2022年11月20日 主日礼拝「神の子どもとして」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  54番「よろこびの日よ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  87B番「めぐみのひかりは」
聖 書  マタイの福音書5章38〜48節
説 教  「神の子どもとして」佐藤伝道師
讃美歌  389番「仇を愛せよとの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章38〜48節

説教題

「神の子どもとして」

今週の聖句

あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。

マタイの福音書5章48節

今週の祈り

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
(Ⅰペテロ3:15)

全能の神よ、私の信仰を支える信ぴょう性の高い証拠に感謝します。

説教「神の子どもとして」

マタイの福音書5章38〜48節

十字架には縦棒と横棒があります。恐らく皆さんも一度はお聞きになったことがあると思いますが、「十字架の縦棒は『天の神』と『地の私』との垂直関係、対神関係に例えることができ、十字架の横棒は『私』と『隣人』との水平関係、対人関係に例えることができる」と。この世のあらゆる問題、悩みなどは大抵が対人関係の中で起こるものです。その対人関係を良くしたいと願うならば、まず「天の神」と「地の私」との垂直関係を回復したり、しっかりしたものとしなければなりません。神との関係が和解し、縦棒が回復・確立するならば、隣人との関係も自ずから(自然と)和解と回復に導かれるものです。恐らくその人の内側から滲み出る雰囲気とか霊的な何か、具体的な態度などによって相手も変えられるのでしょう。まず「天の神」と「地の私」との垂直関係が取り扱われ、それから私と隣人との水平関係が取り扱われる。そして地には平和、平安が満ちて行く。これが聖書が示す原則です。「十戒」はまさにこの「まず縦棒、それから横棒」、そして「平和」という原則に基づいています。

前回、私たちは「決して誓ってはいけません」と言われるイエス様のみことばを見ました。人が誓いを必要とするのは、主の誓われることに対して、主のみことばだけでは信頼できない時、主を疑う時。ですから「決して誓ってはいけません」というのは、「あなたは誓いなど必要のない人になりなさい」、主と主のみことばをひたすらに信じ、主の愛の誓いの前にへりくだり、心砕かれ、「はい、信じます」とだけ従順に応答すれば良いのだ。なぜなら、主は私たちに対する愛の誓い、結婚の誓いに例えられるその誓いを永遠に、真実に守られるお方だから。私たちが不真実であるにもかかわらず、「わたしはあなたの主としての分を果たし、常にあなたを愛し、敬い、慰め、助けて、健康な時も、病の時も、順境の時も、逆境の時も、常に真実で愛情に満ち、いのちの限り、実にいのちにかけて、永遠にあなたに対して固く節操を守る(節操というのは、自分の主義主張を固く守って変えないこと、守り通すことです)。そして愛し抜く」。その誓いを永遠に、真実に守られるお方。実際にそのように、私たちは主の愛、赦し、あわれみをこれほどまでに賜っている。「ですからあなたがたは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神、主を愛せよ、信頼せよ」ということが求められるのです。「天の神」と「地の私」双方向の愛が成立する時、縦棒、垂直関係は本当にしっかりしたものとなるでしょう。

そのことを私たちにお求めになる主は、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」ともお求めになるのです。

隣人とはもともと、自分以外のすべての人を含む概念です。その中には味方だけでなく敵も含まれているというのがイエス様の理解でした。そしてそれが律法においての正しい意味です。

主の愛、赦し、あわれみをこれほどまでに賜ったあなたであるならば、あなたの隣人を愛し、赦し、あわれむであろう。主は私たちをこのように信頼してくださっています。そして主は言われるのです。あなたは隣人に対しても「誓いなど必要のない人になりなさい」と。「はい」と「いいえ」だけで隣人を愛し、隣人に信頼される人になりなさいと。「私は天の父なる神に愛され、赦され、私はその天の父なる神を信じ、愛しています。ですから私は隣人を愛し、赦します」と祈り告白する私たちは、何の説明も、何の言い訳もなしに、隣人から「あの人はそのような人だよね」と認められるようにと、主は言われるのでしょう。

隣人を愛する。味方だけでなく敵も含まれる隣人を愛し、そして赦す。弱い私たちには、どうしてもそこで霊的な激しい戦いが起こるのではないでしょうか。あのパウロでさえこのように告白しています。「ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されてはやさしいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです」(Ⅰコリ412−13)。それこそ十字架の縦棒の関係、「天の神」と「地の私」の関係がしっかりしていなければ難しいのです。そのような私たちに聖書は教えます。「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。“神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです”」(エペ431—32)。

今朝の箇所でイエス様はこう言われます。

5章38節      『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5章39節      しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。

