2021年1月31日 主日礼拝「アブラハムのように」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙4章1〜8節

説教題

「アブラハムのように」

今週の聖句

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

創世記15章6節

訳してみましょう

2063 Those who reject Christ an savior will face as judge.

2064 There are no losers with Jesus and no winners with the devil.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  68番「父なる御神に」(※今週の讃美歌
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  199番「わが君イエスよ」(※今週の讃美歌
聖 書  ローマ人への手紙4章1〜8節
説 教  「アブラハムのように」佐藤伝道師
讃美歌  270番「信仰こそ旅路を」(※今週の讃美歌
献 金  547番「いまささぐる」(※今週の讃美歌
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」(※今週の讃美歌
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/PzYVJtsVVk8

説教「アブラハムのように」

ローマ人への手紙4章1〜8節

佐藤伝道師

 道路の案内標識というものはとても有り難いものです。遠く見知らぬ所へ行っても、目的地さえ分かっていれば、大体は道路の案内標識に従って進んで行けば良いからです。さらに今はもっと便利で親切な、声で案内をしてくれる「ナビ」があります。ちなみにヘブル語で預言者のことを「נָבִ֣יא(ナーヴィー)」と言います。預言者ナーヴィーは神の口であり、民に神意を告げる者のことです。道が分からない者にとって、カーナビはまさに、若者の言葉で表現するなら「まじ、神」とでも言うのでしょうか。

 私の母校、新潟聖書学院についてで恐縮なのですが、こんなエピソードがあります。今から70年以上も前の1949年。カナダから来日した5名の宣教師たちは、日本宣教のセンターとして軽井沢に聖書学院を建設しました。そして1950年の春には、日本海沿岸地域に神学校をという計画が与えられました。信越線に沿って真っ直ぐ日本海に突き当たるまで前進すると、直江津に辿り着きます。直江津まで進んだ視察団は、右に行くか、左に行くか、岐路に立たされました。ここからは口頭伝承なのですが、岐路に立たされた宣教師たちは、直江津で神さまの導きを祈り、委ねて、1本の棒を立てて倒しました。すると、その棒は右、北の方角に倒れたそうです。一団は神さまの御心と信じ、北へと進みました。そして柏崎まで来た一団は、そこで思わぬ大歓迎にあいました。伝道を兼ねながら学院の土地を物色していたところ、柏崎の人々は興味をもってトラクトを読んだり、市内の真ん中で伝道しようものなら黒山の人だかりとなって、一時は道路が通行止めになるほどでした。このような事があって、柏崎付近に学院をという導きが濃厚になったようです。柏崎市も学院の設立には非常に乗り気で積極的でした。県会議員や市議会議員、その他有力者たちが協力会なるものまで結成しました。市議会も動きだし、学院までの道路を拡幅してくれました。当時は砕石が無く、その土地の婦人会の方々が手で石を砕いて道に敷き詰めてくれたそうです。そしてついに1951年、市長や警察署長、市会議員、協力会の方々が出席されて、落成式が行われました。

 もし70年前、宣教師たちが直江津で立てた棒が左、南の方角に倒れていたら、富山、あるいは金沢聖書学院となっていたのでしょうか。もしそうなっていたら、色々なことが変わっていたのだろうか、私の歴史も変わっていたのかもしれないなどと考えると、何だか不思議な感じがします。

 主なる神さまの御心はこのように環境とか多くの人々を巻き込んで、まるで道が目の前に開かれるようにして導かれていくのだろうと思わされます。皆さんもそのような経験をされているのではないでしょうか。そのように、主は確実に神の国に至るまで私たちを守り導いてくださっています。主の約束だからです。主のナーヴィー(神の口、神意を告げる方)が常に私たちとともにあり、私たちを導いてくださいます。

