2022年11月27日 主日礼拝「キリストの系図」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  546番「せいなるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  96番「エサイの根より」
聖 書  マタイの福音書5章1〜17節
説 教  「キリストの系図」佐藤伝道師
讃美歌  534番「ほむべきかな」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書1章1〜17節

説教題

「キリストの系図」

今週の聖句

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

哀歌3章22〜24節

今週の祈り

すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。
(ホセア書14:2)

神よ。私の心を探り、あなたから離れて堕落していくことがあるなら教えてください。私をきよめ、赦し、神に誉れを帰する人に変えてください。

説教「キリストの系図」

マタイの福音書1章1〜17節

 今日からアドベントに入りました。アドベントとは「到来、到着」、「やって来る、近づいて来る」という意味を持つラテン語から来ています。争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光として来てくださる。その出来事を待ち望む時を「アドベント、待降節」と呼びます。ここには4本のキャンドルが立てられていますが、救い主の到来、到着を、1本、また1本とキャンドルを灯しながら心待ちに待ち望むのです。しかしイエス様はおよそ2000年前にすでに来られました。では私たちは今、何を待ち望むのでしょうか。クリスマスパーティーの本番当日でしょうか。季節の恒例行事だからと、別に何も待ち望んでなどいないのでしょうか。私たちが今待ち望むのは、イエス様の第二の到来、再臨です。ヘブル書にはこうあります。「キリストは、多くの罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブ928)。イエス様の再臨に備えて待ち望む信仰を深めて行く。私たちの救いの完成の時を待ち望む信仰を深めて行く。救い主は確実に近づいて来られているという希望、平安、喜び、愛を深めていくことが、毎年繰り返されるアドベントという特別な4週間が持つ意味なのです。

今朝は1本目のキャンドルに火が灯されました。4本のキャンドルにはそれぞれ名前と意味があるらしく、1本目のキャンドルは「預言のキャンドル」と呼ばれ、「希望」を表すのだそうです。

さて、マタイの福音書の講解説教を進めてまいりましたが、1章からはクリスマスに譲ってということで、途中の3章から始めました。本朝はいよいよ1章1節からです。クリスマスらしい記述は1章18節から始まるのですが、その前に1節から17節まで、長々と系図が記されていきます。講解説教を目指しておりますから、飛ばしてしまうわけにはいきません。今朝は、私たちにとってはとっつきにくい、カタカナの名前がずらずらと並ぶ系図だけで終わってしまうという、何とも残念な回となってしまうのでしょうか…。

マタイの福音書はユダヤ人に向けられて書かれた、ユダヤ色の濃い書物であることは以前にお話ししました。そしてユダヤ人にとって系図はとても重要なものでした。さらにユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっているので、この系図に込められた意味も容易に理解できるのです。その知識が皆無に近い私たち日本人には、この系図の持つ意味は理解しにくいものかもしれません。私たちはユダヤ人の歴史が分からず、旧約聖書に関する知識も乏しいからです。しかし、ユダヤ人が系図に記されている一人ひとりの名前を読む時、その人物とその時代の歴史的背景を次々と鮮明に思い出すことができました。ちなみに「系図」と訳されたギリシヤ語には、「起源、経緯、記録、歴史」などの意味があります。私の実家で、幾人かの親戚が集まると、親類らしき人の名前が出て来て、すると皆は大盛り上がりで、あの人はあの人とこう繋がっていて、あそこに住んでいて、こういう人で、あの時ああだったこうだった、あぁそうだったそうだったと、まぁ事細かに覚えているのには驚きました。それと同じ感覚なのでしょう。しかし今朝のこの系図は、佐藤一族の歴史とは比べものにならない、アブラハムからイエス・キリストの出現まで、実に約2000年間における1つの民族の記録です。しかも神、主との歩みの歴史です。ですから当時のユダヤ人にとってこの系図には、私たちの想像を遙かに越えるほどに、まことに意味深いものがあったのです。