「目には目で、歯には歯で」。あまりにも有名なこの法則ですが、「同害復讐法(報復法)」と呼ばれるものです。それはモーセの律法に登場し(出2124、レビ2420、申1921)、根本的な原理はノアの契約の中にあります(創96)。しかしどうして神は律法によってこのことを定めたのでしょうか。それは行き過ぎてしまう復讐を禁じるためでした。際限なくエスカレートして行く復讐に歯止めをかけるためでした。人の残忍さが暴れ出さないように押さえ止めるための神のご配慮だったのです。なぜなら人間というのは、創世記のはじめの方に登場するレメクという人の性格が示すように、「私が受ける打ち傷のために、私は彼を殺す。彼の子どもを殺す」と誓う者。自分が傷つけられたなら、もっと相手を傷つけなくてはならない。心が傷つけられた時、プライドが傷つけられた時など、人はまさにメレクのようなのではないでしょうか。そのような残忍な復讐心を持つ者なのではないでしょうか。つまりは自分が一番偉くなりたい。相手を力でねじ伏せたい、支配したい。すべての人間が昔から持っている罪です。

また「目には目で、歯には歯で」。同等の復讐または賠償は律法で認められていました。同時に律法では、復讐を被害者が私的に(個人的に勝手に)判断して実行してはならないこと、神からさばきを委ねられた裁判官の審判に基づく正しい法に則った手順によって執行するように定められていました。過度の復讐、また復讐の連鎖を防ぐためです。しかし実際には、「目には目で、歯には歯で」は、悪に対しては当然報復するべきであるという根拠とされてしまっていたのです。「当然私は報復して良いのだ」という、人間の間違った解釈によって独り歩きしてしまっていたのです。今の時代も独り歩きしています。

そのような世に生きる人々に対してイエス様は言われるのです。「悪いものに手向かってはいけません」。この「手向かってはいけない」という語ですが、これは復讐よりも、もっと広い意味を持つ語が使われています。その意味は「反抗する、盾突く、撃退する」の他に「堪(こら)える」という意味をも持つ語です。堪えるなんて良いことのように思いますが、じっと堪えてもいけないとイエス様は言われるのです。「神は私を愛し、正しい裁きをなさる」と、そう信じるあなたがたならば、一切の悪意を直ちに手放して神の裁きにゆだねるようにと教えるのです。怒りをいつまでも握りしめていて良いことはありません。日が暮れるまで憤っていてはいけないのです。

申命記で神は誓って言われます。「復讐と報復はわたしのものである」(申3235)。ここからパウロは確信をもって私たちにすすめます。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』。もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」(ロマ1219-20)。相手の頭に炭火を積むというのは、復讐ではなく、単純に相手に親切にしてやるということです。隣人が困っていたら、何も言わずにすぐさま手を差し伸べなさいということです。ですから実は、「目には目で、歯には歯で」に込められた神の御心は、この世から復讐をなくすこと。争い、報復の連鎖をなくすこと。人が仕返ししようとする思いから解放され、真の平和が実現されることなのです。そしてその真の平和は、神に赦され、神との平和を賜った人から始まるのだ、始めるのだとイエス様は言われるのです。覚えておられるでしょうか、この箇所はイエス様に付き従って来た弟子たちに向かって語られているところです。この後も何度も語られたことです。今の私たちにも語られていることです。この世の真の平和・平安は、神に愛され、イエス・キリストの十字架による贖い、イエス・キリストが私たちの罪に対する神の怒りを宥める宥めの供え物となってくださったゆえに、神との関係において真の平和がもたらされた私たちから始まる。ただ恵みによって神との平和が与えられた、この私たちから始めるのです。私たちが平和の基となるのです。「まず縦棒、それから自ずと横棒へ」。「天の神」と「地の私」との垂直関係から、「私」と「隣人」との水平関係へ。これが聖書の原則であり、神の御心なのです。

