2022年2月27日 主日礼拝「近づく救いに備えて」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  5番「こよなくかしこし」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  190番「あめよりくだり」
聖 書  ローマ人への手紙13章8〜14節
説 教  「近づく救いに備えて」佐藤伝道師
讃美歌  172番「こころして待て」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙13章8〜14節

説教題

「近づく救いに備えて」

今週の聖句

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。

ローマ人への手紙13章11節

今週の祈り

主はわたしに油をそそぎ、……良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。
(イザヤ書61章1節)

神よ、良い知らせをください。私には、あなたの思いを聞いて、あなたから喜びをいただく必要があるのです。

説教「近づく救いに備えて」

ローマ人への手紙13章8〜14節

 先日ある姉妹と卒業式の話題になり、私は卒業式で一度も正しい名前で呼ばれたことがなかったということをお話ししました。私の名前は「隆司(たかし)」なのですが、卒業証書授与の際には、名前の横に鉛筆でわざわざふりがなが振ってあるにもかかわらず必ず「りゅうじ」と呼ばれてしまっていました。余計な「司」が付いているために、どうやら心情的に「りゅうじ」と読みたくなってしまうのではないかと、そんな結論に至ったわけですが、「りゅうじの方が良かったか」と聞かれ、私は常々「りゅうじ」の方がカッコいい響きだと思っていたので「そうだ」と答えましたら、姉妹に「“りゅうじ”って顔ではない」と言われてしまいました。私は「分からないよ、“りゅうじ”って名前だったら、“りゅうじ”にふさわしい顔になっていたかもしれない」と言いました。よく「名は体を表す」と言いますが、名前によって変幻自在にその人の実態を変えられたら、こんなに便利なことはないのかもしれません。ただ、両親の愛情による命名に応えようと、自分が名前にふさわしい人間になるよう努力した結果、「名は体を表す」という状態になるのは、決して不思議なことではありません。例えば「愛さん」と言う人が、愛という名に恥じない生き方をしなければと思うかもしれません。以前、救われてから自分の名前にまた違った信仰的な意味を持つように変えられたのではないかというお話しをしました。アブラムがアブラハムになり、サライがサラになった。モーセは「水の中から拾い上げられたから」とエジプト人に名付けられましたが、後に「水の中から神の民を引き上げた」という意味に変わりました。先ほどの「愛さん」も、信仰を持つ前と後とでは持つ意味と言いますか、深みが違ってきます。「名は体を表す」の類語に「看板に偽りなし」という表現がありますが、私たちは信仰によって名前の持つ意味、深さが変えられ、何よりも父なる神さまの愛によって「クリスチャン」という名前、看板をいただいているのではないでしょうか。「あの人はクリスチャンだ」ときちんと言われているでしょうか。そして日々、「名は体を表す」「看板に偽りなし」そのように信仰によって変えられたいと願っておられると思います。そして神さまから愛が注がれて、私たちも神さまを愛して、今は完成に至っていなくとも、名前、看板に似合う自分に変えられていっているのではないかと思います。

 今朝私たちに与えられましたみことばは、ローマ人への手紙13章8〜14節です。前回は権威、おもに国家や行政などに対して、神に従うように従いなさいと語られました。この世の権威はすべて神によって立てられたもの。そしてその権威とは、人々の(特に弱い人々の)生命と財産を守るために立てられた権威。そのような権威であると認められるなら、神に従うように従いなさいと語られました。しかし今の世界情勢を見ても明らかなように、権威が立てられている世は罪の世であり、権威を行使する者もまた罪人です。奇しくも今のこの時に、このことが語られたのも主の御心でしょう。今のこの時に生きる私たちに切迫感を持って何かを考えることが求められているのかもしれません。世の出来事に関心を持つことは大切ですが、私たちはもっと霊的な目を開くべきではないのでしょうか。神さまの御心にかなった権威に従うこと。それはつまり隣人を愛することになるのです。そこで今日の箇所では、権威に従うことから、社会における愛の人間関係へと発展させられていきます。

13章8節 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

 【借り】というのは、支払の義務がある、返さなければならない負債のことです。前回の流れから言えば税やみつぎでしょうか。税もみつぎも、神の御心にかなった秩序によって、直接権威を行使するする人たちが養われ、任された「神のしもべ・公僕」として人々の生命と財産を守るためにきちんと働けて、また人々に道路とか助成金などによって還元され用いられるものです。そのようなものに借りがあってはならない。弱い人々を愛し、彼らの生命と財産を守りなさいということでしょう。また、経済的な負債のことばかりではありません。精神的な負債、負い目もあってはならない、与えてはならないのです。誰かを何かによって不安にさせたり、恐れさせてはならない。誰かを傷つけて、その人の内に「復讐してやろう」という思いを持たせてはならないのです。それでは負のループ、負債のループ、呪いのループです。パウロは言いました。「律法全体は『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」(ガラ514)。さらにこう言いました。「気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます」(ガラ515)。

