2026年10月18日 主日礼拝「彼らが死ぬことのないように」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇95篇1〜3節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇37篇(新聖歌 交読文14)
讃 美 讃美歌352「天なる喜び」
「暗闇に光」
聖書朗読 民数記17章1〜13節
説 教 「彼らが死ぬことのないように」
応答賛美 讃美歌537「我が主の御前に」
献 金 新聖歌382「心から願うのは」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 民数記 17章10b節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記17章1〜13節
説教題
「彼らが死ぬことのないように」
今週の聖句
「彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」
民数記 17章10b節
説教「彼らが死ぬことのないように」
民数記17章1〜13節
はじめに――人はなぜ、人より上に立ちたがるのか
人は、どうして人より上に立ちたがるのでしょうか。
私は、自分で言うのも何ですが、このようなおとなしそうな顔をしながら、妻に言わせると、「絶対に私を威張らせないように仕向けてくる」のだそうです。
少し前から「マウントを取る」という言葉をよく聞くようになりました。2014年頃にはテレビドラマなどでも使われ、広く知られるようになった言葉です。自分の方が相手より優れていると示し、上の立場に立とうとすることを言います。
例えば、自分の作った料理について「もう少しこうした方がおいしいんじゃない」と言われると、料理への助言なのに、自分まで否定されたように感じて、言い返したくなることがあります。ほかの人の料理が褒められると、素直に喜べないこともあるでしょう。反対に「私なんて、たいしたことはできません」と謙遜な言葉を使いながら、実は褒めてもらうのを期待していることもあります。人間の心は複雑ですね。
なぜでしょうか。尊敬されたい。愛されたい。大切にされたい。人から認められたい。それは誰にとっても切実な願いです。けれども、認められなくなることを恐れるあまり、相手を下に置いて、自分を守ろうとすることがあるのです。
また、私に対して何かと優位に立とうとする人に出会うと、「この人は何を恐れているのだろう」と思うことがあります。しかし、その問いを自分にも向けなければなりません。なぜ、自分の間違いを指摘されると、これほど嫌なのだろう。なぜ、素直に認められないのだろう。
そして、さらに深いところには、「誰かの下に立ちたくない」という思いがあるのではないでしょうか。自分の考えが一番正しい。自分の方がうまくできる。誰かの言いなりにはなりたくない。自分の人生では、自分が王様でいたいのです。
驚くことに、イエス様の弟子たちの間にも、誰が一番偉いかという議論が起こりました。弟子たちでさえ、そうだったのです。イエス様は、その弟子たちに、「先に立ちたい者は仕える者になりなさい。」と教えられました。自分を高くしようとする私たちに、聖書は、まったく別の道を示すのです。そして、その「誰かの下に立ちたくない」という心は、人に対してだけでなく、神に対しても向けられます。
先週まで見てきた民数記16章には、まさにそのような人間の姿がありました。今日の17章は、神がその人間に対して何をしてくださったのかを語ります。特に10節の言葉に心を留めたいのです。「彼らが死ぬことのないように。」
自分を高くしようとする人間(1〜7節)
前回、私たちは、裁きによって疫病が広がる中、アロンが香を携えて走り、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったことを見ました。その執り成しによって、災いは止まりました。
そもそも、なぜ、こんな事態になったのでしょうか。コラとその仲間たちが、モーセとアロンに逆らったからです。
コラはレビ人で、すでに幕屋に仕える尊い務めを与えられていました。ところが、それだけでは満足できませんでした。16章9〜10節でモーセは、「それはあなたがたにとって小さいことなのか。そのうえ、あなたがたは祭司職まで要求するのか」と問いかけています。神から恵みによって与えられた務めにとどまらず、アロンの祭司職まで欲しがったのです。