皆さんもご承知のことと思いますが、旧約聖書の最後のマラキ書から、新約聖書のマタイの福音書の間には、400年もの時が流れていました。その間、神のことばは語られず、聖書から見れば沈黙の時代ではありましたが、ユダヤの歴史の上では激動の時代でした。辛くて苦しい色々なことがあったのです。イエス様の到来までに、ユダヤはローマ帝国領となり、ユダヤ人にとっては非常に辛く厳しい時代だったのです。それでもユダヤ人は旧約聖書に従い、その中に預言されている救い主「ダビデの子」を長い間待ち望んでいました(今の再臨を待ち望む私たちとうっすら重なる所があるのではないでしょうか)。ところがどうでしょう。旧約のメシヤ預言を熱心に待ちわびていたはずのユダヤ人が、救い主が世に現れたことにまったく盲目であったのです。律法学者やパリサイ人たちを代表とする人たちなどは、頑なにイエス様が待ち望んでいた救い主であることを認めようとしませんでした。400年の間に、何人かの敵国に立ち向かう武力的な革命家が興(おこ)っては消えて行きました。イエス様の現れに、民は期待したことでしょう。ところが民が期待したイエスは敵と戦うどころか、「敵を愛せよ、呪ってはいけない、祝福しなさい。迫害する者のために祈りなさい」と教えられた。ついにはイエスを救い主と大歓迎した人々に「十字架に架けろ!」と叫ばれ、その通り死んでしまった。しかし、このイエスこそ救い主キリストであったのです。

そこでマタイは、冒頭にキリストの系図を示します。実は旧約でも、重要な時に系図を記して、イスラエル民族のアイデンティティー(自分たちはどのような者たちであるのか)と、神が彼らをどのように導かれたのかを思い出させました。マタイはこの系図で始めることによって、読者に彼らの父祖アブラハムとダビデの歴史、そして神の約束を思い出させ、それがイエス・キリストによって成就されたことを示すのです。系図から続くこの後も、マタイは旧約聖書からの引用を多く用いて、イエス・キリストが旧約聖書で預言されていた救い主であることをユダヤ人たちに立証していくのです。

1章1節        アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

まず、マタイはイエス・キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であると言います。ある意味この系図の要約です。そしてマタイの福音書全体の要約と言っても良いでしょう。

アブラハムはユダヤ民族の先祖で、信仰の父と呼ばれた人物でした。アブラハムと聞いてユダヤ人はすぐにピンと来るのです。アブラハムの歴史、そして神はアブラハムと約束を結び、「地上の【すべての民族】は、あなたによって祝福される」(創123)と言われたことをも思い出すのです。マタイはイエス・キリストがアブラハムの子孫であると示すことにより、このイエスこそ神がアブラハムに対して約束されたこと「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」を成就するために来られた方であるということを、読者に示すのです。

次にダビデですが、彼はユダヤ人の歴史の中で最大の王であり、理想の王でした。神はこのダビデに「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立される。…その王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサム712−13)と約束されました。しかし、ダビデの子ソロモンの死後、王国は2つに分裂し、やがてはアッシリヤ、バビロンという強大な帝国によって滅ぼされてしまったではありませんか。従ってこの神の約束は文字通りのダビデの王国に関するものではなかったことが分かりました。エレミヤという預言者は、やがてダビデの子孫の中から一人の人物が現れ、その人によってユダヤ人に救いがもたらされると預言しました(エレ235−6)。そしていよいよ国を滅ぼされたユダヤ人は、ダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれる力ある王、救い主・メシヤが現れることを心の底から待ち望むようになりました。こうしてユダヤ人の間にメシヤを待ち望む信仰が生まれたのです。

