2023年11月19日 主日礼拝「ピリポ・カイサリアでの信仰告白」

礼拝式順序

賛  美  「見よ、わたしは新しいことを」
      「神の国に生きる」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇96篇1〜6節
讃  美  讃美歌162「あまつみつかいよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌166「イエス君は」
聖書朗読  マタイの福音書16章13〜20節
説  教  「ピリポ・カイサリアでの信仰告白」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌506「たえなる愛かな」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書16章18節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書16章13〜20節

説教題

「ピリポ・カイサリアでの信仰告白」

今週の聖句

そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

マタイの福音書16章18節

説教「ピリポ・カイサリアでの信仰告白」

マタイの福音書16章13〜20節

先日、何気なくネットニュースを見ていたら、シンガーソングライターのKANさんが亡くなられたニュースが載っていました。皆さんご存知でしょうか。もう30年以上も前になるのですが、彼の「愛は勝つ」という歌が大ヒットし、90年代を代表する曲となりました。「心配ないからね、君の想いが誰かにとどく明日がきっとある。どんなに困難でくじけそうでも、信じることを決してやめないで。信じることさ、必ず最後に愛は勝つ」。多くの人たちを励ましてきましたし、今の時代でもきっと多くの人たちを励ます歌詞ではないでしょうか。誰よりも、当時なかなか芽が出ずに売れなかったご自身を一番励ます歌詞だったのかもしれません。そのKANさんのニュースの記事を読んで驚いたと言いますか、納得したことがあります。それは、彼は小学校の頃に友だちがきっかけで毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い、讃美歌を歌っていたのだそうです。「愛は勝つ」の歌詞は明らかにその時に聞いた福音や経験などが影響しているのだと思います。そしてその曲が、巷に溢れる数え切れないほどの曲の中で埋もれることなく光を放つ。巷には人間的な恋や愛を謳う歌が溢れていますが、その中で本物の愛、神の愛の香り、キリストの香りを漂わせる歌が大ヒットする。神の愛を証しするということは、本当に力強いものなのだと思わされます。異邦人の地であるこの日本でも、それだけ本物の愛、また信じるということに対して強い憧れと言いますか、求める心があるのだと思います。そして何よりも、彼を教会に誘った(伝道した)小学校の友だちが素晴らしいですね。そのことがきっかけとなり、亡くなられたKANさんの人生を最期に至るまで豊かで、希望に満ち、そして平安なものにしたのではないでしょうか。ちなみに彼は洗礼は受けられませんでしたがイエス様を信じ、クリスチャンファミリーのクリスチャンの女性と結婚され、教会にも通っていたそうです。私たちももっともっと神と隣人とを愛し、宣教(福音伝道)に励み、一人でも多くの人を豊かで希望に満ち、最期まで平安をもたらす人生へと導きたいものです。またそれが私たち教会に与えられた神からの大切な使命でもあるのです。教会は一人ひとりが神に召し集められたものであり、集まって来た者の群れではありません。そこには一人ひとりに対する神の目的があり、ご計画があり、神に期待されていることがあるのです。それが宣教(福音伝道)です。

ところで、私の妻が良く言うのです。「私は悔しい」と。何が悔しいのかと言いますと、「元善町にある大きな寺(善光寺)が賑わっているのが悔しい」のだそうです。「日本全国から多くの人々が何かを求めてそこに来てるというのに、どうして教会には来ないのだろうか」と。そして「教会はあの寺に負けないくらい立派な教会を建てれば良いのだ」と。それはどうなのかと思いますが、しかし「悔しい」という思いは、それが妬みであるならば良くないですが、神を愛し、また隣人を愛する者であれば当然出て来る思いなのではないかと思うのです。素晴らしいまことの神がもっと褒め称えられるべきだ。みんな偶像を求めないでまことの神のもとに行って救われて欲しい。神と隣人への真実の愛に基づく「悔しい」という思い。それが私たちの宣教(福音伝道)の原動力となっても良いのではないでしょうか。すべきなのかもしれませんね。

さて、本朝与えられましたみことばは、マタイの福音書16章13節から28節です。ピリポ・カイサリアという地方での出来事が記されています。このピリポ・カイサリアという地方。私は大きくて有名な寺が存在感を発揮しているこの長野の地にも似ているところがあるなと思いました。

ピリポ・カイサリアはガリラヤの北東の高台にある町で、本来の町の名は「パニアス」です。古くから「パン」という偶像の神の聖所を中心とした町でした。この町をローマ皇帝アウグストゥスから与えられたヘロデ大王は、パン神の祭壇の近くに皇帝の像を安置した大理石の神殿を建てました。善光寺如来をまつる本堂におびんずるさんの像が据えられているようなものでしょうか(?)。また、「パン」というギリシア語には「すべての」という意味があるのですが、後にその意味と関連付けて「すべての者の神」として拝まれていたようです。これもまた宗派を問わず、誰でも大歓迎というのに似ています。この偶像崇拝、皇帝崇拝の地で、イエス様は弟子たちを信仰告白へと導かれ、弟子たちは初めてここでキリストを告白することになるのです。ある学者たちの中には、イエス様は弟子たちを大きな岩盤の上に建てられているパン神の神殿、偶像、皇帝の像の前に連れて行き、そこでこれから行われる問答をしたと考える者もいるそうです。それが本当なのかは分かりませんが、しかし興味深い考えではあると思います。いずれにしても異邦人の地、偶像崇拝の地であるピリポ・カイサリアで、イエス様は弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになったのです。そして信仰告白へと導かれた。そこにあるイエス様の意図とは何だったのでしょうか。

