2026年10月21日 水曜日祈祷会「愛しているからこそ、聞く」
聖書箇所
ヨブ記5章
「愛しているからこそ、聞く」
はじめに ― 慰めるために来た友人たち
今日は、ヨブ記5章を学びます。
この5章は、前の4章から始まったエリファズの言葉の続きです。
ヨブの三人の友人たちは、何のためにヨブのところにやって来たのでしょうか。
ヨブ記2章11節には、彼らがヨブをいたわり、慰めるためにやって来たと記されています。
彼らはヨブの姿を見て、声を上げて泣きました。そして、ヨブとともに地面に座り、七日七晩、何も語りませんでした。ヨブの苦しみがあまりにも大きかったからです。
彼らは、本当にヨブを愛していたのでしょう。
ところが、3章でヨブが口を開き、自分の生まれた日を呪い、死を願うほどの苦しみを訴えると、友人たちの態度に変化が見られるようになります。
エリファズは、4章2節でこう語り始めました。「しかし、だれが語らないでいられるだろう。」
エリファズは、黙っていられなくなったのです。
ヨブを愛していたからでしょう。何とか励ましたい。立ち直ってほしい。神を信頼して歩んでほしい。そのような思いがあったのだと思います。
しかし、語り始めたエリファズは、次第にヨブの苦しみそのものよりも、ヨブの考え方や信仰を正そうとするようになっていきます。
今日は、そのエリファズの言葉を通して、私たち自身の姿を考えてみたいと思います。
Ⅰ.苦しみの原因を決めつける(1〜7節)
まず1節から7節です。
エリファズは、愚かな者は自分の怒りやねたみによって身を滅ぼし、その家族や財産にも災いが及ぶと語ります。
3節から5節には、愚かな者の子どもたちが安全を失い、その財産も奪われてしまうという話が出てきます。
これを聞いたヨブは、どう思ったでしょうか。
ヨブは、すでに十人の子どもたちを失い、財産も失っています。
エリファズが意図的にそれらの出来事を指していたのかは分かりません。しかし、ヨブにとっては、自分の苦しみを指摘されているように聞こえたのではないでしょうか。
さらに6節では、不幸や苦しみは、ちりや土から自然に生じるものではないと語ります。
この言葉は、それだけを取り出せば、苦難には原因があるという一般的な言葉にも聞こえます。
しかし、4章からの流れを考えると、エリファズはヨブに対して、あなたがこれほどの災いを受けたのには、それなりの理由があるはずだ、と言っているように思われます。
つまり、ヨブ自身の中に何か問題があるのではないか、ということです。
確かに聖書は、人間の罪が苦しみをもたらすことを教えています。自分の行いによって、その結果を刈り取ることもあるでしょう。
しかし、すべての苦しみが、その人自身の罪の結果であるとは限りません。
私たちは、ヨブ記1章、2章を読んでいます。ヨブが神を恐れ、悪から遠ざかる人であったことを知っています。ヨブの苦難は、彼が何か大きな罪を犯したために与えられた罰ではありませんでした。
しかし、エリファズはそれを知りません。
知らないにもかかわらず、自分の経験や知識によって、ヨブの苦しみの原因を説明しようとしたのです。
ここに、私たちも気をつけなければならないことがあります。
私たちは、苦しんでいる人を見ると、どうしてそのようなことになったのか、理由を知りたくなることがあります。そして、何か原因が分かれば、それを正してあげたいと思います。
しかし、本当にその人の苦しみを理解しているのでしょうか。
私たちには見えていないこと、分からないことが、たくさんあるはずです。
Ⅱ.神についての正しい知識があっても(8〜16節)
続く8節で、エリファズは、自分なら神を求め、自分の問題を神に委ねると語ります。
そして9節以降では、神の偉大さについて語ります。
神は測り知れない大きなことをなさるお方です。地に雨を降らせ、低い者を高く上げ、悪賢い者の企てを打ち砕き、貧しい者を救われるお方です。
素晴らしいことを語っています。
私たちも、神様はそのようなお方だと信じています。
実際、13節の言葉は、新約聖書の第一コリント3章19節でも引用されています。
つまり、エリファズが語ったことが、すべて間違っていたわけではないのです。
しかし、問題は、その正しい知識を、ヨブの苦しみにどのように当てはめたのかということです。
エリファズは、神を求め、神に委ねるように勧めています。
しかし、ヨブは神を求めていなかったのでしょうか。
いいえ。1章では、すべてを失ったヨブが地にひれ伏し、神を礼拝したことが記されていました。
ヨブは、苦しみの中で神との関係を断ち切ったわけではありません。苦しみながらも、なお神に向かっているのです。
エリファズは、神について多くのことを知っていました。しかし、目の前にいるヨブのことを、十分に理解していなかったのです。
神について正しいことを知っていることと、神がその人の人生において何をなさっているのかを知っていることは、同じではありません。
これは、私たちも忘れてはならないことだと思います。
Ⅲ.希望の言葉が、人を追い詰めることもある(17〜27節)
さて、17節から、エリファズはさらに熱心にヨブを励まそうとします。
17節、18節では、神の懲らしめを受ける人の幸いを語り、神は傷つけても、その傷を包み、癒やしてくださるお方だと語ります。
これも、聖書が教えている大切な真理です。
神は、愛する子どもたちを訓練されるお方です。ヘブル人への手紙12章にも、そのことが教えられています。
しかし、エリファズは、ヨブが受けている苦しみを神の懲らしめだと考えているのです。
そして、19節以降では、将来の祝福を次々と語ります。
神はあらゆる災いから救い出してくださる。飢饉や戦争から守ってくださる。家庭に平安が与えられる。子孫が増え広がり、長寿を全うすることができる。
何と希望に満ちた言葉でしょうか。