このような歴史的背景を理解すると、マタイがイエスを「アブラハムの子孫」「ダビデの子孫」として一番最初に示したことの意義も明らかになるのではないでしょうか。つまり、イエスこそ、旧約聖書に預言され、ユダヤ人が長い間待ち望んでいたメシヤ、また全人類が待ち望むメシヤであるということをマタイは言うのです。

この「メシヤ」とは、「油注がれた者」という意味のヘブル語であり、王や祭司などが任命される時に油が注がれたことに由来する語です。「キリスト」というのはメシヤをギリシヤ語に訳した語です。日本語には訳されずそのまま用いられています。イエス・キリスト=イエス・油注がれた者。このイエスこそ油注がれた者、あなたがたを苦しみから解放する力ある真の王であり、また民を代表して神との契約関係を維持する(キープする)役目を持つ大祭司であるということを、マタイはまず福音書の一番最初に示し、マタイの福音書全体を要約するのです。

続く2節から6節の前半までは、アブラハムからダビデまでの系図が記されます。私たちにも馴染みのある名前が多いです。各々旧約聖書を辿っていただいて、確かめていただくのも良いでしょう。

「生まれ、生まれ」と並びますが、系図の書き方として、その家の代表である父を主語として、跡を継ぐ子を「生む」と記すことが標準でした。しかし、この部分の系図では、それを3度も外れて、子を生んだ母親の名を追加しています。ユダヤ人の目には一際目立ち、興味が湧くところとなったでしょう。

一人は「タマル」。ユダの長子の嫁です。神はユダの悪い息子たちをすべて死ぬようにされましたが、タマルの知恵によってユダは子孫を残すことができました。彼女の祝福を切実に求めた行いが、ユダの家が途絶えないようにしました。
「ラハブ」。エリコの遊女だった彼女は、出エジプトを導かれたイスラエルの神に関する噂を聞きました。その神が、エリコの人々が信じる神とは比べものにならない「上は天において、下は地において、神であられる」ということを“知って”(ヨシ211)、イスラエルのエリコの征服を助けました。偶像を捨て真の神を選んだのです。そのことによって彼女はイスラエルの民と共に生きるようになり、その系図の中に名を連ねることになりました。
「ルツ」。自分の国に来ていたイスラエル人の夫と、子のないまま死別しましたが、イスラエルの神を信じ、姑と姑が信じる神と共に生きることを決心して、ともにイスラエルに移住しました。そして、姑と前夫の部族の人と結婚して、子孫を残しました。

この3人に共通しているのは、異邦人であることです。マタイは、彼女たち3人の名をイエス・キリストの系図に載せることで、異邦人も含まれるあのアブラハム契約「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」が、そのとおりに成就したことを示しています。そして何よりも、イエス・キリストの前では、社会では罪人とされていた人も、弱い立場であった女性も、神の祝福を切実に求める“信仰によって”受け入れられるのだということを示そうとしたのでしょう。それがイエス様が宣べ伝えられた福音だったからです。

6節後半から11節は、ダビデからバビロン捕囚までの系図、経緯、歴史が記されます。その始まりがダビデとウリヤの妻(ユダヤ人はそれがバテ・シェバであることを知っています)からソロモンが生まれることで始まるのです。バテ・シェバも異邦人でしたが、先ほどの3人の女性とは違って、名前ではなく「ウリヤの妻」とわざわざ記すことによって、ダビデとの姦淫をあえて示し、ダビデの姦淫を始点とするようにして、イスラエルが弱体化する時代の系図をたどり、そしてイスラエルが捕囚となる時期に至ったことが示されるのです。明らかに霊的姦淫を暗示しいるのでしょう。真の神に祝福を求めずに、偶像に祝福を求めることの結末が示されているのです。

さらに、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかな異邦人の血が混じっているのであり、決して純粋ではなく、そのうえ数々の不倫や罪の汚点があったことを、マタイは先の3人にバテ・シェバを加えて、彼女たち4人の名を挙げることによって思い起こさせています。

