2023年9月10日 主日礼拝「天の御国を求めて生きるために必要なもの」

礼拝式順序

讃  美  新聖歌315「主の御手に頼る日は」
      新聖歌316「御言葉なる」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇24篇3〜6節
讃  美  讃美歌3「あめつちの御神をば」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷
讃  美  讃美歌56「七日のたび路」
聖書朗読  マタイの福音書14章1〜12節
説  教  「天の御国を求めて生きるために必要なもの」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌338「主よ、おわりまで」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 テサロニケ人への手紙第一5章21〜22節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後奏(黙祷)

本日の聖書箇所

マタイの福音書14章1〜12節

説教題

「天の御国を求めて生きるために必要なもの」

今週の聖句

すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆるかたちの悪から離れなさい。

テサロニケ人への手紙第一5章21〜22節

説教「天の御国を求めて生きるために必要なもの」

マタイの福音書14章1〜12節

次の文章は、辞書である語を説明しているものになりますが、なんの語を説明しているかお分かりになるでしょうか。 “普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに、自分の信念を貫き向かって行く、積極的で強い心意気のこと”。答えは「勇気」です。

私たちはマタイの福音書に続けて聞いてきておりますが、その中で思うことの中の一つに、イエス様に従ってきた弟子たちは本当に勇気があったんだな、ということです。イエス様を愛し、すべてを捨てて従い、そして従い抜いたのですから。もちろん途中に失敗はありました。

今から10年ほど前になりますが、「嫌われる勇気」という本が出されました。そして続編の「幸せになる勇気」も出版され、2020年には全世界でシリーズ合計600万部を突破し、21世紀を代表するベストセラーとなり、今なお売れ続けているそうです。皆さんの中にも読まれた方もおられるかもしれません。内容はいわゆる哲学なので簡単には説明できませんが、私はこの本を読んで、自分自身の信仰生活の中で教えられるような、このような一文を思い起こします。それは「置かれている環境や周囲の人々、過去の出来事に関係なく、自分さえ変われば自分らしく生きられる=幸せになれる」、「他人の目が気になって、他人と比較して、勝手にひとりで辛くなってしまう。そこから脱却できれば幸せになれる。不自由に生きるくらいなら、他者から嫌われる勇気を持て」というもの。信仰を持つことが決して周りの人たちから嫌われることにはなりませんが、イエス様は敬虔に生きる人は迫害に遭うと言われていますし、またイエス様の祝福を求めることに人の目を気にして遠慮してはいけないということではないでしょうか。しかしこれには勇気がいるのです。そして続編の「幸せになる勇気」では、前作の内容をさらに具体的にどうすれば良いのかが書かれているのですが、その中にはこのようなことが書かれていました。「まず他者を尊敬すること。愛すること。それも見返りを求めずに」。信仰者、イエス様の弟子であるならば、これは「神と隣人とを愛する」ことに繋がるのではないでしょうか。神だけではない、隣人だけではない、神と隣人とを愛すること。何も見返りを求めないで愛する。特に隣人、敵さえも無条件に愛することにおいては、これもまた勇気がいることなのです。神、イエス様を本当に信じていなければ、信頼していなければできないことです。ちなみに、無条件で信じることを「信頼」と言い、利害関係にある条件付きで信じることを「信用」と言います。イエス様が弟子に求めておられるのは、ご自身に対する信頼です。信仰です。信用ではありません。そしてイエス様に対する信頼・信仰こそ、本当の勇気(恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに、自分の信念を貫き向かって行く積極的で強い心意気、勇ましい強い心)を持つために必要なものです。しかし「勇」には、悪い、乱暴という意味も含まれています。勇気も間違うと悪くて乱暴なものとなってしまうので注意が必要です。

さて、今日の14章1節からヘロデという人が登場します。とても残念な人です。何が残念かと言うと、彼には勇気がなかったというところだと思います。嫌われる勇気も、幸せになる勇気も持てなかったところが本当に不幸、残念だなと思わされます。

14章1節      そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、
14章2節      家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」

「領主ヘロデ」とは、ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様がベツレヘムでお生まれになった時の王、ヘロデの3人息子のうちの1人です。父のヘロデが死んで、領地は3人の息子たちに分割され、イエス様が活動されていたガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが領主となっていました。そのヘロデは、イエス様に「狐のような者だ」と言われました(ルカ1332)。その心は、「狐のように小心で狡猾。気が小さくて臆病、用心深く、それ故に悪賢い」ということ。勇気がないということでしょうか。

