2022年11月13日 主日礼拝「誓ってはいけません」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  23番「くるあさごとに」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  324番「主イエスはすくいを」
聖 書  マタイの福音書5章33〜37節
説 教  「誓ってはいけません」佐藤伝道師
讃美歌  525番「めぐみふかき」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章33〜37節

説教題

「誓ってはいけません」

今週の聖句

だから、あなたがたは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

マタイの福音書5章37節

今週の祈り

神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
(創世記45:5)

父なる神よ、私の傷を優しく介抱してくださり感謝します。

説教「誓ってはいけません」

マタイの福音書5章33〜37節

「決して誓ってはいけません」。今朝の箇所でイエス様はそう教えておられます。誓うことは信仰でもあるのではないでしょうか。考えてみると、先ほども皆さんとご一緒に使徒信条をもって信仰を告白しましたが、「信じます」というこれもある意味、誓いではないかと思うのです。しかしイエス様は「決して誓ってはいけない」と言われます。その真意は何でしょうか。

「誓い」と聞いて、まず思い起こすのは、結婚式での誓いです。前回のマタイの福音書では、神とイスラエルの民、キリストと教会また私たちとの結婚について見ました。結婚というのは実は法律で決められた結婚生活のルールに従いますという、約束を伴う一種の契約なのだというところも見ました。聖書は「結婚は神の奥義である」と言います。神は男女の結婚というものの中に、神が私たちに教えたい御心を色々と秘めておられ、それを聖書を通して啓いてくださいました(それを啓示と言います)。結婚は主なる神と私たちとの恵み深く厳かな契約関係を表しており、神の愛と信頼に満ちたルールを伴う契約に対して、私たち人間はこれまでの歴史の中で繰り返しどのような応答をしてきたのか。その応答、一言で言うならば姦淫、裏切りです。そのような応答に対して神はどのように私たちに応答しておられるのか。そのようなところをイエス様のみことばの中から見ました。そして続けて今朝の所で、イエス様は「誓い」について語られます。誓いというのは、ある約束とか決意とともになされるものです。その「誓い」について語られます。

結婚式でなされる誓いの内容は、世間一般でも広く良く知られているところでしょう。例えば私たち同盟教団の式文にはこのようにあります。まず夫となる者に対してなされ、続けて妻となる者に対してなされるのですが、

「あなたは、神の教えに従ってきよい家庭をつくり、夫としての分を果たし、常にあなたの妻を愛し、敬い、慰め、助けて、その健康の時も病の時も、順境の時も逆境の時も、常に真実で愛情に満ち、死が二人を分かつその時まで、いのちの限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを誓約しますか」。

結婚は神の奥義、教会また私たちはキリストの花嫁、夫は神キリストです。夫であるキリストは誓われたのです。「神と証人との前で誓います」と。真にその誓いは真実でした。「死が二人を分かつその時まで」。しかしイエス・キリストにある私たちは永遠のいのちを賜っており、主との関係において死はありません。ですから永遠の誓いです。「夫としての分を果たし、常にあなたを愛し、敬い、慰め、助けて、健康な時も、病の時も、順境の時も、逆境の時も、常に真実で愛情に満ち、いのちの限り、実にいのちにかけて、永遠にあなたに対して固く節操を守る。愛し抜く」と、父なる神、そして証人(証印)である聖霊なる神にかけて誓われた。ご自身をさして誓われたということ。その誓いは真に真実でした。私たちはその真実に与り、主が誓われた通りに愛されて来たのではないでしょうか。赦されて来たのではないでしょうか。そしてこれからも主の誓いは永遠に真実です。それに対して、私たちの誓いはどうでしょう。健康な時も、病の時も、順境の時も逆境の時も、常に真実に神を愛し、神だけを愛し、信じて信頼し、神に対して堅く節操を守って来られたでしょうか。守り切ると誓えるでしょうか。

「誓ってはいけません」。そうイエス様は教えておられます。だからと言って、結婚式など、あらゆる機会において誓ってはならないということを言われているのではありません。誓いを否定しているのではありません。私たちが「誓わなくて良いのだ」「誓うのはやめよう」「使徒信条を告白するのはやめよう」ということにはならないのです。

