2023年9月3日 主日礼拝「隠された宝を見つけよう」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌481「君は神さまにネ」
      新聖歌397「神の御子にますイエス」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇24篇1〜2節
讃  美  讃美歌162「あまつみつかいよ」
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌324「主イエスはすくいを」
聖書朗読  マタイの福音書13章44〜58節
説  教  「隠された宝を見つけよう」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌514「よわきものよ」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書13章44節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書13章44〜58節

説教題

「隠された宝を見つけよう」

今週の聖句

天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

マタイの福音書13章44節

説教「隠された宝を見つけよう」

マタイの福音書13章44〜58節

イスラエルの方に旅行に行きますと、丘を目にするそうです。中には世界遺産に登録されている丘というものもいくつかあります。旧約聖書に登場する丘もたくさんあります。なぜ多くの丘が存在するのか。それは「約束の地」にも関係しています。イスラエルは約束の地カナンに入り、カナンの地を戦いによって征服して行きました。単純にそこだけを見るとイスラエルはとても悪い民族のように聞こえてしまいますが、そうではありません。カナンの地にはひどい罪、悪が満ちており、神はその地の「悪が満ちるまで」(創1516)400年も辛抱強く待たれたのです。神は「悪人の死を喜ばず、悪の道から立ち返る」ことを望んでおられる(エゼ3311)神だからです。しかしカナンの人々が悔い改めることなく、罪を重ねて改善の見込みが全くなくなった時、神はイスラエル民族を用いて彼らに終わりをもたらしました。それは全人類を愛しておられるから。全人類を愛しておられるゆえに、ひどい罪の悪影響が広まり、全人類が滅んでしまってはならないと、辛い処置を行われたのです。聖なる戦いです。とはいえ、カナンの人々をだれかれ構わず処刑したりはしませんでした。進んで悔い改める人には憐れみが示され、その人は救われイスラエルの中に住みました(ヨシ625等)。

話しがそれてしまいましたが、イスラエルに見られる多くの丘。これは「歴史のタイムカプセル」となっています。この地域の戦い、また征服というのは、ある町を戦いによって滅ぼしたならば、その町を土で埋めて、その上に新しく町を作るというものでした。その場所に繰り返し都市や集落が築かれていったのです。ですから丘を掘っていくと歴史が分かるそうです。その歴史の層の中で、明らかに文明が発達した立派な都市の上に、明らかに文明が発達していない粗末と言いますか、原始的な町が築かれているところがあります。実はそれこそが、イスラエル民族による征服の記録なのです。これは何を意味しているかと申しますと、そこは「神による戦い、神の戦い、神による奇跡の勝利」であったことが分かるのです。

私たちも日頃から様々な聖なる戦いがあるのではないでしょうか。主にあって様々な戦いに勝利して来ているでしょう。御霊の実、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実。これらはすべて神、イエス・キリストによって奇跡的に罪に勝利し、聖霊によって罪の実が変えらたものです。埋められた罪、過去。その上に立てられた十字架。覆うように積み重ねられていく神の恵み。ずいぶん後になって、そこから私たちは多くの宝、神の知恵、愛を見出し、悟り、私たちのいのち、生きる力とされることもあるのではないでしょうか。

さて、今日の箇所でもイエス様は天の御国について、続けてたとえで語られて行きます。

13章44節    天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

当時は戦争が起こって避難する際に、宝を畑に埋めることがありました。土に大切なものを埋めるのが一番安全なことと考えられていたからです。しかし戦いの後、その宝の主が戻らず、だれもその畑に宝があることを知らなくても、そのうちだれかが宝を発見します。するとその人は、全財産を売り払ってその畑を買うと言うのです。どうやら畑で宝を見つけた人は、普段から宝を求めてはいたのでしょう。しかし人生のすべてを宝探しに費やしていたのではなく、普段の生活の中で予期せず見つけたようです。これは、普段から熱心に真理を探し求める心のある者に、神の恵みが臨むことを示しています。畑で偶然、宝を見つけた人は、「それをそのまま隠しておきます」。「見つける」という語は、入念に調べた後に発見するという意味の語です。泥だらけの物が一体何なのか、思い巡らせたのでしょうか。今の時代であれば、その場でスマホを取り出して検索したのかもしれません。その結果、その宝が高価なものであることを知ったのです。知っていたのではなく、知った、悟ったので、その人は喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うのです。

