2015年9月27日 主日礼拝「復活の福音(2)」

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章20〜34節

説教題

「復活の福音(2)」

今週の聖句

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

(Ⅰコリント15章20節)
 
訳してみましょう
1731 Christ creates unity in the midst of diversity.
(キリストは雑多の真っただ中で一致をもたらす。)
1732 The best weapon to use against your enemy is love.
(あなたの敵に対して使う最善の武器は愛です。)
 
説教メモ
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復活の否定
先週はⅠコリント15章12~19節をみてまいりました。
ここには「復活の規定」について書かれています。
パウロがコリントで宣べ伝えたことは、イエス様の十字架の福音と復活でした。
コリントの人々は、イエス様の十字架の死、そして3日目の復活について、何の疑問も持っていませんでした。
ところがコリントの人々は、自分たちをもよみがえらされるということが信じられていませんでした。
当時パウロが宣べ伝えなかったのでしょうか。
それではいけないということで、後になってパウロは書簡を通してこのことを改めて宣べ伝えています。
もし死者の復活がないのなら、どういうことになるか?

  1. 宣教が実質のないものになる
  2. コリントの人たちの信仰が実質のないものになる。
  3. パウロたちは神について偽証した者となる(十戒で偽証をしてはならないと言われている)
  4. コリントのクリスチャンは今もなお罪の中にいることになる
  5. キリスト者として死んだ者は滅んでしまったことになる
  6. キリスト者はこの世で最もあわれな者となる
  7. 死者のために受けるバプテスマが無意味なものになる(※)
  8. 毎日が死の連続と言うほど無意味で無益なものとなる
  9. 人は放縦、刹那主義、不道徳に陥ることとなる

※7は難しい問題です。解釈がいろいろあります。

  • 生前救われることを望んでいた死者のために、友人や親族が代わりにバプテスマを受ける
  • 家族や友人が救いを祈りつつ、死んだ信者の意志を尊重し、故人を喜ばせるためにバプテスマを受ける

他にも様々な解釈がありますが、当時のコリントの教会ではそのようなことが行われていたようです。
つまり、死者の代わりにバプテスマを受けるということが、習慣的にあったようなのです。
コリント人たちのそういった習慣が無意味なものになると言っています。
しかし、私たちはそのことを深く考えなくても良いと思います。
いずれにせよ、パウロがここまで断言しているということは、パウロの宣教はこの「復活」にかかっているからです。
イエス様は罪人の身代わりとなり十字架にかけられました。
そして罪人は罪が贖われ、聖められました。
そして主は復活しました。死に勝利されました。
主の復活がなければ、それら目的は果たされませんでした。
十字架に架けられ、身代わりとなり死んでくださったことで終わってしまっていたら、救いは完成しなかったのです。
しかし主は3日目によみがえられました。そして救いが完成したのです。
さて、Ⅰコリント15章12~20節のあいだで、パウロはキリストの復活を表す動詞を8回使っています。

  • キリストは死者の中から復活された(能動態として)
  • キリストは神によって復活させられる(受動態として)

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:22~25)

復活なしに救いはありません。
そして教会もキリスト教も成り立ちません。
パウロは15章の前半で福音の定義を語りました。
つまり、聖書に従って十字架にかけられ死なれたこと、葬られたこと、3日目によみがえられたことです。
この「死なれたこと」「葬られたこと」は過去形で書かれており、ただ1回だけの出来事です。
しかし、「3日目によみがえられたこと」というのは、日本語の文法にはない「完了形」で書かれているのです。
完了形というのは、過去の出来事が今も続いていることを表します。
キリストは3日目によみがえりました。
そのよみがえりの影響・効力が、今もなお続いていることになります。
この世には多くの宗教がありますが、創始者はすべて死んでいます。
仏教の創始者である釈迦は死にました。
しかし仏教はなおも続いています。
イスラム教も同じです。
しかしキリスト教では、キリストが復活されました。
救い主であるキリストは復活し、今もなおその影響・効力が続いているのです。
今もなお生きておられ、私たちのために父なる神にとりなしをしてくださっています。
私たちの救いは、イエス様の復活にかかっているのです。
 
