2021年1月24日 主日礼拝「信仰の原理」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙3章27〜31節

説教題

「信仰の原理」

今週の聖句

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

ローマ人への手紙3章31節

訳してみましょう

2063 Darkness cannot drive out darkness, only light can do that.
Hate cannot drive out hate, only love can do that.
Dr. Martin Luther King Jr. / “I have a dream” 1964ノーベル平和賞、1968暗殺される。”Civil Rights Movement”

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  67番「よろずのもの」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  239番「さまよう人々」
聖 書  ローマ人への手紙3章27〜31節
説 教  「信仰の原理」佐藤伝道師
讃美歌  511番「みゆるしあらずば」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/moGLZ3id43c

説教「信仰の原理」

ローマ人への手紙3章27〜31節

佐藤伝道師

 私には姪っ子がいて、その姪っ子には1歳の女の子がいます。その子はパパ以外の男の人が苦手なようです。怖いのでしょうか。私の顔を真っ直ぐに見ながら泣くのです。微妙にショックを受けます。その子は、ママをはじめ、自分を愛してくれると分かっている相手に対しては、とても安心するようにただ身を任せて抱っこされています。その見つめ合う姿はとても幸せそうです。

 皆さんは、今朝も主に心から期待してこの礼拝に集われていると思います。貴重な休日の午前中という結構な時間を割いて、ここに集われています。神さまを最優先しておられる。それは神さまが私たちを愛してくださっていると知っているからでしょう。救いを経験し、赦しの素晴らしさ、神さまの愛を知らされ、その愛に応えておられる。ですから私たちは喜んで時間を割いて、神さまの御前に集っているのでしょう。幸せですか? 嬉しいですか?

 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」。これは十戒にある戒めです。私たちはみだりに、むなしく、何の期待もせずに主の御名を唱えてはならない。主を求めてはならないということです。ですから主から愛され、主を愛する皆さんは、心から主に期待してください。期待するでしょう。是非期待をもって今朝もみことばに耳を傾け、主が与えてくださる祝福を期待して礼拝をお献げいたしましょう。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、尊い御名を心から賛美致します。過ぐる一週間も私たちを愛し、守り、導いてくださったことを覚えて感謝いたします。今朝もこうして御前に集う者とされていることもありがとうございます。今朝もみことばを祝福してお与えください。聖霊様が臨んでくださり、聖いみわざに目を留め、神さまの御心を正しく知ることができるようにお守りください。私たちを祝福してくださり、聖めてくださり、主の用いられる器として整えてくださいますようにお願いをいたします。聖められ、整えられた私たちを、また新たに主にお献げすることができる幸いへと導いて下さい。感謝して、救い主キリスト・イエス様の御名を通してお祈りいたします。アーメン。

 先日、ある先生からお奨めがあり、「青少年のためのキリスト教教理」という本を読んで教えられました。その冒頭に次のような問答があります。

問1    キリスト教とはなんですか。
 答    キリスト教とはキリストです。

 潔くて、しかし心に響く答えではないでしょうか。キリスト抜きのキリスト教はあり得ません。明解な答えだと思います。

 続いてこのように問われます。

問2    キリストとは誰ですか。
 答    神のひとり子で、私たちを罪から救うために人となられたイエス様のことです。このイエス・キリスト以外にまことの救い主はどこにもありません。またこのイエス・キリスト以外に、まことの神さまを知る道はありません。
問3    そのキリストを知るには、どうすればよいですか。
 答    教会に来て、礼拝しながら、聖書のみことばを聞くとき、御霊の働きによって、キリストを知ることができるのです。ただ知るだけでなく、キリストにお会いできるのです。

 今はコロナ禍にあって、また様々な事情によって教会に集えない方々もおられますが、幸いにしてインターネットで礼拝しながら聖書のみことばを聞くことができます。教会に来られる方も来られない方も、みことばに心から期待して、神さまのおことばであるみことばに聞くなら、そこに聖霊なる神さまが働いてくださって、キリストを知ることができるのです。本当に幸いなことです。ただやはり、実際に教会に集い、主を愛する兄弟姉妹ともどもに献げる礼拝には、特別な祝福があることも期待したいところです。また私たちは期待するのではないでしょうか。しかし期待されながらも、それが適わなくてお辛い思いをされている兄弟姉妹もおられます。幸いにして集えた私たちは、その方たちを愛し、祈っていきましょう。