 そのように導いてくださっている主の声であるみことばに、今朝も耳を傾けてまいりましょう。お祈りを致します。

 天の父なる神さま、尊い御名を崇め、心から賛美致します。過ぐる一週間も私たち一人ひとりに目を留め、守り導いてくださったことを覚えて感謝致します。今朝も神さまのみことばを祝福してお与えください。聖霊様が満ちていてくださり、上からの知恵と理解力、洞察力をもって神さまの御心が分かるようにお守りください。私たちの心を主への感謝と喜び、主を愛する思いでいっぱいに満たしてください。主を喜び、主に喜ばれる器として整えてくださいますようにお願いを致します。感謝して私たちの主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回は、行いの原理、信仰の原理について見ました。行いの原理とは、自分が何をしたか、何をするかに目を向けるというもの。信仰の原理とは、神さまの行為に目をむけさせるもの、神さまが何をしてくださったか、何をしてくださるかに目を向けるもの。そして「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」という判定へと導かれました。

 ある先生が言われていたことですが、神さまが私たちを義と認められるというのは、「神さまが私たちを、神さまご自身がお喜びになる存在としてくださることだ」と言われていました。行いによっては完全に神さまの目に正しい者とはなれない私たちが、ただ神さまがしてくださったことに目を向けて信じるならば、神さまは私たちを神さまがお喜びになる存在としてくださる。それは、まるで正しくない、聖くもない、かえって全く罪人である私たち、受けるに全く相応しくない私たちに与えられる驚くべき神さまの祝福、恵みです。目を向けて知り、そして信ずべき神さまがしてくださったこととは、キリスト・イエスそのものです。キリスト抜きの私たちの信仰はあり得ません。

 そのようなキリスト・イエスを信じるだけで義とされるという大きな恵みは、律法を無効にし、不道徳な、怠惰な、やる気のない人間を作り出してしまうものなのでしょうか。その答えは明確でした。「律法を確立することになる」のです。私たちが神さまがしてくださったことを本当に知って信じるなら、「あなたは心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛するはずであろう。あなたの隣人をあなた自身のように愛するはずであろう」。このように律法を確立することになる。本来の人を生かすための律法になる。そしてその神さまのお心、私たちに対する愛と信頼、期待が込められた律法は、私たちを真に生かすものとなるのだというところを見ました。

 3章ではこれまでの議論のいわゆるクライマックスを迎えたわけです。それは私たちの信仰の中心、救いの教えの中心である「信仰義認」と言われる結論へと導くための議論でした。「信仰義認」。この言葉はズバリ聖書には登場しません。「信仰義認だ」と言ってしまえば簡単で便利な言葉かもしれませんが、これまで3章までじっくり見て来なければならなかったほどのもので、私自身、そんなに簡単に使ってしまって良いものかと、これまで説教の中であまり積極的に用いて来ませんでした。しかし宗教改革の教会はこれを「教会が立ちもし、倒れもする教え」と呼んできた、とても重要な言葉です。「教会が立ちもし、倒れもする教え」、その意味は前回までの内容から何とか感じ取っていただけるかと思います。クライマックスをひとたび終えたここで改めて「信仰義認」という言葉とその教えを正しく心に留めておいていただければと思います。

 「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」。長い議論の末、十分に考えて導き出された判定。4章からはその判定を実証するために、実例として、実際に旧約聖書に証しされた神の義とはどのようなものなのかを示して行きます。今日の箇所でパウロは、ダビデの体験に少し触れつつ、おもにアブラハムの物語からそれを明らかにします。

4章1節      それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 新しい訳ではこのように訳されています。

【新改訳2017】
4章1節       それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

 「それでは」とパウロは切り出し、「アブラハムが発見したことについてはどうでしょうか」と私たちに問います。

 旧約聖書に記されている義人の中で、アブラハムを超える人物は誰もいないように思います。神さまは「わたしの友、アブラハム」(イザ418)と呼ばれました。「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守った」(創265)と、神さまご自身が証言しています。そんな義人アブラハムは、ユダヤ人にとって歴史的、また民族的な意味で自分たちの父、先祖でした。自分たちが義人アブラハムの子孫であることを誇りとしていました。ユダヤ人がアブラハムの子孫であるために重要とされていたものが、割礼であり、律法の行いでした。誇りでした。ユダヤ人にとってのアブラハムは「信仰の父」というよりも、むしろ「行いの父」だったようです。