「誓い」について確認しておきたいのですが、辞書を調べてみますとこのように記されています。

  1. 神に対してあることを固く約束する。<例)「神にかけて誓う」>
  2. 他人に対して、あることの実行を固く約束する。また、自分の心の中で固く決意する。<例)「将来を誓う」「心に誓う」>
  3. 神が、人々を守り救おうと願う。

3つ目の意味は神の側のものであり、先ほども見たとおり別格のもの。1と2の誓いの意味は、人間がする誓いの説明です。それについて思い巡らせる時、私たちはなんと神に対する約束、他人に対しての約束、また自分自身の決意を軽く扱ってしまっているかと思わされないでしょうか。何かあるとすぐに「なかったこと」にしてしまう。イエス様はそのような私たちに、誓いが持つ本来の重さを示されます。そして前回からの文脈の中で語られている訳ですから、これは主なる神との結婚、契約関係の中で言われていることでしょう。

5章33節        さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

この33節は旧約聖書の教えを要約しているのであり、そのまま引用しているのではありません。「偽りの誓いを立ててはならない」は、レビ記19章12節を反映しています。

【レビ記19章12節】あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

また、十戒の第3誡も念頭にあったのかもしれません。

【出エジプト記20章7節】あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

ここで「偽りの誓い」が何であるのかですが、それは人が、主がなされる約束、決意、誓い、あるいは人に求められることに追加して、主の御口が語られていないことを約束したり、決意したり、誓うこと。例えば「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたを愛している」。その主の誓い、約束、決意に対して、人が真実に応答して「信じます」という誓いであるならば、それは偽りの誓いとは言われないのでしょう。しかし「本当ですか。それでは不安なので、私はあれそれします」と追加して主に対してする誓い。「わたしはあなたを救う。あなたの罪を赦した」。それに対して人が、「本当ですか。それでは不安なので、加えて私はあれそれしましょう」と追加する誓い。そのような偽りの誓い、みだりにされる誓い、虚しい誓いは、神の御名を汚してしまうことになります。神の人格、愛、恵みを軽んじ、無駄にし、汚すことになってしまうのです。せっかく神が大きな大きな恵みの誓いを私たちにしてくださった、その神の御名を汚すことになってしまうのです。また、一見、信仰深い、敬虔のように思われる付け加えられる誓いですが、それは私たちの不信仰から出てくるものかもしれません。「もっともっと」という貪りの表れであるかもしれません。私たちが真の主を礼拝していると思っていても、「それは偶像礼拝だ」と主に言われてしまうかもしれません。私たちの神に対する誓いは、本当に真実なものであるかどうか、しっかり顧みて気をつけないといけないところです。

主がご自身の誓いの相手である私たちに求めておられることは、従順でへりくだった応答です。主の真実な愛に対する従順でへりくだった愛の応答を、主は真に喜ばれるのではないでしょうか。

ある人を紹介したいと思います。旧約聖書の士師記に登場するエフタという人です。ご存知かと思いますが、彼は主の勝利の約束に加えて、こんな誓いをしたのです。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる者を主のものといたします。私はその人を全勝のささげ物として献げます。」彼は勝利をおさめました。そして最初に迎えに出て来た者は、彼のたったひとりの子であった娘だったのです。エフタは衣を引き裂き、打ちのめされ、しかし言うのです。「私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ」。

誓願を立てることは宗教的な義務ではなく、全く個人の自由に任せられていました。けれども、誓願をした場合は、それを破ることはできなかったのです。このあたりからも、「偽りの誓いを立ててはならない」と言われたイエス様のことばの意味を考えるヒントがあるのではないかと思います。

見て来たとおり、私たちは主の誓い、約束、決意に対して、主のみことばだけでは信頼できない時、主を疑う時に、偽りの誓いを立ててしまうのです。しかしそれも主の前に立てられた誓いであるので、主はその誓いを重んじられます。その誓いに対しても、きちんと責任を問われるお方です。それほどに「誓い」というのは、主にとって真に重く大切なもの、守られるべきものなのです。なぜなら、主ご自身の私たちに対する誓いが私たちのあいだで決して軽んじられてはならないからです。

