2022年4月10日 主日礼拝「十字架の上から語られる確かな約束」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  62番「主イエスのみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  134番「いざいざきたりて」
聖 書  ルカの福音書23章32〜43節
説 教  「十字架の上から語られる確かな約束」佐藤伝道師
讃美歌  121番「まぶねのなかに」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ルカの福音書23章32〜43節

説教題

「十字架の上から語られる確かな約束」

今週の聖句

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ルカの福音書23章43節

今週の祈り

見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。
(マタイ21:5)

イエスよ、あなたの強さと謙虚さを明らかにするためにエルサレムに入られたことを感謝します。私の心をあなたの平安で満たしてください。

説教「十字架の上から語られる確かな約束」

ルカの福音書23章32〜43節

 イエス・キリストの父、主なる神さま、あなたの尊い御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間、様々なことがありながらも、私たち一人ひとりを愛し抜いてくださり、守り導いてくださいましたこと、そして今朝もこうして、あなたの御前に呼び集められているその恵みを心から感謝致します。今日、献げられる礼拝をあなたが祝福してください。私たちの罪を赦し、聖めてくださり、今朝も私たちを生かし、私たちが生きるべき道を示すあなたのみことばを祝福してお与えください。あなたが語られるみことばを霊をもって聖め、強めてください。また一人ひとりが同じように霊をもってそのみことばを受けとめ、賛美と喜びをもってあなたの愛に応え、感謝、賛美、悔い改め、献身の実を結ぶことができますように。争い、悲しみや苦しみに満ちた今の世ですが、何が真実であるのかを見ることのできる目をお与えください。そして私たちを、隣人のためにとりなす者としてください。病や痛みの中にある方、思い煩いの中にある方、重荷を負っておられる方、どうぞあなたが慰め、励まし、癒やしてください。身にも霊にも平安を与えてくださり、ひたすらにあなたのみことばに耳を傾けることができますように。難しいところはどうぞあなたによって理解できるようにお守りください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 私たちは3月2日からレント・受難節を過ごしてまいりました。今日で40日目になるのでしょうか。「受難節をふさわしく過ごせた」と言うことができる方はおられるでしょうか。おられるでしょう。その方を私は本当に尊敬します。私自身、正直を申しますとまるで出来ていなかった自分がおります。日々自分のやるべきことに追われて忙しく過ごして、それが神さまへの奉仕であったとしても、本当にそうだったのだろうか、受難節を過ごす中で、神さまが本当に喜ばれることだったのだろうかと思わされています。

 今日は「棕櫚の日曜日」です。今日から受難週を迎えるにあたり、本朝はルカの福音書からみことばを賜りたいと思います。今日の箇所には、いわゆる「十字架の七言」と呼ばれる、イエス様が十字架の上で発せられた7つの言葉のうち、伝統的な解釈によると一番最初と二番目に発せられたお言葉が記されています。死に際に、しかも想像を絶する肉体的、また精神的な痛みと苦しみ、悲しみ、人間的に考えるなら人々に裏切られ排除された悔しさとか、そのような中でなおも、最後まで罪人、人間を愛し抜き、とりなすお言葉が最初に出て来る。ただの人間に出来ることでしょうか。出来るのでは?と少しでも思われるなら、人間を買いかぶりすぎ、高慢と言わざるを得ないでしょう。人が自分の死を受け入れるまでの精神的なプロセスの中で、最初に起こってくる感情は、どんなに立派な人であっても「私が死ぬはずがない」という思いと、「なぜ死ななければならないのか」という怒り、それは周囲に向けられる怒りだそうです。一連のプロセスの最後に、自分の死を受け入れることができるのだそうです。ですから、イエス様の生き様、そしてイエス様が十字架に架けられて最初と二番目に発せられたお言葉を聞くならば、「まことにこの方は、正しい方」と告白せざるを得なくなるでしょう。人間の男によらず、処女マリヤの胎に聖霊(神の霊)によって宿り、家畜小屋にお生まれになり、人を真実に愛し、憐れみ、泣く人と一緒に泣いて、喜ぶ人と一緒に喜んで、貧しい人、弱い人、虐げられている人を慰め、励まし、人を癒やし、そして救われた。その生き方が死に至るまで一貫して変わることがなかった。まことに正しい方。神の子であった。神の子であるイエス様は、父である神の人間に対する真実な愛、憐れみ、本当のお心を真にご存じであるお方で、それを人間にはっきり示すために来られた方。神のお心がそのまま人となって来られた方。私たちが信じる真の神なのです。

