2022年2月20日 主日礼拝「権威に従う」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  546番「せいなるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  84番「かみにたより」
聖 書  ローマ人への手紙13章1〜7節
説 教  「権威に従う」佐藤伝道師
讃美歌  420番「せかいのおさなる」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙13章1〜7節

説教題

「権威に従う」

今週の聖句

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

ローマ人への手紙13章1節

今週の祈り

絶えず祈りなさい。
(テサロニケ人への手紙第一5章17節)

いつくしみ深い全能の主よ、今日のこの一瞬もあなたと共に生き、あなただけがくださる力を受け取ることができるように助けてください。

説教「権威に従う」

ローマ人への手紙13章1〜7節

 先週の日曜日の「信教の自由を守る日」講演会の冒頭でこのように言われていたのが心に残っています。「国家と国民の関係が逆転してしまった。すなわち『国民のための国家』が『国家のための国民』に逆転したのです」というものです。○○のための。ためのというのは誰によって誰が益を得るのかということです。今は祈祷会では申命記を見ていますが、これから川を渡り約束の地へと入ろうとするイスラエルの民に向かって、モーセが神さまから授かった律法をもう一度語り直すところです。十戒をはじめとする律法は、ひたすらにイスラエルの民のためのものでした。偶像礼拝に満ちた地、敵が多く住む地、貪欲、淫ら、聖なる民とされ神のものとして取り分けられたイスラエルの民にとっては常に罪と隣り合わせの地での新しい生活。そこで聖なる神の民を罪から守り、聖なる民を通して聖なる神が証しされるものが律法、神のみことばだったのです。

 今朝与えられましたみことばは、ローマ人への手紙13章1節からですが、この箇所では特に先ほどのようなことを思わされます。誰のためで、誰が益を得るためのみことばなのか。

13章1a節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです

 今日の箇所は「教会の外で、悪ではなく善を行いなさい」と勧めている点では、前回の12章14〜21節からつながっています。クリスチャンは交わりにおいて、教会の外の人々にどのように振る舞うべきなのだろうかと、その指針が定められるときには、当然クリスチャンとこの世の権威、それぞれの住んでいる町、市、県、国、それらの従わなければならない権威との関係について語られなければなりません。私たちは権威の下に生きて、また生かされているからです。注意して心に留めておきたいのは、パウロがここで問うている権威とは、権力とは違うということです。権力は威嚇や武力によって強制的に同意・服従させるものです。私たちは権威と権力の違いを霊的に見極める必要があると思います。

 パウロの言うこの世の権威。ここではローマ帝国のことです。パウロがこの手紙を書いた当時、権威と権力を握っていたのはローマ帝国でした。ローマは地中海沿岸の全域を支配しており、ローマ皇帝がその頂点にいました。ローマ帝国においては皇帝個人に絶対的な権力があり、皇帝が気に入らない者を死刑にすることもできました。人々は皇帝の絶対的権威、支配の下にあったのです。威嚇や武力によって権力の剣を振り回していたのでした。パウロがこの手紙を書き送っている相手はローマの教会です。ローマの教会の人々にとって皇帝の意志はまさに自分たちの生死に関わることでした。そのような上に立つ権威、国家、皇帝の支配をどのように受けとめるべきであるかということは、信仰を持って生きている者にとって大きな問題です。信仰とは、神に従い、神のご支配の下で生きることですが、現実の生活においては皇帝に支配されており、それに従わなければ生きていない、そこに矛盾や葛藤が生じるのです。ただ、パウロがこの手紙を書いた時というのは、ローマ帝国内で皇帝を神として礼拝することがすでに行われていたとは言え、まだヨハネの黙示録にあるようなこの世の権力と信仰の厳しい対立には至っていませんでした。そのため権力への反抗が強く否定されているのです。こうした事情を無視してこの箇所を鵜呑みにするのはとても危険です。

 また、パウロが政治的な権力についてこれほど正面切って取り上げるのは珍しいことなのです。なのにどうしてだろうと考えてみると、もしかしたらローマの教会が帝国の首都の教会であるという事情によるのか、それとも地上の権威の問題などには全く無関心な教会を戒めるためなのか。あるいは権力者による迫害が実際に行われていたためなのか。理由は分かりませんが、おそらく複合的なものであったのでしょう。さらにもう一つ。パウロがここで直接取り上げているのは、ローマ帝国全体と教会の関係というような大きなものではなく、むしろ、個々のクリスチャンや個々の教会が日常的に関わる地方の役所、役人との関係のようなものです。ごく日常的な問題を扱っているのです。