 パウロはイエス様と出会い、目からウロコが落ちて、本来の律法の持つ意義を見出しました。それは神の民が互いにかみつき合い、食い合い、互いの間で滅びてしまうことから守るための律法だということです。救われる以前のサウロの理解とはまるで違います。パウロはイエス様と出会って、救われてクリスチャン、キリストに属する者へと変えられて行ったのでしょう。パウロはここでも「ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」と一貫してイエス様の愛、隣人への愛の側に立って言っています。ここでのその守るべき律法の性格はどのようなものかをパウロは説明します。

13章9節 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」。これはモーセの十戒の後半の戒めで、ご存じの通り後半は隣人との関係においての戒め、社会生活にかかわる規定です。それは隣人を尊重し、愛し、大切にするための、隣人の生命と財産を守るための規定です。十戒の後半の戒めが基本となって、「ほかのどんな戒めがあっても」とパウロが言っていますが、ユダヤ民族の社会生活における膨大な規定(タルムード)が作られていったのです。本来それは素晴らしいもので、ユダヤ人の誇りでした。それがいつしか隣人を裁き、傷つけ、負債を与えるものとなってしまいました。そうではなく、本来の素晴らしい律法に立ち返って、それをきちんと守り行いなさいと。律法をなかったことにするのではなく、ないがしろにするのでもなく、完璧に守り行えと。なぜならイエス様は、律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来られたのだからです(マタ517)。律法が成就する(コップに水が溜まっていってあふれんばかりになるような)のは、互いに愛し合うことによってです。イエス様がそれを成就するために、私たちに教えるために、またご自身が手本となるためにこの世に現れてくださり仰いました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハ13 34-35)。律法の成就、それは、まず主に愛されクリスチャンとなったあなたが「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」ことによってなのです。ヤコブはそれを「最高の律法」と言いました(ヤコ28)。その最高の律法であるならば、他の人に追い切れない負債を追わせる間違った律法(タルムード)とは違って、どんどん他の人に見返りを求めずに与えて良いのです。

 誰か偉い人が「愛は支払いきれない無限の負債だ」と言っていました。その愛の負債によって人間関係は完成・成就するのです。どのように成就して行くのでしょうか。愛された人は愛することを学んで知るでしょう。愛することを学び知った人は愛することができるでしょう。愛される人は愛することを知っている人。愛することを知っている人は愛される人。呪いは負のループ(ロマ1220-21)ですが、愛はそれとは真逆です。律法、隣人を愛するとは具体的にどうすれば良いと思いますか。難しいことではありません。イエス様はもの凄く簡単に教えて下さっています。「ですから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタ712)。皆さんは誰かに言葉や態度で傷つけられたいですか。裏切られたいですか。復讐されたいですか。律法などと難しく考えずとも、この簡単なことをいつも忘れずに覚えていれば良いのです。これで主が私たちに要求しておられる律法、主の望んでおられること、御心はどんどん成就されて行く(ガラ514)のです。

13章10節 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 害を与えない愛は、やはり見返りを求めない愛、アガペの愛のみです。相手を本当に大切にする愛です。「デウスの御大切」と、日本に来た最初の宣教使たちが神の愛をこのように訳したこの訳が本当に素晴らしいと思わされます。この愛が、この愛だけが律法を成就させるのです。そしてその愛は、私たち一人ひとりにイエス・キリストを通して注がれています。十字架の愛を通して、私たちはこれほどまでに神に愛されている者、大切にされている存在であることを知りました。愛された者は愛することを学び知るのです。愛することを学び知った者は愛するのです。

 これまで国家と社会(人間関係)における責任を説いてきたパウロは、続けてまた新しいステージへと進んで行きます。11節から「今の時」に対する自覚と責任について語って行きます。

13章11節 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 パウロは「あなたがたは、今がどのような時か知っている」と言っていますが、私たちは今がどのような時か知っているでしょうか。

 【時】と訳されている語【καιρόςカイロス】はユニークな語で、時計の針が一定に進むような時、時間とは違います。イエス様が「時が満ち、神の国が近づいた」と言われた【時】です。「機が熟した」とか、「適切なタイミング」、「その時!歴史は動いた」的な「時」を意味する語です。その「時」、終わりの方では「今」と言われていますが、今の時というのは、救いが私たちにもっと近づいている時、新改訳の欄外の別訳では「私たちの救いがもっと近づいているからです」となっています。つまり、ついに私たちの救いが完成する時、それはイエス様の再臨の時、終わりの時のことで、その時は近づいている。私たちが救われた時点よりも、確実に前進しているのは明らかです。しかしその日その時がいつであるのかは誰も知りません。ここで言われていることは、キリストの再臨の時の意義をわきまえ、今の時、それが終末の時であるという認識をあなたがたはしっかりと持っているでしょうかということです。その重大さを知っているでしょうかということです。ならばこのように行いなさいとパウロは強く命じるのです。

