2022年4月17日 主日(イースター)礼拝「復活の主の赦しに触れて」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  146番「たたかいおわりて」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  148番「すくいのぬしは」
聖 書  マタイの福音書28章16〜20節
説 教  「復活の主の赦しに触れて」佐藤伝道師
讃美歌  152番「よみのちからは」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書28章16〜20節

説教題

「復活の主の赦しに触れて」

今週の聖句

そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

マタイの福音書28章17節

今週の祈り

今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント15:20)

神よ、イエスの復活が、私の今も未来をも変えてくれることを具体的に分かるように助けてください。

説教「復活の主の赦しに触れて」

マタイの福音書28章16〜20節

 復活の主イエス・キリストの父、主なる神さま、御名を崇め賛美いたします。本朝、私たちをこの礼拝に招いてくださり、その招きに応える者としてくださいましたことを覚えて感謝いたします。本朝はまた、イエス・キリストの復活を覚えるイースター記念礼拝です。私たち一人ひとりの罪のために十字架に架かり死んでくださった。そして私たち一人ひとりのためによみがえってくださった。本当にありがとうございます。今、自らの罪を御前に告白します。また自分のうちに握りしめて手放せないでいる罪があるかどうかを見させてください。私たちのすべての罪を赦し聖めてくださり、私たち一人ひとりを聖い生きた供え物としてくださいますように。私たちのこの礼拝を、あなたが喜び、受け入れてくださる礼拝となりますよう、礼拝の終わりまで守り導いてください。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」(ヨハ1516)。主よ、感謝いたします。会堂での礼拝が終わり、それぞれの日々の礼拝へ、生活へと出てまいります。遣わされてまいります。今朝もそれぞれの所で私たちを生かすみことば、私たちが生きるべきみことばを、どうぞ祝福してお与えくださいますように。そしてみことばに生き、生かされる者としてくださいますようにお願いを致します。様々な都合で集えない兄弟姉妹もおりますから憐れんでください。幸いにして集えました私たちの中にも、病む者、痛みを覚える者、悲しむ者、苦しむ者がおりますから、どうぞそのような中でもみことばに聞くことができるよう、主の愛なる御霊、聖霊で満たし、力を与えてくださいますように。語るこの者の上にも主が臨んでくださり、この奉仕をあなたの全能なる御力で聖めてお用いくださいますようにお願いを致します。全世界の礼拝、特に激しい悲惨な戦いの中にある人々、争いの中にある教会、迫害や貧困、困難な中にある教会、そこに集う一人びとり、その隣人をどうぞお守りください。それぞれのところに必要な平和、慰め、励まし、良き解決、すべて必要をご存じである主が与えてくださるそれらを、皆がへりくだって受け取ることができますように。救い主、キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 イースター、おめでとうございます。ご承知のとおり、主イエス・キリストが十字架にかけられ処刑された日から3日目に復活したことを記念して祝い、追憶する(過去を思い起こす)日が今日、イースターです。そして私たちは今朝、イースターを覚えて互いに「おめでとう。喜びましょう」と挨拶を交わしました。実はこの挨拶。今朝の箇所で、復活の朝、イースターの朝に墓からよみがえられたイエス様が仰っている挨拶なのです。

 ところで、皆さんは「あの時に戻れたら」と思うことはあるでしょうか。先日ある先生のSNSの投稿でこのようなものがありました。「ポンテオ・ピラトは、過去に戻れるとしたら、イエス様の十字架刑を決めたあの場面に戻るに違いないだろう。イエス様の無実を知りながら、群衆の暴動を恐れて十字架刑を決めてしまった。自分には血の責任はないと宣言したはずが、使徒信条を通じて2000年間も世界中で責任者扱いされている」。歴史に“たられば”はタブーです。ピラトは十字架刑を決めたあの場面に戻ることができません。ピラトがその後回心したのか、後悔したのかは分かりませんが、もしそうだとしたら、ピラトはイエス様に何と言うでしょうか。ごめんなさいでしょうか。赦してもらえないかもしれないけれど、本当にごめんなさい。そう言うでしょうか。ピラトはそう言うことが出来ました。そしてもしピラトがそう言うならば、ピラトは主の赦しの御声を聞いたことでしょう。主はよみがえられたからです。その後の人生もまるで違ったものになったはずです。もしそのように変えられたピラトにあったら何と言いますか。「ひどいことをしたやつめ、イエス様はお赦しになったかもしれないが、私は赦さない」でしょうか。そうではないでしょう。たぶん、私たちは同じ赦しを経験した者として「おめでとう。喜びましょう」と言うのではないかと思うのです。