ダタンとアビラムはモーセの指導そのものを拒み、「私たちは行かない」と言い放ちました。約束の地に入れない現実を、モーセのせいにしようとしたのです。しかし、約束の地に入れなくなったのは、民自身が神の約束を信じず、逆らったからでした。
自分たちこそ正しい。モーセの指導には問題がある。自分たちの方がうまくやれる。先ほどの言葉で言えば、モーセに対してマウントを取ろうとしているようにも見えます。しかし、これは単なる人間同士の地位争いではありませんでした。
モーセは自分から指導者の座を手に入れた人ではありません。神に召された時、「自分にはできない」「ほかの人を遣わしてください」とためらいました。民数記12章3節には、モーセが非常に謙遜な人だったと記されています。もちろん弱さも失敗もありました。それでも、神が彼を選び、呼び、民のために立てられたのです。
神はモーセに、民を導く責任を負わせられました。目立つ地位だけではありません。民の不平を受け止め、困難の中で祈り、なおその民とともに歩む務めでした。そのモーセと、神が祭司として立てられたアロンを拒むことは、この時、神の選びと召しを拒むことでした。彼らは、自分の望む地位を得るために、神が定められたことを変えようとしていたのです。
私たちも、人と比較し、ほかの人の働きをうらやんだり、自分の方がふさわしいと思ったりすることがあります。しかし、務めは自分を大きくするために与えられるのではありません。民数記の前に新約聖書の第一コリントを学びましたが、その12章では、神が異なる賜物を与えられるのは、人々の益となるためだと教えます。賜物は競争の道具ではなく、仕えるための贈り物なのです。
では、神はこの反逆を、どのように終わらせようとされたのでしょうか。すでに大地が裂け、火が下り、疫病によって多くの人が死にました。神の裁きは十分に示されました。それでも神は、そこで終わられませんでした。民もまた、その翌日にはモーセとアロンに向かって再度反逆しました。そしてもう一度、ご自身の選びを明らかにするしるしを与えられたのです。
17章1節 主はモーセに告げられた。
17章2節 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。
神はモーセに命じて、各部族の指導者から杖を一本ずつ出させ、名前を書かせます。レビ族の杖にはアロンの名を書かせました。「族長」という言葉は「指導者」「長」を意味し、「杖」というヘブル語には「部族」という意味もあります。杖は、その人が部族を代表することを示していたのでしょう。
6節には、指導者たちが杖をモーセに渡し、「アロンの杖も彼らの杖の中にあった」と記されています。これは、その場で人々が新しい祭司を選んだということではありません。すでに部族を代表していた人々が、それぞれの杖を出したのです。
そして、アロンの杖もほかの杖とともに置かれました。最初から特別な姿をしていたわけではありません。みな木から切り離された杖です。誰の杖にも、自分で芽を出す力はありませんでした。人々は杖を差し出すことはできても、どの杖に芽を出させるかを決めることはできません。モーセは、それらをあかしの天幕の中、主の前に置きました。
ここで比べられているのは、誰の杖が立派か、誰の指導力が強いかということではありません。「神が誰を祭司として選ばれたのか。」それを明らかにするためでした。
17章5節 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」
5節で神は、「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す」と告げられます。そして、民がモーセたちに向かって言い立てている不平を、ご自身から遠ざけて鎮めると語られました。つまり、それによって民の不平やつぶやきを終わらせようとされたのです。
ここで神は、モーセとアロンへの不平を、ご自分に向けられた不平として受け止めておられます。彼らは、神の選びを認めず、神が定められた務めを奪い取ろうとしていたからです。
それでは、私たちはどうでしょう。自分の願いがかなわない時、神のみこころを尋ねるより、自分の思いを認めてほしいと願うことはないでしょうか。もちろん、苦しみの中で「なぜですか」と神に問うことと、神に反逆することは同じではありません。しかし、神に従うより、自分が主人でいたいという心は、私たちの中にもあります。
