2016年1月24日 主日礼拝「主の弟子にふさわしい歩みとは」

本日の聖書箇所

ルカの福音書14章25〜35節

説教題

「主の弟子にふさわしい歩みとは」

今週の聖句

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

ルカの福音書9章23節

訳してみましょう

1765 Dedication to Christ is not just a one-time choice, it’s a daily challenge.
(キリストへの献身はただ1回の選択ではなく、それは日々の挑戦である。)

1766 A sorrow shared is a sorrow halved.  —Shakespeare
(共有された悲しみは、半減された悲しみである。シェイクスピア)

ANDREW1

説教メモ

さきほど、ルカの福音書14章25〜35章を拝読しました。
その直前の箇所では何が言われているでしょうか。
主の祝宴に多くの人が招かれたけれど、多くの人は色々と理由をつけて来なかったということが書かれています。そして、招かれた者(私たち)は、神さまの招きにどのように応じ、どのように歩むべきかが本朝の聖書箇所に記されています。

「弟子道(でしどう)」とは —–弟子としてどのように歩むべきか

本朝の聖書箇所では、次の3つのことが挙げられています。

  1. 主イエスを最大限に愛すること
  2. 自分の十字架をおってキリストに従うこと
  3. 生涯キリストに従うこと

1.主イエスを最大限に愛すること

26節をご覧ください。私たちにとって、少し不可解なことが記されています。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26)

当時は「憎む」という言葉の意味は、憎しみをもって憎むという感情のことではなく、「選択」を意味します。イエス様はこの先の16章でこのようにおっしゃっています。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:13)

一方を選べば他方は捨てることになる。どちらかを重んじるとき、他方は軽んじられる。そういった意味です。
イエス様は、単にご自分に興味を持ってついて来る人を求めているのではなく、ご自分と運命を共にする人を求めています。イエス様に共鳴する者、またイエス様の理解者ということだけでは弟子となれません。
イエス様は、私たちが自分の家族や財産、命までも捨て神を選択して弟子となる。そのようなイエス・キリストご自身と同じレベルで献身する者のように私たちを見なしたいのです。神さまと何かを天秤にかけるようでは、キリストの弟子にはふさわしくないのです。
私たちはたびたびこのように、神さまと何かを天秤にかけることをしてしまいます。
どちらを選ぶか。それは私たちが毎日とっている行動です。
しかし、私たちが主イエス様に従うということは、この世のものを天秤にかけてから神さまを優先するという、その程度のものではないのです。
私たちがそれを選び優先するのではなく、must(しなければならない)ことなのです。ふたつを天秤にかけること自体が間違っているのです。
イエス様に従っていくこととは、自分のすべてを二の次にしなければなりません。イエス様に従っていくことが第一となっていなければなりません。イエス様に従うことは、何者にも代えがたいことなのです。
弟子となるには、自分自身を献げる「献身」が要求されるのです。

14章28節からは、イエス様に従うにあたって、そのイエス様のうちに私たちがそれほどまでの犠牲を払う価値があるかどうか、それに値するかどうかをあなたがたは計算してみなさいと記されています。

「塔を建てるたとえ」があります。塔を建てるにはどのくらいの費用がかかるのか。どのくらいの日数がかかるのか。いろいろ計算して「大丈夫だ」と判断してから塔を建て始めます。そうでないと、途中で挫折してしまい人々の物笑いの種となってしまいます。
もうひとつの「戦いのたとえ」はどうでしょうか。数の上では負けるのが当たり前、絶対に無理だとわかったら使者を送って講和を求めます。それが賢明でしょう。

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:33)

イエス様に従う、弟子となる、献身することはとても大変なことなのです。
私たちには日々の生活があります。安易な期待を持ってクリスチャン生活を始めるならば、それは失敗に終わります。そのような人は、普段の生活、また職場などにおいて様々な困難に直面し、つぶやき、神さまに失望し、神さまから、教会から離れてしまうでしょう。そのような人は弟子となるのにふさわしくありません。
イエス様の弟子となるには、どれほどの大きな犠牲を要することか、まず座って計算してみること。それからイエス様に従っていくのだ。そのようなことが説明されています。