 先週はイエス様の十字架上での最初と二番目に発せられたお言葉に聞きました。そして、本朝与えられましたマタイの福音書28章の前の27章には、イエス様が十字架上で最後に大声で叫んで霊を渡された場面、そしてアリマタヤのヨセフという人によって、その日の夕方にお墓に納められたことが記されています。イエス様は、現代の暦で言えば金曜日の午後3時に十字架上で息を引き取られ、その日の日没までに埋葬されました。当時のユダヤでは金曜日の日没から安息日が始まるからです。世界中から人々が集まっていた過越の祭り、立派な神殿ではたくさんの動物が引き裂かれ、罪の生け贄として献げられ、罪の贖い、罪の赦し、神さまの救いを覚えるために、地上では律法に定められた儀式が盛大に行われていました。そして安息日を迎えようとしていた。しかしマタイの福音書は、盛大な罪の贖いの儀式、そして安息日がどのように行われたかには一切触れません。ただ相変わらずな人間的な策略、喧騒が繰り返されていたことを記すだけで、私たちの目と心を、イエス様の十字架へ、そこからイエス様の埋葬シーン、静かな墓の中へ。そして新しい週が始まる日曜日の朝、イエス・キリストの復活の朝、そして復活の朝を迎えた弟子たちの姿へと向けさせます。

 明け方早く、マグダラのマリヤともう一人のマリヤがイエス様の墓を見に行きました。他の福音書を見ると、イエス様の死体に準備しておいた香料を塗るためであったことが分かります。彼女たちが墓に行ってみると、大きな地震が起こって、墓の入口をふさいでいた大きな石が御使いによってわきへ転がされました。墓の番をしていた兵士は御使いの姿を見て震え上がりました。彼女たちも恐ろしかったに違いありません。イエス様の死体はそこにはありませんでした。御使いは彼女たちに「イエス様は前から何度も言われていたように(1621、179,23、2019、2632)、よみがえったのでここにはおらず、ガリラヤへ行った。だからそこに行けばイエス様に会える」と語りました。そして、このことを他の弟子たちに知らせるようにと命じました。

 彼女たちは恐ろしくはありましたが、信じて、とても喜んで、弟子たちに知らせるために走って行きました。その途中でよみがえられたイエス様が彼女たちに出会い、「おはよう」とあいさつをしたのです。冒頭でも申し上げたところですが、新改訳2017では「おはよう」のところを、別の訳として「喜びがあるように」と加えています。原語のギリシヤ語を見ると確かに「喜ぶ」の命令形が使われています。「わたしの姿を見てあなたは恐れる必要はなく、喜びがあるように」。ここでイエス様もまた「ガリラヤに行けばそこでわたしに会える」と弟子たちに告げるように命じられました。

 弟子たちと言えば、ペテロをはじめ全員がイエス様を裏切って、見捨てて、イエス様が十字架に架けられ、苦しまれる姿を見ていなかった。そして十字架上で叫ばれた、あのお言葉を聞いていませんでした。罪もないイエス様が犯罪人の真ん中に十字架に架けられ、苦しまれ、それでも最後まで人間を憐れみ、愛しぬかれたあのお姿、お言葉。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ2324)。そして死の間際であっても、罪を悔い改め、ご自分を信じるものに瞬時に与えられる救いの約束を語られた。百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と思わず告白せずにはいられなかった、その一部始終を弟子たちは見ても聞いてもいなかったのです。そのような弟子たちのところに、マリヤたちによって「ガリラヤに行けばそこでわたしに会える」というイエス様のお言葉が届けられたました。