 パウロは権威に従うことを勧めます。権威に従う。私たちはそれを聞いて「えー?」と反発を感じたり、「それでは信仰的ではない」と眉をひそめるかもしれません。なぜパウロはそれを命じたのでしょうか。その理由は、

13章1節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 パウロは「従うべきです」と言いました。その言葉に込められていることは、下位の者が上位の者に従うという意味で、従うかどうかを人間の自由意志で決めるという意味ではないという、そんな強い意味を持つ動詞が使われています。そして権威が神の立てた秩序であること。権威というのは神によって立てられた秩序(社会を御心にかなった状態に保つためのもの)なのであるから、信仰者には神に対する服従という姿勢が求められるのだと言っています。また「神によって立てられた」という言い方がされていますが、それは神がある人をある権威ある役目に就かせるということです。つまり彼ら権威者は、神の権威を神に代わって執行する者であるということです。

 神の権威とは何でしょう。神の御心にふさわしく、正義を正しく執行しようとする権威です。しかしパウロは、すべての権威を持つ者が神を信じ、神に依り頼み、神の正義を正しく執行しているなどとは言っていません。私たちに権威を振るう人たちもそうでしょう。けれどもパウロは大胆にも、神によらない権威はないと言い、すべての権威を定める方が神であると断言するのです。

 神はすべての創造主であり、世のすべてを今も統べ治め、支配され、支え配慮してくださり、ご自身の計画のとおりに導いておられるお方です。イエス様は2羽の雀が1アサリオンで売られていることも神の許しなしには起こらないと言って、そのことを教えられました(マタ1029)。旧約聖書でも、神がバビロンの王ネブカデレザルを「わたしのしもべ」と呼び(エレ259)、ペルシャの王クロスのことも「わたしの牧者」と呼んで、クロス王が神の望むことをすべて成し遂げると語られました(イザ4428)。ネブカデレザルもクロスも神を信じていませんでしたが、神がご自身のみこころを彼らを通してなされたのです。聖書は箴言でこのよう言っています。「わたし(神)によって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ」(箴言815-16)。神は、神の正義の実現のために権威者を立てられるのです。彼らの信仰の有無や自覚があるかどうかは関係なく、全知全能なる神が彼らを用いられるのです。

 しかしやはり、すべての権威を持つ者が神を信じ、神に依り頼み、神の正義を正しく執行しているとは言えないのです。このような権威が立てられているこの世は罪の世であり、権力者もまた罪の奴隷だからです。神の正しい正義、神の麗しい支配、支えと配慮。罪の世ではそれらは罪によって歪められてしまうのです。悪魔サタンが巧みに利用するところです。そこで神の正義の代行機関、権威者が神の意図に従わない時、権威、政治的権力は恐ろしい悪しき権力と化けてしまうのです。私たちは、そのようなことが起こらないように立てられている見張り人でもあるのではないでしょうか。ですから、パウロはただ盲目的に権威に従えと言っているのではないということは明らかでしょう。

 神は世の権威者を立てて統治させられる。それは「政府」と言って良いでしょうか。政府というのは、立法(法律、政令、命令、規則、条例の制定)、司法(裁判など法を適用する)、行政(政治を行う)の、国を秩序正しく統治する機関を言います。聖書的にこの世の政府を見るならば、神はこの世の政府を用いて、神の愛と義によって人々の(特に弱い立場の人々の)生命と財産を守ろうとされます。不完全ではあっても政府や守るべき法すらないのでは、もっと犯罪が蔓延し、事故が頻発するでしょう。無政府状態になった国や地域で暴動や暴力が暴走してしまうことからもそれが分かると思います。神は神の愛と義の実現のために権威者(当時であるならローマ帝国あるいはローマ皇帝。現在であれば政府でしょうか。中央政府、地方政府など)を立てられるのです。彼らの信仰の有無や自覚のあるなしは関係なく、神が彼らを用いられるのです。

13章2節 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

 私たちは神のみことばである聖書に従うべきことは知っています。同じように、神によって権威を与えられた者が神の愛と義に逆らって人々を、弱い立場の人々を守るという義務を逸脱しない限り(重要な点)、神の定めた世の権威者にも従う必要があります。これに逆らうことは、すなわち神の命令に逆らうのと同じです。権威にも神にも抵抗するなら、この世では当然その権威による制裁を受け、後には神のさばきを受けることになる。聖書はそう言うのですが、果たして私たちにはこの世の権威に対して、そのような自覚や信仰があったでしょうか。