もうひとつ、「塩のたとえ」が結論的に出てきます。

「塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(ルカ14:34-35)

クリスチャンは「地の塩」として、塩けを保っていなければなりません。
自分はクリスチャンであると公言していながら、その実キリストの弟子でない者は、塩けをなくしたクリスチャンとなり、神の国の外に投げ捨てられることとなります。
それは選択を誤ったからです。
人はまず、主イエス・キリストを第一とする献身をしなければなりません。狭い門から入らなければ神の国に入れないのです。自分のすることと主を天秤にかけることをせず、まず主に従うこと。主に従うことはmust(しなければならない・何かと比べてすることではない)である。そのことを多くのクリスチャンは間違って理解しているのではないでしょうか。
「十戒」があります。十戒は神さまが私たちに示された「指針」です。
先週もお話ししましたが、私たちの指針、重り縄の先端は聖書を指していなければなりません。永遠に変更されることのない神さまのみことばが、私たちの間違いのない指針です。この世の道徳や倫理は民族や国によって違いますし、時代によっても変化してきます。
この世の道徳や倫理、この世の常識に逆らって弟子として生きるということは、どのようなことになるでしょうか。
それは「迫害」です。

2.自分の十字架をおって主に従う

初期の教会の歴史を見ると、クリスチャンの迫害があります。
教会史の中には「キリスト教とは迫害を恐れず拷問にかけられる時には、キリストの茨(いばら)の冠をおぼえ、死刑に処せられる時には十字架を偲び、天上にあるキリストに見(まみ)えることに喜びの祈りを捧げつつ命を絶っていった。迫害を加えれば加えるほど、信仰は燃え、信徒の数も増えた。」とあります。
当時のクリスチャンたちは、イエス様がおっしゃったことを実践していたことが分かります。それ故の迫害であったことが分かります。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)

また、マタイ10章38節の前にはこのように記されています。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:34〜37)

イエス様は「剣をもたらすために来た」とおっしゃいました。
この剣とは、戦いに用いるものという意味ではなく、クリスチャンをこの世の生き方から分けるためのものです。そしてこの世の生き方から分けられた者(クリスチャン)には、父なる神さまが与えてくださる平安があります。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

クリスチャンの生き方の顕著な特徴は、王である主イエスを他の何よりも愛していくことです。最大限に愛していくことです。
この世の人々との生き方とは異なるために対立し、当然そこに迫害が起こります。
そのような世で、クリスチャンが対立する術は、剣ではなく「十字架」です。「自分の十字架をおってイエス様に従うこと」です。
イエス様はこの世の悪の勢力によって十字架を背負わされ、十字架がご自身の死ぬべき場所となりました。しかし、その十字架の後には復活がありました。すべて神さまの御心(みこころ)です。この十字架によってサタンは敗北し、この地上に救いがもたらされた。十字架による勝利です。
この地上にあって私たちクリスチャンは、主イエスの代理です。
負うべき十字架は人それぞれ違うものです。ですから、他人と比較するべきではありません。それぞれに負うべき十字架を負っていくのです。
その負うべき十字架は、決して重すぎることはありません。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28〜30)

私たちクリスチャンの歩みはこの世の歩みとはまるで異なります。敬虔に生きようとすればするほど周囲と摩擦がおこり、当然迫害も起こります。

3.生涯(日々)キリストに従う

主イエスに従うのは、たった一度だけのことではありません。毎日毎日、従うのです。それが生涯キリストに従うクリスチャンに求められていることであり、立場とするところです。
「日々十字架を負う」のです。

今週の聖句です。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカの福音書9章23節)

毎朝、皆さんはどのような祈りをされますか?
今日という新しい一日も、神さまにゆだねて、献げて歩んでまいります、と祈られるでしょうか。そして、今日という一日が神さまの栄光のために用いられるようにと祈られるでしょうか。
私たちはそのような歩みを目指してまいりましょう。イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことは、このことのためです。