 教理問答に戻りますが、私たちは聖書のみことばから、キリストの何を知ることができるのでしょうか。イエス・キリストはどのようなお方なのか、何をされたお方なのか、今、何をされているお方なのか。確かにそのようなことは、聖書に実際に書かれていることですから知ることができるでしょう。しかしそれらのことが、私と何の関係があるのか。私に直接関係のあることとして知ることができるのは、神の御霊、聖霊なる神さまによる恵みのみわざです。

 教会に来始めた頃の事を思い出してみると、礼拝に出かけて行くこと自体がハードルが高かったかもしれません。思いきって礼拝に集ってみても、講壇から語られていることがさっぱり分からないこともあったでしょう。それでも続けて礼拝に集い、みことばに聞き続けていたら、ある時、自分に語られてるのだという経験をされたのではないでしょうか。イエス様がされたことは、この私のためだったのだと、ハッと気付かされた経験をされたのではないでしょうか。聖霊が働いてくださって、キリストを知るだけでなくキリストとまさに出会った経験。先ほどの讃美歌にもありましたが、イエス様が目の前で釘の傷跡のある両手を広げて立っておられた。これは確かに主を礼拝する中で私たちが経験したこと、また経験することではないでしょうか。

 そしてこのキリスト、イエス様を通してこそ、私たちはまことの神さま、そして神さまの私に対するお心を知るのです。慈しみ深い愛を知るのです。毎週毎週、また日々、知らされて行くのです。知らされながら生きて行くのです。それは真に喜びに満ちた歩みです。それが本来の信仰の歩みというものです。

 イエス・キリストはどのようなお方なのか、何をされたお方なのか、今、何をされているお方なのか。聖書全体がそれを証ししています。私たちが今見続けておりますローマ人への手紙もそうです。難しい所、厳しい所を通らされることもありますが、神さまを愛し、神さまを信頼して、期待しているならば、きっと聖霊が働いてくださることを信じましょう。神さまの愛を知っている私たちであるなら、期待しないはずがないでしょう。

 これまでもローマ書を通して、イエス・キリストはどのようなお方なのか、何をされたお方なのか、今、何をされているお方なのかを知ることができました。そしてこのイエス・キリストを通して、まことの神さまが何をしてくださったのか、そこに込められている神さまの私たちに対するお心を知ることができました。

 罪がいかに悲惨なものかを教えられ、その罪の力、罪の支配、罪の奴隷状態から解放するために、イエス様が私たちの贖いとなられた。イエス様のいのちという身代金を支払って、私たちは罪の奴隷から解放された。救われた。それも価なしに、恵みによって。そればかりではなく、神さまとの関係を真に回復してくださるために、神さまはイエス様をなだめの供え物として立てて下さいました。神さまは罪を犯して来た者に対しては怒りの感情もお持ちの方。たとえ私たちを贖い、ご自身のもとに取り戻してくださったとしても、どこかに怒りが残ることによってわだかまりが残ってしまう、そのような不完全な和解ではありません。神さまが定めてくださった旧約からの規定に従って、怒りを完全になだめるためのなだめの供え物としてキリスト・イエスを十字架にかけられ、屠り、血を注がれ、完全な和解、関係の回復を成し遂げてくださいました。

 また、今までに犯されてきた罪を忍ばれて、耐えて、耐えて、私たちが救われることを待ちに待たれ、今が救いの時と、神さまの時に私たちの目の前にキリスト・イエスを立てて下さったのは、決して諦めというようなものではなく、赦しの心にきっと応えてくれるだろうという神さまの私たちに対する信頼、希望、そして何より、私たちに対する愛からのものではなかったかというところも考えました。

 私たちは恵みによって、価なしに、ただでその贖いを、なだめの供え物による完全な赦しを、私たちはただ信仰によって自分のものとして受け取らせていただいたのです。神さまはそれで私たちを義、神さまの目から見て完全に正しいとしてくださいました。そこでパウロは問います。