39節の後半からは、復讐心から解放された人、それはつまり、神を愛し、神を信じ、心から神に信頼する人の姿を、イエス様が具体的に、また衝撃的に示されたものです。

5章39b節    あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

「頬を打つ」、これは手の甲で頬を打つもので、これは肉体的な暴力というよりは「侮辱」です。中東の方では今日でも考えられる中で最大の侮辱、また極度の虐待を表すものだそうです。人間は自分に対する侮辱、虐待、自分が見下されるようなことに対して、ふつふつと怒りを燃やす者ではないでしょうか。ところがイエス様は怒りを堪えずに「左の頬も向けなさい」と言われます。私たちが悪に対して怒りの感情を持つことは正しいのです。けれどもその怒りをすぐさま神に引き渡しなさいと言われます。私たちに出来るでしょうか。しかしイエス様ご自身がそのように生き抜かれました。公生涯の終わりには、あの「苦難のしもべ」として歩まれたのです。「打つ者にわたしの背中をまかせ、ひげを抜く者にわたしの頬を任せ、侮辱されても、つばきをかけられても、わたしの顔を隠さなかった」(イザ506)。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテ223)。人として実際にそのように生きられ、誰よりもその感情を味わわれ知っておられるイエス様が、私たちを信頼し、私たちを選び、日々愛し、赦し、守ってくださっています。正しくさばかれる天の父なる神を絶えず指し示してくださっています。聖霊なる神を内に住まわせ、私たちの言葉にならない祈りをお聞きになっておられ、とりなし祈ってくださっています。縦棒の関係がしっかりしている者の幸いです。

5章40節      あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

 律法では、下着は担保に要求されることがありましたが、日中は太陽の熱を遮り、夜は寒さを防ぐためにも使われる上着は、質に取ることが禁止されるほど大切な物でした。しかも貧しい人は上着は1着しか持っていなかったのです。自分の命に関わる大切な何かを、敵に自ら差し出すことなどできるでしょうか。神は律法の中で言っておられます。「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから」(出2226—27)。ここでも自らが復讐するのではなく、虐げられる者に対しては憐れみ深く、情け深く、正しくさばかれる主がおられること、そして私たちは主に信頼できるのだということが教えられています。

5章41節      あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。

 当時の世を支配していたローマの軍隊は、無差別に近くの民を徴収して、武器などの荷物を運ばせるということがありました。馬でも船でも何でも、強制的に使用する権威を持っていました。特に、毎日をやっと生きている人にとって、軍隊など自分の敵によって荷物運びを無理矢理させられるなど、大変な負担、侮辱であったと思います。イエス様はこれを受け入れるだけでなく「2ミリオン」行くように言われます。また「強いる」と訳された語は、クレネ人シモンに十字架を無理矢理背負わせた」(マタ2732)というところでも用いられている語です。しかし神の愛の支えと配慮の中へと移された者は、嫌なことを無理強いする敵に対する復讐心から解放され、自ら敵のためにすすんで役立つことをしようとする、そのように変えられるのだと、イエス様はその具体的なイメージを示されるのです。「求める者」「借りようとする者」に対しても同じです。自分の権利とか都合を度外視して、相手が敵であっても、求める者には与え、借りようとする者には背を向けない。敵を愛し、彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに与える。これもまたイエス様が示されるイメージです。そしてイエス様ご自身が、この地上で、そのイメージ通りに生き抜かれたお方です。

5章43節      『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5章44節      しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 自分の隣人を愛することは律法に記されていました。しかし、自分の敵を憎めとは記されていません。これは律法学者たちが律法を勝手に誤って拡大解釈し、民に教えていたということでしょう。しかしイエス様はこの43-44節で律法の本質へと正します。「自分の隣人を愛すること」、その愛する対象には「あなたの敵」をも含まれるのであること。そして「敵」とは具体的に「自分を迫害する者」であること。さらに敵を愛するとは、その人のために祈ることであると非常に具体的に教えておられます。「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」(ロマ1214)。

 これまで、イエス様はいくつかのイメージを示され、私たちに理想的な生き方を教えられました。何のためにでしょうか。

5章45節      それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。

原語を直訳しますと「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」。私たちが父なる神の子どもになるためです。ますます神の子どもとされるためです。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタ59)とイエス様は言われました。後にペテロはこう言います。「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(Ⅰペテ39)。神との平和を賜り、祝福を賜り、神の子どもとしていただいた私たちが、今度は神との平和、祝福を地の隣人との間で実践し、地に平和をつくる者、祝福する者、そしてますます神の子どもとなって行き、隣人が父なる神の愛と赦しを知り、彼らも救いに与り、天の父なる神の子どもとしていただくためです。

