2026年11月5日 木曜日祈祷会「責める思いが膨らんで」

聖書箇所

ヨブ記18章

「責める思いが膨らんで」

― 神の御前で、自分の心に耳を傾ける ―

はじめに ― 理解してほしいという思い

今日はヨブ記18章を学びます。

これまで私たちは、ヨブの苦しみと、そのヨブに語りかける友人たちの言葉を見てきました。
ヨブの友人たちは、ヨブを慰めるためにやって来ました。子どもたちを失い、財産を失い、健康まで失ったヨブを見て、彼らは七日七夜、何も語らずに寄り添いました。しかし、ヨブが自分の苦しみを語り始めると、友人たちは彼の言葉を受け止めきれなくなりました。そして、ヨブを慰めるどころか、かえって責めるようになってしまいました。

今日の18章では、二人目の友人ビルダデが再び語り始めます。その言葉は、これまで以上に厳しいものになっています。
しかし今日は、ビルダデを単に思いやりのない人、冷たい人として見るのではなく、彼の心にも目を向けてみたいと思います。
なぜ彼は、ここまでヨブを責めるようになってしまったのでしょうか。そして、そこに私たち自身の姿はないでしょうか。

Ⅰ.ビルダデも傷ついていたのではないか(1〜4節)

まず、2節と3節をご覧ください。

いつになったら、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず理解せよ。それから語り合おうではないか。
なぜ、私たちは獣のように見なされ、あなたがたには愚かに見えるのか。
ヨブ記 18章2~3節

ビルダデは、かなり腹を立てているようです。「もういい加減にしてほしい。まず、私たちの言っていることを理解してほしい。それから話し合おうではないか。」そう言っているのです。
そして3節では、自分たちが獣のように見なされ、愚か者扱いされていると訴えています。
ここで少し立ち止まって考えたいのです。ビルダデも、ヨブの言葉によって傷ついていたのではないでしょうか。

これまで私たちは、ヨブが友人たちの言葉にどれほど傷つけられてきたかを考えてきました。しかし一方で、ヨブも友人たちに対して、かなり厳しい言葉を語っています。
13章4節では、「あなたがたはみな、役に立たない医者だ」と言いました。
16章2節では、「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」とまで言っています。
ビルダデたちにしてみれば、ヨブのためを思って語っているのです。自分たちが信じてきた神の正しさを伝え、何とかヨブを立ち直らせようとしていたのでしょう。それなのに、ヨブは理解しようとしない。それどころか、自分たちを愚か者のように扱っている。「どうして私たちの気持ちを分かってくれないのか。」そんな悲しみや悔しさが、怒りに変わっていったのかもしれません。

もちろん、聖書はビルダデの心の中をすべて説明しているわけではありません。しかし、3節には、少なくとも彼自身が侮辱されていると感じていたことが表れています。そう考えると、彼の言葉も少し違った響きで聞こえてきます。

私たちにも、似たような経験がないでしょうか。相手のためを思って語ったのに、受け入れてもらえなかった。むしろ反発された。自分の善意が伝わらず、悲しくなったり、腹が立ったりしたことはないでしょうか。
そのようなとき、私たちも「どうして分かってくれないのか」と思うものです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。自分が傷ついているからといって、相手を傷つけてよいわけではないということです。

ヨブは今、子どもたちも健康も失い、死を願うほどの苦しみの中にいるのです。ビルダデにも言い分があるでしょう。
しかし、だからこそ、ヨブがどうしてあのような激しい言葉を語るのか、その苦しみを理解しようとする必要があったのではないでしょうか。

Ⅱ.自分の正しさを守ろうとするとき(5〜21節)

続く5節から、ビルダデは悪しき者の末路を語り始めます。
悪しき者の光は消え、その歩みには罠が待ち受け、恐怖が襲い、ついには滅びに至る。
そして19節では、その者には子も孫もなく、生き残る者もいなくなると語っています。
これは、子どもたちを失ったヨブにとって、どれほどつらい言葉だったでしょうか。
そして最後の21節では、こう結論づけます。

まことに、これが不正を働く者の住まい、これが神を知らない者の住む場所である。
ヨブ記 18章21節

ビルダデの言葉は、悪しき者には神のさばきがあるというものです。
確かに、神は正しいお方です。悪をそのままにはなさいません。
しかし問題は、ビルダデがその教えを、今苦しんでいるヨブに当てはめてしまったことです。
ヨブがこれほど苦しんでいるのだから、何か重大な罪を犯したに違いない。そうでなければ、神の正義が説明できない。彼は、そう考えていたのでしょう。

ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。ビルダデは、何を守ろうとしていたのでしょうか。
ヨブを正しい道に戻したいという思いもあったでしょう。しかし、それだけではなかったのではないでしょうか。自分がこれまで信じてきた神の正義、自分が理解してきた神のあり方を守ろうとしていたのかもしれません。

神は正しい者を祝福し、悪しき者をさばかれる。それは確かに聖書が教えていることです。しかし、だからといって、正しい人が苦難に遭うことはないのでしょうか。苦しんでいる人には、必ず何か罪があるのでしょうか。