 皆さんは「アブラハムが神さまに義と認められた」と聞いて、聖書のどのような場面が思い出されるでしょうか。それは創世記22章に記されているモリヤの山での出来事、アブラハムの生涯最大の試練のところかもしれません。大事な跡取りである一人息子、イサクを献げよというあまりにも理不尽と思える神さまの命令に、それでも黙々と従っていくアブラハム。祭壇の上に息子イサクを横たわらせ、刃物で屠ろうとしたその時に、神さまはアブラハムを止められ、こう言われました。

【創世記】
22章16節 「わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
22章17節 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
22章18節 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 律法の行いに生きる当時のユダヤ人たちが、自分たちの父祖、素晴らしい義人アブラハムと言うときに、この出来事を思い起こしたというのは容易に想像できるでしょう。私たち信仰者が「これぞお手本」と褒め称える、義人アブラハムの信仰の行いが見られるのではないでしょうか。

 ちなみに、私が20代の頃に勤めていた会社の元上司は、こんなことを要求してくる神など信じるものかと、長い間神さまを受け入れることができなかったそうです。それはある意味、正しかったのかもしれません。

 もし行いによって人が神の目に義と認められると言うのなら、アブラハムこそが相応しいのでしょう。アブラハムこそ信仰の父、最高の模範でしょう。しかし聖書は「そうではない」と言います。

 今の私たちはどうでしょう。私たちはしばしば、「あの人の信仰は素晴らしい」と、他の兄弟姉妹の信仰を模範とすることがありますが、そんな時、私たちはどこに目を向けているのでしょうか。色んな奉仕をしている、多くの犠牲を払っている、献身的に愛を実践している、もの凄い信仰の証しをもっている。それらはとても素晴らしいことです。私たちもそのようでありたいと願うものです。しかしそういう兄弟姉妹の姿を見て、「あのようにならなければ」とか、「自分はとてもあのようにはなれない」と考えてしまうとするなら、聖書はアブラハムを実例として「そうではない」と言うのです。

4章2節      もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4章3節      聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

 ここで引用されている旧約聖書の箇所は、先ほど見ました創世記25章よりも前の、15章6節に記されています。しかもローマ書4章では、「聖書は何と言っているか」と問いながら、その答えとして創世記15章6節の言葉が実に3節、9節、22節、23節と、4回も繰り返して引用されています。まるでナビの声となって、いつの間にかずれ始めてしまった恐れのある信仰の道筋を、本来の信仰へ、神さまの愛、恵みの中へと引き戻そうとされているかのようではないでしょうか。そしてそれは信仰の歩みの中で、誇れる行いが出来ないとどこかで自信を失いかけている私たちにとっては、何と慰めと励ましに満ちたものではないでしょうか。

 創世記15章6節、その少し前から見てみましょう。

【創世記】
15章1節   これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
15章2節   そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15章3節   さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
15章4節   すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15章5節   そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15章6節   彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムは神さまの約束を聞いて心から驚いただろうと思います。神さまの約束の実現に対して、アブラハムができることは何もありませんでした。財力も力もない者の子孫が、そのように繁栄することは考えられなかったと思います。しかも年老いた自分と年老いた妻。どうして子孫を望むことができるでしょう。しかしアブラハムはただ、それが神さまの約束だからというので信じたのです。

 アブラハムは神さまの約束を信じました。しかし神さまの方から言えば、アブラハムは神さまご自身を信じたということになりました。それはそうでしょう。人が誰かの約束を信じるという時、約束だけを信じることはできません。その時、どうしても約束を与える人自身をも信用しなければならないからです。アブラハムは神さまを信じました。望みの全く無い中で天を見上げ、ただ神さまに信頼しました。依り頼みました。信用しました。そのことによって、アブラハムは神さまに喜ばれたのです。義とされたのです。