そのような人間を、神は見捨てず、なお語りかけてくださったのです。
死をもたらす反逆と、命を与える神の選び(8〜11節)
翌朝、モーセがあかしの天幕に入ると、驚くべきことが起こっていました。アロンの杖だけが芽を出していたのです。そればかりか、つぼみをつけ、花を咲かせ、アーモンドの実まで結んでいました。
この「実を結んだ」というヘブル語には、「成熟させた」「熟した」という意味があります。実は、もう熟していたのです。芽が出て、花が咲き、実が熟すには、普通は長い時間がかかります。それが一夜のうちに起こりました。しかも、土に根を張った木ではなく、切り取られた杖です。そこに自分で命を生み出す力はありません。
このことは、アロン自身にも、モーセにも、ほかのどんな優れた指導者にもできないことでした。神がなさったのです。神がご自身の選びを、誰の目にも明らかな仕方で示されたのです。
ここは、大切なところです。私たちは、神が誰かを選ばれたと聞くと、その人にはほかの人にはない素晴らしい資格があったのだろうと思いがちです。しかし、アロンがほかの人より立派だったからではありません。アロンにも罪と失敗がありました。金の子牛の事件でも、モーセを非難した時にも、弱さを露わにしました。それでも神は彼を選ばれたのです。祭司の務めは、アロンが勝ち取った地位ではなく、神から託された務めだったのです。
17章9節 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。
ここも興味深いところです。ほかの杖には、何も起きていませんでした。しかし、それはほかの指導者たちに価値がないということではありません。それぞれの部族を代表する働きは、なお与えられていたのです。ただ、祭司という務めはアロンに与えられた。それが明らかになったのです。
人々はどんな思いで杖を取ったのでしょう。自分の立場を受け入れたのでしょうか。それとも、なお不満があったのでしょうか。聖書は、その心の内を説明していません。
しかし、この光景を見ながら、自分にも問いかけたいのです。私は、人に与えられた働きをうらやんでいないだろうか。自分の方が上手にできると思っていないだろうか。主から与えられた賜物や務めを、感謝して用いようとしているだろうか。
神はすべての人に同じ働きを求めておられるわけではありません。だからといって、人の価値に優劣があるのではありません。第一コリント12章が教えるように、教会は異なる部分が組み合わされた一つのからだです。また、人に与えられた務めを認めることは、自分の務めを小さく見ることでもありません。それぞれが主に用いられることを、互いに喜び合えるなら、そこに優劣を競う必要はなくなります。大切なのは、自分の務めを通して主に、そして人に仕えることです。時には、新しい務めや場所に導かれることもあります。神の召しは、今いる場所に永遠にとどまることを意味するわけでもありません。
さて、9節では人々がそれぞれの杖を受け取りました。ところが10節で神は、アロンの杖を再びあかしの箱の前に戻すよう命じられます。
17章10節 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」
ほかの杖は、それぞれの手に戻りました。しかし、アロンの杖は主の前に残されたのです。なぜでしょうか。
神は、それを逆らう者たちへのしるしとして残すように命じ、その目的を明らかにされました。その目的とは、「彼らが死ぬことのないように。」
どうして、不平を言い続けることが死につながるのでしょうか。
もちろん、何か不満を口にしたら死ぬ、という意味ではありません。苦しみの中で、「主よ、なぜですか」と問いかけることと、神に逆らい続けることは違います。
ここで問題となっているのは、「神が定められたことを拒み、(神さえも)自分たちの思いどおりにしようとする反逆」です。
コラたちは、神が選ばれたアロンの祭司職を認めず、自分たちもその務めを手に入れようとしました。そして神の裁きを受けました。その翌日には、全会衆がモーセとアロンを責め、再び神の裁きによって多くの人々が命を失いました。それでもなお、民の不平は終わっていなかったのです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
