2023年11月26日 主日礼拝「主を愛する者は」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌89「神は独り子を」
      新聖歌99「馬槽の中に」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇96篇7〜10節
讃  美  讃美歌15「我らのみかみは」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌331「主にのみ十字架を」
聖書朗読  マタイの福音書16章21〜28節
説  教  「主を愛する者は」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌376「正義の君なる」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書16章24節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書16章21〜28節

説教題

「主を愛する者は」

今週の聖句

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

マタイの福音書16章24節

説教「主を愛する者は」

マタイの福音書16章21〜28節

先日は犀川の河川敷で恒例の「長野えびす講煙火大会」が開催されました。私も妻と買い物に出たついでに少しだけ車の中から見ることができました。この花火大会の始まりは、11月に行われていたえびす講という商売繁盛・五穀豊穣などを願う人々で賑わう長野市の西宮神社の祭りがあり、その神社の祭りに合わせて商店では大売り出しを行い、住民はそこで冬支度の買い物をするのが慣例となっていました。そのような中、1899(明治32)年に有志が景気づけをしようと花火を打ち上げ、それ以来、えびす講で花火を打ち上げるようになり、長野の冬の花火が恒例になったそうです。どれくらいの人が河川敷に集まったのでしょうか。2017年には40万人の来場者数を記録したと聞いています。河川敷にはたくさんの屋台も出ていたようです。祭りの屋台で思い出すのが、新潟にいた頃に聞いた実際にあった笑い話です。地元の神社の大きな祭りがあり、その祭りは町中にたくさんの屋台が並ぶことで有名な祭りでした。その様子が地元の新聞の一面に大きく扱われ、屋台に並ぶ大勢の人たちの様子が写された大きな写真が一枚載っていました。そこに写っていたのが、焼きそば屋台の行列の先頭に並ぶある牧師の姿が大きく写った写真だったのだそうです。あまり笑える話しではないですが、私も思わず笑ってしまいました。しかし、この世にあってキリストを証しするということがどういうことなのか、なかなか考えさせられる話しでもありました。

さて、前回はピリポ・カイサリアという偶像崇拝、皇帝崇拝の地でのペテロをはじめとした弟子たちの信仰告白のところを見ました。偶像や皇帝の像の神殿を前に、「他の人ではない、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか、じっくり考えて言ってみなさい」という、まことに重要な問いであり、またイエス様に触れる者すべてに迫る質問がなされました。そこで弟子たちを代表してシモン・ペテロが答えました。「あなたは生ける神の子キリストです」。イエス様は言われます。「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」神に召された教会が、私たちが聖霊の力を着せられ、聖霊に満たされて福音を宣教することによって、それを聞いて信じる者には神の国に入る門が開かれ、信じない者にはその門が閉ざされる。教会、そして私たちには大きな主の期待があり、また大きな責任があるのです。

16章21節    そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

イエス様はペテロ(弟子たち)が信仰告白をしたのを機会に、ご自分がメシアとしての苦難の道を歩み、殺され、3日目によみがえるという秘密を、弟子たちに初めて明かしました。そして「示し始まられた」とある通り、これから幾度となくこの秘密を弟子たちに語って行かれます。「公生涯」と言われるイエス様の地上での生涯は、この時点から新しい段階に入ったと言うことができるでしょう。イエス・キリストはこれから活動の拠点としていたガリラヤ地方を去り、エルサレムに向かっていきます。それはエルサレムで苦しみを受けて死ぬためでした。イエス様は「なければならない」と言われました。これはどうしてもしなければならない、ならなければならない、どうしても必要なこと、避けられないことであるということです。イエス様がこれから向かわれる道、敵対者から多くの苦しみを受け、殺され、3日目によみがえるという道は、イエス様ご自身の意志から出たものではなく、神の意志によって定められたものであり、イエス様は、神からこの世に遣わされたメシアとして、その神の意志に忠実に従おうとされていたのです。ご自身の思いや願いを退かせ、神の意志を最優先にされたのです。