初穂としてのキリスト
私たちの復活のはじまりとなりました。
死んだ者が復活することを可能にしたのは、キリストの復活があったからです。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通してきたからです。」(Ⅰコリント15:20)

ここに用いられている「初穂」という表現は、キリストの復活が死人、つまり私たち眠った者の復活に先立つことを表しています。
先立つということは、後に続いていくということです。
23節には復活には順番があると書かれています。

「しかし、おのおのにその順番なあります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」(Ⅰコリント15:23)

今までパウロが述べていた「死者の復活」ではなく、死者の復活を支えてきた「キリストの復活」がふたたび前面に打ち出されています。
死者の復活にはキリストの復活が基にあるからです。
そのことをパウロはさらに詳しく述べています。

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通してきたからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(Ⅰコリント15:21)

アダムの死によってアダムの子孫であるすべての人が死ぬようになりました。
それと同じように、キリストの復活により、すべての人が復活することになりました。
かつてイエス様の奇跡によって生き返らされた人々もやがて再び死を迎えました。
奇跡によって生き返らされた、これは「蘇生」です。
しかしここで言う復活とは、私たちはふたたび死ぬことのない、霊の体として復活することです。
復活は「再生」ではなく「新生」です。
新しく生まれることです。
まったく別の、新しい生命をあたえられ、新しく創造されることです。
しかし、以前の人格や特徴は残されます。
(復活の体については、次週詳しくみてまいります。)
 
終末の順序
終末はどのような順序で訪れるのでしょうか。

  1. 初穂であるキリストが復活する
  2. キリストが再臨される
  3. キリストに属している者が復活する
  4. この世の終わりが来る
  5. あらゆる支配、権威、権力が滅ぼされる
  6. 国を父なる神に引き渡す
  7. 最後の敵である死が滅ぼされる
  8. 万物が神に服従する

このように終末の順序が書かれています。
まずキリストの復活があります。
それから再臨があります。
キリストの再臨は私たちクリスチャンにとって重要です。
キリストの再臨がなければ、私たちの救いは半分しか達成されないことになるでしょう。
クリスチャンの最大の希望である復活と栄化は、キリストの再臨がないと実現しません。

「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:26-28)

私たちはみな一度死に、死後にさばきをうけることが決まっています。
キリストは、一度目は罪を負うためにご自身をささげられ、二度目に来られる時は、罪を負うためではなく私たちを救うために来られます。

「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れてこられるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:14-17)

キリストがよみがえられた。そして再臨される。
もし、イエス様が再臨されるときに私たちがこの地上で生きていたならば、私たちはこの肉体の死を味わうことなくキリストとともに引き上げられます。
キリストは復活され、私たちのために場所を備えるために天に昇られました。
それから随分と長い時間が経っています。
未だキリストは再臨されていません。
それは私たちに対する神さまの忍耐であり、あわれみです。
一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです(Ⅱペテロ3:9)。
キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
最後に敵として滅ぼされるのは「死」です。
死は最大の敵です。
その最大の敵である死も、キリストの再臨によって滅ぼされるのです。
ヨハネは次のような幻を見ました。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:14)
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(黙示録21:1)
「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

このように万物が神に従うことになります。
「神がすべてにおいて、すべてとなられる」のです。
 
刹那主義への警告
パウロは一つの警告を与えました。

「もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。」(Ⅰコリント15:33-34節)

日本でも「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。
本当の友、正しい友を得ることはとても大切なことです。
コリントには「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」などと言って、不道徳な生活を送っていた人々がたくさんいました。
福音を聞き、福音を信じたコリントの教会の人々がそのような人と交わり、悪い生活を送ってはいけないと警告をしています。
「罪をやめなさい」とは、すでに罪を犯している人が悔い改めることを勧めると同時に、まだ罪を犯していない人たちに対する警告でもあります。
私たちも交わる友を選んで、特に「信仰の友」を選んで得ることが大切です。
その友はただ自分に良くしてくれるだけの人ではありません。
共に苦しみ、共に喜び、共に祈り会い、時には厳しい警告を与えてくれる友です。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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