そもそも、なぜ神はアロンを祭司として立てられたのでしょうか。アロンをほかの人より偉くするためでしょうか。特別な権威を与え、人々の上に立たせるためだったのでしょうか。
そうではありません。彼らが近づこうとしていたのは、聖なる神でした。罪ある人間が、自分の思うままに近づくことのできる方ではありません。だからこそ神は、祭司を立て、いけにえと執り成しの務めを定めてくださったのです。
先週、私たちはアロンが何をしたかを見ました。神の裁きによって疫病が広がっていく中、アロンは民のために走りました。そして、死人と生きている者との間に立ち、執り成しをしました。祭司は、自分の偉さを示すために立てられたのではありません。聖なる神と、罪ある民との間に立ち、民が生きるために仕える者として、神が立てられたのです。
神は、彼らを生かすために祭司を立てられました。それなのに彼らは、その祭司を拒もうとしていました。そして、その反逆によって、すでに多くの命が失われていたのです。
だから神は、二度と同じことが繰り返されないように、アロンの杖に芽を出させ、ご自身の選びを明らかにしてくださいました。そして、その杖を、忘れることのないように、しるしとして残されたのです。「彼らが死ぬことのないように。」
ここに神のあわれみがあるのではないでしょうか。
神は、罪を裁かれる聖なる方です。しかし同時に、その神が、罪人を生かそうとしておられるのです。
では、なぜ神はアロンを選ばれたのでしょう。アロンを人々より偉くするためでしょうか。祭司の権威を誇らせるためでしょうか。
そうではありません。先週見たとおり、アロンは裁きが広がる中、民のために走り、死人と生きている者との間に立ちました。祭司は、聖なる神と罪ある民との間に立ち、いけにえと執り成しの務めを果たすために、神が備えられた者だったのです。神の聖さを弱めたり、罪を見過ごしたりするためではありません。祭司は、聖なる神の前で罪人が生きるために、神ご自身が備えてくださった道でした。
先週見たとおり、アロンは裁きが広がる中、民のために走り、死人と生きている者との間に立ちました。祭司は、聖なる神と罪ある民との間に立ち、いけにえと執り成しの務めを果たすために、神が備えられた者だったのです。その務めは、神の聖さを弱めたり、罪を見過ごしたりするためではありません。聖なる神の前で罪人が生きるために、神ご自身が備えてくださった道でした。
先週の16章では、裁きによって死んだ者たちの青銅の火皿が、警告のしるしとして残されました。今度は、芽を出し、花を咲かせ、実を結んだ杖が残されました。どちらもしるしですが、今回は、命のないものに命を生み出された神の御業が、民の前に示されたのです。
神は裁きを示して終わられませんでした。「彼らが死ぬことのないように」と、生きるための道を示してくださったのです。
「私たちは死んでしまう」――その叫びへの神の答え(12〜13節)
ところが、今日の箇所は、民が喜び感謝して終わるわけではありません。12節で彼らは、「私たちは死んでしまう」と叫び、13節では、幕屋に近づく者は死ぬではないか、みな死に絶えるのかと恐れています。
神は「彼らが死ぬことのないように」と語られました。しかし民は「私たちは死んでしまう」と言うのです。何とも印象的な対照です。
神のあわれみを信じられなかったのでしょうか。それとも、自分たちがどれほど恐ろしい反逆をしてきたのか、分かり始めたのでしょうか。本文は心の内を詳しく語りません。ただ、聖なる神に軽々しく近づくことはできないと、恐れを抱いたことが分かります。しかも彼らが恐れているのは、遠くにいる知らない神ではありません。これまでご自分の民を導き、糧を与え、守ってこられた、あの主なのです。恵みを受けてきた民が、その主の聖さを恐れているのです。
それまでは「なぜアロンだけが祭司なのか。自分たちにもできる」と言っていたのです。それが今、「私たちが近づいたら死んでしまう」と叫んでいる。自分の資格や正しさを主張して、聖なる神の前に立つことはできないのです。
私たちはどうでしょう。人と比べれば、自分の方が善いと思えるところを見つけられるかもしれません。しかし、神の前ではどうでしょうか。自分の非を認めたくなかったこと。人を見下したこと。人を愛するより、自分の正しさを証明したかったこと。神より自分の考えを優先したこと。神は私たちの心をご存じです。
人より上に立って、自分の価値を示すことにどれほど成功しても、それで聖なる神の前に立てるわけではありません。私たち自身の正しさでは、神に近づくことはできないのです。