私たち読者は、ヨブ記1章、2章から、ヨブの苦難が彼の罪に対する罰ではないことを知っています。
けれども、ビルダデはそれを知りませんでした。それなのに、自分の理解によってヨブの苦しみを説明しようとしたのです。

私たちも、聖書を読み、神様について多くのことを学んできました。そして、御言葉から教えられた真理を大切にすることは、もちろん必要です。
しかし、神様について正しく知っていることと、神様のなさることをすべて理解していることは違います。
私たちが理解している神様の姿が、神様のすべてではありません。自分がこれまで理解してきた「私の神」という枠の中に、神様を閉じ込めてしまってはいないでしょうか。

私たちは、神様がどのようなお方であるかを、聖書から教えられます。
しかし、理解できないこともあります。説明のつかない出来事も起こります。そのようなとき、自分の理解に無理やり現実を当てはめるのではなく、「神様、私には分かりません。どうか教えてください」と、神様に尋ね求めることができるのです。

ヨブも、まさにそうしていました。ヨブは、神様のなさることが理解できませんでした。どうして自分がこのような苦しみに遭わなければならないのか、分からなかったのです。それでもヨブは、神様に問い続けました。激しい言葉で訴えながらも、神様との関係を断ち切ろうとはしませんでした。
もちろん、ヨブの言葉もすべて正しかったわけではありません。後に神様から問い直されることになります。しかし、ヨブは自分の理解では説明できない神様と向き合い続けました。

一方、ビルダデは、自分が理解している神様の正義によって、ヨブを納得させようとしていたのです。
この違いは、私たちにとっても大切なことだと思います。

Ⅲ.まず、神の御前で自分の心に耳を傾ける

今日の「みことばの光」の最後には、このような勧めがあります。

まず、自分で自分の心の言い分に耳を傾けてみることから始めてはどうだろう。そして、その言い分を神様に聴いていただくようにしてみては。

私は、この勧めがとても大切だと思いました。
ビルダデも、自分の心の中にある思いを、神様に聴いていただくことができたのではないでしょうか。
「神様、私はヨブを助けたいのです。しかし、私の言葉を受け入れてもらえません。私も傷ついています。どうしたらよいのでしょうか。」
もし、そのように祈ることができていたなら、ヨブに語る言葉も変わっていたかもしれません。

私たちも、人との関わりの中で、傷ついたり、腹を立てたりすることがあります。
自分の言っていることは正しい。相手が間違っている。どうして分かってくれないのか。そのような思いが強くなってくることがあります。
しかし、そのとき、すぐに相手を責めるのではなく、まず神様の御前に出ることができるのです。
「神様、私は今、腹を立てています。傷ついています。どうしてこんなに腹が立つのでしょうか。私の心を教えてください。」
そう祈りながら、自分の心に耳を傾けてみる。すると、そこに、自分の正しさを認めてほしいという思いや、自分を大切にしてほしいという思いがあることに気づかされるかもしれません。
もちろん、それだけとは限りません。相手の言葉や行動が、本当に間違っていることもあるでしょう。だから、相手を理解しようとすることは、相手の言い分を何でも認めることではありません。
しかし、相手がどうしてそのように語るのか、何を悲しみ、何に傷ついているのかを理解しようとすることはできます。
そのためにも、まず私たち自身が神様の御前で、自分の心を取り扱っていただく必要があるのではないでしょうか。

ヤコブの手紙1章19節には、聞くことに早く、語ることに遅く、怒ることに遅くあるようにと勧められています。
私たちは、相手に何かを語る前に、どれほど相手の言葉に耳を傾けているでしょうか。そして、自分自身の心を、どれほど神様の御前に差し出しているでしょうか。

おわりに ― 神の御前で、互いを見つめ直す

今日の18章を読むとき、私たちはビルダデの言葉を厳しいものだと感じます。実際、彼の言葉には大きな問題がありました。
しかし、ビルダデもまた、傷ついた一人の人間だったのかもしれません。そう思って彼の言葉を読み直すと、これまでとは違ったものが見えてきます。
そして、私たち自身も、時にはヨブのように理解されずに苦しむことがあり、時にはビルダデのように、自分の正しさを訴えるあまり、相手を傷つけてしまうことがあるのだと思います。

ヨブ記の最後、42章では、神様は友人たちの言葉の誤りを指摘されます。しかし、それで友人たちを退けてしまわれたのではありません。神様はヨブに、友人たちのために祈るようにされました。そしてヨブは、友人たちのために祈りました。互いに傷つけ合った人たちの間に、執り成しの祈りが生まれたのです。
私たちも、いつも正しく語れるわけではありません。人を傷つけることもありますし、人の言葉に傷つくこともあります。けれども、そんな私たちを神様は顧みてくださいます。
神様は、私たちの語った言葉も、その言葉の背後にある思いも、すべてご存じです。そして、ご自身の御前に招き、御言葉によって私たちを教え、整えてくださいます。
自分の正しさを主張する前に、神様の御前に出て、自分の心を聴いていただく。そして、神様に教えられながら、目の前の人の言葉にも、その心にも、耳を傾けていく。今日もそのように、主の御前を歩ませていただきたいと思います。

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