 先ほども申しましたが、罪のこの世に立てられている権威、権威者もまた罪の奴隷であることを忘れてはならないでしょう。このところのわずか2節を抜き出して、これまでの歴史の中で数々の独裁政府によって愛用されてきました。彼らはこのたった2節だけを都合良く全面に押し出し、このみことばのとおりに自分たちは神によって立てられた権威であるため、自分たちに従わなければならないと主張したのです。著者であるパウロがこの段落全体で語ろうとしていることの意図は全くそうではありません。パウロは、本来の神が立てられた権威について、また従うべき権威について、続く3〜5節で明らかにしていきます。信仰者は神が立てられたこの世の権威に対して、その権威が神の御心から逸脱していないかに気をつけていかなければなりません。

13章3節 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 良い行いをするなら、政府を恐れる必要がありませんが、悪を行う人々は恐れなければなりません。警察を思い浮かべると分かり易いのではないでしょうか。警察は人々の生命と財産を守るために存在しています。例えばシートベルトをいつもしていて、交通ルールをいつも守っていれば、不意に目の前に表れる警察官の姿に驚くことはないでしょう。自分の中にやましいことが何もなければ、街中で警察官とすれ違っても何とも思わないけれども、何かやましい考えがあったりすると、もうドキドキでしょう。

 神がこの世に立てられた権威というものは本来、善を奨励し、悪には懲罰を与えるのです。「悪を憎み、善から離れないようにしなさい」(ロマ129)との神のみおしえと完全に一致しています。このような政府であれば、それは神が立てた政府なので従うべきだと。その政府のすることが、神の御心にかなっているということです。そしてパウロはこのような政府を「神のしもべ」と呼びます。神が用いられる神のしもべだと言います。

13章4a節 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。

 悪を憎み、善から離れないようにしなさい。善を奨励し、悪には懲罰を与える。善を行えばきちんと称賛され報いが与えられる。悪い行いの重い軽いによってきちんと罰金刑や懲役刑などを下して罰する。こうして人々は悪を憎み、悪から離れ、善には親しみ善からはなれないようになる。そのような政府、国家を「あなたに益を与えるための、神のしもべ」と呼び、神の御心にかなっている、本来の神が立てられた権威、また従うべき権威だと教えます。

13章4b節 彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

 「彼は無意味に剣を帯びてはいない」。この【剣・μάχαιρα】は比較的短い短刀で、ローマが腰に付けていた武器のことを言います。世の秩序を守るために使ったもので、戦いで使う両刃の長い剣ではありません。憎しみや妬みとか、争いによって人を殺すためのものではなく、正義のために、悪を正すために、正しい人弱い人を守るために使われたものでした。「彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報いる」。ここでもパウロはこのような正しく正義のために権威を行使する者を「神のしもべ」と呼び、それが神のみこころにかなっていると教えます。

13章5節 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

 私たちはこの権威に対して、どのように従うべきか。従うべき一つ目の理由として「怒りのため」。従わないために下される罰を受けないために。主のいのちによって贖われた大切な私たちの命自体を失ってしまうことのないように。しかしパウロは同時に、クリスチャンが政治的権威者に対して取る態度や行為は、ただ彼らの怒りが恐ろしいからと言う理由でなされるべきではないことをも教えています。そこで従うべき二つ目の理由として「良心のため」。「良心のためにも」とあるように、クリスチャンは政治など信仰とは関係ないことのように遠く距離を置いてしまったり、あるいは盲目的に服従するのではなく、自分たちに要求されている服従について十分にそれは正しいことなのか、神の御心にかなった権威で、私が従うべき権威なのかを十分に考え、判断して、その上で服従すべきであると言われています。ですから服従すべきでない権威であるなら服従しないということもあり得るでしょう。そのどちらであっても、神の御名を証しするものかどうか、神の御名を汚さないかどうか。クリスチャンとして正しいのか正しくないのか。その判断材料となるものは何でしょうか。それは私たち信仰者の良心を守るための武具です。

【エペソ人への手紙】
6章10節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6章11節 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
6章12節 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6章13節 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6章14節 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、棟には正義の胸当てを着け、
6章15節 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6章16節 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6章17節 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣【剣・μάχαιρα(世の秩序を守るために使うもので、戦いで使う両刃の長い剣ではない。憎しみや妬みによって人を殺すためのものではなく、正義のために、悪を正すために使われるもの】である、神のことばを受け取りなさい。