長老たち、祭司長たち、律法学者たちはイエス様の敵対勢力でした。自分たちの立場、権威や生活などを守るために、常にメシアであるイエス様に敵対し、排除しようとする者たちでした。常に後をしつこく追いまわし、戦いを仕掛けてきました。そしてその都度、イエス様は勝利されました。弟子たちは、エルサレムでの彼らとの戦いでも勝利するメシアを期待したことでしょう。しかしここでイエス様は彼らに殺されると言われるのです。ペテロはじめ弟子たちはそれを理解できませんでした。

16章22節    すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

実はこのすぐ後、17章でもイエス様は弟子たちにご自分が「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに殺されるけれども、3日目によみがえります」と語られました。すると弟子たちは「たいへん悲しんだ」と記録されています。この「悲しみ」というのはどのようなものだったのでしょう。私はこの悲しみには2通りあるのではないかと考えます。

1つは、イエス様に対する愛情に基づく悲しみです。ペテロはイエス様をわきにお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といさめ始めました。ペテロは主であるイエス様を心から、本当に愛していたのです。誰からの強制でもなく、自由に主を愛していたのです。ペテロがイエス様を愛し、イエス様に対する愛情と善意をもって、イエス様の身を案じて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といさめたことが、イエス様はとても嬉しかったのではないでしょうか。「いさめる」というのは、目下の者が目上の者に注意することです。主に仕える者が主を真心から、忠誠心をもって、自分の命をかけてその過ちや悪い点を指摘し、考えを改めるように忠告することです。イエス様はそのようなペテロの心が、本当はもの凄く嬉しかったのではないかと思うのです。しかし同時に、ペテロの心にはもう1つの悲しみもありました。それは自分自身を愛するがゆえの悲しみでした。ペテロは確かにイエス様の身を案じて愛をもって語りました。それと同時に、当時のユダヤ人にとって、メシアが苦難を受けて死ぬというようなことは、常識ではとても考えられないことでした。彼らにとってメシアとは、力強い勇者であり、あらゆる敵を打ち破り、自分たちを敵の手から解放してくれる人物でした。ペテロはイエス様に対して「あなたは生ける神の子キリストである」と信仰を告白したばかりでした。その信仰告白をイエス様は賞賛されました。ご自分があなたの信仰告白どおりのメシアであることをはっきりと認められたのです。そのメシアであるイエス様が苦しみに遭い、死ぬとは、ペテロにはどうしても考えられませんでした。その思いは、確かにイエス様を愛するがゆえの思いでもありましたが、同時にペテロがペテロ自身を愛するがゆえ、自分のいのちを惜しむ悲しみ、自分の希望、喜び、立場が奪われることに対する悲しみでもあったのです。この2つの思い、2つの悲しみが複雑に混じり合って、ペテロはイエス様に対して思わずこのことばを口走ったのでしょう。

私自身にも思い当たることがあります。神のために、イエス様のためにあのことをしよう、あるいはしないでおこう。その方が主のためでもあるし、主が喜ばれることだから。しかし本当にそうなのか、本当に主を愛し主を優先しているのだろうか。主のみこころを第一としているのだろうか。教会を、キリスト教を、イエス様を悪く思われたくない。その思いはあるけれども、それは本当は主ではなく自分を愛していることなのではないだろうか。主のために、キリスト教は排他的ではない、寛容なのだと思ってもらう方が良いのではないか。本当にそうなのでしょうか。その考えは、自分が嫌われたくない、悪く思われたくない、主を愛しているというよりも、自分を愛し、自分自身のいのち、立場等を守るものなのかもしれません。主よりも自分を喜ばせるものなのかもしれません。

私たちが主を愛する。誰からの強制でもなく、自由に主を愛している。主を愛しているからあれをしよう、これをしないでおこうと考える。その心を主は認めてくださっていますし、その心を主は本当に嬉しく思ってくださっていることでしょう。しかしその心の中に、もしその人の、あるいはその人の隣人のいのちを損じる危険性があることを主が見るならば、主は振り向いて、あえて厳しく言われるのです。