 さて、エルサレムには律法の定めを守るため、過越の祭りを祝う大勢の人たちがいました。旅人、巡礼者をもてなすことが徳であるとされていた当時の人々でしたから、宿屋ばかりではなく、一般の家もどこも満員で、空き地があろうものなら、そこにテントが張られるほどだったそうです。そのような中、イエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入られました。群衆は皆注目し、自分たちを苦難から救ってくれる救い主、王として、大喜びで、叫ぶほどに喜んでイエス様を迎えました。その後わずか数日後、皆が注目していたイエス様は、ふたりの犯罪人とともに死刑にされるために「どくろ」と呼ばれていた所まで引かれて行きました。それはわざわざ過越の祭りの期間に、何かイベントのようにして行われました。映画などでは十字架を自ら担いで群衆の間を死刑に処される場所まで進まれる情景が描かれていますが、そうだったのでしょう。泣き女と呼ばれる人たちが十字架を担がれるイエス様のすぐ後について、さらに人々の好奇心を煽り立てるように、さらに注目を集めるようにして大声で泣きました。そして処刑場まで来ると、イエス様はふたりの犯罪人とともに十字架につけられました。イエス様が真ん中でした。

 そのような中で、ルカの福音書の記者ルカは、イエス様が十字架に架けられて一番最初に発せられたお言葉を記録しています。

23章34節 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 ごった返していた人たち。多くの人たちがイエス様に注目していましたが、その中でどれだけの人がこのイエス様のお言葉を聞いたのでしょうか。その意味を理解できたのでしょうか。わざわざ過越の祭りが行われる中で行われた。世界中から人々がエルサレムに呼び集められ、注目の中でイエス様が十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と声を発せられた。祈られました。イエス様は目立つ所で人に見せつけるように祈ってはいけないと教えられました。奥まった部屋で祈りなさい、そうすれば神が報いてくださると(マタ66)。しかしイエス様は思いっきり目立つ形で祈られました。それは神さまが世界中の人々を呼び集めて、世界中の人々に本当に聞かせたかった声だったのではないでしょうか。それが神さまの思し召し、神さまの本当のお心だったのではないでしょうか。かつてイエス様は丘の上から群衆に語られたことがありました。マイクもない所で、何千人という群衆に向かって語られたことがありました。この時も、丘の上に立てられた十字架の上から声を発せられたのです。何千人という群衆にその声は届いたことでしょう。しかし、神さまがお選びになり、神さまがそこに招いてくださって、御声を聞かせたいと願ってくださったその声を、本当の意味で聞くことができた人はどれ位いたのでしょうか。イエス様の弟子たちなどは、その時は逃げ去ってしまっており、この時のイエス様の声を聞くことさえできなかったのです。ルカだけが独自の関係者への取材によって集めた証言によってこの第一声を記しており、弟子が記録した他の福音書には記されていないのです。

 十字架の上から声を発せられたイエス様の足元からわずか1メートルにも満たない地上では、ローマ兵がイエス様には目もくれず、くじを引いてイエス様の着物を分けていました。それは死刑に奉仕した者に認められていた報酬でした。民衆はそばに立ってただ眺めていました。この時、イエス様の声に心を動かされた人が実際いたのかいなかったのかは分かりません。しかし同じルカが後に記した使徒の働きでは、この中から何千人という人たちがイエス・キリストを信じて救われていきました。この時のイエス様のお言葉に思い巡らし、やがてそのお言葉が自分への語りかけであることを示され、信仰が与えられて救われたのでしょう。自ら自分の罪と、罪が原因の悲惨さを知り、弱さを認めて、神に救いを求める者でなければ、イエス様のお言葉は他人事なのです。鼓膜が震えるだけで心に響いてこないのです。自らの罪、弱さを認める者、そのような者にこそイエス様のお言葉が響いて来るのです。これまでこのお言葉でどれだけ多くの人々が救われたことでしょう。

