2021年5月16日 主日礼拝「御霊により」

礼拝式順序

礼拝前賛美
(賛美をもって神の前に進み、礼拝へと心を整えましょう。)
 ※伴奏&歌詞の動画あり↓↓↓
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  5番「こよなくかしこし」1節と5節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  160番「よろこびの調べ」1節と3節
聖 書  ローマ人への手紙7章1〜6節
説 教  「御霊により」佐藤伝道師
讃美歌  303番「めぐみのみちかい」1節と3節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


本日の聖書箇所

ローマ人への手紙7章1〜6節

説教題

「御霊により」

今週の聖句

しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

ローマ人への手紙7章6節

訳してみましょう

2094 They show that the requirements of the law are written on their hearts.

2094 Jesus, I&ve failed to do right and succeeded in doing, wrong, Forgive me. Thank You for dying my death so I don&t have to.

説教「御霊により」

ローマ人への手紙7章1〜6節

 今日は教会暦を重んじる教会では「昇天祭」とされており、イエス様が復活されて40日後に天に上げられ、父なる神さまの右の座に着かれたことを記念する日曜日となっています。それで先ほどはイエス様の昇天を覚える賛美をしました。イエス様が弟子たちから離れて天に昇られ、その10日後に、集まって祈っていた弟子たちの上に、約束通り神さまからの聖霊が降った出来事を記念するのが、来週迎える「ペンテコステ」です。先ほどご一緒に拝読しました今日の聖書箇所は前回からの続きであり、特別にイエス様の昇天を覚えるような箇所ではありませんが、ある先生は「聖書は金太郎飴のようにどこを切っても福音が語られている」と言われました。今日の聖書箇所にも「死者の中からよみがえった方」とか「神のために実を結ぶ(聖霊の実)」とか、やはりイエス様の十字架、復活、そして昇天、ペンテコステといった福音のエッセンス、要素、真髄が感じ取れます。今朝はよみえられたイエス様が天に昇って行かれたという重要な出来事を覚えて、ご一緒にみことばに耳を傾け、そして主の前にひざまづき、礼拝を献げて参れたらと願っております。お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も、私たちは恵みの下に生かされ、守られてまいりました。今朝もこのようにして私たちを御前に集めてくださり、ともどもに主に礼拝を献げることのできる幸いを心から感謝致します。霊とまことをもって礼拝を献げようとする私たちを、どうぞ祝福してください。みことばを通して、それぞれの内に御霊の実を結ばせてくださいますようにお願いを致します。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く」。主よ、みことばを感謝いたします。みことばを祝福してお与えください。イエス様が天に昇られ、送ってくださった助け主なる聖霊様が満ちていてくださり、天からの知恵、理解力、洞察力を与えてくださり、みことばが分かるように導いてください。そして主に用いられる聖い器として整えてくださり、喜びをもって出て行くことが出来ますようにお願いを致します。感謝して、私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回は、私たちは罪の奴隷となるのか、神の奴隷となるのか、あるいはどちらの奴隷となっているかということを問われ、改めて私たちの手足を義の奴隷として神さまにささげて聖潔に進みなさい。ますます神のものとされて、そして良い実、永遠のいのちを得るように、天の御国へと続く目の前の道を歩いていこうとの決意へと導いていただきました。そしてその決意を実際に行動に移すように、毎日の生活の中に実際の業として行うようにとも迫られたところだったと思います。この一週間、いかがだったでしょう。私は反省しきりです。

 神さまは恵みにより、一方的な憐れみにより、イエス・キリストの十字架によって、私たちを罪の束縛、罪の奴隷から解放してくださいました。そして私たちがこの地上の生涯を通して、死、永遠の滅びに至る道ではなく、いのち、永遠のいのちを選び取って、ご自身のおられる天の御国に至る道を真っ直ぐに進んで行ける者としてくださっています。そして天から私たちを見守り、そこに迎えようと心待ちにしてくださっています。けれども、この地上では私たちに選択が任されており、与えられた選択の自由を再び罪のために用いていくか、神さまのために用いていくかは自分で決めなければならない責任があるのです。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(613-18)。

 福音を信じ、イエス・キリストを信じて罪から解放されて、神さまのものとされた私たちなのですが、自分自身を見ると、まったくそうなりきれていない自分を発見するのではないでしょうか。まるで自信がない。そんな私が、どうしたら神さまに喜んでいただけるのでしょうか。この地上の生涯の間、主にのみ仕え、聖潔に至る実を結んで行き、どうしたら確実に永遠のいのちに至る歩みができるのでしょうか。