 しかしよくよく考えてみると、アブラハムはその旅立ちからして神さまの約束に対して従順でした。「あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたの名を大いなるものとしよう。」アブラハムは神さまがお告げになったとおりに出かけました。もしアブラハムが初めに神さまの約束を信じなかったら、約束の地に出発しなかったでしょうし、そこで神さまのみこころに従って生きることもなかったでしょう。神さまはアブラハムの旅の初めからずっと見ておられました。その中でなされたアブラハムの数々の良い行いというのは、養われて行った神さまに対する信仰、信頼の実であったのです。結ばれた実、結果であったのです。良い行いが実を結んで神さまに喜ばれた、義とされたのではなかったのです。

 アブラハムの信仰は、まことの信仰というものを良く表していると言えるでしょう。しかしここローマ書では、ただアブラハムの輝かしい信仰の伝記を記しているわけではありません。神さまの救いを受け入れるための信仰とは、どういうものかを示すためにアブラハムの信仰が引かれているのです。アブラハムの信仰というのは、旧約のひとつのお話しではなく、私たちがイエス・キリストを信じる時にも意味を持ってくるのです。私たちの信仰は、アブラハムのように、自らの無力さを知り、無条件に、神さまの救いのみわざを信じるというのでなければならないことを教えるのです。自分の力を信じないで、ただ神さまがしてくださったことを信じる、イエス・キリストを信じるということです。

 ローマ書に戻りまして、

4章4節      働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4章5節      何の働きもない者が、不敬虔なものを義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 アブラハムの義は、働きの報酬として与えられたものではなく、信仰によって与えられた恵みでした。パウロはこの点を明らかにするために、働く者が当然の権利として受け取る賃金と、働けない者に与えられる贈り物との違いを例としています。恵みはただで受け取るものであって、働いて稼ぐものではありません。

 神さまの前ではあのアブラハムさえも「何の働きもない者」「働けない者」の一人にすぎません。そればかりか、不敬虔な者の一人でもあるのです。ならば私たちなんて、どれほど何の働きもない者、働けない者、不敬虔な者なのでしょうか。そんな私たちでさえ、神さまがしてくださったことを信じさえするならば義とされると言うのです。神さまが喜ぶ者とされると言うのです。不思議としか言えません。行いの原理が当たり前の世に生きている私たちにとって、行いによらない罪の赦しは、イエス・キリストの復活とならぶ、簡単には信じられない不思議な神さまのみわざだと言えるのではないでしょうか。

 しかし詩篇記者は歌います。

【詩篇】
131篇1節 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びも付かない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
131篇2節 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。
131篇3節 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

 人にとって不思議すぎる、人の考えでは及びも付かないほど高い神さまの御心、罪の赦し、救いのみわざに対して、私たちは疑うことなく、ただ神さまに対する絶対的な信頼によってのみ安心できるのです。そこで母親に頼るしか生きる術のない幼子が母親の顔を仰ぎ見て、その口から「おいで」と言う言葉が発せられたならすぐに胸に飛び込む、そのような幼子の信仰が求められるのです。

 神さまは、行いがなくてもご自分を信じる人々を義と認めてくださいます。そんな信じられないほどの恵みを見出し、神さまへの絶対的な信頼によって罪の赦しということに対して心の平安を得た人が、あのダビデだったのではないでしょうか。パウロはここでダビデを例に引き出します。ダビデもまた、アブラハムと並ぶユダヤ人にとっては重要な人物でした。

4章6節      ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
4章7節      「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4章8節      主が罪を認めない人は幸いである。」

 ここは詩篇32篇1〜2節からの引用です。この詩篇はダビデによって書かれました。そしてその書かれた背景というのは、あのバテ・シェバとの姦淫、そして人殺しや欺きの罪まで重ねたにもかかわらず、ダビデが心から悔い改めて赦しを求めた時、神さまは直ちに恵みによってダビデが犯した致命的な罪さえ赦されたという信じられない驚くべき出来事が背景となっています。私たちはダビデを図々しい奴だと非難できるでしょうか。凄い赦しの神さまだと感動するでしょうか。私たちも同じく神さまに赦していただいた罪人です。

 ダビデもまた、行いとは別の道で、つまり恵みという道(方法)で、神さまによって義と認められました。そしてもう二度と罪を一つ一つ数え上げ、責めることはなさらない。行いによらずただ信仰によって義と認められる人の幸いをダビデは歌います。