3章27節      それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 パウロは確認します。それでは、私たちの誇り、私たちが神さまに義と認められることにおいて、救われることにおいて、何か自慢できるものはありますかと。「それはすでに取り除かれました」。

 では、どういう原理によって取り除かれたというのでしょうか。行いの原理によってでしょうか。

 行いの原理とは一体どんな原理なのでしょう。それは「自分が何をしたかに目を向ける」ということではないかと思います。ここでのパウロの頭には、律法を誇りとしていたユダヤ人のことがあったのでしょう。律法を守り行うことによって、努力によって神さまに義と認めていただこうとする、救われようとする。しかし残念ながら、人間は誰一人として律法を完全に守り行うことはできません。これまでずっとローマ書の中で語られてきた通り、すべての人は罪の影響下にあって、律法を完全に守り行うことに対しては完全に無力です。律法によっては誰一人義とされることはない。しかもこの原理は、律法を誇りとしていたユダヤ人ばかりでなく、すべての人間、さらには現代人にも共通する原理ではないでしょうか。

 科学や技術の発達によって、いつのまにか現代人は、何でも自分の力で成し遂げられると、もう当たり前の様に信じてしまっているのではないでしょうか。例えば、雨が降れば、自分とか誰かの行いが悪かったからだと言う。天気さえも人間の行いによって変えられると思っているのでしょうか。それほどたった一人の人間の行いに、全世界を巻き込む影響力があると、まさか本気で信じてはいないかもしれませんが、しかしどこかにそんな考えがあるようです。それは救いにおいても影響しているでしょう。修行を積んで、功績を積んで、決まりを完全に守ることによって救いを得ようとする。しかし聖書は、それでは決して救われることはないと断言します。救われるために、私たちの側で何かできることは一つもない。20節では「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです」と言われているではありませんか。そういった意味において、行いの原理、つまり自分が何をしたかに目を向けるという原理によって私たちの誇りはすでに取り除かれたと言うことができるでしょう。

 ところが、ここではパウロは「そうではありません」と言うのです。そうではなく「信仰の原理によって」私たちの誇りが取り除かれたと言うのです。

 信仰の原理とはなんでしょうか。それは、神さまの行為に目を向けさせるもの。神さまが何をしてくださったかに目を向けるものではないでしょうか。

 確かに、私たちが神さまに義としていただくためにしたことは一つもありませんでした。いやいや、「私たちは信じたではないか」と、私たちは自分の信仰を誇れるでしょうか。22節には「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられる」と言われていますけれども、同じ聖書はまた、この信仰さえも人間の決断ではなく、神さまの恵みの賜物なのだと証言しています。(Ⅰコリ123、エペ28-9

 私たちはみことばを通し、イエス・キリストはどのようなお方なのか、何をされたお方なのか、今、何をされているお方なのか。そのことを知らされ、教えられ、さらに神の御霊、聖霊様のお働きによって、私と直接関係のあることとして知ることができた、信じる者としていただいています。信じる決定するのは自分自身ですが、信じられるように導いてくださるのは神さまです。信仰も神さまによって与えられ、まさにただ恵みによって救われるのです。

 パウロは、行いの原理によって私たちの誇りがすでに取り除かれてしまっていることを否定しているのではないでしょう。そうではなくて、行いの原理よりも、信仰の原理、神さまが私たちが救われるために何をしてくださったか、神さまの行為にこそ目を向けるべきであることを言っているのではないかと思うのです。なぜなら、行いの原理は私たちを絶望させるもの、私たちを殺すものです。しかし信仰の原理は、神さまがこの私のために何をしてくださったのかに目を留めさせて、そこに込められた神さまの御心、慈しみ深い愛を知るのです。それは私たちを喜びに満たして、私たちを真に生かすものです。先ほどの天気の話しではないですが、雨が降ったのが自分の悪い行いのせいだとするなら、自分のせいだ、こんな自分はもう駄目だと絶望するでしょう。しかし雨を降らせてくださったのが私たちを愛して止まない神さまだと信じるなら、もしかしたら雨を必要としている人のために神さまは雨を降らせてくださったのかもしれない、神さまの良い御心があったのだろう。ならば雨も感謝だ、などと心が明るい方向へと動かされるのではないでしょうか。

