2021年5月9日 主日礼拝「義の奴隷にされて」

礼拝式順序

礼拝前賛美
(賛美をもって神の前に進み、礼拝へと心を整えましょう。)
 ※伴奏&歌詞の動画あり↓↓↓
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  4番「よろずのくにびと」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  271b番「いさおなきわれを」1節と6節
聖 書  ローマ人への手紙6章15〜23節
説 教  「義の奴隷にされて」佐藤伝道師
讃美歌  333番「主よわれをば」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


本日の聖書箇所

ローマ人への手紙6章15〜23節

説教題

「義の奴隷にされて」

今週の聖句

今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

ローマ人への手紙6章19b節

訳してみましょう

2092 Look at the birds of the air, they do not sow or reap or store away in barns, and yet your heavenly father feeds them. 

2093 God of heaven, earth, streams, and birdsongs, I worship You today.

説教「義の奴隷にされて」

ローマ人への手紙6章15〜23節

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今朝も私たちを御前に招き、御心によってこの場所に呼び集めてくださいましたことを心から感謝致します。ともに今朝語られるみことばに聞き、みことばから教えられ、そしてみことばによって生きる者としてくださいますようにお願いを致します。主がこの場を恵みによってご支配してくださっておられることを覚えます。主の御前に、私たちはしもべとして、あなたに仕える者、礼拝する者としてひたすらにへりくだり、私たちのすべてを喜んで主にお献げいたします。御前に頭を垂れる私たちをどうぞ豊かに祝福してください。聖霊様が満ちていてくださって、みことばが分かるようにお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 今日の箇所は、前回までの議論の第2ラウンドといったところです。「それではどうなのでしょう」と、1節の問いを繰り返しています。パウロは14節で「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」と述べました。その発言から導き出される誤った議論を封じる必要があったため、ここで改めて読者に問いかけているのです。その誤った議論というのはこうです。

6章15節      それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 私たちが救われたのは恵みのゆえでした。恵みによってでした。恵みというのは、受ける者の側の価値とか資格を越えて神さまから与えられる一方的な憐れみです。神さまが憐れんでくださった。苦しみや悲しみに深く同情してくださって、慈悲深い御心を私たち一人ひとりに注いでくださったのです。私たちは神さまの憐れみを受ける価値も資格もないほどの、神さまに敵対し反抗さえしていた者です。けれども神さまの一方的な憐れみによって救われました。また日々、私たちを憐れみ、イエス・キリストにあって赦し、祝福までも注いでくださっているのです。「あなたは、罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者とされている。そのことを認めなさい」(ロマ611)とまで仰ってくださっています。罪に対して弱い私たち、罪を犯したくなくてもついつい罪を犯してしまう私たちであるのに、神さまの一方的な憐れみによって、日々赦されながら、神さまに慰められ、励まされ、困難な問題の解決までも与えられ、私たちの色々な必要も満たしてくださる。たとえ今、目の前の出来事が私たちにとって喜ばしいことでなくとも、すべてを益として最善をなしてくださるのだという、神さまの恵みの約束まで与えられている。いつでも、どんな時でも神さまが私たちの味方でいてくださる。それが恵みというものです。私たちは、確かにこのような恵みの下にあるのです。けれどもその恵みが当たり前のようになり、高慢になりやすいのが人間というものです。それだからこそ私たちにはっきりとした自覚と強い決意を求められるのです。再び神さまに背を向けて、罪の道を歩いて行くことのないように。「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ロマ613)と。

 ある人はこう言うのです。「パウロが言うように、私たちが律法の下にあるのではなく、罪を犯しても罰を受けない恵みの下にあるなら、どんなに罪を犯しても大丈夫ということでしょう」。そのように考えてしまうのが肉の弱さを持つ私たち人間です。パウロは19節で言っていますが「あなたがたの肉の弱さを考慮して、私はあなたがたに分かりやすい物言いをしましょう」として、16節から「奴隷」という、あまり聞きたくはないワードを用いて論じて行きます。

 パウロの中にはもしかしたら、イエス様が言われたこのことが考えの中にあったのかもしれません。それはマタイの福音書6章24節でイエス様が言われていることです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです」。ここで仕えると言われていることは、奴隷として仕えるということです。

6章16節      あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

 少し進みまして22節をご覧ください。ここでは「従順の奴隷」が「神の奴隷」と言い換えられており、「義に至る」というところが「行き着くところは永遠のいのち」と言い換えられています。そのことを踏まえて、パウロはここで何を言っているのでしょうか。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷になる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るのか、神に従う奴隷となって永遠のいのちに至るのか、そのどちらかなのです」。どちらかしかないのです。

