頼することができるのではないでしょうか。
「わたしは彼らを導き入れる。」このことばも必ず成る。
神は、裁きについてだけ真実なお方ではありません。救いについても真実です。私たちが思い描いていた道順ではなくなることがあります。遠回りに見えることがあります。荒野を歩くこともあります。しかし、主は約束された目的地を絶対に見失われません。
不信仰という罪
さて、新約聖書のヘブル人への手紙は、この荒野の第一世代について、非常に厳しく振り返っています。ヘブル人への手紙3章12節です。
「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」
そして15節。
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように。」
さらに18節、19節です。
「また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」
ヘブル書は、民数記14章の罪を、「不信仰」と呼びます。
しかし不信仰とは、単に「信仰が少し弱かった」という程度の話ではありません。
彼らは神の御声を聞いていました。神がどのようなお方かも知らされていました。それでも、「あなたのことばより、私は自分の目に見える状況を信じます。」と言ったのです。それが不信仰です。
そして不信仰は、やがて不従順になります。神を信頼しないから、神の御声に従えない。「約束の地へ行きなさい。」と言われても、「行けません。」となる。ついには、「エジプトへ帰ります。」となる。
不信仰とは、ただ心の中で少し疑うことではありません。生ける神を信頼せず、その御声を退ける罪です。それは神の力だけではなく、神の真実、神の愛、神ご自身を疑うことです。ですから罪には結果があります。今日の本文は、そのことを非常に厳しく語っています。
しかし、だからこそ、弱い私たちには十字架が必要なのです。
神は罪を、「まあ、いいでしょう。」と見逃されたのではありません。私たちの不信仰も、私たちの不従順も、私たちが神を疑い、神から離れていこうとした罪も、御子イエス・キリストが十字架で負ってくださいました。
そして、ここにも大きな希望があります。イスラエルが荒野で失敗したところで、イエス・キリストは失敗されませんでした。イスラエルが荒野で神を試し、不信仰に陥ったのに対して、主イエスは荒野の誘惑の中で御父のみことばに信頼し、従い通されました。そしてそのキリストによって、私たちには完全な安息、永遠の御国が約束されているのです。
ですからヘブル書は言います。
「今日、もし御声を聞くなら。」
主は、私たちの声をすべて聞いておられます。
——では、私たちは主の御声を聞いているでしょうか。
その祈り、本当にかなってほしいですか
最後に、もう一度、最初の問いに戻りたいと思います。
「その祈り、本当にかなってほしいですか。」
「もう嫌だ。」その祈り、本当にかなって欲しいでしょうか。
「あの人なんて、いなくなればいい。」本当にそうなって欲しいでしょうか。
「全部どうでもいい。」本当に全部、どうでもよくなって欲しいでしょうか。
「もう放っておいてください。」本当に、神に放っておかれたいでしょうか。
「明日なんて来なければいい。」本当に明日が来なくてよいでしょうか。
「もう死んでしまいたい。」本当に、それが私たちの一番深い願いでしょうか。
私たちは苦しみの中で、そのようなことを思ってしまうことがあります。口にしてしまうこともあります。そして、生きておられる主は、その声さえ聞いておられます。
しかし、今振り返って、明日が来て良かった。今日が与えられて良かった。そう思えることもあるのではないでしょうか。
神が私たちの願ったとおりにしてくださったことを感謝することがあります。しかし、それだけではありません。神が、私たちの願ったとおりにはなさらなかったことを感謝できる日もあります。
「主は生きておられます。」————
最初には、心強い慰めのことばに聞こえました。しかし本文を読むと、それは厳粛な誓いのことばでした。「わたしは生きている。」それほどまでに主は本気なのです。ご自分のことばを軽く扱われない。私たちの声をすべて聞いておられる。私たちの罪を真剣に扱われる。それは恐ろしいことです。しかし、だからこそ、もう一度聞いてください。
「わたしは生きている。」
ご自身のいのちをかけて語られるほど、主はご自分の約束にも真剣です。あなたの涙を忘れない。あなたの言葉にならない祈りも聞いておられる。あなたが見えない明日も知っておられる。あなたの手が届かない人にも、主の御手は届く。そして、主はご自身の約束を必ず成し遂げられる。
主が生きておられることは、私たちにとって恐れです。しかし同時に、これ以上ない希望です。
この主は、本気です。私たちを救うことに本気です。私たちを御国まで導くことに本気です。ご自分の約束を成し遂げることに本気です。
ですから、どうせ祈るなら、この生きておられる主を見上げて祈りたいのです。
「主よ、苦しいです。」そして、「それでも、あなたは生きておられます。」
「主よ、私には分かりません。」そして、「それでも、あなたは真実なお方です。」
「主よ、私が思っていた道とは違います。」そして、「それでも、あなたは約束を必ず成し遂げてくださいます。」
そこから私たちの祈りは、さらに引き上げられるでしょう。
「主よ、私をあなたから離れさせないでください。」
「私の大切な人を、あなたご自身が導いてください。」
「私たちが失敗しても、あなたが真実なお方であることを、次の人へ伝えさせてください。」
「私たちを、あなたが約束された御国まで、あなたに従い通す者としてください。」と。
「その祈り、本当にかなってほしいですか。」
この祈りなら、私たちは心から答えたいのです。
「はい、主よ。」「どうか、そのとおりにしてください。」
【祈り】
生きておられる主なる神様。
あなたは今日も生きておられ、私たちの声をすべて聞いていてくださることを感謝いたします。感謝のことばも、賛美も、涙も、嘆きも、そして人には言えないつぶやきさえも、あなたはご存じです。
主よ、私たちは苦しみの中で、あなたを疑ってしまうことがあります。目の前の状況を見て、「もうだめだ」と決めつけてしまうことがあります。あなたの真実よりも、自分の不安を信じてしまうことがあります。どうか私たちをお赦しください。
私たちのことばが、あなたをどのようなお方として語っているのか。私たちの祈りが、どのような神を告白しているのか。私たちの生き方が、どのような神を人々に示しているのか。今日もう一度、御前で振り返らせてください。
主よ、苦しい時にも、あなたへ向かわせてください。分からない時にも、あなたから離れない者としてください。「それでも、主は生きておられる。」「それでも、主は真実である。」そう告白する信仰を与えてください。
私たちの子どもたちを、家族を、友人を、次の世代を、そして今あなたを求めている一人ひとりを、あなたご自身が導いてください。私たちの手の届かないところにも、あなたの御手が届いていることを信じさせてください。私たちの失敗さえ、あなたの御手の中で無駄にされることなく、あなたの真実を証しするものとして用いてください。
荒野を歩く時にも、たださまよっているのではなく、あなたが歩ませてくださっていることを信じさせてください。そしていつの日か振り返って、「あの時にも主はおられた。」「あの時にも主は真実だった。」と感謝する者としてください。
何よりも、私たちの不信仰と不従順の罪を負って十字架にかかってくださった主イエス・キリストを仰がせてください。
今日、あなたの御声を聞くなら、心を頑なにせず、信頼し、従う者としてください。
主よ、私たちをあなたから離れさせないでください。あなたが約束された御国まで、最後まであなたに従い通す者としてください。私たちは祈ります。「主よ、あなたは生きておられます。」「あなたは真実なお方です。」「あなたの約束は必ず成ります。」どうか、そのとおりにしてください。
私たちの救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