このたとえは、弟子たちだけに語られたものでした。弟子たちはこのたとえを通して何を思ったのでしょう。イエス様の召しを受けた弟子たちは、イエス様が到来させる天の御国(神の支配)に入るために、自分のすべてを手放してイエス様に従いました。確かにその動機は当初、完全なものではありませんでした。しかし彼らはすべてを手放してイエス様に従って来たのです。漁師だったペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。また取税人だったマタイ。共通点は「すべてを捨てて従った」ということです。天の御国の王なるイエス様に従ったのです。礼拝前に賛美しました新聖歌397番「すべてを捨てて従いまつらん。わがすべてにます王なる主イエスよ」と、彼らは従って来たのです。それほど彼らは天の御国、神がご支配される世が素晴らしい所であるという憧れを抱く人たちだったのです。弟子たちはイエス様と寝食を共にする中で、その本当の素晴らしさにどんどん気づいて行ったのでしょう。真の探究心があったからでしょう。そうでなければ群衆のように、途中でイエス様のもとを去って行ってしまっていたと思います。

13章45節    天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13章46節    高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。

ここの「探す」と言う語は、「求める、必要とする」という意味の語が使われています。

真珠は、古代には非常に尊く、現代よりもとても高価なものでした。真珠の商人は、もちろん真珠の価値を知っているので、非常に高価な真珠を発見したならば、全財産をみな売り払ってでもその真珠を買おうとすると言うのです。この商人は「高価な真珠を一つ見つけ」、そして「持っていた物すべてを売り払い、それを買います」。注目すべきことは、この商人が「良い真珠を探していた」ということです。この商人は遠く旅して、これ以上ないと思われる美しい真珠を探していたのでしょう。前の「畑に隠された宝」の場合、その人は偶然に宝を発見したという印象を受けますが、今度の場合は苦労して探し回った結果です。しかしこれもまた、熱心に真理を探し求める者に神の恵みが臨むことを示しているのです。

見て来ましたように、天の御国は、誰かがわざと「ここに隠しましたよ」というようにはすぐに見つからずに、何かの拍子に、あるいはその尊さを知って探し続ける時に見つけられるのです。天の御国が発見されるのも2通りあるということです。偶然の出来事のように天の御国(神の国、神の支配、愛とあわれみのご配慮)がここにあったのだと発見する人もいれば、長い求道の末にはじめて天の御国を見出す人もいる。いずれの場合も決して棚からぼた餅のように与えられるものではありません。そしていずれの場合にも、見出した天の御国に対する強烈な感動があって、天の御国を発見した人はすべてを犠牲にして、それをかけがえのないものとして手に入れるのです。発見した喜びだけにとどまっていて、犠牲を払うことを忘れてしまったり、あるいは犠牲を払うことをおろそかにしてしまったのでは、天の御国の本当の価値を知ることはできません。また、犠牲のあるところに真の信仰があるのです。それは献金の姿勢に表れるのかもしれません。献金は私たちの主への献身の表れでもあるからです。ある先生が質問されました。「先生、献金はどのくらい献げたら良いのでしょうか」。その先生はこう答えられました。「あなたが痛みを覚えるくらいでしょうか」。