 イエス様の「ふたりの主人に仕えることはできません」と言われたみことばが重く響いてきます。イエス様はもちろん、パウロも私たち人間がどのようなものであるかを理解しています。人間はみな、実は何かの奴隷であって、すべてのものから完全に自由であることは絶対にあり得ないというのです。どうでしょうか。私たち自身を考えてみると、確かにそうだなぁと思うのではないでしょうか。私たちはいつも自分にとって最も重要だと考えている一つのものや事に、絶えず捕らわれて仕えているのではないでしょうか。たとえ「私は自由だ。だれにも仕えてなどいない」と言ってみても、自由であろうとするが故に、実はその自由の奴隷となっているものです。そして自分にとって最も重要ではない、その他の事に対してはおろそかになってしまうのです。そのような人間の性質を引き合いに出して、ここではあなたは罪に仕える奴隷であるか、神さまに仕える奴隷であるか、そのどちらであるかと問うのです。どちらに仕え続けるかによって、死に至るのか、永遠のいのちに至るのか、それが決まると宣言するのです。

 神さまの御心はどちらでしょうか。もちろん、すべての人が救われて、永遠のいのちを持つことを望まれているのです。神さまはイスラエルの民をいじめて苦しめたあのエジプトの王のような主ではありません。私たちの荷を軽くしようと、ご自身のひとり子イエス様さえ惜しまずに与えてくださった愛なる神さまです。そのような神さま、神さまの御心を知るならば、私たちは神さまに対して「従順の奴隷」となるのです。従順の奴隷とは、嫌々ながらではなくて、心から喜んで、すすんで仕えようとする奴隷のことです。それはキリスト者の姿であるはずです。

 続く17節からは、13節よりもぐっと踏み込んだ言い方にして繰り返しています。

6章17節      神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6章18節      罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6章19節      あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔にすすみなさい。

 神さまに感謝します。もとは罪の奴隷であった私たち。知らずして罪に捕らわれ、罪に奴隷として仕え滅び行こうとしていた私たちに、福音を届けてくださいました。目の前に福音を置いて、あなたはいのちを選びなさいと、あるタイミングで迫ってくださったのです。

 「伝えられた教えの規準」とありますが、これこそが福音です。実は当時の初代教会には、ある程度定型化された信仰の規準があったようです。「イエスは主である」という信仰告白を中心にして、信仰を言い表す短い箇条書きのようなものがあったようです。これらはしばしば「信仰の規準」と呼ばれていました。これらがやがて整えられて行き、今も私たちが告白している「使徒信条」になっていったのです。有名なところでは、ローマ書とほとんど同時期(1年ほど前)に、イエス様の死と復活、そしてペンテコステを迎えて教会が誕生したおよそ25年後に、同じパウロによって記されたコリント人への手紙第一15章です。

【コリント人への手紙第一】新改訳2017
15章1節      兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15章2節      私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15章3節      私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15章4節      また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15章5節      また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。・・・

 私たちはこの信仰の規準、福音、信仰告白によって救われるのです。聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたイエス・キリストは主であると信じ告白し、喜んでこの方に従って行こう、お仕えしようと心に決めて、そして救われたのです。イエス様が主であると自ら決めた以上、主であるイエス様にお従いする者、仕える者でなければなりません。

 しかし「神に感謝すべき」とある通り、実は私たちは神さまによって義の奴隷、神さまに仕える者とされたのです。義の奴隷となったとありますが、これは受け身形でかかれているのです。神さまの恵みによって、一方的な憐れみによって私たちは義の奴隷としていただきました。心から喜んで神さまに仕えようとする者としていただいたのです。それは、神さまが私たちに賜物である永遠のいのちを絶対に与えたいと願われるからです。

 そこで「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と命じ、確かな決心を促すのです。聖潔に進みなさい。聖なるものとされて行きなさい。このことを難しい言葉で言うならば「聖化」と言います。ローマ書6章は「聖化論」であるとも言われています。

 聖とは何でしょうか。それは世から、罪から取り分けられる、離れるということ。ですから聖化というものは、世から、罪から取り分けられて、離れて、神さまに近づいて行くこと、神さまのものとされて行くこと、ますます神さまの用いられる器、道具とされて行くと言うことです。パウロはこのことを命じ、そして固く決心するようにと勧めるのです。なぜならば、