 この時の弟子たちの思いとか、そういったことをマタイは何も記していません。ただ他の福音書では、マリヤたちの言ったことが最初はたわごとと思っていたことが分かります。ところが、弟子たちはやがてガリラヤへと向かって歩き出します。この時の弟子たちのそれぞれの思いの中に何があったのでしょうか。イエス様は死んでしまった。自分たちの裏切り、罪の赦しを請いたいけれども、もう赦しは請えない。過去に戻れるものならば戻りたい。やり直したい。悔やんでも悔やみきれない思い、悲しみがあったのではないでしょうか。弟子たちは重苦しい空気の中、絶望の中、誰も他の誰かを慰めたり励ましたりできない、一言も話すことができない、そのような中にいたのかもしれません。そこにマリヤたちの知らせが届いたのです。「主は生きておられる。御使いが私たちにこう告げた。『イエス様が前から何度も言われていたように、よみがえったのでここにはおらず、ガリラヤへ行った。だからそこに行けば主に会える』。主も私たちに言われた。『ガリラヤに行けばそこでわたしに会える』と」。

28章16節 しかし(2017では「さて」)、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

 ここから場面はあっさり転換されます。11人の弟子たちはガリラヤへ向かって歩き出しました。しかし、皆で話し合って、弟子団としてガリラヤへ行こうと決めたのではないように思うのです。イエス様を裏切り、イエス様から逃げ去ってしまった。そのイエス様は死んでしまった。失敗、絶望。赦しを請えるものなら請いたい。過去に戻れるものならば戻りたい。やり直したい。悔やんでも悔やみきれない思い、絶望や悲しみの中にあった弟子たち。真っ暗な部屋にたった一人黙って座り込んでいるような気持ちで、自分はここにいて良いのかという自問自答の中でただ黙って座り込んでいたのではないか。そのような弟子たちの姿を想像するのです。この11人一人ずつ、マリヤたちの言葉を聞いてガリラヤに行くと決めたのではないでしょうか。そして一人ひとりが、自分たちのこれまでの歩み、イエス様とともに歩んできた歩み、イエス様が多くの人々に語られたお言葉ひとつひとつ、なさったしるし、癒やし、救い、そういったことを思い出し、信仰の歩みを見つめ直して、そしてガリラヤに行こうと、一人ひとりが決めたのではないでしょうか。どうして? やり直したい、赦してもらいたい。本当にイエス様に再会できたらそれが可能だと、すがるような思い、砕かれた思い、真の信仰をもってガリラヤへと向かうことができたのではないでしょうか。イエス様が生きておられる。イエス様がガリラヤに行きなさいと命じられた。そこでわたしに会えると、その言葉を信じて、すがって、期待して。弟子たちは一人、また一人と立ち上がって、気づいたら全員がガリラヤへと向かっていったのではないでしょうか。

 ところで、イエス様がマグダラのマリヤに命じられたのは、ガリラヤで会うことになると言われただけで、それ以上のことは語られていませんでした。しかし28章16節では、「イエス様が指示された山に登った」と記されています。そして・・・

28章17節 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

 17節では、実際にそこでイエス様にお会いして「礼拝した、しかし疑う者もいた」と記されています。このイエス様との再会、これをもっと紙面を多く割いて詳しく書いてくれても良さそうなものですが、マタイの福音書は、「弟子たちはイエス様に会い、そしてひれ伏した」としか語っていません。それは、イエス様の言葉に従って、イエス様を求めて信頼してそこに旅立って行った。いつとか、こことか、あそこというものではなくて、私たちがイエス様とともに歩んできた歩み、語られたみことば、信仰の歩みを見つめ直して、イエス様に【指し示された道】を歩んでいく、するとそこにはイエス様がおられ、そこで確かな約束、主のみことばを聞くことができるのだということを言いたいのかもしれません。

 また、弟子たちはイエス様に会うとひれ伏しました。イエス様とともに歩んでいる時に、弟子たちがイエス様にひれ伏すということはありませんでした。しかし、復活のイエス様に出会った弟子たちはひれ伏してしまいました。なぜでしょうか。