16章23節    しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

マルコの福音書によると、「イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(マコ833)。イエス様はペテロだけではない、弟子たちの中にも同じ思いがあることを見抜いておられました。そしていつものようにペテロを代表者として叱って言われたのです。これは憐れみ深いイエス様にとって、実に珍しいことなのではないでしょうか。先ほども申しましたが、イエス様は弟子たちのご自身に対する愛、心が本当に嬉しかったのです。しかしペテロや弟子たちのためにどうしても言わなければならなかったのです。師弟愛はとても美しいものです。隣人を愛する愛もとても素晴らしいものです。しかし、それがもし神の計画を邪魔するならば、必ず排除されなければならないのです。神が望んでおられることは、すべての人が救われて、真理を知るようになることです(Ⅰテモ24)。

これからご自分は世からいなくなる。弟子たちは独り立ちして、ご自分を、真理を、福音を証しする者にならなければならない。そのためには間違ったメシア像を正す必要がありました。メシアの死と復活による救いを正しく宣べ伝える者にしなければならなかった。そうでないと、福音伝道を通しての「天の御国の鍵」としての役割をきちんと果たせなくなってしまうから。福音を正しく聞いて正しく信じた者には天の御国への扉が開かれ、そうでないと閉じられてしまうから。神のみこころが何か、それを正しく伝え、正しく従う者に天の御国への扉が開かれ、そうでないと閉じられてしまうから。相手に救われて欲しいと願うゆえに、相手に神のみこころではないことを宣べ伝えてはならないのです。神のことを思わないで、人のことを思う。これはサタンの誘惑です。人間的な愛が、神のみこころを何としても邪魔してやろうと躍起になっているサタンに利用されてしまうこともあり得るのです。

イエス様はマタイの福音書4章で、荒野でサタンの試みに遭われました。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国と栄華を見せて、こう言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」すると主は言われました。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」(マタ410)。

「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」。礼拝とは何でしょうか。今朝も私たちは主を礼拝していますが、礼拝とは何だと説明できるでしょうか。実は私たちが手にしている新改約聖書には、欄外に礼拝の意味の説明がされているもの(チェーン式)があります。そこにはこのように説明がされています。「【礼拝】自分の思いを捨てて、神のみこころに従うことが礼拝」。イエス様は十字架に架けられる前の夜、ゲツセマネの園でこのように祈られました。「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタ2639)。これがまさに礼拝であり、礼拝する者の姿、主にのみ仕える者の姿、私たち、そして私たち教会のあるべき姿です。主を信じ、主への信仰を告白し、主を見上げ「地にあるものを思わず、上にあるものを思い」(コロ32)ながら、言葉と生き様を通して宣教(福音伝道)を続ける。そうであるならば、私たちは決して「よみの門」、罪と死の力、この世の支配者、サタンに打ち負かされることはありません。倒されることはないのです。

16章24節    それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

死刑の宣告を受けた囚人は、刑が執行される場所まで自分が付けられる十字架の横木を背負って行かなければなりませんでした。ですから、「自分の十字架を負い」というのは、何か困難を背負って、何か困難を自分に課せられた者として負って行くというよりも、死の覚悟をすること、死んだ者となることを意味しています。「完全に自分を捨てる」ことです。日々、主を礼拝して行く(礼拝とは、自分の思いを捨てて、神のみこころに従うことである)、日々主だけを信じ、主を見上げ「地にあるものを思わず、上にあるものを思う」歩みをして行くことです。

ところで、旧約聖書にナアマンという異邦人の将軍がいます。彼はツァラアトに冒されていましたが、イスラエルの神によって癒やされました。そして自分の国に帰らなければならないわけですが、その時このように言いました。「しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません(拝みません)。どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」(Ⅱ列517-19)。主は「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリ46)と約束してくださっています。もし、主のためにあのことをしよう、あるいはしないでおこうと考える時に迷ったならば、私たちは私たちの思いをすべて明け渡し、主に祈り求めるのが良いでしょう。心に平安があるならば、その選択は主が喜ばれること。心に平安がなければ、心が責めるなら、その選択をやめれば良いのです。主が喜ばれる選択をし、心に平安があるならば、私たちはどこにおいても聖霊に満たされて、落ち着いて、正しく主を証しすることができるでしょう。言葉と行いをもって福音を伝えることができるでしょう。神がすべてを用いて証しとして用いてくださるでしょう。