 近くで聞いていたはずの宗教的指導者たちはあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」。兵士たちもイエス様をあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言いました。「これはユダヤ人の王」と書かれた札がイエス様の頭上に掲げてあったので、兵士たちは王さまにぶどう酒を差し出す行為を真似て、イエス様を馬鹿にした行為です。ほとんどの人たちがイエス様の声を聞いていたはずです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。けれども、それが自分たちに深く関係する、自分たちのためのとりなしの祈りであることに気づく人はいませんでした。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」。ここでの「救い」はレスキュー・救助するという意味です。イエス様はまさに他人を救ったお方です。レスキューされました。病気や貧困などで苦しんでいる人を助け救い出されました。心の貧しい人、悲しんで泣いている人たちをレスキューされました。皆それを知り認めていました。しかし、イエス様の十字架のそばに居合わせたほとんどの人が、自分にはイエス様による救い、レスキューなど必要ないと考えていました。私は正しい人間だ。私たちにはあなたの助け、救いなど必要ない。罪に定められて十字架に架けられている自分を救えば良いと。

 一番近くにいるはずの私が、その恵みに気づけず、その恵みを忘れ、自分のために祈られているイエス様のとりなしの祈りを他人事のように聞いてしまっていることはないでしょうか。聞くことさえできなくなってはいないでしょうか。福音書は、自分の身の危険を感じてイエス様を裏切り、逃げ去ってしまった弱い弟子の姿を私たちに示します。聖書は正しい人はいないと言います。私たちはこの世の権威ある者に説得され、影響されて、救い主とお迎えした方をすぐに「十字架につけろ!」と叫んでしまう、群衆の一人かもしれません。イエス様とバラバ・イエスを並べて、より自分を力強く救い出してくれるのはバラバ・イエスであると、目がくらんで間違った選択をしてしまう者かもしれません。主はご自分を直接的に十字架に架けるような人であっても、自分を富ませる報酬にばかり目を注ぎ、イエス様には目もくれずに忙しくしている人であっても、ご自分を馬鹿にして嘲る人、遠巻きに見ている人であっても、そのすぐそばにおられ、御声を発し続けておられます。イエス様は今日、棕櫚の日曜日、エルサレムに入られる前に、弟子たちにこのようなことを教えておられました。「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」と教えられました(ルカ181)。また、自分を正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに対しては厳しく戒められました(ルカ189)。すべての人は弱く、そして罪人であること。けれども決して失望することはない。いつでも祈り、赦しと救いを失望せずに祈り続けることを、イエス様はご受難を前に私たちに教えてくださっていました。そのイエス様が十字架に架けられ、その第一声「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。今、このイエス様の執り成しの祈りを、他でもないこの私のための執り成しの祈りであることを、しっかりと聞き取りたいと思います。しっかりと聞き取り、その声を心から信じる者に与えられる幸いな約束が、この後39節から、もう一人、イエス様の執り成しの祈りを最も近くで聞いていた、イエス様とともに十字架に架けられた犯罪人の回心の出来事を通して語られます。

 他の福音書の記録では、はじめイエス様の左右に十字架につけられた犯罪人は、一緒になってイエス様をあざけり、ののしっていたことが記されています。ところが、どの時点からなのか全く分からないのですが、一人の犯罪人が劇的な回心をしたのです。正に十字架の痛みと苦しみのまっただ中、死に行くただ中、死の間際、そこからは恐らく怒りとか、これまでの人生の後悔の念も湧いてきたことでしょう。そのただ中で、犯罪人、罪人の回心は起こりました。