3章28節      人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

 「考えです」と訳されている語は、十分に考えて導き出された「判定」または「仮定」という意味の語が使われています。「私たち」とは誰でしょう。それはもちろんパウロであり、またパウロとともに聖書のみことばに聞いてきた私たちをも含んだ私たちでしょう。私たちはこれまでみことばからパウロとともに学び、悩まされながらも十分に考えて来ました。そんな私たちに対して「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えとなるのではないか」というパウロの仮定に、果たして私たちは何と答えるでしょうか。十分に考え、本当にそうなのかと悩み、葛藤し、導き出された答えであるからこそ、私たちは真に信じることができる、聖霊様のお導きによって、機械的に信じるのではなく、私たちの霊とまことをもって信じることができるのだと思います。

 重ねてパウロは言います。

3章29節      それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 パウロは生粋のユダヤ人でした。ガチガチに律法を守り行うパリサイ派に属する人でした。神はユダヤ人だけの神であると、誰よりも考えていたのがパウロだったのでしょう。そんなパウロがある日、復活のイエス様と出会い、使徒として召され、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えました。ローマ書のひとつ前の使徒の働きには、パウロの働きによって次々と異邦人が神さまを信じ、救われていく様を目の当たりにしました。そのパウロの証言です。確かに神は、異邦人にとっても神であると。そして律法のあるなしに関わらず、律法の行いにはよらず、神さまは信じる者を義とお認めになるのだと。

3章30節      神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のあるものを信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

 神は唯一、ただおひとりである。私たちの中にこのことを反対する人はいないでしょう。これは私たちの信仰の土台にあるものです。

 割礼のある者とは言うまでもなくユダヤ人のことです。そして割礼のない者とは異邦人のことです。すでに述べられてきた通り、キリストの十字架の贖いのゆえに、神さまは割礼のあるなしにかかわらず、すべての人間をただ信仰によって義とされる。これが新しい契約、イエス様が流された血による契約。十字架の福音です。律法の行いではなく、この十字架の福音を信じて受け入れることによって私たちは義とされたのです。

 そんな私たちですが、どうでしょうか。礼拝を守り続けている中で、知らず知らずのうちに唯一の神さまを自分たちだけの神さまと考えてしまってはいないでしょうか。かつての罪の中にあった私たちを愛し、赦し、救ってくださった神さまは唯一の神さまです。その唯一の神さまは、まだ救われていない多くの人々をも等しく愛し、救われようとしておられるお方です。犯されている罪を忍耐をもって見逃され、以前の私たちに対してと同じように、救われる時を待たれています。この神さまの行為に目を向けるなら、私たちは神さまと隣人に対する態度というものが決まってくるのではないでしょうか。

 続けてパウロは、ここで当然起こってくることが予想される誤解と疑問を、自ら持ち出します。

3章31節      それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

 果たして、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」。信仰による義、信仰の原理、つまり神さまが何をしてくださったかに目を向け、それを知り、そして信じるだけで救われるというものは、律法を無効にし、不道徳な、怠惰な、やる気のない人間を作り出してしまうものなのでしょうか。

 私たちは「律法を確立することになる」と聞いて、イエス様のお言葉を思い出すのではないでしょうか。マタイの福音書5章17節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」(マタ517)。また同じマタイの福音書の22章のところで、イエス様がこんなやり取りをされて、その中で言われたことも知っています。

【マタイの福音書22章】
22章35節   ひとりの律法の専門家が、イエス・キリストをためそうとして、尋ねた。
22章36節   「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22章37節   そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22章38節   これがたいせつな第一の戒めです。
22章39節   『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22章40節   律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 律法は「神である主を愛さなければならない、隣人を自分自身のように愛さなければならない」、この二つの戒めに確立されたのです。

 実は先ほどお読みしましたローマ3章27節ですが、新改訳2017の新しい訳ではこのようになっています。

3章27節      それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。

 古い訳では「原理」と訳されている語は、多くのところで「律法」と訳されている語と同じものが使われています。これまで「原理」と言い換えていたものが、「律法」という言葉にわざわざ戻されて、このように言われています。「どのような種類の律法によってか。行いの律法か、信仰の律法か」と。私はこれにはとても大きな意味があると思っています。