 逆に神さまを悲しませることとは何でしょう。私たちの罪を赦し、罪の奴隷状態から解放するために、そして永遠のいのちを与えるために、ご自身の大切なひとり子さえ惜しまずに与えてくださった、その神さまの愛を無駄にしてしまうことではないでしょうか。それはどれほど神さまを悲しませることになるでしょう。どれほど私たちは神さまを悲しませているでしょうか。

 神さまに喜ばれる者となろう。罪から離れ、神さまの愛に応える者となろう。私たちが恵みによって救われ、恵みによって生かされている者であることを知るならば、きっとこのような願いを持っているはずです。しかし神さまをおろそかにしてしまい、罪を繰り返してしまい、神さまの愛に応えきれない弱く情けない私という者を見る時、どうしたら神さまに喜ばれる者になろうという決心を実際に行えるのでしょうか。その力が与えられるのでしょうか。それがこれからローマ書7章、8章で教えられていく内容なのですが、パウロはまず「婚姻法のたとえ」をもって教えます。

7章1節   それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか ——— 私は律法を知っている人々に言っているのです。———
7章2節   夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

 ここで「律法」と訳されている語ですが、ここではモーセ律法を含めた法律一般を指しており、結婚に関する法を指しています。結婚に関する法というものは、モーセ律法に限らずほとんどすべて世界中の人々の中の共通法ではないでしょうか。パウロは6章で「人間的な言い方、分かりやすい物言いをしています」と言っていますが、ここのところでもすべての人に分かりやすい「結婚」を喩えに持ち出して論じています。

 語られていることはシンプルです。律法の結婚の定めは、結婚関係にある二人の生きている時にのみ効力を発揮するのであって、一方が死んでしまえば、もはや結婚関係は消滅するというのです。随分とドライですが、あくまでもこれは法的な手続きの話しです。

 ここで考えられている結婚とはいわゆる契約の関係です。愛に基づく契約です。そもそも契約という字は、契りの約束と書きます。契約という語自体に結婚が意識されていることが分かります。そして契約には守られるべき約束が伴います。律法です。律法が守られなかった時、愛を裏切った時には罰則があります。姦淫の罪が着せられ裁かれます。

 愛とは何でしょうか。いつか取り上げましたが、愛とは自己犠牲です。自らを他者に与える自己犠牲。それによって愛が分かるのです。ですから、自分が誰に対して自己を犠牲にしているかによって、誰を愛し最優先にしているのかが分かるのです。

 夫とは誰でしょう。パウロは何を夫に喩えているのでしょうか。それは、やはり罪でしょう。そして女とは誰でしょう。それは、やはり私たち自身でしょう。

 以前の私たちは、罪を愛し、罪に仕えていました。罪という夫を持ち、従順に仕えるものでした。しかし罪は、イエス様が代わりに負って下さり、イエス様がともに十字架に架かってくださり死んでくださったのです。それで私たちは、もはや自分を以前の夫、罪に結びつけていた律法から完全に解かれているのです。

7章3節   ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

 罪が死に、罪に縛り付けていた律法から解放されて自由になったなら、他の男、それは4節を見ると死者の中からよみがえった方、イエス様であることが分かりますが、そのイエス様のところに行って、イエス様と結ばれたとしても、再婚して幸せになろうとしても、誰も文句を言ったり非難したりするものはないはずです。ところがどうでしょう。一番文句を言っているのは、一番非難しているのは、なんとこの私なのではないでしょうか。罪に対して義理を果たせ、姦淫してはいけない、罪から離れてはならないと説得してくるのは、実はこの私自身なのではないでしょうか。

 ですから、神に喜ばれる生き方をしよう、私たちの心も身体もすべて神さまに献げよう。その決意を実際に行うためには、まず罪に対しては死んでいること、もう罪に縛られる義理などないことを明確に自覚することなのです。

7章4節   私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
7章5節   私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
7章6節   しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。認めなさい」そう自覚しても、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」そう自分に決意させても、何度も逆戻り。罪や悪習慣から離れられない。同じ罪を犯し続けてしまう。死んだはずの罪に対して、まるで姦淫してはならないと迫ってくるような自分。それで神さまの方をおろそかにしてしまう。こんな自分が救われていると言えるのだろうか。救われると言えるのだろうか。

 パウロは4節で「私の兄弟たちよ」と優しく諭すように呼びかけます。そして「私たち」と言って、パウロ自身も手紙の読者の側に自分を置いていることが分かります。7章の先を読み進めて行くとすぐに分かるのですが、パウロもまた、私たちと同じ悩みを悩み抜いた人なのです。そんなパウロが言うのです。私の兄弟たちよ、と。あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。罪に縛り付けていた律法の効力は全くなくなっていて、すでに解かれているのですよ、と。罪の束縛から解かれて、死のために実を結ぶ生き方から解放されて、そしてイエス様と結ばれて、神のために実を結ぶ生き方がすでに始まっているのです。もうあなたは新しい夫であるイエス・キリストとともに生き始めているのです。あなたは救われているのです。それを非難する人など、あなた自身を含めて誰もいないのですよ、と。