 ある有名な神学者がこう言っていたのが思い出されます。「柔らかでくつろげる長いすで回心が起こることはめったにない」と。一人の犯罪人は、十字架の厳しい苦しみの中で回心しました。彼の心が本当に神に向いた、向き直ったのです。犯罪人とありますが、他の福音書では彼らは「強盗」「盗人」であったと記されています。なぜ彼らは盗人になったのでしょうか。自分から望んで盗人になる人はいないと思います。なってしまったと言った方が良いでしょう。ほとんどの場合、人には分からない、複雑な事情、生まれの境遇とか、社会の中で置かれた立場や、追い込まれてしまった状況であったり、どうしようもない中で、気づいてみたら自分が望んでいない、こんなことになってしまっていた。自分ではどうしようもない状況になってしまっていた。やりきれない思い、行き場のない怒り、後悔してもやり直せない。そのような時、人はどうなるでしょう。皆さんもあらゆる場面で経験されていることと思いますが、そのような時、やはり神さまに目が向くのではないでしょうか。良い形であれ、悪い形であれ、その人の思いは天に向かうのではないでしょうか。「どうして、神さま、こんなことに」。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。その時、イエス様の声が聞こえます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。とりなしの祈りの声が聞こえます。すぐ隣から聞こえます。すぐ隣で、同じ十字架の痛み、苦しみを味わわれているお方の口から聞こえるのです。鼓膜が震えるだけではない、心が震える真実の声が聞こえるのです。

 一人の盗人はこの声とイエス様の御姿から、何かを感じ取ったのでしょう。

23章39節 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23章40節 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23章41節 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23章42節 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 ここで神さまが、イエス様を通して私たちに教えておられることは、どんな時にも失望せずに祈れということでしょう。誰だって、私も皆さんもこの盗人と同じ。罪を犯し、その結果を刈り取り、苦しんで、「どうして、神さま」と祈る者。けれども、最後まで諦めずに、赦しと救いをわたしに祈り求めなさいということでしょう。赦しと救いを祈り求め、心を神さまに向け直す者に、神さまは十字架の上のイエス・キリストを通して、確かな約束をしてくださるのです。

 盗人のイエス様に対する理解、また救いに関する理解が十分であったかというと、恐らくそうではなかったと思います。それは当然でしょう。しかし、真っ暗な暗やみの中でパッと光が輝く時があるのです。暗やみの中でしか見えない光があるのです。希望があるのです。そこでしか聞こえてこない声があるのです。朝ドラをご覧になっていたでしょうか。先週最終回を迎えましたが、その中でモモケンの名言がありました。「暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬうたがある」。日本中の人が暗やみでしか見えないもの、聞こえない声を求めていただきたい。聞いていただきたい。本当にそう願います。

 盗人には「御国」の希望がありました。御国に対する理解もまた欠けがあったかもしれません。しかし盗人は御国を求めたのです。希望を求めたのです。自分にとってこの死がすべての終わりではないこと。死の向こうには神の御国があることに、この盗人はこの苦しみの時、少なくとも気づいていました。これも神の恵みのみわざでしょう。「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝311)。神さまはすべての人の心に永遠を与えておられる。人は皆、この神さまの造られたまことに霊的な存在なのです。だから本当に苦しい時、悲しい時、後悔する時、天の御国に希望を抱くのです。それは世界中の宗教に死後における場所を定めていることからも分かります。

 私の父は、死の間際にイエス様を信じて天に召されて行きました。父の心にどの時点で、どのように心が変えられたのかは分かりませんが、死の間際ではありましたが、イエス様を信じ、天の御国に希望を抱いて召されました。本当に神さまの憐れみだと思います。父の人生は苦労の絶えない人生でした。その最後に、暗やみと思われる状況の中でイエス様の声を聞いたのだと思います。十字架に架けられてからの最初のお言葉、自分の心の奥深くにある本当の祈りを、代わりに祈ってくださったその祈り、とりなしの祈り、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。そして二番目に発せられたこの声も聞いたのだと思います。

23章43節 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 イエス様は盗人に言いました。「まことに、あなたに告げます」。「まことに、これからわたしがあなたに告げることは、真実である」、イエス様はそうはっきりと宣言されてから、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。真実を言われた、確かな約束、成就された約束を語られたのです。

 イエス様のその確かな約束は、「あなたの願いのとおりにしてあげよう」というものではありませんでした。また、やがて来る終わりの日にではなく、「きょう」この日。思い出すと言った程度ではなく「わたしといっしょにいる」という確かな約束でした。しかも今いる「地上」ではなく「パラダイス(天国)」にいます」と告げられたのです。