では、どうすればよいのでしょうか。
ここで、神がアロンを祭司として立てられた意味が明らかになります。神は、人間が自分の力で神に近づけないことをご存じでした。だからこそ、神ご自身が道を備えてくださったのです。続く18章では、民がむやみに聖所に近づいて死ぬことのないよう、祭司とレビ人の務めが詳しく語られます。
そして新約聖書は、さらに偉大な祭司を私たちに示しています。イエス・キリストです。
ヘブル人への手紙5章4〜5節には、祭司の務めは自分で奪い取るものではなく、アロンのように神に召されて受けるものであること、そしてキリストも父なる神によって大祭司とされたことが記されています。民数記17章と、確かにつながる御言葉です。
しかし、イエス様はアロンと同じ祭司ではありません。アロン自身も罪を犯し、やがて死を迎えました。一方、イエス様は罪を犯されなかった方です。それなのに、その方が私たち罪人のために、ご自身の命を献げてくださいました。
また、マルコ10章45節で、イエス様は、仕えられるためではなく仕えるために来て、多くの人のために命を贖いの代価として与えるのだと語られました。
自分を高くしたい。人より上に立ちたい。自分の正しさを認めさせたい。そんな私たちとは何と違う姿でしょう。主は自分を低くされ、私たちの罪を負い、十字架で命を献げてくださいました。そして、死からよみがえられました。
ヘブル人への手紙7章25節は、この方がいつも生きていて、ご自分によって神に近づく人々のために執り成しておられると語ります。
「私たちは死んでしまう。」民はそう叫びました。しかし、私たちには、死を打ち破られた大祭司が与えられています。この方によって、私たちは神に近づくことができるのです。自分の功績や正しさによってではありません。ただ、イエス・キリストによってです。ヘブル人への手紙10章は、イエスの血によって聖所に入る大胆さを与えられたのだから、真心から神に近づこうと語ります。神の前に出られないと恐れていた人間に、キリストによって近づく道が開かれた。何と大きな恵みでしょうか。
皆さん、これが福音です。
自分の罪が明らかになると、神の前から逃げたくなるかもしれません。「こんな自分が、神に近づいてよいのだろうか」と。しかし、罪を認め、赦しを求める私たちのためにこそ、この大祭司が与えられたのです。
神は、罪を軽く扱われません。だからこそ、十字架が必要でした。しかし、罪人を裁いて終わろうとされたのでもありません。ご自身の御子を与え、私たちが生きるための道を開いてくださったのです。
「彼らが死ぬことのないように。」この言葉を読む時、キリストによって示された神のあわれみの大きさを、改めて覚えさせられます。
生かされた私たちの喜び
それでは、この大きな恵みをいただいた私たちは、どう生きていくのでしょうか。
キリストに救われた私たちは、自分を大きくするためではなく、誰かを愛し、仕えるために遣わされます。誰かが神に近づくことを願って生きる者とされるのです。
誰が一番偉いかと争う弟子たちに、イエス様は仕える者になりなさいと教えられました。そして、ご自身がそのとおりに生きてくださいました。
しかし、救われたのだから今度は一生懸命働いて、自分の価値を証明しなければならない、ということではありません。私たちは、すでに主に愛され、キリストによって贖われ、神のものとされたのです。だから、人より上に立って自分の価値を確かめなくてもよいのです。自分が目立たなくても、誰かが助けられ、主に近づくなら、それを喜ぶことができるのです。
先日、私たちの教会ではオープンチャーチが行われ、予想以上に多くの方が来てくださいました。本当に感謝なことです。何日も前から準備をしてくださった方々、当日それぞれの場所で働いてくださった方々、祈りで支えてくださった方々がいました。都合によって参加できなかった方々もおられました。私たちが一人ひとりの働きを比べ、点数をつけるようなことではありません。誰が一番働いたかという話ではありません。
私自身、必要な物を揃えながら、まだ会っていない来場者のために祈っていました。教会を知り、主を知り、救いへと導かれる方が起こされるように、と。しかし当日は、目の前のことで精一杯でした。もっと丁寧にお迎えしたかった、もっとお話しできればよかった、と感じた方もいるでしょう。