 それなのに、そのような幸いな変化を認めずに、恵みを認めずに、なおも古い自分に留まりつづけてしまうのが私たちです。そうではないでしょうか。

 先ほども申しました通り、実は自分の弱さを自覚していたパウロは、自分が決意したことさえ実行できない者であることをも自覚していたのでしょう。古い自分から抜け出して、完全に神さまのものとされて、神さまだけを愛し、罪の奴隷状態へと逆戻りしない。神さまのものとされて、そして良い実を得るように、天の御国へと続く目の前の道をひたすらに歩いて行こう。けれども、毎日の実際の生活の中で、その決意を実際に行うことなどできない力ない者なのだと、パウロ自身が実体験から教えているのではないでしょうか。「わたしを離れては何もできない。良い実を結ぶことなどできない」とイエス様が言われたことを、パウロは切実に感じていたのではないでしょうか。けれどもそのイエス様は今、神さまとともに天におられるのです。

 6節の最後に「御霊」が登場します。2章以降、ずっと語られてこなかった御霊という語がここでパッと再登場するのです。

 イエス様は十字架の道を行く直前、イエス様が弟子たちに話してくださった別れの説教の中でこのように言われました。

【ヨハネの福音書】
14章16節  わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14章17節  その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおれるからです。

 そしてそれよりも前にこうも言われています。

【ヨハネの福音書】
8章32節 真理はあなたがたを自由にします。

 死者の中からよみがえられたイエス様は天に昇られ、父なる神さまのみもとに行かれ、そして御霊を、もうひとりの助け主を、私たちを罪から完全に解放して自由にしてくださる真理の御霊を私たちに送ってくださいました。その御霊が今、イエス・キリストを信じる私たちとともにおられるのです。私たちの内に住まわれる御霊の力によって、罪から完全に自由にされ、真に神さまを愛し、神さまに仕える者とされるのです。御霊によって生きる新しい生き方へと変えられているのです。御霊によって神さまのために実を結ぶ、神さまに喜んでいただける、神さまの愛に報いることができる新しい生き方がすでに始まっているのです。

 確かに今も弱く、愚かで、罪に傾きやすい者、主の愛を受けながらも恩知らずで、恩を仇で返してしまうような、主の信頼を何度も損ない、愛を裏切ってしまうような私たちです。「ふたりの主人に仕えることはできないのだ」という主のみことばに胸が刺され、ドキッとさせられてしまう者です。けれども私たちは確かに今、神の霊によって新しく生きる者とされています。助け主なる御霊に助けていただきましょう。信頼しましょう。私たちは神さまから遠く離れていては何もできないものです。けれどもイエス様が天に昇られ、天から私たちに送ってくださった助け主なる御霊が私たちのうちに住まわれています。その御霊に助けていただきながら、神さまに喜んでいただける人生を、神さまのために実を結ぶ人生を歩ませていただきましょう。そのような者とされているからです。そのような者とされていることを、御霊によって信じさせていただくのです。神さまのために実を結ぶとは、私たちが罪によってひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つために、神さまがイエス様をお与えになったほどに私を愛してくださった、その愛に応えること。そのようにして神さまの愛が報われること。私たちがこの地上の生涯を通して神さまを愛し、イエス様としっかりと結ばれ、御霊の実を結び、自らの足で幸いな道を選び、進んで行き、永遠のいのちをもって神さまが待っておられる天の御国に確実に行くことなのです。私たちが天の御国に辿り着いた時、神さまのために実が結ばれることになるのです。救いが完成するのです。神さまの願い、御心が成就して、神さまは喜ばれるのです。私たちも喜びに満たされるのです。そのために、イエス様は天に昇られ、天から助け主なる御霊を、地上の私たちに送ってくださいました。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。私たちは御霊によらなければ、たとえ自分が決心したことさえ実行できない者です。古い罪を愛する自分を捨て、主を愛し、主にのみ仕えようという決意を、自力では実行できない者です。けれどもすでに古い生き方とは完全に縁を切り、罪から解放し自由にしてくださる御霊によって、助け主なる御霊によって主に仕える、主を愛することができる者とされていることの確かさを、今朝覚えることができましたことを感謝致します。そのことをしっかりと心に覚え、神のために実を結ぶ人生、それはそのまま私たちの幸いな人生を歩んで行けますように守り導いてください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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