さて、「真珠」と聞いて思い起こすのは、ヨブ記にあるこの一節です。「珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる」(ヨブ2818)。今日のたとえに出て来る彼らが探していた宝・真珠は、神の知恵・真理であるイエス様ご自身をたとえていると言って良いのではないでしょうか。イエス様ご自身もこう仰っています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもと(天の御国・神のご支配)に行くことはできません」(ヨハ146)。イエス・キリストご自身が、天の御国、神のご支配、神の愛とあわれみのご配慮の現れであり、また私たちがすべての犠牲を払ってまでも最後まで従って行くべき、本当に尊いお方であることがここからも分かるのではないでしょうか。ちなみに、最近と言いますか、恐らく少し前からだと思いますが、若い人たちは良くSNSなどで「尊い」と言います。「尊みが過ぎる」とか「尊みが深い」などと言います。いずれも感動の度合いが非常に高い場合に使われる言葉です。「本来の意味を超越するほど素晴らしく、他に比べるものがないくらい好きである」といった意味で使われるのだそうです。私たちもイエス・キリストに対し、このように「尊い」と思わず口にしてしまうほどの思い、信仰があるでしょうか。永遠の天の御国の尊さ、また永遠の天の御国、神のご支配、愛とあわれみによるご配慮そのものであるイエス様の尊さを知る人は、世の所有物や財産のすべて、さらにはいのちまでささげてもそれを得ようとする。私たちはどうでしょうか。天の御国のために、イエス・キリストのために、自分にあるすべてを投資して永遠の祝福を主とともに永遠に楽しみたいという願いがあるでしょうか。

続く47節から、イエス様はまた別のたとえを語られます。

13章47節    また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。

ここで「網」とされているギリシア語は、底引き網のことです。この網は海の深いところを通らせるため、「あらゆる(すべての)」種類の魚が捕れるのです。それと同様に、イエス様の到来によってもたらされたこの地上の天の御国、神の国には、人種や性別、身分を問わず、「あらゆる(πᾶςすべての)」人々が入れられるのです。何によってでしょうか。イエス・キリストの福音によってです。イエス・キリストの福音は主のご命令により、人種や性別、身分を問わず、「あらゆる(すべての)」人々に伝えられ、福音によって人々が集められるのです。その仕事はイエス・キリストの弟子に託されています。イエス・キリストの弟子はまことに「人をとる漁師」(マタ419)なのです。

そして「集める」という語ですが、これは「かき集める」という意味の他に、実は「振る舞う、もてなす」という意味もあります。主は実に気前の良いお方です。主は福音をもってすべての人々をご自身のもとに集め、そしてすべての人に愛とあわれみを振る舞い、もてなしてくださるお方です。しかしその恵みに与る者も安心していてはなりません。

13章48節    網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。

さらに重要なのは、捕った魚を良いものと悪いものに分けるということです。これはキリストの再臨の時に行われる、世の終わりのさばきをたとえて教えているところです。

13章49節    この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
13章50節    火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

「火の燃える炉」は、良い実を結ばない人々のために備えられたさばきを表すものです。悔い改めを勧めるバプテスマのヨハネはこのように宣告しました。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」(マタ310)。この言葉はパリサイ人やサドカイ人たちに向かって言われた言葉です。良い実。それは救い主イエス・キリストを信じる信仰の実、そして悔い改めの実、さらには主への献身の実のことです。「火の燃える炉」には、不信者はもちろんのこと、主の御名を呼ぶだけで本当には信じずに、キリストの外にいる者たち、イエス様に本当には従わない者たちが入れられます。