 かつて、神さまは神の民との契約において律法を示され、「これを破る者にはのろいを与える」と言われました。しかしその前に「これを守る者には祝福を与える」と言われているのです。本来律法とは、人間を生かすために与えられたものだったはずです。ところが、人間はこれを、人間を殺すものとして受け取ってしまいました。それはやはり、自分が何をしたか、何をするかにばかり目を向けてしまったからではないでしょうか。神さまの心が置き去りにされ、行い、掟だけが一人歩きしてしまったような。しかし、神さまが何をしてくださったかに目を向けるならば、律法は本来の人を生かすものに戻されるのです。

 律法の中心である十戒を見てください。出エジプト記の20章にあります。神さまは十戒を与えるにあたり、まずはじめにご自身がどのようなお方であり、何をなされたお方であるかに目を留めさせます。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と。続けて「〜してはならない」と十の戒めが語られます。これは「断言法」と呼ばれるもので、このように訳すことのできる文法です。「〜するはずがないであろう」。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。そのことに目を向けるなら、覚えるなら、あなたは〜するはずがないであろう」と、このようになるのです。あなたはわたしのほかに、ほかの神々があるはずがないであろう。偶像を作るはずがないであろう。あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えることがあるはずがないであろう。神さまがどのようなお方で、私たちのために何をしてくださったお方なのかに目を向けるなら、人を殺すように思えていた律法が、神さまの私たちに対する深い愛と信頼が込められている、人を生かす律法であることに気付かされるのではないでしょうか。神さまの愛と信頼は、私たちを奮い立たせるものなのではないでしょうか。

 神が人間についてどう思っておられるかを知るならば、律法が人間に要求する本当の心が見えてきます。神が人間について、どう思っておられるか。それはどこで分かるのでしょう。それは、人間を救うために、神がお与えになった救いを知ることです。キリストの十字架を知ることです。ここには、神さまが、人間の罪の救いのために、何をなさったかが示されています。神さまのお心が溢れんばかりに込められています。

 聖書は「義人は信仰によって生きる」と言います。神さまによって義とされた人は、信仰によって生きるのだと言います。信仰生活とは、生きるということです。信仰を得たものは永遠のいのちが与えられる。それはただ長生きするというようなことではなくて、充実した生活、生きがいを感じて生きる生活、喜びを持って生き続けるということです。聖書はそれを、救われた者の生活であると言うのです。信仰によって生きるとは、行いの原理によって生きることではなく、信仰の原理によって生きるということです。自分が何をしたかに目を向けるならば、結局最終的には自分を否定してしまうことになる。そこに喜びなどありません。信仰の原理によって生きる。神さまの行為に目を向けて生きる。神さまがイエス・キリストを通して何をしてくださったか。何をしてくださっているか。キリスト教とはキリストです。日々、イエス・キリストを知っていく。イエス・キリストと出会っていく。イエス・キリストを通して神さまの自分に対する御思いを知らされて行く。その結果どうなるでしょうか。イエス様は言われました。「あなたは心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛するはずであろう。あなたは、あなたの隣人をあなた自身のように愛するはずであろう」。

 「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるよいうのが、私たちの考えです」。信仰による義、神さまが何をしてくださったかを信じるだけで救われるというものは、律法を無効にし、不道徳な、怠惰な、やる気のない人間を作り出してしまうものなのでしょうか。その答えは明確です。「律法を確立することになる」のです。そしてその律法は、真に私たちを生かすものとなるのです。

 「愛のないものに、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Ⅰヨハ48

 日々、私たちの主イエス・キリストを通して神さまの愛を受け取り、私たちを愛してくださる神さまを一身に見上げ、神と隣人とを愛する、幸いな、私たちを真に生かす信仰生活を歩ませていただきましょう。

 お祈りをいたします。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝します。私たちが日々、神さまの行為に目を向け、そして真に生かされる日々を送ることができますように。知ることも、受け入れることもまた自分自身の力ではなく、神さまによるものです。聖霊様で満たしてくださり、お守りくださいますようお願いをいたします。救い主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す