 この「パラダイス」とは、元々は古いペルシア語で「園」「庭園」を意味する言葉でした。旧約聖書では「神の庭」とか「神の園」として使われています。そして何よりも重要なのは、エデンの園を意味するのに使われていることです。そこは神さまの完全なご支配の世界です。神さまの完全な愛の支えと配慮の世界です。争いもなく、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界。神さまが、地上では多くの涙を流した者の目から、涙をすっかりぬぐい取ってくださる所。労苦に報い、労い、慰めてくださる所。イエス様は盗人に、ほんの直ぐ先の未来にこのような至福が待っていることを保証されたのです。たとえ死の間際であっても、自分の罪、弱さを認め、聞こえてくるイエス様のお言葉を聞き、心震わせて、そしてイエス・キリストを信じる者にこのような至福を確かに約束してくださる。神さまはまことに愛と憐れみに満ちておられるお方です。私たちが教えられること、信じるに足ることは、主イエス・キリストを信じる者は、まさに信じたその日から、その瞬間から、たましいにおいてキリストと一緒であり、天に名が記され、国籍を天に持つ者とされること(ピリ320)。そしてやがて肉体の死と共に、その肉体から分離した信仰者のたましいは、その瞬間からただちに主イエス・キリストと共にパラダイス(地上ではなく天の国)にいることが約束されていることです。

 きょう、私たちは聞きましょう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」というイエス様の声を。世の慌ただしさ、私たちを惑わす声にかき消されることなく、イエス様の声を霊をもって聞きましょう。他の誰かに語られている声ではなく、この私に語られている声を聞きましょう。しかも、「どうして、神さま」と思わず叫んでしまうような私たちと同じ所に立って、同じ苦しみ、悲しみを本当にご存じの上で執り成してくださっているイエス様の声を聞きましょう。心を震わせましょう。聖歌にもあります。「君もそこにいたのか。君も聞いていたのか。ああ、何だか心が震える、震える、震える」(聖歌400番)。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)今、聖霊と御言葉に導かれ、父なる神さまの御前にまごころから近づき、へりくだって罪を悲しみ、心とくちびるをもって罪を告白しましょう。それぞれの心に示された罪を、主の御前に告白しましょう。そこから神さまの赦しのことばを聞くのです。暗やみの中でしか聞こえない声を聞くのです。「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」(Ⅱペテロ2:24)

 そこからまた、赦しと救いを心から請い求める者に与えられる確かな約束の声を聞きましょう。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。この確かな約束を心から信じて、私たちは「わたしを信じ、さぁ、ここから平和のうちに行きなさい」と言われる復活の主の御声に従って歩み出しましょう。

 次週はイエス様の復活を記念するイースターを迎えます。イエス様は死からよみがえられました。今も、何度も御声を私たちに聞かせて下さるために、また常に私たちの弱さをとりなしてくださるために、イエス様は復活されました。復活の主を覚え、その恵みに与る者として、この週を過ごしてまいりましょう。

 お祈りを致します。
 イエス・キリストの父、主なる神さま、あなたの御名が聖なるものとされますように。みことばを感謝いたします。十字架の上から語られた主のみことばを聞きました。人は誰でも、イエス様のとりなしの祈り、罪の赦し、解決を本当に必要としています。どうぞ世界中のすべての人が、罪の悲惨さ、暗闇の中にいるすべての人が、争いや、貧困、悲しみ、苦しみ、怒りの中にいるすべての人が、その祈りの声を聞くことができますように。その祈りが、私たちがたとえ今、どんな者であっても、不真実な私であっても決して変わることのない愛と憐れみに満ちておられる真実なあなたのお心であることを覚えさせてください。また、十字架の上で語られたイエス・キリストを信じる者に与えられる真実な約束をも覚えてありがとうございます。今週、私たちは受難週を過ごしますが、主の御声を覚えつつ、感謝とともにふさわしく過ごすことができますようにお守りください。世を、また自分を諦めずに、失望せずに、あなたを求めて祈ることができますように。その祈りを、主は真に聞いてくださることを信じます。報いてくださることを信じます。私たちの信仰を増してください。まことの神、救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

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