2015年10月4日 主日礼拝「復活の福音(3)」

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章35~49節

説教題

「復活の福音(3)」

今週の聖句

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

(Ⅰコリント15章44節)
 
訳してみましょう
1733 Don’t plan to repent at the 11th hour — you may die at 10:30
(11時(最後)になって悔い改めるな。あなたは10:30に死ぬかもしれない。)
1734 The tongue, being in a wet place, is apt to slip!
(舌(口)は濡れた場所、それは滑りやすい。)<言葉に気をつけなさい。>
 
説教メモ
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からだの復活
キリストは十字架に架けられ、三日目によみがえられたことにより、死んだ者の復活の初穂となられました。
そして、キリストにある死者もよみがえらされるようになりました。
死者はどのようにしてよみがえるのでしょうか(Ⅰコリント15:35)。
どのようなからだでよみがえるのでしょうか。
それは当時のコリントの人々だけでなく、私たちにとっても関心のあることであり、わきまえておくべきことです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」(Ⅰコリント15:36)

パウロは葬られた体がそのままの状態で息を吹き返すことが復活ではないと言っています。
麦の粒(種)は一度死に、土に蒔かれ、やがて新しい芽が芽生えます。
そのように人間も、死んだ体から新しいからだが生じてくること。
これがパウロが宣べ伝えた「復活」だと言っています。

「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」(Ⅰコリント15:38)

私たち人間も、死ねば朽ちてしまう今の体ではなく、新しい別のからだが与えられて生まれ変わります。
 
パウロは、復活のからだが地上の体とは別物であることを、このように伝えています。

「すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」(Ⅰコリント15:39-41)

つまり、天上のからだ、地上の体が異なっているということを伝えています。
 
復活のからだはこの地上の体とは異なることを念頭に置いてください。
地上の体は罪にけがれ、死によってやがて朽ちていきます。
しかし、復活のからだは罪に汚れることはなく、永久に朽ちることのないからだです。
そのようなからだに私たちは変えられるのです。
それは霊的なからだではありません。
 
復活のからだは霊のからだである
パウロは現在の体と、復活のからだを対比のかたちで言っています。

「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(Ⅰコリント15:42-44)

地に属する者が、天に属する者へと変えられます。

「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(Ⅰコリント15:44)

血肉のからだとは生まれながらの体です。
その体には、罪が宿り、死を免れることはできません。
しかし、御霊のからだとは、罪のない、朽ちることのないからだです。
 
ここで注意してください。
人は、御霊のからだとなるのであって、霊のからだになるのではありません。
私たちは復活の時、御霊のからだとしてよみがえらされます。
それは実体のあるからだです。
かたちのない霊ではなく、かたちのある霊のからだとしてよみがえらされます。
霊の目で見えるからだ、触ることのできるからだです。
私たちの復活は、霊の復活ではありません。

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」(Ⅰペテロ3:18-19)

エホバの人たちは「その霊において」というところを強調し、キリストは霊としてよみがえったと主張し、からだの復活は否定しています。
およそ2000年前、グノーシスと呼ばれる人たちがいました。
グノーシスの考え方によると「物質はすべて悪である」「霊だけが聖い」という主張により、キリストは悪である物質の体によって生まれたのではなく、霊という存在のキリストが、人間イエスがバプテスマを受けた時にのりうつり、十字架の前に人間イエスから離れたと考えています。十字架上で死なれたのは「人間イエスである」と言っています。
統一教会は、キリストの霊がイエスという人の中に形づくられ、イエス・キリストとなったと言っています。イエス・キリストの使命は地上天国を建設することでした。その実現の前にイエス・キリストは十字架で死んでしまった、この時点で神さまの計画は失敗したのだと言っています。イエスが失敗したので、キリストの使命は20世紀の今日、キリストの霊が分鮮明の中に再び形づくられたと主張しています。1世紀のイエスは初臨のキリスト、20世紀の分鮮明は再臨のキリストであると言っています。
これらエホバ、統一教会の主張は聖書に反するものです。
 
キリストの復活は、人体を持った復活であることを、イエス様はご自身のことばで説明されています。

「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)

さらに

「それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ24:42-43)

このように、ご自身が霊のからだでないことの証明に、焼いた魚を食べました。
 
私たちはこの復活の主の姿から何を知ることができるでしょうか。

  • 復活のからだはこの地上の体の連続でも継続でもない
  • 少なくとも、地上で持っていた人格や個性は継続されると考えられる

 
復活のキリストは、十字架で死なれたキリストと同一のお方でした。

「その手とわき腹を彼らに示された。」(ヨハネ20:20)
「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

ご自身の復活を信じられなかったトマスにも、傷跡を触るように言いました。
そして、信じない者にならないで、信じる者となりなさいとおっしゃいました。
これは、イエス様が十字架の傷跡を残したまま復活されたことを示しています。
 
重ねて言いますが、聖書の言う復活でとても重要なことは、聖書はあくまで「からだの復活」を説いているということです。
ただの霊的な復活ではありません。
決してギリシャのグノーシスの思想に見られるような、霊魂不滅を説いているのではありません。
聖書が説いているのは「霊のからだ」です。
この霊は、幽霊のような実体のないものではありません。
弟子たちの前に現れ、ご自身の復活のからだを触るようにおっしゃったイエス様のように、見たり、触ったりできる手足など実体のあるからだです。
しかし、先述のヨハネ20章で弟子たちの前に現れた際、締め切った扉をすり抜けられたように、物質にも、自然法則にも妨げられない「霊のからだ」をもって復活するのです。
 
みなさんはご自分が復活させられることについて、どのように受け止めておられるでしょうか?
いも虫はやがてまったく姿を変えて、美しい蝶になります。
いも虫からは想像もできないような、美しい蝶へと変えられます。
さらに申しますと、いも虫は「栄光の姿」へと変えられるのです。
私たちはそのような事実を見ています。
そのように神さまは、私たちが栄光の姿へと変えられるのを見ておられます。
そういう神さまがおられるのです。
今の私たちはいも虫のようかもしれません。
しかしやがて、美しい蝶、栄光の姿へと変えられるのです。
地上のからだもあり、天上のからだもあるのです。
 
私たちには罪の解決があるだけではなく、やがて栄光のかたちによみがえらされることを考えていきましょう。
今は良く分からないかもしれません。
しかし後に、私たちは栄光の姿へと変えられるのです。
私たちはこの地上において、まだまだ様々なことが起こりますが、主はその時まで導いてくださいます。
この幸いな復活の福音を多くの人々に証していくことができるよう、祈ってまいりましょう。

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