そこで、「あなたの誓ったことを主に果たせ」というところも、イエス様は取り上げられました。ここもやはり旧約聖書の教えの要約です。関連箇所を辿って行くと、この教えは旧約聖書の中にたくさん出て来ます。

【民数記30章2節】男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。

【申命記23章21節】あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。

【詩篇50篇14節】あなたの誓いをいと高き神に果たせ。

【伝道者の書5章4節】神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。

このように旧約聖書全体に渡って、神が誓いを重いものとして扱っておられること、またすべての誓いには拘束性があり、どのような誓いであっても、それを破ることは律法、神との契約において強く非難されるのだということが分かります。

しかしここでユダヤ人たちは論点をずらすのです。屁理屈を言うのです。ごまかそうとするのです。「律法は主の御名による誓いを禁じているのであって、私は主の御名によって誓ってなどいない」と。

ユダヤ人は誓いをしても、しばしばそれを果たさないことがありました。そのために、律法の専門家である律法学者たちは、自分たちに便利な抜け道を考え出していたのです。それは、神の御名を指して誓ったことは絶対に果たさなければならないけれども、「天」「地」「エルサレム」「頭」など、神の御名以外のものを指して誓った場合には、果たさなくても赦されるというものだったのです。何と身勝手な言い分でしょうか。しかし私たちも、自分の誓いに対しては甘く、あれこれと言い逃れをしてしまう者たちではないでしょうか。

これに対してイエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」と言われます。

5章34節        しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5章35節        地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5章36節        あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

「天」を指して誓うことは、神を指して誓うこととは異なると考えていた律法学者たちに対して、天は「神の御座」であるから、神を指して誓っていることと同じだと言われました。「地」「エルサレム」を指して誓うことも同じです。すべては神を指して誓っていることと同じだと言われました。その根拠もすべて旧約聖書に記されていることでした。では、自分の頭を指して誓うことはどうか。私たちの頭は私たちの所有である前に、神によって造られた神に属するものです。「神は私たちの頭の毛さえも、みな数えられておられ」ます(マタ1030)。髪の毛を白くも黒くもお出来になるお方です。また私たちは「心に誓う」と言いますが、私たちの心の中、私たちの深い所「内なる人」と呼ばれる所には、聖霊が住まわれているのです。私たちは聖霊なる神が宿られる宮であると聖書では言われているのです。ですから、人が何かを誓う時、その誓いはすべて神をさして誓っているのと同じことなのです。それ故に、「あなたがたが誓ったことはすべて誠実に果たすべきである」と主は言われるのです。「誓いに対して言い逃れはできない」、「最初から言い逃れができるように抜け道を考えて誓うようなことは一切してはならない」、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい、誓いなさい」と主は言われるのです。

【イザヤ書66章1−2節】主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。−−主の御告げ—わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

5章37節        だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」。これはヘブル語やアラム語圏での言い回しで、「はい」か「いいえ」だけを用いなさい、ということです。それ以外、それ以上に誓いとして出てくる言葉は「悪いこと」、つまり罪です。また別の訳では「悪い者から出るのです」となっています。

「悪いこと」、罪とは何でしょう。神に背くことです。神を疑い、神に背を向けて神のもとを去り、神との関係を破棄しようとすることです。「悪い者」とは誰でしょう。惑わす者、疑わせる者、悪魔です。サタンです。神に背かせる存在です。「はい」と「いいえ」それ以上のものは罪。惑わす者、疑わせる者、悪魔、サタンから出ている。そこにサタンの巧妙な罠が潜んでいる場合もあるのです。神の誓い、みことばを疑わせ、誓いを追加させる。もっともっとと貪らせ、主への礼拝を偶像礼拝へとすり替える。しかも私たちはたとえ固い決意をもってする誓いであっても、守り切れるほど強くはありませんから、結局は私たちは誓いを破ることになってしまうでしょう。義であり聖である神はそれをさばかなければなりません。サタンはそのことを知っているのでしょう。サタンは神を疑わせ、偽りの誓いを立たせ、その誓いを破らせ、義であり聖である神に裁かせるのです。神と私たちとの契約関係を断絶しようと、あれこれ画策しているのです。何とか誓いを破らせ離婚させようとしているのです。