6章20節      罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6章21節      その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着くところは死です。
6章22節      しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6章23節      罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 そこで完全なる神のしもべ、とことん神の奴隷になれとまで言う決心が強く求められている。なぜならば、罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられるからです。そのことがはっきりしているからです。父なる神さまは、すべての人が罪の奴隷、死から解放されて、まことの神の奴隷となり、永遠のいのちを得ることを願われておられる方だからです。

 ところで、私たちの主であるイエス様はこのようなことを言われました。

【マタイの福音書】
7章17節      良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7章18節      良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7章19節      良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7章20節      こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7章21節      わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 イエス様はこのように言われました。「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではないと。

 パウロも言っています。

【ガラテヤ人への手紙】
5章19節      肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5章20節      偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5章21節      ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ行っておきます。こんなことをしている者たちが、神の国を相続することはありません。

 これは誰に対して言われていることなのでしょうか。未信者に対してでしょうか。確かにそうとも言えるでしょう。しかしこれは、キリスト者に向かって言われていることなのです。とても厳しいみことばです。

 ローマ書の6章に戻って20節からにある通り、恵みによって救われた私たちが、その後の歩みにおいて相変わらず罪の奴隷であった時と同じような行いをし続けて行くならば、その行き着く先は死である、永遠の死となってしまうのだと、聖書は明らかに言っています。

 私たちは今、すでに、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。得ているのです。御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結んでいるのです。ですから、何が良い実で、何が悪い実なのかは判断できるはずです。以前は肉の行いなど普通だったけれども、今では恥じている、恥ずかしいと思えるからです。それなのに、神さまの恵みの上にあぐらをかいて、神さまの愛に溢れた優しい主人でおられることを良いことに、神さまに服従せず、以前と同じ歩みをし続けるならば、その行き着く先は死なのです。口では「主よ、主よ」と言いながら、実は霊的に罪に対して従順に仕え、神さまに対してはそっぽを向いているのであるならば、その行き着く先は永遠の死なのです。神さまは義なる主であることを忘れてはなりません。

 けれども神さまが死へと追いやるのではありません。それでは恵みに反してしまいます。そうではなく、歩む者が自ら選択して、自らの足で滅びへと進んで行くのです。どんどん、どんどん、父なる神さまのもとから離れて、気付けばもう帰れない所まで勝手に進んで行ってしまう。

 私たちは今、だれの奴隷でしょうか。誰のしもべでしょうか。私たちが喜んで、進んで仕えている相手は誰でしょうか。自分でどこに進んで歩いていると思いますか。

 もし、少しでも不安を覚えるならば、あるいはみことばを聞いて罪を示されて、心が刺されて痛みを覚えるならば・・・、私たちは喜びましょう。それは私たちが義の奴隷であることの証拠なので、むしろ喜べることです。そしてその恵みを覚え、恵みに応えて、従順にまことの主である父なる神さまのもとへと立ち返ろうではありませんか。少しでもずれてしまっている道であるならば、しっかりと軌道修正をして、私たちの目の前に備えられた永遠のいのちに至る主の道を、真っ直ぐに歩んでまいりましょう。父なる神さまは天の御国で、あの放蕩息子を待つ父のように、ご自身のもとに近づいてくる私たち一人ひとりを、イエス・キリストにあって神の子とされた私たち一人ひとりをいつも気に掛けてくださり、探し、見つけて、そして喜んで迎えようと、今か今かと、ちゃんとこちらに向かって来ているだろうかと、御目を凝らして待ちわびていてくださっています。本当に感謝なことではありませんか。恵みではありませんか。

6章23節      罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 このみことばをしっかりと覚え、私たちは誰に対して仕えているのか、自分は今、自分の足でどこに向かって歩いて行っているのか、常に顧みつつ、私たちのこの手足を、五体を、私たちの心も体もすべてを義の奴隷として献げて、聖潔に進んでまいりましょう。聖なる者とされてまいりましょう。世、罪から離れ、取り分けられ、ますます神さまのものとされてまいりましょう。その道筋も神さまからの賜物、ギフトであり、永遠のいのちであり、その途上も主がご支配なさる神の国、その行き着く先、延長線上に主が待っておられる素晴らしい天の御国があるのです。

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め心から感謝し、賛美致します。主よ、あなたを愛します。信頼します。どうぞ変わらぬ恵み、憐れみをもって私たちを天の御国に至るまで守り、励まし、そして導いてくださいますようにお願いを致します。二人の主人に仕えることはできない。どちらの主人に喜んで仕えているのか。日々思い、考えて行けますように。感謝して私たちのまことの主、キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

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