 このように、新約時代の私たちは、神さまがしてくださったこと、行いとは別の道、恵みの道、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と言われるイエス・キリストという道、十字架の死と復活を信じる者には、ダビデの身に起こったことと同じ、驚くべきことが起こるのです。罪の赦し、救いに関して自分には何の力もないことを知り、ただ神さまを信じ、神さまがしてくださったことを信じる信仰によって、罪人を義と認められるのです。罪人である私たちが義とされ、神さまが私たちを、神さまご自身がお喜びになる存在としてくださるのです。私たちの不法を赦し、もう二度と罪を一つ一つ数え上げ、責めることはなさらない。もし神さまに罪を一つ一つ数えられて責めら続けられたら、もう生きていられないでしょう。自分の知っている罪も、知らないし気付いてもいない罪も、こんな自分あんな自分をまざまざ見せつけられたら、きっともう生きる自信など持てないだろうと思います。そんな者が神さまに義とされた。神さまに喜ばれる者とされた。行いによらず、ただ神さまを信じたことによって。これほど驚くべき幸いなことはありません。罪を主に認められない者は幸いである。キリストが十字架にかかってくださったのは、まさにこのことのためです。

 「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。アブラハムが発見したことについてはどうでしょうか」。

 信仰義認を語るローマ書の中でなされた私たちへのこの質問の答えは、信仰によって生きる恵み、赦されて生きる恵み、幸いを与え、真に生かして下さる恵みの神さま、赦しの神さまをそこから見出したということでしょう。

 アブラハムも、またダビデも、完璧な人生を生きた人ではありませんでした。多くの失敗をし、過ちを犯し、自分なんてもう駄目だという経験を重ねました。それでも聖書は「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と重ねて言い続けるのです。そしてそれは私たちに対しても同じです。

 信仰による幸いを得て、そこから私たちの信仰の旅、神さまがしてくださったこと、してくださることに真っ直ぐ目を向けて歩むことができる信仰の旅が始まりました。それもまた恵みです。信仰の旅立ちからずっと、神さまは私たちに目を注がれ、道を守り、私たちを導いてくださっています。私たちのうちに信仰を見出してくださり、行いにはよらず、その信仰によってのみ私たちを義としてくださっている、神さまが私たちを、神さまご自身がお喜びになる存在としてくださっているのです。地上では旅人であり寄留者である私たち。その道は今も、この先もずっと約束の神の国に至るまで続いて行きます。

 そんな人生の旅、信仰の旅の途中で何度も道を間違えるでしょう。右へ行くか左へ行くか迷うことでしょう。しかし神さまを見上げて、神さまの約束を信じて歩むならば、きっとその先で私たちを義と認めてくださる、正しいと認めてくださって、神さまは喜んで祝福してくださるのではないでしょうか。間違った道を行ってしまったとしても、私たちが神さまを見上げて、神さまの約束を信じて歩む者であるなら、神さまは元の正しい道へ修正してくださることでしょう。それもまた神さまの祝福です。「風の吹くまま、気の向くまま」と言いますが、私たち信仰者は「聖霊の吹くまま、御心のまま」となるのではないでしょうか。私たちは主の祝福を求めて歩んでまいりましょう。

 最後に、C・S・ルイスという人がこのようなことを言っています。「この世には2種類の人々だけがいます。神さまに『みこころがなりますように』と祈る人々と、神さまから『分かった。それじゃ、あなたの好きなようにしなさい』と言われる人々の2種類です」。神さまを見上げ、神さまを信じて歩む道。自分の行い、自分の力に頼って突き進む道。私たちにとって、どちらが幸いな道でしょうか。今、どちらの道を見出し、どちらの道を歩んでいるでしょうか。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。どうぞ私たちの目が、神さまへと向けられ、祝福のうちをこれからも歩み続けることができますようにお守りください。働きのない、また間違いや迷いの多い私たちではありますが、天を見上げ、主を信じるなら、これからも主によって義とされつつ歩んでいける恵み、幸いを感謝致します。歩みの中で、またそこで交わる人々の間で、主の栄光を現していけますようお導きください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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