ここまでの系図から何が示されるでしょう。神はユダヤ人がきよく正しい民族であるゆえにお選びになったのではない。他の民族と比べて特に良かったからでもない。神が彼らを選ばれたのは、彼らを愛されたからです。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから」(申77−8)。マタイは彼らも他民族と同様に汚れており、罪があるのだということを明らかにして、神の愛、神の誓いの必要性、また、罪のための救い主の必要性を自覚させるのです。しかし彼らはなかなか自分たちの民族的な誇りを捨て去ることができませんでした。誤った自負心、誇り、傲(おご)り、うぬぼれ、イエス様に対する無関心。これらがイエス様がメシヤであるということに対して盲目にさせたのでした。私たちも気をつけなければなりません。

12節から16節は、バビロン捕囚後からキリストまでの系図、経緯、歴史です。そこには聖書的には沈黙の時代ではありましたが、ユダヤ史的には激動の時代がありました。

さて、当時の読者が、以上のアブラハムからキリストにいたるまで系図を見て、まず何を示されるべきだったのでしょうか。また私たちは何を示されるべきでしょうか。

「神はどうして苦しみにあわせられ、私たちを放っておかれるのか」でしょうか。そうではないでしょう。「神に対するイスラエル(私たち)の反逆を考えれば、私たちは根絶やしにされても仕方なかった。それなのに、神は私たちを守られた。そして神はキリストをこの世に送られた。神はご自身の契約、誓いに対して真実であられるからだ」。これではないでしょうか。

何度も取り上げますが、また昨日も素晴らしい結婚式がありましたけれども、神と私たちとの契約、契り、結婚の誓いのことば「わたしはあなたの主としての分を果たし、常にあなたを愛し、敬い、慰め、助けて、健康な時も、病の時も、順境の時も、逆境の時も、常に真実で愛情に満ち、いのちの限り、永遠にあなたに対して固く節操を守る。愛し抜く」。このご自身の誓いに対して真実な方。その真実な誓いが、愛が、ついにキリスト(油注がれた者、苦しみから解放する真の王、民を代表して神との関係をキープする役目を持つ大祭司)と呼ばれるイエス(主は救い)という名前をもってこの世にお生まれになったのです。

1章16節      ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

「お生まれになった」。ギリシヤ語では「神的受動態」という特別な語が用いられています。この語を用いることによって、キリストを生んだ方が神であられることを示しているのです。その細かな記述は後に引き継がれていくのですが、ここではキリストが、神によってダビデの系図を継がれたこと、それは神の救いの約束が果たされたこと、預言の成就であることを示すのです。

1章17節      それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を3つに大きく区分しています。この系図をたどることによって、旧約聖書全体を振り返って要約し、神の救いの約束が、アブラハムから2000年後になって、いよいよ実現したことを思い起こさせているのです。人間は、この世は決して神に見捨てられてなどおらず、すべての歴史が神の支配の下、神の支えと配慮の下にあることを示すのです。

さて、見て来た系図ですが、実は何代かにわたって名前が省略されています。聖書の系図は、常にすべての人の名を記しているわけではありません。系図を記す目的に合わせて、取捨選択されているのです。私たちの名前も聖書には記されませんが、万が一、別の目的に合わせて系図が書かれることがあるなら、私たちの名前もそこに記されることになるのかもしれません。いや、実際に私たちの系図、起源、経緯、歴史はすべて、天に記されているのです。「いのちの書」「小羊の書」には私たち一人ひとりの名が記されており、別の書と呼ばれる書物には、私たちのすべての言葉や行動、もしかしたら神による事細かな補足が記されているのです。あの時すってんころりん転がって本当に痛そうだったとか。あんな罪を犯した、わたしを裏切った、無視したとか書かれていたらどうしましょう。私たち自身によってそれぞれの系図、起源、経緯、歴史を評価するなら、もう絶望しかないかもしれません。しかし、イエス・キリストによってなされる評価が正しい評価なのです。