 「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています」。パウロは私たちにイエス様がマタイの福音書の25章で語られた花婿の到着を待つ女性たちの、2種類の態度を思い起こさせるのではないでしょうか。【眠り・ὕπνος】とは、肉体的ばかりでなく、霊的な睡眠をも意味する語です。また「(土の中に)葬られている」とか「活動していない」とも訳せる語です。私たちの救いの完成の時が、初めに信じた時よりもいっそう近づいているのだから、私たちは霊的にも、倫理的にも「偽りのない愛、悪を憎み、善から離れないように」(ロマ129)そのような生き方、生活態度に対して目を覚まして、花婿であるキリストを迎えるにふさわしい生活をしようではないかとパウロは命じているのです(マタ251-13)。自分自身のために。そして隣人のために。

 イエス様もパウロも、明らかに今の時をどこか危機的状況と捉えているのではないでしょうか。それは今という時の重大さを自覚して「切迫感をもって」ということだと思います。それは自分自身の生き方を律することになるのと同時に、私たちを隣人を愛することへと駆り立てます。隣人が、自分の親や兄弟、子どもたち、親しい方々がイエス様の再臨と同時に滅びてしまうことなく、何としても救われて永遠のいのちをもって神の国へという、私たちの宣教・伝道を切迫感をもっての宣教・伝道とするのではないでしょうか。もし今日、イエス様が再臨されて、神の国が完成して、神の国に入って見渡してみると自分だけなんて、それで本当に幸せでしょうか。後悔はないでしょうか。 今日の箇所の初めでは、隣人を自分自身のように愛することが命じられました。だとするならば、今のまま終わりの日が来て、皆が滅んでしまって良いものでしょうか。終末の幸いと同時に恐ろしさをも私たちは信仰によって信じるのです。私たちは主が語られた幸いな平和の福音を聞いて、信じて、救われました。それと同じく、主の同じ御口から語られる終末をも私たちは聞いて、信じて、そして救われるのではないでしょうか。私だけが救われて「あぁ、私は救われた」と心から喜べるのでしょうか。神の国に入って周りを見渡してたくさんの知っている顔を見て「あぁ、私は本当に救われたのだ」と思うのではないでしょうか。

13章12節 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 【夜はふけて(2017:深まり)・προκόπτω】は、「鋭く切る、切り裂く」という動詞の変形で、闇を切り裂くようにしてすでに半分を越えた、だいぶ前に進んで行っているという意味合いがあります。そして昼間は近づいたと。昼間というのは日の出から日の入りまでの期間のことですが、イエス様の別名は何だったでしょう。「曙の光」、日の出、夜明けの光。イエス様も黙示録でご自身について「わたしは輝く明けの明星である」と言われました(黙2216)。すでにイエス様は来られた。夜の暗闇は明けつつあり、すでに昼へと進んでいます。そして花嫁である教会を迎えに、花婿イエス様はやがてまた来られるのです。その時、眠っていない者は幸いなのです。先ほどのマタイの福音書25章で花婿であるキリストを迎えるにふさわしい生活というものをイエス様ご自身が教えてくださっています。それは「目を覚まして、聖霊に満たされて」です。おもしろいことに【昼間】というのは「しらふでいる、酒に酔っていない」状態のことを言います。なぜなら「酔う者は、夜酔う」(Ⅰテサ57)からです。そしてパウロは別の所で「酒に酔ってはいけない、聖霊に満たされていなさい」(エペ518)と命じています。

 またⅠテサロニケ5章でパウロは「私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(中略)ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」(Ⅰテサ58-11)と命じています。そしてここでは「やみのわざをうち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」と命じています。パウロの考えは一貫しています。

 前回もこの光の武具について、エペソ人への手紙6章11節から見たところですが、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。真理の帯、正義の胸当て、足には平和の福音、手には信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣(短剣・正義を正すために用いられるもの)、すなわち神のことばを取りなさい。御霊によって祈りなさい。目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」。今の時、終末の時代におけるクリスチャンに求められる生き方です。