 私たちは「子になる」という意味を正しく知らなければなりません。パウロは「子としてくださる御霊を受けたのです」と言いました。その語の意味は「養子となる」ということです。神は私たちを真の神の子としてご覧になってくださいますが、パウロの説明によると「養子」なのです。養子と聞いてがっかりされるでしょうか。私はさらに感謝に満たされる思いにさせられます。なぜならば、パウロが生きた当時の歴史的背景として、養子というのは、義父によって慎重に選ばれ、その名を引き継ぎ、財産を相続する者でした。養子は実子の身分に少しも劣らず、養父の愛情を十分に受け、養父の人格を反映して行くものでした。そのことを知っていた当時の人々であるなら、自分が神の養子とされたことがどれほど凄く、どれほど素晴らしいことか、恵みであるかと、感動したのでしょう。私たちはどうでしょうか。天の父によって慎重に選ばれ、こんな私を選んでくださり、名を引き継ぐ者、財産を相続する者、祝福を受け継ぐものとしてくださった。真の神の子であるイエス様の身分と少しも劣らずに取り扱われ、愛情を十分に受けて、日々成長して行く私たち。もとは神に対して罪を犯す者、神に敵対する者であったにもかかわらず、今はこんなにも恵まれた身分が与えられている。そのような私たちであるならば、神に対して大きな借りがあると思うのではないでしょうか。大きな借り、それは感謝でしょう。神への返しきれない感謝は、私たちの生き方を変えるのではないでしょうか。父なる神を愛し、父なる神の人格に憧れ、父なる神の人格を反映して生きたい。自分もそのように生きて行きたい。そう思われるのではないでしょうか。その思いは言葉にも態度にも自然と滲み出ることでしょう。

その天の父なる神の人格は、この地上を生きられた神の御子イエス・キリストの生き様を見ると分かります。父なる神の実の子であるイエス様は、真に父なる神の人格を反映するお方だからです。具体的にどのような人格であったかは、今日の箇所でも示されています。正しく裁かれるお方。悪に対して悪で報いることのないお方。求める者には返してもらうことなどまるで考えずに与えられるお方。ご自分の敵を愛され、ご自分を迫害する者のために祝福を祈られるお方。悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる、公平で、偏りがなく、恵み深く憐み深いお方。報いを期待せずに人を愛される。ご自分を愛する者にだけあいさつするのではなく、敵にさえもあいさつをされるお方。敵でさえも、いつも気にかけ、心配し、「ご機嫌いかがですか、お元気ですか、変わりはないですか、困ったことはないですか、平安がありますように」と常に声をかけ、あいさつをしてくださるお方。

5章48節      だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 この命令は強制的なものではなく、このような私たちを子としてくださった、その神の選び、そして神の愛に応え、返しきれない借り、返しきれない感謝をもっての生き方へと私たちを進ませるものなのではないでしょうか。十字架の縦棒の関係、「天の父」と「地の私」との垂直関係がこれほどまでに完全で、祝福されていることを知るならば、私たちは自ずから十字架の横棒の関係、「私」と「隣人」の水平関係へと、主に完全に信頼して進んで行くことができるではないでしょうか。そして主はそのことを願っておられます。縦棒を伝っていのちの水が注がれる。その水は私たちの内で泉となり、川となって流れ出す。イエス様はこの「いのちの水」は「聖霊」であると言われました(ヨハ738−39)。聖霊が注がれ、愛が注がれ、不可能をも可能にする力に満たされて、隣人の間に出て行くのです。イエス様は「力に満たされるまで、とどまっていなさい」とも言われました。もし何か問題を感じるならば、今一度、天の父と地の私の関係を見つめ直してみてはいかがでしょう。聖書が一貫して言っていることは何でしょうか。イエス様が天に上られる前に弟子たちに命じられたことは何だったでしょうか。「神、主を愛せよ」。「あなたの隣人を愛せよ」。そして「宣教」です。そのすべての力、不可能を可能にする力は、縦棒を伝って天から注がれる力、いのちの水、聖霊です。愛です。縦棒がしっかりしていなければなりません。

十字架の縦棒から横棒へ。垂直関係から水平関係へ。恵みによって神の子どもとしていただいた私たちは、日々聖霊を注がれ、神の愛をいただき、神に感謝し、神の人格に憧れて、ますます御子キリストに似た者とされてまいりましょう。隣人の間で素晴らしい主を証ししてまいりましょう。垂直と水平が交わるところには愛があります。神からの愛、神への愛。そして隣人への愛。その交わるところ、中心には同じ愛があります。私たちは主から目を離さずに、縦棒をしっかりと立て、垂直関係をしっかり保ち、またしっかりしたものへと日々させていただきながら、聖霊に満たされて、愛に満たされて、力に満たされて、世の隣人の間で主の完全なる人格を溢れ出させながら歩んでまいりましょう。平和をつくる者として歩んでまいりましょう。それが私たち神の子どもとしていただいた者の生き方です。父なる神を信じ、聖霊を求め、ひたむきにイエス様のように生きようとすること。それが宣教ではないでしょうか。それが主の御心なのではないでしょうか。

次週からアドベントに入ります。この時期に、改めて主との関係を見つめ直し、しっかりしたものとし、主の御旨にかなった歩みをしてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す