 今日、私たちがどのような歩みをするのか。キリストに自分を献げて今日という一日を歩む。明日のことは明日心配するのです。ですから毎日毎日、その日その日ごとにこのことを自分に思い聞かせてクリスチャンとしての歩みをしていきましょう。イエス様に従う(献身する)ことは、まさに日々のチャレンジです。

Dedication to Christ is not just a one-time choice, it’s a daily challenge.
(キリストへの献身はただ1回の選択ではなく、それは日々の挑戦である。)

まとめてみしょう。

「弟子道(でしどう)」とは

  1. 主イエスを最大限に愛すること
  2. 自分の十字架をおってキリストに従うこと
  3. 生涯キリストに従うこと

何よりも、最大限に主を愛する。その下に私たちの選択があります。
一人ひとり自分のおうべき十字架があります。
「自分を捨てて」とありますが、私たちは救われた当初は自分を捨てたつもりでいますが本当にそうでしょうか。自分を捨て切れているでしょうか。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

そのように、もはや私たちが生きているのではなく、神の御子を信じる信仰によって生きているでしょうか。
このように私たちが生きることができるように、主は私たちの内に聖霊を住まわせてくださいました。

「自らを十字架につけ、命の御霊が私たちの内に臨まれるその時こそ、弟子の道を完全に歩むことができます。その時から聖書のみことばが理解できるようになり、私たちの喜びとなり、満ちあふれる奇跡の人生が始まります。」と、ハ・ヨンジュ先生は言っています。

自分を捨てると、また自分を否定すると、つまり自分を十字架にかけてしまう時、奇跡は起こります。
古い自分、過去はすべてキリストとともに十字架にかけられ死んだものとなりました。そのようなものはイエス様を信じた時に葬ってしまったものです。そして私たちは、新しくキリスト・イエスにあって生きる者とされました。ですから、主に従うことはそうしなければならない(must)こととなりました。
主の弟子にふさわしい道とは、狭い道であり、困難な道です。
しかし、せっかく神さまに愛され、救われた私たちの命です。私たちが神さまに喜ばれる歩みをしたいと願うのはごく自然なことではないでしょうか。
神さまは絶対的な愛をもって私たちを愛してくださった。それ故にイエス様を私たちの救い主として送ってくださった神さまに、自分を委ねていくことが「弟子としての歩み」ではないでしょうか。

イエス様がこの話をされたのは、決して牧師や宣教師を志す者にだけ向けたことばではありません。なぜなら、多くの群衆にむけて話されているからです。
せっかく信じる者とされた私たちは、とことんまでみことばに従う生活をしたいと、そのように思いませんか?
信じたからそれで良い。そうではなく、日々の生活の中で弟子として歩んでいくことが問われています。
口で言うことは簡単です。しかし、日々をそのような思いを持って、負うべき十字架をおって歩んでまいりましょう。

パッションという映画を観られたと思います。
イエス様は大勢の群衆が見ている中、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を処刑場のゴルゴタの丘に向かうまで、十字架を負い歩きました。途中何度も何度も挫折しながら歩んだのです。直前に「十字架につけろ!」と叫んだ人々は嘲(あざけ)ったでしょう。「神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ!」と。
イエス様に従うとは、そういった人々の嘲(あざけ)りをも覚悟するべきでしょう。
先ほども申しましたとおり、私たちの基準はこの世の基準とまるで違います。私たちが主の弟子として自分を献げて生きる時、この世の人々は「もっとまともな生き方があっただろう」と言うかもしれません。私たちの弟子としての歩みが理解できないからです。
そのような群衆に見られている中で歩んで行くということはとても大変なことでしょう。
それは自分の内に蓄えられた力や思想によってではまるで不可能です。
聖霊によって「イエスは主である」と告白した私たちです。その聖霊様が私たちを導いてくださいます。
私たちは聖霊様に頼っていく時、弟子としての歩みが可能となるのです。
そのことを是非おぼえてください。

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