「そのころ」とは、12〜13章に記されていることですが、ガリラヤを中心としたイエス様の宣教活動は、次第に人々の間に浸透していきました。そして人々はイエス様について噂しました。マルコの福音書にはこう記されています。「さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。『バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ』」(マコ614)。人々がこう言っていたのです。しかしマタイの福音書では、人々が言っているこのことを、ヘロデ自身も言っています。当時の人々は、偉大な人物は死んでもよみがえって、再び現れると信じていました。でもそれは迷信です。「黒猫が前を横切ると悪いことが起こる」という迷信を、皆さんも黒猫が自分の前を横切った時に何となく気にしてしまうことはないでしょうか。そのような信じるに値しない迷信。しかし、ヘロデにはバプテスマのヨハネを殺したという罪悪感があり、そこから生じた恐れを長い間ずっと抱えていたものですから、世の中の迷信が現実のものとして迫ってきてしまったのです。また人々が口にする話を聞いて、それがまるで自分への当てこすりのように、自分に向けられた批判とか悪口のように聞こえてしまったのです。それでヘロデはますます恐れに捕らわれてしまったのです。恐れに捕らわれてしまった人は、正常な判断力を失い、何をしでかすか分からない、そのような危険もあるのです。罪が罪を招き、やがて破滅へと進ませることもあるのです。これが罪意識がもたらす恐ろしさと言えるでしょう。また罪を犯した経験と記憶と罪責感は、その心に深い傷を残すのです。いつまでもそれを気にして、縛られ、知らず知らずのうちにまたそちらの方に引っ張られてしまうのです。ヨハネを殺したという大きな悪を行った記憶と恐怖がヘロデの心を支配していました。それがヘロデを生涯苦しめました。

私たちはこのことから、イエス様の十字架の赦しの素晴らしさを覚えたいと思います。イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信用するのではなく、信頼することによって、一切の罪の解決がなされていることの幸い、恵みを覚えたいと思います。勇気をもってイエス様の十字架の赦しの素晴らしさに信頼したいと思います。私たちにはもう同じ罪を犯さなくても良い自由が与えられているのです。

3節から12節は回想であり、バプテスマのヨハネがどのように死んだかを説明するところです。ヘロデが抱いた罪意識、罪意識がもたらす恐ろしさ、また悲惨さの始まりの記録です。また私たちが幸いに生きるために、十字架の恵みを覚えるとともに解決しておかなければならない問題が指摘されているところでもあるでしょう。

14章3節      実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
14章4節      ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。
14章5節      ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。

ヨハネが投獄されたのは、ピリポの妻ヘロディアのことのためでした。ヘロデはアラビアの王の娘と結婚していましたが、ローマを訪れた際、そこに暮らす腹違いの兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロディアを一目見て恋心を抱き、その欲望のままに自分の妻を離縁し、ヘロディアとの結婚を強行し、ヘロディアもまた娘とともにヘロデのもとに走ったのです。人は自分の欲望に対しては勇気を持ってしまうものなのですね。欲望に対しては恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに向かって行く積極的で強い心意気を発揮してしまうものなのだと思わされます。

そのヘロデに対して、ヨハネは「律法に背いた」と公然と批判しました。4節に「言い続けた」とある通り、ヨハネは繰り返しその罪を指摘し続けたのです。ヨハネにも勇気がありました。神を愛し、神の義、正義のために発する勇気です。難しい言葉で言うならば「義勇」です。ヨハネがヘロデの罪を指摘することの危険性を知らないはずはなかったでしょう。しかし、他の預言者たちと同様に、不法と偽りに目をつぶらず、勇気をもって神の義、正義を叫んだのでした。このバプテスマのヨハネは、天の御国を追い求めて生き、イエス様のために自分のすべてをささげることの手本です。この世はヘロデのように真実な者たちを嘲り、殺すことさえするでしょう。しかし、やがて完全に到来する天の御国の素晴らしさ、幸いを知り、そしてすでに得ている私たちは、神と隣人とを愛し、福音宣教の召しに従って、バプテスマのヨハネのように常に勇気をもって真実に歩んで行くべきではないでしょうか。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(510)とイエス様は言われました。「悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです」(Ⅰペテ317)と聖書は言います。私たちは神と神のみことばに、勇気をもって信頼するのです。信用ではなく信頼です。無条件で信じることが「信頼」、利害関係にあって条件付で信じることが「信用」です。信頼こそが真の勇気(普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに、自分の信念を貫き向かって行く積極的で強い心意気、勇ましい強い心)を与えるものです。

ヘロデは政治的な影響を恐れて、また民衆の目を恐れてヨハネを投獄しました。しかしヨハネを預言者と認めていた民衆を恐れて、ヨハネを殺すことができずにいました。また、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデは、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました。「ヘロデはヨハネを殺したいと思った」とありますが、この「思った」というのは、人から求められれば殺すことをいとわない、殺す気があるというものです。イエス様が狐と言った通りの人間です。小心で狡猾。気が小さくて臆病。用心深く、悪賢い。