しかしこれは世の終わりの時に、神がなさることです。その時、良い人と悪い人、実を結んだ人と結ばない人、それを正しく分けられるのは父なる神のなさることです。私たちではありません。ですからこのたとえはまた、人間的に見て善人であれ悪人であれ、人間的に有用であれ無用であれ、私たち人が人をより分けるべきでないことをも暗示しています。「より分ける」とは、境界線で区切ること、離して置くことです。イエス様が福音によってすべての人を集め、そしてもてなそうと、恵みを施そうとされているのに、私たちが自分の見るところによって境界線を定めて、外に追い出してはならないのです。確かにこの地上の教会では、あらゆる人たちが入って来て混ざり合っており、それは避けられないことであり、必ず起こることです。主がなさることですから。しかしそれをより分けることはイエス様に招かれ弟子とされている者のすることではありません。自分と同じように信仰を告白し、教会に来る人、また主を求め、主の招きに応えて教会に来る人はだれでも受け入れるべきです。分けることとさばきは、さばき主なる神に一切を委ねなければなりません。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタ71)。ですからまず自分自身を省みなければなりません。自分は大丈夫と思っていてはなりません。普段から宝、真珠よりもまさる真に価値ある救いの完成、天の御国を飢え渇きをもって慕い求め、そして探し、犠牲をもって自分のものとして行くのです。

13章51節    あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。

イエス様は、天の御国についてのみことばを終え、弟子たちにこれらのことを理解したかと尋ねられました。すると弟子たちは「はい」と答えました。恐らく完全ではなく、部分的ではあるものの、理解できたのでしょう。「分かる」という語は、悟る、感じ取る、察するという意味のギリシア語が使われています。弟子たちはこれからも宝、真珠にもまさるイエス様とともに歩んで行く中で、天の御国、イエス・キリストに従って行くことの本当の価値を日に日に悟って行くのです。

13章52節    そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

イエス様は「分かったか、悟ったか、察したか」と問われ、「はい」と答える弟子を「学者」と呼ばれます。

52節後半の原文を直訳するとこうなります。「自分の宝物から新しいものと古いものを取り出す家の主人」と。どういう意味なのかと思い巡らせてみると、これは断捨離かなと思いました。以前、片付けのプロの井田典子さんをお招きして講演会が行われたことを覚えておられるでしょうか。そこで具体的な断捨離の方法を教えていただきました。「だわへし」です。「出す、分ける、減らす、しまう」でした。イエス・キリストの弟子となり、天の御国とはどのようなものであるかを知るようになった私たちは、これまでの人生の歩みの中で自分の内に蓄えてきた数多くのものを、一度「だわへし」するのでしょう。イエス様はご自分に従う者たちが、従う前にしてきた経験、そこから得た知識などのすべてを忘れてしまうことを願われたり、無理矢理にそうさせようとすることはないのでしょう。かえってその経験やそこから得た知識さえ用いようとされるお方ではないでしょうか。そしてそれらすべてを、暗い倉から出し、新しい光に照らし、「だわへし」し、神のみこころのために使うように語られるのです。人にされた悪はどうしろと言われたでしょう。神の良くしてくださったことは何一つどうすると言われましたか。この命令に従うなら、私たちのこれまでのすべての経験や知識はより深く豊かで価値あるものにされていきます。

そしてイエス様は弟子を「学者」と呼ばれます。学者とは、宗教教師のことを言います。弟子は教える者であると主は言われます。天の御国、神の支配、神の愛とあわれみによるご配慮がどのようなものであるかを知る者は、聖書のみことば、特に旧約聖書のみことばや出来事の中に隠された神の御心が良く分かり理解できるようになっているのです。なので、他の人にみことばの意味を説明できるようになっているのです。みことばを教えるだけではないでしょう。やはりそれは「証し」です。私たちの証しによって、私たちは学者、人々を教える者とされているのです。

イエス様はたとえ話を話し終えると、そこを立ち去られました。

13章53節    イエス・キリストはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、
13章54a節  ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。

マルコの福音書によると、弟子たちもついて行ったことが記されています。

13章54b節  すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
13章55節    この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13章56節    妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」

彼ら、イエス様の郷里の人々、イエス様が会堂に入られて教えておられた、その教えを聞いた人たちの反応。それは「驚き」でした。感心して驚いたのではありません。「驚き」というギリシア語は「ショックを受けて攻撃する」という、そのような驚きです。郷里の人々はイエス様の教えを聞いて、イエス様を攻撃したのです。イエス様を疑い、イエス様を否定し、攻撃したのです。郷里の人々はイエス様につまずきました。イエス様に不快感を抱いたのです。それは彼らの罪となりました。