けれども、私たちが何もかも十分にできなければ、神は働くことがおできにならないのでしょうか。そうではありません。もちろん、次に向けて改善できることはあります。しかし、人を救われるのは主ご自身です。私たちは限られた力で仕え、その働きを主に委ねるのです。
人目につかない準備も、忙しい中での応対も、家でささげる祈りも、主がご存じです。誰かが教会に来てよかったと思い、イエス様をもっと知りたいと願い、やがて救い主に出会うなら、何と大きな喜びでしょう。自分が褒められることより、誰かが神に近づくことを喜ぶ。そのような教会でありたいと思います。
先週、私たちは、死人と生きている者との間に立ったアロンを見て、「今、誰のところへ走って行くのか」と問いかけました。私たちも人々のために祈り、愛し、福音を伝えることができます。しかし、私たちが人を救うのではありません。罪を負い、救いの道を開いてくださるのは、ただキリストです。
そして、もう一つ忘れないでください。いつも走り続けられるわけではありません。
今、疲れ果てている方もおられるでしょう。人との関わりで傷つき、大切にしてきた場所を離れなければならない方もおられるでしょう。思い描いた道が閉ざされることもあります。その理由を、すぐに理解できるとは限りません。
しかし、どのような時にも、主の愛は変わりません。思いがけず新しい道が開かれ、感謝して歩み出せる時もあります。まだ先が見えず、立ち止まらなければならない時もあります。どちらの時にも、主は私たちを見捨てられません。道が開かれたなら、ともに感謝したいと思います。まだ開かれていないなら、急いで結論を出さずに祈り、寄り添いたいと思います。私たちの目に見える結果だけで、神の愛を量ることはできないからです。
私たちの価値は、今どれだけ働けるかによって決まるのではありません。何かを成し遂げた時だけ、主に愛されるのでもありません。私たちは、キリストによって贖われ、神のものとされたのです。
ですから、安心して休んでよいのです。助けが必要なら、助けを求めてよいのです。誰かに支えられ、祈ってもらう時にも、私たちは主の恵みの中にいます。
ヘブル人への手紙4章は、私たちの大祭司が、弱さを分かってくださる方だと語ります。そして、あわれみを受け、必要な時に恵みをいただくため、恵みの御座に近づこうと招きます。強くなってから来なさい、十分に働けるようになってから来なさい、とは言われません。弱さを抱えたまま、この方に近づいてよいのです。
働ける時には感謝して仕えましょう。疲れた時には主のもとで休みましょう。新しい道が開かれた時には、主に信頼して一歩ずつ歩みましょう。互いの歩みを比べるのではなく、祈り合い、支え合う教会でありたいと思います。
おわりに
もう一度、芽を出したアロンの杖を思い起こしましょう。
人々は自分を高くしようとし、神の選びに逆らいました。しかし神は、一本の杖に芽を出させ、花を咲かせ、実を結ばせられました。そして、その杖をしるしとして残されたのです。「彼らが死ぬことのないように。」
そこには、罪人を生かそうとされる神のあわれみがありました。
私たちも、自分が正しいと認められたい、人より上に立ちたい、時には神さえ自分の思いどおりにしたいと思う者です。しかし、そのような私たちのために、神は真の大祭司イエス・キリストを備えてくださいました。この方が命を献げ、よみがえり、今も執り成してくださっています。
だから私たちは、誰かより上に立って、自分の価値を証明しなくてもよいのです。すでに主に愛され、生かされています。
この恵みを感謝し、誰かを愛し、仕え、誰かが神に近づくことを喜ぶ者として歩みましょう。そして、疲れた時には安心して主のもとで休みましょう。
私たちを生かしてくださっているのは、私たち自身ではありません。主です。今日もこの主に信頼して、ともに歩んでまいりましょう。
【祈り】
天の父なる神様。
私たちは、自分を高くし、あなたのみこころより自分の思いを優先してしまう者です。どうかその罪をお赦しください。
そのような私たちを生かすために、御子イエス・キリストを与えてくださったことを感謝します。
あなたの愛に安心し、互いに仕え合う者としてください。疲れている者には休息を、傷ついている者には慰めを、新しい道へ進む者には信頼と希望をお与えください。
私たちの小さな働きを用いて、人々があなたを知り、救いへと導かれますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。名前によってお祈りいたします。
アーメン。