14章6節      ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。

マルコの福音書には「良い機会が訪れた」(621)と記されています。それはヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて祝宴を設けた時のことでした。ユダヤにおいて誕生祝いをするのは珍しいことで、恐らくギリシア文化の影響でした。快楽にふけり、泥酔する列席の男たちの前で、ヘロデの妻ヘロディアは自分の娘を皆の前で踊らせました。その踊りは男たちを喜ばす踊り、王女にふさわしからぬ踊り、不謹慎なものでした。ヘロデは喜びました。不謹慎な踊りを見て喜んだのではありません。客人が喜ぶ姿を見て喜んだのです。世に調子を合わせたのです。ここにも小心で人の目を気にする者の姿があります。そしてヘロデは喜んで軽率に約束をしてしまいました。明らかに失敗でした。

14章7節      それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。

「誓う」とありますが、この誓約を表すギリシア語は、普段の日常会話ではあまり使われない大げさな語です。客人の前でこれ見よがしに、自分を飾るようにして大きな声で大げさに宣言したのです。

14章8節      すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。

こちらもマルコの福音書によると、「求めるものは何でも与える」と約束してもらった少女は、すぐに出て行って、母親に報告して言いました。「何を願いましょうか」。すると母親は言いました。「バプテスマのヨハネの首を」(マコ621-25)。少女と言われている娘が、男の生首をくれだのと、常軌を逸したむごたらしい要求を思いつくはずがありません。少女はヨハネに対して恨みを抱き、排除する機会を虎視眈々とうかがっていた母親にそそのかされたのです。良くない行動を強く促され「今ここで、バプテスマの首を盆に載せて私に下さい」と言ったのです。ヘロディアもまた自分の悪を棚に上げてヨハネを憎んで、恨んで、そして思いはエスカレートし、ついにはヨハネを排除してやろうという自分の欲望に対して間違った勇気を出してしまったのです。その勇気の前に、娘も断る勇気が持てませんでした。自分の欲望に溺れ、常軌を逸した母親を前に恐れたのでしょう。もし少女が母を恐れることよりも、良心の声を恐れていたら。悪い状況や環境の中で良心の声に従うこと、正しいことを行うのにもまた勇気のいることなのです。

14章9節      王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、
14章10節    人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14章11節    その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。

ヘロデは一瞬、心を痛めました。自分が軽率な約束をしてしまったことを後悔し、良心の声に心を痛めたのでしょうか。それだけではありません。「心を痛める」という語は、「腹立たしい、苛立たせる」という意味の語です。ヘロデは、ヨハネを預言者と見なす民衆から受けるであろう非難、また政治的影響を思わずにはいられなかったのです。それで苛立ったのです。しかし自分が客人の前で大げさに誓ってしまったので、その手前、ヨハネの首を与えるように命じ、人を遣わして牢の中でヨハネの首をはねさせました。

しばらくすると、淫らな快楽にふけっている王宮の華やかな宴席に、義人の生首が豪華な盆に載せられてしずしずと運ばれて来ました。すべての人が目を背けたくなるようなむごたらしい光景。会場は凍り付いたのではないでしょうか。しかし列席者の中には、悪に立ち向かう勇気のある者はいませんでした。非難の声は上がりませんでした。盆を受け取った娘は命じられるままに、恐らく表情をこわばらせて母の前にその盆を差し出したのでしょう。邪魔者に復讐を果たしてほくそ笑むヘロディアの姿が目に浮かんでくるようです。

世はまさに、悪人、悪の繁栄する時代でした。物質的には繁栄していましたが、道徳的にはきわめて堕落していたのです。このような人間の現実は、今も聖書の時代と少しも変わっていません。この世はまさに悪が繁栄する時代。人の欲望をかき立て、正常な判断を鈍らせる者の存在。正義に対して盲目にし、良心の声を聞こえなくしてしまうもの。暴力的な勇気を助長し、正しい勇気を失わせる者の存在。サタン、悪霊。

ヘロデは権力の座につきながら、その小心さのゆえにヘロディアの要求を断ることができずに、良心の声に背いてヨハネを殺してしまいました。人は勇気を持って良心の声に従わない時に罪を犯してしまうのです。もっと恐ろしいことに、ヘロディアには良心のかけらさえもなかったのです。なくなっていたのです。罪に陥った人間の恐ろしさが示されているのではないでしょうか。自分の欲望のためなら邪魔者は消せ。誰かが喜ぶために他の誰かが悲しんでいる。誰かが活かされるために誰かが殺されている。誰かが勝つために誰かが排除されている。これは天の御国、神の国とは真逆の世界です。天の御国、神の国、神が愛をもって支配される世とは、皆が活かされて喜んでいる世界です。しかし、このようにサタンが支配しているように見えるこの世ではありますが、イエス・キリストの到来によりすでに天の御国、神の国は到来しているのです。からし種のように、パン種のように、見えないけれどももの凄い生命力をもって拡大し、完成に向かっているのです。私たちはすでにその神の恵みの支配の中に入れられ、生かされているのです。すべての罪が赦されてもなお罪を犯してしまう、そのような私たちであるのに、神はイエス・キリストにあって私たちを赦し、支え配慮してくださっています。そして私たちが勇気を出してさらに天の御国を求めるならば、赦し赦され、皆が活かされ喜んで生きる世界を勇気を出して求めるならば、すぐ手が届くところにあるのです。