13章57節    こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」

イエス様への親しみは、下手をすると軽蔑を生みやすくするのです。私たちのうちにもそのようなことはないでしょうか。もし家族の中に預言者がいたとしたら、恐らく家族は家族以外の人たちのようには尊敬しないでしょう。そのようにイエス様が言われること、されることに対して「そんなことはない、そんなはずはない、そんな馬鹿な、それは違うでしょう」と下に見る。私たちが主と真に親しくさせていただけることは素晴らしいことです。信じられないほどの恵みです。一方的な恵みです。それなのに、その親しみをはき違えてはならないのです。主はまことに権威ある王であるからです。罪人を捜し求める羊飼いのようなやさしい御姿のイエス様。しかし黙示録に登場するような恐ろしい姿もまたイエス様です。主は言われます。「安心しなさい。両方ともわたしだから」と。

理由はどうあれ、イエス様が軽蔑されるのは、彼らがイエス様の力、イエス様の本当の価値、素晴らしさ、権威を信じようとしなかったからです。イエス様に対する「不信仰」とは、疑いを持つことであり、また信仰の拒否です。

13章58節    そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

ここもマルコの福音書ではこのように記されています。「それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた」(マコ65-6)。ここには全能なる神である主、イエス様が唯一できないことが記されているのです。彼らの不信仰のゆえに、力あるわざ、奇跡を行うことができなかったのです。主の力あるわざ、奇跡、恵み、罪の赦しは、信仰を通してなされるのです。信仰がなければなさることができないのです。私たちの従順を通して、それが通り良き管のようにして、イエス様の恵みが注がれるのです。不信仰、不従順とは本当に恐ろしいものなのです。それ自体が恐ろしいさばきと言えるのではないでしょうか。

イエス様は人々の内にある不信仰に驚かれます。この場合の「驚く」は、54節の「驚く(ショックを受けて攻撃する)」とは別のギリシア語が使われています。この場合の「驚く」は、「不思議に思う、驚き嘆く」というものです。イエス様は人々の内にある不信仰を不思議に思われ、驚き嘆き、悲しみながら出て行かれます。もしイエス様の本当の尊さを覚える者であるならば、「尊みが過ぎる」「尊みが深い」「素晴らしく、他に比べるものがないくらい好きである」そう思われる方であれば、いつの間にか芽ばえた不信仰や不従順を悔い改め、イエス様を追うようにしてすべてを捨てて従おうとするのではないでしょうか。

私たちはイエス様を親しみという枠の中に閉じ込めて安心していてはなりません。神なる主イエス様の権威あるみことばに良く耳を傾けましょう。そうすればイエス様がどのようなお方か、天の御国はどのような所であるのかを正しく知って信頼し、従順出来ます。イエス様は私たちのその信仰を通して働いてくださいます。私たちはこのお方に完全に信頼し、従順してまいりましょう。普段の生活の中で、あるいはこれまでの経験や知識を通して天の御国、神の国、神のご支配、愛と憐れみによるご配慮を見つけ、悟ってまいりましょう。天の御国が、イエス様が目の前にあっても、その尊さを知らないのでは、そのために自分のものを手放そうとはせず、終わりの日に永遠の苦しみの中に投げ込まれてしまいます。イエス様が繰り返し語られたことを、私たちは心して聞くべきです。ひたすらに神、主、イエス様のみことばに従い、すでに臨み始めた天の御国のために生き、終わりの日には天の御国に凱旋したいものです。イエス様が救い主であり、永遠のいのちであられます。他の何とも比較できません。宝、真珠よりも価値ある天の御国を絶対に逃してはなりません。私たちはすべてに変えてでもイエス様を信じて最後まで従ってまいりましょう。

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