 どうしてもこの人に赦して欲しい時、私たちは相手を見つめるのではなくて、むしろ深々と頭を下げるということもあり得るのではないかと思います。弟子たちは、イエス様を裏切って、見捨てて逃げてしまった。その弟子たちに、「あなたに会いたい、もう一度会いたい」と言われるイエス様。弟子たちはイエス様の大きな愛の心に圧倒されるのです。ひれ伏してしまうのです。

 「しかし、ある者は疑った」。誰が疑ったのでしょう。何を疑ったのでしょう。「イエス様の復活?そんなこと信じられない」といった思いがあったかもしれませんが、まるっきり疑っていたのであるならば、そもそもなぜガリラヤに来たりしたのでしょうか。11人の弟子たちはそれぞれ何を疑ったのか。何が信じられないのか。それは、まさにイエス様が私を赦してくださる、その出来事を弟子たちはどうしても信じられなかったのかもしれません。自分の罪が大きければ大きいほど、そう自分で自覚すればするほど、赦されるのが難しいと思ってしまうのです。

28章18節 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 神の子であるイエス様は、弟子たちの心の内をすべて見られてご存じで、それでイエス様にひれ伏して、それでも赦していただけることを信じられずにいる弟子たちに対して、イエス様はご自身の方から近づいて言われたのです。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている」と。

 わたしには天と地の一切の権能が与えられている。天と地の一切の権能。それはマタイの福音書で強く語られた罪の赦しについての権能です。「わたしが今、赦すことは天においても地においても赦されるのだ」。罪と、罪が必ず結ぶ実である死に完全に勝利され、よみがえられたイエス様が語られたこの権威あるお言葉により今、不可能と思われた赦しが弟子たちに実現している。赦される、赦されたことが証明されたのです。

 罪の完全な赦し、そして罪、負い目からの完全な解放。過去の大きな失敗や、悔やんでも悔やみきれない後悔、罪、負い目をそのままにされるのではなく、「あなたの罪はわたしの十字架によって完全に赦されている」。かつての失敗を思い出し、つい落ち込んでしまう者にそう宣言されるために。罪があまりにも大きく、赦されることが信じられない者にはっきりと宣言されるために。そして罪、負い目の束縛から真に完全に解放するために、主は死からよみがえってくださり、ガリラヤで、主が指し示された山で弟子たちと再び会われたのです。礼拝を受けられたのです。ひれ伏す弟子たちに、疑う弟子たちに「喜びなさい」と言われたのです。そして命じられたのです。

28章19節 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28章20節 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 イエス様は弟子たちに自ら近づいて命じられたのです。それは招きです。

 イエス様は弟子たちをそこから召されました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。罪の赦しを必要としていた弟子たちに、罪の赦しが与えられた。その弟子たちは、同じように罪の赦しを必要としている人々に、イエス・キリストの罪の赦しの宣言、みことばを宣べ伝えることを命じられたのです。

 すべての人は、本当は罪の赦しを必要としているのです。それは私たち自身が良く知っていること、実に体験したことではないでしょうか。何か苦しいことがあって、私は救われたい、幸せになりたい。そう願われて教会に来られたのではないでしょうか。ところがどうでしょう。私たちに与えられたのは、問題の解決とか、私に対してひどいことをしたあの人に神さまが復讐してくださるなどではなくて、私たちに与えられたのは、この私自身の罪の赦しの宣言ではなかったでしょうか。イエス・キリストの十字架、そして復活。私の罪を赦すため。「あなたの罪は赦された」。それを信じて、心が晴れて、死んでいたような私が生き返ったのではなかったでしょうか。

 そうように、人は誰でも、「赦しているよ」という言葉を聞きたいのです。誰かから、そして自分からも。何をしているのか自分でも分からなくなっているほどの時、どうしようもない時、霊的な存在として神さまによって作られている私たちの心と目は天に向かい、「神さま!」と呼び求めるしかなくなるのです。神さまに赦しを請うのです。