また、私たちは罪に対する神のさばきがあることを忘れてはなりません。ヘロデとヘロディアの後日談として聖書には記されていませんが、彼らはさらに名誉欲を丸出しにして他を顧みることなく画策した結果、裁かれ、財産を没収され、遠くの地に流されてしまい、そこで一生を終えることになってしまいました。彼らは罪によってさらに罪を招き、ついには滅びに至るという典型的な生涯を送ったのです。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコ115)。どんな大きな罪でも、小さな欲望、心の思いから始まり、そこから育った罪悪が想像以上に自分をむしばむのです。苦しめるのです。悪はどんな悪でも勇気をもって捨てなければなりません。私たちも、せっかく罪が赦され贖われたこの大切ないのちを自ら滅ぼしてしまうことのないようにするためには、どこかで勇気をもって罪と罪の世に抗う必要があるのではないでしょうか。ヘロデのように人の目を気にしすぎて、また欲望に溺れて、正義を愛する、主を愛する勇気を失ってはなりません。主をどこまでも愛する勇気を持つために、普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じることを恐れずに(自分の信念を貫き)向かって行く積極的で強い心意気、勇ましい強い心を持つために、やはり私たちはイエス・キリストの十字架による罪の赦し、神の愛、天の御国、神の国を心から「信頼」することから始めるのではないでしょうか。信用ではなく、信頼するのです。無条件で信じるのです。信頼、真の信仰こそ真実の勇気を与えるものです。主を愛し、終わりまで主に従うことのできる勇気を与えるものです。私たちは聖霊によって真実の信仰を求めましょう。求めるならば良いものを与えてくださる父なる神が、私たちのすぐそばにある神の国におられるのですから。与えたい、注ぎたいと待っておられる神に私たちは勇気を出して積極的に求めましょう。

14章12節    それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

12節はただここに記されている訳ではありません。イエス様とヨハネとの密接な関係を示しています。ヨハネの誕生はイエス様の誕生と密接な関係がありました。ヨハネはイエス様の道を備える者でした。ヨハネが真実に自分の務めを果たしてイエス様の来られる道、救いの道を用意したように、その死もイエス様の死を備えるものでした。イエス様の死を知らせるものでした。ヨハネは天の御国を追い求めて生き、正義のために、神の義のために、イエス様のために自分のすべてを献げました。イエス様はヨハネの最期とそれを知り、ご自分も彼と同じような最期へと歩んで行かれることを悟ったのでしょう。そして勇気をもって、覚悟をもって最期まで歩まれました。イエス様もまた、勇気をもって天の御国を追い求めて生き、ご自分のすべてを、いのちさえも献げられたのです。イエス様にとっても決して簡単なことではありませんでした。苦しんだのです。血の汗を流されたのです。人々に嘲られ、苦しめられ、それでも天の御国を追い求め、父なる神の御心を必死に祈り求め、神の御心を悟り、私たちの救いのために、父なる神を一心に見つめ、ご自身のいのちさえも献げられ最後まで歩まれたのです。それはそれは勇気がいることだったでしょう。しかしイエス様には父なる神に対する信頼がありました。その信頼もまた、イエス様は時にひとりさびしい所に出て行って祈り求めました。ゲッセマネの園では苦しみ悶えながら神に祈り求めたのです。私たちはこのイエス様に従う弟子として、イエス様のように天の御国とその義のために、この世にあって勇気を出して歩んで行くのです。イエス様のように、自分が幸せになるためだけではなく、神を愛し、隣人を愛し、皆が幸せになるための勇気をもって、父なる神の愛を信頼して、勇気を出して歩んで行くのです。この世に調子を合わせて悪を行って苦しみを受けるより、天の御国、神の国を慕って善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。義のために迫害される者は幸いなのです。天の御国はその人たちのものだから。そのことを自分の現実とするには本当に勇気が必要でしょう。どうぞ主に祈り求めてください。真の信仰を主に祈り求め、そして今日からもまた、主に従う者、主の弟子として、天の御国を目指して、最後まで勇気をもって歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す