 やみのわざ。そしてパウロの勧めは次第に具体的になっていきます。

13章13節 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 「やみのわざ」として、いくつか上げられていますが、パウロがここで上げている幾つかのやみのわざは、当時のギリシヤ・ローマ世界の普通の姿でした。やみが進んで、やみのわざが当たり前のように行われ、まるで世の終わりを思わせるような現状。淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のもの。私たちの周囲を見渡してみてどうでしょうか。まるで変わりない、いや、さらに進んでいるのではないでしょうか。「夜は深まっている、だいぶ前に進み行っている」(ロマ1312)。不信仰と不道徳、無秩序(特に性的な)、自己中心の自由、そのような濃い闇の時代の中に私たちは生きているのではないでしょうか。当時のローマのクリスチャンたちも、そして今の私たちも常にそのような世界に囲まれて生きていた、生きているのです。それだけに悪の世界に引き込まれ、その世界に埋没してしまう危険も多かったし、多いのです。ですからパウロは手紙の読者たちに、「眠りからさめるべき時刻が、もう来ている。目を覚まして、聖霊に満たされて、私たちは昼の者なのだから、昼の者らしく闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけ、昼らしい、しらふで正しい生き方をしようではないか。互いに励まし合い、高め合ってと命じるのです。そして「正しい生き方」を、2017では「品位のある生き方」と訳し直されています。正しい生き方、それは品位ある生き方です。

 【品位・εὐσχημόνως】とは何でしょうか。言葉の意味として、「ふさわしい、似つかわしい、上品に」、また「服装が良く似合っている」というふうに用いられる語です。そこでパウロは結びます。

13章14節 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

 「主イエス・キリストを着なさい」。この「着る」という言葉は、もともとは古代ギリシヤ・古代ローマに盛んだった宗教において、神との神秘的結合を表す言葉であったと言われています。パウロはそれを、キリストとの霊的結合を表すことばとして使っています。

  • キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(ガラ3 27
  • ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(コロ3 12
  • 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。(コロ3 10

 私たちは信仰によってキリストを着ることによって救われたのです。キリストが私たちに代わって現在、過去、未来、すべての私たちの罪を負い十字架に架けられ死なれたことによって、私たちは救われ、そしてやがて完全に救われるのです。私たちは信仰によって主イエス・キリストを着ているのです。すっぽり覆われているのです。そして内なる人は新しくされ続けているのです。

 私たちは「汚れが伝染する」と言うと納得しやすいと思います。しかし、聖さというのも伝染します。「聖すぎて自分の手が汚れる」と言う感覚はないでしょうか。キリストの聖さが私たちに伝染した。そして私たちは救われた。キリストの霊が注がれたのですから、キリストの聖さが伝染するのは当然と言えば当然かもしれません。それで私たちは、それまで気づかなかった私たちの内にある罪を自覚するのかもしれません。そして私たちは主の約束通り、主の真実のゆえにやがて完全に救われます。

 正しい生き方、品位ある生き方。それはすべてイエス様の内に完全な形として見られるものです。そして私たちはそのイエス様を着るのです。着ているのです。その服を着つづけているなら、段々と自分に(あるいは自分が)似合ってくるのです。名は体を表す、看板に偽りなし、そのように変えられていくのです。信仰によって。信仰があるならば。今の時代にあって、信仰にとどまっているならば。イエス様の時代、イエス様の着物の房にでも触れば癒されると信じる群衆がイエス様に押し寄せました。もみくちゃにされて、大勢の人がイエス様に触れたのですが、癒されたのは長血を患っていた女性ただ一人でした。その女性にイエス様は言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」(マル534)。本物の信仰、目を覚ましている信仰は、私たちを変えて行き、新しくして行き、そして救います。

 今の時代、終末の危機感を感じさせる時代に生きている私たち。やみのわざはさらに進み、見渡すと不信仰、不正義、不道徳が当たり前のような中に生きている私たち。そのような中にあって、神のあわれみによって、恵みによって神のものとして取り分けられた私たちクリスチャン、教会は、どのように生きるべきだろうか。パウロは今日の箇所でそれを教えたのではないでしょうか。

 私たちは目を覚まし、隣人の生命と財産を脅かす肉の欲情、また心の欲情に心奪われ、大切な心のスペースを奪われることなく、キリストの愛をいっぱいに満たして、聖霊に満たされて、キリストを着て、日に日にキリストに似つかわしく、似合っている者とされてまいりましょう。素晴らしい神さまを、日の出、光であるイエス様を暗いこの時代、この世にあって証ししてまいりましょう。神さまと隣人とを偽りのない愛をもって愛し、心から大切に思い、大切にして、悪から離れ、善に親しむ生活を送ってまいりたいと思います。まず兄弟姉妹がひとつからだ、各器官となり、それぞれの違った賜物を活かし、愛し合い、励まし、慰め合い、お互いを高め合ってまいりましょう。信仰によって主に拠り頼む皆さんお一人お一人に、主の豊かな祝福がありますように。

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