 私たちは良心のために従うべき権威があり、同時に私たちには良心によって戦うべき権威があります。御霊の与える剣をもって正すべきこの世の間違った権威。それはもちろん私たち自身を守るためでもありますが、私たちの周りにいる世の隣人、特に弱い人々を守るためにでもあるのではないでしょうか。私たちさえ良ければではないのです。私たちだけ「悪を憎み、善から離れないように」気をつけるのではなく、私たちだけ命と財産が守られれば良いというのでもないのです。隣人の命と財産をも守られるようにしなければなりません。私たちはすべての人々に注がれる神の愛、すべての人々の命を大切にされる神のあわれみを知らされている者だからです。

13章6節 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
13章7節 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 「同じ理由で」とは、悪を憎み、善を勧めること。またすべての人々、特に弱い人の命と財産を守るためにという理由でしょうか。同じ理由で、「あなたがたは、みつぎを納めるのです」と命じられています。パウロは政府、神が立てられた秩序である権威に従う具体的な例として、税金を納めることを取り上げるのです。

 「彼らはいつもその務めに励んでいる神のしもべ」。面白いことに、ここでの【しもべ】は、他の所のしもべとは別の単語が使われていて、2017では「公僕」と訳されています。英語では「public servant」公のしもべです。まるで公務員のようです。公務員の方々はいつもその務め、悪を憎み善を勧めるために、またすべての人々、特に弱い人の命と財産を守るために励んでいる神のしもべなのです。そのことを覚え、もっと尊敬したいと思います。神のみこころが彼らの働きを通して実現されるので、それを行うのに必要な財源を調達するために、国民として税金を納付しなければなりません。もし税金が集められなければ、その政策を実行して国民を顧み、命と財産を守ったり、悪を取り締まることは難しくなり、悪が横行するようになることになってしまうでしょう。国民のための政府、国民のための税金。これが逆転していると感じる時に、私たちは眉をひそめるのでしょう。その時、私たちはやはり正しくしっかりと声を上げるべきだと思います。私たちが国家とか国家権力に服従するのは、恐れのゆえではなく、神のみこころに従うがゆえであることを覚えたいと思います。神を恐れ、その恐れをもって権威を恐れたいと思います。時に私たちの心が私たちを責めることもあります。そのような時も主は「恐れるな」と言われるでしょう。私たちは神を信じ信頼し、善を選び取ってまいりましょう。しっかりと義務を果たし、みつぎを納め、税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬ってまいりましょう。すべての権威は神によって立てられたものだからです。神の御心によって、神の御心のために立てられたものだからです。私たちの命と財産を守るために立てられたものだからです。私たちが世の権威に服従するのは、そこにもインマヌエルの神がおられることを認めるからです。

 ところで、教会史を見ると、ローマの教会の聖徒たちが迫害を受けながらもローマ政府に税金を納めていたことがうかがえます。彼らはただ恐れからではなく、良心のためにも従っていたのではないだろうかと考えさせられます。まさに霊肉ともにギリギリの所での命がけの信仰だったのではないでしょうか。直前の2章14節からのみことばを、それこそ信仰によって命がけで貫いたのではないでしょうか。お金とか税金は、どこか私たち(私)の心を強烈に責めるものでもあります。そう考えると、私の信仰とか神への従順は本当に生ぬるいと思わされます。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」とのイエス様の御声を聞きます。

 私たちはこの地上に生きていく限り、権威や人間関係とまるで無関係に生きていくことなどできません。聖書は言います。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え」(詩373)と。イエス様は言われます。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタ2540)と。ペテロを通しても命じています。

【ペテロの手紙第一】
2章13節 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
2章14節 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
2章15節 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
2章16節 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

2章17節 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。

 私たちはこの世の正しい権威の中に神の権威を認め、恐れ尊び、積極的に国家の法を守り、そして未信者に模範を示したいと思います。権威に逆らって、神の御名を汚してはならないのです。権威に逆らって、自分と隣人の命を危険にさらしてはならないのです。神を愛し、隣人を愛し、この世の権威を恐れ、良心のためにも従ってまいりましょう。また、この世の権威の見張り人として、「悪を憎み、善から離れないように」するための権威であるかどうか。「善を勧め、悪から離れさせる」権威であるるかどうか。そのようにして、人の生命と財産を守る権威であるかどうか。それらを霊的に正しく見極める責任、正していく責任もしっかりと果たしてまいりたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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