後に使徒ヤコブは、マタイの福音書5章37節を基にしてこう言いました。

【ヤコブ書5章12節】私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

ヤコブが教えるところと合わせ見て、イエス様はこのようなことを言われたのではないでしょうか。「神を愛しなさい。神を信じなさい。あなたは誓いなど必要のない人になりなさい。神にあなたをさばかせないために」。

先ほどは、人が誓いを必要とするのは、主の約束、決意、誓いに対して言葉だけでは信頼できない時、主を疑う時であると申しました。「あなたは誓いなど必要のない人になりなさい」と主は言われる。それはつまり、神を愛し、少しも疑わずにただ信じなさい、信頼しなさいということです。神はご自身を信じる者は救う、赦すとの誓いをされています。「信仰義認」と呼ばれる誓いです。その誓いは決して破られることはありません。信仰とは、神をひたすらに信じ、神の愛の誓い、約束、決意の前にへりくだり、心砕かれ、ただ従順に神の愛の誓い、約束、決意を受け取るということでしょう。ひとり子イエス・キリストを賜るほどに私たちを愛されたその愛、それほどの愛の誓い、約束、決意の前にへりくだり、心砕かれ、ただ従順に受け取るということでしょう。教会を、私たちをキリストの花嫁として、花嫁である教会、私たちに対してしてくださった誓いを信じるのみ。「わたしは夫としての分を果たし、常にあなたを愛し、敬い、慰め、助けて、健康な時も、病の時も、順境の時も、逆境の時も、常に真実で愛情に満ち、いのちの限り、実にいのちにかけて、永遠にあなたに対して固く節操を守る。愛し抜く」と、主の愛と恵みに満ちた結婚の誓いにも喩えられ得る誓いに対して、主の愛の前に静まり、じっくり留まり、主の約束の御声、誓いを聞き、それを疑わず、「はい、信じます」とだけ申し上げ、そこに何も誓いを付け加えない。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神、主を愛する」ことを主は私たちにお求めになるのです。

「はい」と「いいえ」以上の誓いは「悪いこと」、「悪い者から出る」ものですから、神は当然、裁かれるのでしょう。疑いによって偽りの誓いを立てて、その誓いによって主が私たちを裁かれなければならないような事態を避けること。サタンに惑わされ、燃えるゲヘナに投げ込まれることのないようにすること。主が贖ってくださった私たちのいのちを大切にすること。それが主に対する真の信仰であり、真の愛なのではないでしょうか。

しかし私たちの内に、偽りの誓いなど必要としない真の信仰、真の愛はあるのでしょうか。神の愛をたくさん経験してもなお、疑いの心が消えないのではないでしょうか。ですから私たちは神を愛する愛を、神に祈り求めましょう。求める者には良いものを与えられる方であるとの誓いがあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。だれであっても、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、悪い者ではあっても、父は自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ119−13)。この誓いがあります。天の父は、私たちが主を信じる真の信仰と、主への愛を祈り求めるならば、イエスキリストを通して聖霊を与え、聖霊を通して愛を注がれ、愛を信じる信仰をも与えてくださいます。

しかし主は言われます。「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです」(ヤコ16−8)。このことにおいても、私たちはひたすらに主の誓い、約束、決意を信じて祈り求めましょう。祈りの中で、主に近づこうとする人に忍び寄る「悪い者」が来ます。疑いから出る偽りの誓いには気をつけましょう。それは「悪いこと」であり、「悪い者から出る」ものであり、裁きの対象です。

「決して誓っていけません」。これは私たちを裁くための厳しい律法ではなく、私たちを愛するがゆえに語られたものであることを覚えましょう。今日からの歩み、聖霊の満たしを祈り求め、聖霊を通して注がれる主の愛に満たされて、誓いなど必要としない、「はい」と「いいえ」のみの、真の信仰をもって、天の御国に至る永遠のいのちの道を歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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