 自分はここに存在していてはいけないのではないかという気持ちにさらされている人がいるかもしれない。いや、いるのです。自分の至らなさ、仕事のできなさ、愛の足りなさ。赦せない自分がいつもいるのです。人に迷惑をかける。負担をかけてしまっている。約束が守れずに、自分が言ったことを出来ない、やらない自分がいる。祈ったこともやめられない罪がずっと続いている。誰かに対して、自分に対して負い目がある。イエス様は言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(ヨハ87)。誰一人としていませんでした。皆、自分の内に罪、負い目があるのです。自分で自分を赦せない。自分でどうすることもできない。この不安を抱えて今日も生きている。だからこそ皆、誰かに「赦しているよ」と言ってもらいたい。それが主の「もう赦しているよ、もう赦したよ」、この言葉を聞くことができたら本当に救われるのです。弟子たちは救われたのです。

 このような救いをイエス・キリストを通して経験しているあなたがたは出て行って、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさいと主は弟子たちに命じられました。あなたがたに命じておいたこと、これはもちろんイエス様の言葉や弟子たちが体験し、そして今それを宝として持っている福音、イエス様の死と復活いうものを証ししなさいということです。あなたがたが体験し、見て、そして今生きている、生かされている、それを宣べ伝えなさい。誰も見向きもしてくれなかった私を、イエス様は選び、そして教え、ともに歩んでくださった。そして私があのような大きな過ちを犯しても、主は徹底的に赦してくださったと証しする。証しして主の赦しに与らせる。その輪がどんどん広がっていく。これがすべての民をわたしの弟子にするという福音宣教と言っても良いでしょう。

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。神さまは私たちの思いを越えて、私と共にいてくださる。私の罪を赦し、私と共にいてくださる。たとえ自分が自分を赦せなかったとしても、神さまは赦される。そして親しく私と共にいてくださる。十字架の赦しは小さくはなく、私の思いをはるかに越えた赦し。神の愛。それを本当に信じて、罪や負い目から真に解放されて、そして生き生きと生きるこの私の姿、生き様を通して、赦しのみことばを必要としている人々に届けようと、この私を召しておられる。「赦しているよ、もう赦したよ」。そう語られる復活のイエス様の御声は、主に指し示されて出て行ったその先で、その御声を必要としている誰かに弟子たちを通して、弟子たちの姿を通して聞かされたことでしょう。弟子たちが主に指し示されて出て行ったその先で、主は赦しの言葉を語られたことでしょう。その御声は今のここにいる私たちのもとにも、主の弟子とされた人たちによってもたらされ、私たちも主の赦しの御声を聞いたのです。

 今朝の箇所は、そのまま私たち一人ひとりに語られています。赦しの福音が神さまが愛されるこの世のすべての人に届きますようにと願います。そのために主は、復活の主の赦しに触れる私たちを遣わされています。私たちはどこに向かうべきなのでしょうか。どこに行きなさいということをマタイの福音書は言いません。それは、イエス様が指示しておかれた山ということを弟子たちが理解したように、イエス様の言葉に従って、イエス様を求めて信頼してそこに旅立って行った。いつとか、こことか、あそこというものではなくて、私たちがイエス様とともに歩んできた歩み、語られたみことば、信仰の歩みを見つめ直して、イエス様に【指し示された道】を歩んでいく、するとそこにはイエス様がおられ、そこで主が確かな約束、主のみことばを語られるのだということ。復活の主が赦しの福音を届けたいと願われているところ、その先々で福音宣教を託されている私たち自身もまた、そこで主の赦しの御声に何度も聞き続けることが出来るのです。それも恵みです。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美いたします。みことばを感謝いたします。イースター、主の復活の朝を覚えました。時に私たちは、自分の失敗や罪が本当に赦されているのかと、疑ってしまう者かもしれません。しかし、私たちにご自身を現され、御前にひれ伏す私たちに「喜びがあるように」と仰ってくださる復活の主に信頼します。赦しの宣言のみことばを聞かせてくださる主に信頼します。信仰の弱い私たちです。どうぞ何度でも、復活の主の赦しに触れさせていただき、私たちを罪、負い目から完全に解放してくださり、あなたの招きに応え、主の御業をなし、赦しのみことばを必要としている人々に、赦しの福音を伝えることができますように。主が指し示される道を行くことができますように。その先々で主の栄光をあらわしていく者としてください。復活の主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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