イエス・キリストは、罪によって神から離れてしまった失われた者を探し、救うために来られました。イエス・キリストの御前にへりくだり、神の祝福を切実に求めて進み出る者は、どのような罪を犯しても、いかなる失敗や挫折を経験したとしても、神の家族、神の子、神の国を継ぐ者として新たにされる恵みを得られるのです。世では性別や前科の有無、出身や人種、家柄や学歴、職種、性格、色々なことによって人を差別しますが、イエス・キリストの前ではいかなる差別も存在しません。人間はみな罪人であり、イエス・キリストが与える救いと赦し、愛が必要であり、イエス・キリストを信じて、そしてイエス・キリストに求めるならそれが与えられるのです。ですから、これまで神に背いて罪と悪を行ってきたとしても、すべての人を愛と恵みをもって受け入れてくださるイエス・キリストの御前に、迷わず出て行くのです。高慢にではなくへりくだって、神の祝福を切実に求めて出て行くのです。神の救いは、人間の行いとは無関係であり、神は一方的に恵みを施し、ご自身の力、死者をもよみがえらせることのできる全能なる力、聖霊、御霊、愛、親心によって救ってくださるのです。神に対する私たちの反逆、裏切り、姦淫を考えれば、根絶やしにされても仕方なかった。それなのに神は私たちを守られた。そして守られる。これが、天に記された、また記されて行く私たちの系図、起源、経緯、歴史です。

系図はユダヤ人ばかりでなく、私たちにとっても非常に重要なものです。旧約聖書で系図は種々の分野で重要な意味を持ち続けて来ました。【祭司の任命において】その人の起源が系図によって立証される必要がありました(出299)。ネヘミヤ記には、その系図を失ってしまったために祭司職を追われた人々のことが記されています(ネヘ764)。【王の任職において】王に任じられるためにも起源の証明が必要でした。初代の王サウルが退けられて後、ダビデが即位しましたが、その時以来、王位に就くべき者はダビデの子孫でなければなりませんでした(Ⅱサム716)。私たちはイエス・キリストの血による新しい契約によって、神の子、キリストと同じダビデの子孫とされています。【土地の継承において】約束の地の土地を受け継ぐためには、系図は重要でした。私たちも天国を継承するためには系図が必要です。先週も取り上げましたが、私たちがどのようにして神の子、神の養子とされたのかが記録されているからです。ですから私たちは、私たちの系図をないがしろにしたり、捨てようとしてはならないのです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(Ⅰペテ29−10

私たちの系図は、決して褒められたものではありません。しかし主は、私たちのその系図が重要なのだと言われます。それが必要不可欠なのだと言われます。その意味を良く深く考えてみてください。私たちの心に何が残るでしょう。希望、平安、喜び、神への愛、感謝ではないでしょうか。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀322−23)。

私たちは私たちの系図を胸に、決して誇らず、おごり高ぶらず、当時のユダヤ人たちが世に来られたイエス・キリストに対して盲目となってしまったように、イエス・キリストが再び世に来られるその時に、同じ盲目のあやまちを繰り返さないようにしたいと思います。救いを切実に求め続ける者でいたいと思います。その私たちの系図を通して福音が宣べ伝えられることを願う者でいたいと思います。私たちにとってイエス・キリストの再臨、救いの完成の時が希望の光です。その時まで私たちの系図は記され続けて行きます。失敗の多い、信仰の足りない、そのような誇れない系図ではありますが、主はその系図が重要であると仰ってくださいます。

アドベントを迎えた今朝、1本目のキャンドルに「希望の灯」が灯されました。希望の灯を通して、私たちの系図を赦し、守り、導かれ、そして用いられる主の愛とあわれみを覚えましょう。また、まだ救われていない隣人に対する神の愛を覚えましょう。クリスマスに向けて、次週は「平和の灯」が灯され、「喜びの灯」、「愛の灯」へと灯されて行きます。

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