しかし、少し考えてみたいのです。
この言葉を聞いているヨブは、今、どのような状況にあるのでしょうか。
彼は、すべての財産を失いました。健康も失いました。そして、愛する十人の子どもたちを失いました。
そのヨブに対して、エリファズは25節で、あなたの子孫は増え広がる、と語るのです。
ヨブは、どのような思いでこの言葉を聞いたでしょうか。
エリファズは、希望を与えようとしたのでしょう。しかし、その希望の言葉が、かえってヨブの悲しみを深くした可能性もあると思います。
私たちも、似たようなことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。
例えば、愛する人を亡くして悲しんでいる人に、「天国でまた会えますよ」と語る。
大きな困難の中にいる人に、「神様はすべてを益としてくださいます」と語る。
それらは、聖書に基づく大切な希望です。
しかし、今、目の前で悲しんでいる人に、その言葉が本当に慰めとなるでしょうか。
もちろん、慰められることもあるでしょう。
けれども、時には、その言葉によって、悲しんではいけないのだろうか、もっと神様を信頼しなければならないのだろうか、と追い詰められてしまうこともあるのではないでしょうか。
希望を語ることが間違っているのではありません。
しかし、希望を語ることによって、その人の今の悲しみを、早く終わらせようとしてはいないでしょうか。
苦しんでいる人には、悲しまなければならない時間があります。涙を流さなければならない時間があります。
信仰があるからといって、悲しんではいけないわけではないのです。
そして最後の27節です。
エリファズは、自分たちはこれを調べ、確かなことだと分かったのだから、ヨブも聞いて理解するようにと勧めます。
エリファズは、自分の語っていることが正しいと確信していたのです。
最初は、ヨブを慰めるためにやって来ました。
しかし、ヨブの言葉を聞いて、黙っていられなくなりました。そして語り始めるうちに、ヨブを慰めることよりも、ヨブに自分の考えを受け入れてもらうことに熱心になっていったのではないでしょうか。
愛がなくなったわけではなかったと思います。
愛していたからこそ、何とか諭そうとしたのでしょう。
しかし、相手を正そうとする熱心さが、相手の苦しみを理解しようとする心を追い越してしまった。
私たちにも、そのようなことがあるように思います。
Ⅳ.苦しむ人とともに涙を流された主イエス
ここで、思い起こしたいのは、ヨハネの福音書11章です。
ラザロが死んだとき、主イエスは、彼をよみがえらせることをご存じでした。
マルタに対して、ご自身がよみがえりであり、いのちであると語られました。
主イエスは、死に打ち勝つ力を持っておられました。そして、その希望をはっきりと語られました。
それなのに、ラザロの墓の前で、主イエスは涙を流されたのです。
35節には、短く、「イエスは涙を流された」と記されています。
なぜでしょうか。
主イエスは、人々の悲しみを、決して軽く扱われなかったのです。
復活の希望があるからといって、今、悲しんでいる人に、もう悲しまなくてよいとは言われませんでした。
悲しむ人々のところに来られ、ともに涙を流されたのです。
そして、私たちの主イエスご自身が、罪のないお方でありながら、苦しみを受け、十字架にかかってくださいました。
人は、罪を犯したから苦しむのだ。苦しんでいるのだから、何か罪があるはずだ。
そのような単純な考え方では、主イエスの十字架を説明することはできません。
罪のない主イエスが、私たちの罪のために苦しまれたのです。
私たちの罪を負い、私たちを救うために、十字架にかかってくださいました。
そして、死からよみがえり、私たちに永遠のいのちの希望を与えてくださいました。
私たちが苦しみの中で見つめるべきなのは、この主イエス・キリストです。
主は、私たちの苦しみをご存じです。私たちの涙をご存じです。そして、私たちを決して見捨てることのないお方です。
おわりに ― 愛しているからこそ、聞く
今日のヨブ記5章を通して、私たちは何を教えられるでしょうか。
エリファズは、ヨブを愛していたのでしょう。
しかし、愛していたからこそ語り始め、語るうちに、いつの間にかヨブの苦しみが見えなくなってしまったのではないでしょうか。
私たちも同じようなことをしてしまうかもしれません。
苦しんでいる人を前にして、何か言ってあげたい。励ましたい。御言葉を伝えたい。神様を信頼してほしい。
その思いは、大切なものです。
しかし、そこで一度、自分自身に問いかけたいと思います。
「私は今、この人を本当に愛しているだろうか。それとも、この人に自分の正しさを認めてもらおうとしているのだろうか。」
もちろん、愛するからこそ語らなければならない時もあります。御言葉によって励まし、慰め、時には罪を指摘しなければならない時もあるでしょう。
しかし、その時にも、相手への愛を失ってはならないのです。
ヨブ記2章13節を、もう一度思い起こしたいと思います。
七日七晩、友人たちはヨブの隣に座っていました。
もしかすると、エリファズが最後まで忘れてはならなかったのは、あの時の心だったのではないでしょうか。
愛しているからこそ、語る。しかし、愛しているからこそ、聞く。愛しているからこそ、黙って隣にいる。
私たちの主イエスは、悲しむ人々のところに来られ、ともに涙を流されたお方です。
私たちも、この主イエスに倣う者でありたいと思います。
神について多くのことを知っているだけでなく、神の愛をもって人を愛する者でありたい。
語るべき時には、真理を愛をもって語り、聞くべき時には、心を尽くして耳を傾ける者でありたいと思います。
そして、苦しんでいる兄弟姉妹を、急いで立ち直らせようとするのではなく、ともに祈り、ともに主を見上げていくことのできる教会でありたいと願います。