16章25節    自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

イエス・キリストはご自分のいのちを捨てて私たちを愛してくださいました。イエス・キリストは罪人であったこの私のために十字架にかけられ、いのちを捨ててまでこのいのちを愛し、守られました。ここに愛があるのです。ここに私たちが主を愛する理由があるのです。この主の私たちひとりひとりに対する愛が、私たちが世で自分のいのちを救って全世界を手に入れるために生きるのではなく、キリストのためにいのちを失う人生を歩もうとする力となるのです。主を礼拝したいという心からの願いとなるのです。

16章26節    人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

実はマルコの福音書とルカの福音書には記されていて、マタイの福音書にはしるされていないみことばがあります。マルコの福音書で少し前からお読みします。

【マルコの福音書】
8章34節      それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8章35節      自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8章36節      人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8章37節      自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8章38節      だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救う」「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら・・・」。このようにイエス様は言われています。この時代、この世における宣教(福音伝道)の関連の中で言われていることです。

例えば、「人」あるいは「自分」ということばを「教会」に置き換えてみるとどうでしょうか。このような姦淫(貪り、偶像礼拝)と罪の時代にあって、教会が主と主の福音を恥とし、この世とこの世の人々に調子を合わせ、主を愛しているから、主のためだと言い訳をしながら自分のいのち、自分の立場や面目を守るために福音を語らず、あるいは福音を調子よく変えてしまったり、この世とこの世の人々に調子を合わせ、教会が聖書が示す神の国と神の義とを後回しにして、宣教(福音伝道)を後回しにしてこの姦淫と罪の世にどっぷり影響されてしまうならば、教会が礼拝をなおざりにしてしまうならば、もはや教会はそのいのちを失ってしまうのです。教会にいのちはありません。死んだ教会です。成長も何もないのです。それどころか、教会は滅びに至るでしょう。それはそのまま、個人にも言えることでしょう。

16章27節    人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

これはやがて来る、復活のメシア、イエス・キリストの再臨の時、終わりの時の情景です。そのときには、それぞれその行いに応じて報いるとの主の約束、宣言。私たちはここに恐れを抱くのではないでしょうか。しかしその恐れは私たちの生き方を正しい方向に向けさせるものです。また主の報いがあるということは、本来は私たちを慰め励ますものです。なぜなら、正しいさばき主なる神は私たちの信仰と信仰による良い行いについてすべてご存知のお方であり、それに対しては良い報いを与えてくださるお方だからです。イエス様がやがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来られるとき、自分を捨て、自分の十字架を負ってそれぞれの人生でイエス様に従った行いに応じてさばれ、報われるのです。イエス様がこの世で生きられたその生き方に従う者、神を愛し、隣人(世の人々・罪人)を愛し、そして貧しい者に天の御国の福音を宣べ伝え続ける。このイエス様の生き方に従った行いには、神の良い報いが必ず与えられるとの約束されているのです。

16章28節    まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

「ここに立っている」の「ここ」とはどこのことを言われているのでしょうか。それは「この岩の上に」でしょう。「ここに立っている人たち」とはとのような人たちなのでしょうか。「ペテロの信仰告白の上に」立っている人たちのことではないでしょうか。また教会のことではないでしょうか。確かに教会は様々な迫害や戦いがありながらも今日まで信仰に固く立ち、宣教することによって建てられ続けてきました。そして主が来られる日まで、建てられ続けて行くことでしょう。イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」(マタ1023)。また「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタ2414)と言っておられます。つまり主が来られる終わりの日まで、教会は、また私たちは信仰によって神に最後まで守られ、この世に打ち負かされることなく、姦淫と罪の時代で福音を宣べ伝え続けるのだということです。神がイエス・キリストにあって召し集められ、私たちを宣教へと遣わされるという教会であるがゆえに、私たちの教会は神によって保たれてきたのであり、これからも神によって保たれていくのです。ですから私たちはこれからも、主の召しに応え、宣教へと遣わされる者でありたいと思います。

私たちの信仰、主への愛は真実でしょうか。自分のいのちを救うためのものとなっていないでしょうか。改めて思い巡らせてみましょう。主がご自身のいのちを引き替えにしてまでも、罪人であった私たちを愛された。私たちを愛される。教会を愛される。この愛に私たちはどのように応えて行くでしょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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