16章13節    さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

イエス様は一度はガリラヤ湖の西岸(ユダヤ人の地)に行かれましたが、再び向こう岸に渡られました。それは以前にも見た通り、身の危険を感じたからかもしれませんし、また「隠れていることができなかった(ご自分の思い〈宣教に対する情熱〉を隠しておくことができなかった)」からでもあったかもしれません。そこでイエス様に尋ねられた弟子たちは答えました。

16章14節    彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」

このように、人々のイエス様に対する認識は様々でした。今の世の人々のイエス様に対する認識はどのようなものでしょう。クリスマスの主人公。キリスト教の教祖。教会の大きな十字架とかアクセサリーの十字架に架けられている人だよね。神さまなのか人なのか・・・。認識は様々でしょう。

16章15節    イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

イエス様は、今度は弟子たちの告白を求められます。「他の人々がどのように思っていたとしても、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。ここの「言いますか」という語は、熟慮した上で厳粛に宣言しなさいというイエス様の迫りのおことばです。これは最も重要な問いであり、イエス様に触れる者すべてに迫るイエス様の質問です。この質問を異教の地、大きな神殿、偶像や皇帝の像を前にしてなされるのです。それらを前にして、熟慮させられるのです。

16章16節    シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

弟子たちはイエス様の質問にしばらく考えを巡らせたことでしょう。異教の地で、もしかしたら口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞くことができない、死せる偶像を見上げなから熟慮したのかもしれません。私たちもこの時の弟子たちと同じように、沈黙の中、死せる偶像を見上げながら、今も生きて働かれるイエス様とのこれまでの歩みを一つ一つ振り返って熟慮すべきです。そして私たちはイエス様の質問に何と答えるでしょうか。

弟子たちの沈黙を破ってなのか、シモン・ペテロが弟子たちを代表して答えました。「あなたは生ける神の子キリストです」。この告白というのは、ペテロはじめ弟子たち一人ひとりが、イエス様との出会いから始まってその時までに経験したすべてのこと一つ一つを、イエス様の質問に重ねて思い巡らし、そして辿り着いた答えだったのでしょう。だからと言って、この時初めてイエス様がキリスト(メシア・救い主)であることに気づいたということではありません。この方がキリスト、つまり神が任命された偉大な職務の遂行のために油注がれた者、来るべきメシア、待ち望んでいた救い主ではないかという思いがあったからこそ、弟子たちはイエス様に従って来たのです。しかし彼らは、およそ2年間にわたってイエス様と寝食を共にし、イエス様の人格に触れ、その教えと働きに接するうちに、確信を持ってこの時「あなたはまことにキリストです。あなたはまことに生ける神の子です。」と告白することができるようになったのです。

「神の子である」とは、イエス様が神と同等の神性を持つこと、イエス様が神であることを指すものです。そしてこの信仰告白こそが、それを告白する者に救いを得させるのです。父なる神が恵みによってそのようにお定めになったのです。罪が染みついている、どこまでも罪人である人間が、良い行いによって救われるのだとしたら、誰一人救われることはありません。完璧に良い人間になどなれませんから。少しでも油断すればすぐに悪いことを考えてしまう私たち。そして悪いことをしてしまう私たち。私たちの目は今、何を見ているでしょう。手は何をしているでしょう。足はどこに向かっているか。心には今、何があるでしょう。先ほど罪の告白をしましたが、そのままの姿があるのではないでしょうか。そのような私たちを赦し救うために、父なる神は恵みによって救いの道を定めてくださいました。それはやがて私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架けられ、苦しみ、罪の悲惨さを味わわれ、死んで葬られ、3日目によみがえられ、今も生きて神の右の座に着かれて私たちのためにとりなしてくださっているイエス・キリストを私の神、救い主と信じ告白することです。

16章17節    すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

バルヨナ・シモン。バルヨナとはヨナの子という意味です。ヨナというのは、シモンの父であるヨハネの別名、もしくは短縮形なのか、ヨハネはヨナとも呼ばれていたようです。そのバルヨナ・シモンと正式の名で呼ばれる。まことにおごそかで、心が引き締まるような場面です。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」。なんと幸いなあなた。イエス様はペテロの信仰告白をほめながら、そのような信仰告白をしたあなたは神に祝福された者だと語られます。以前にも申しましたが、「祝福」のもともとの意味は、「神が膝を折られる」ということです。信仰告白をしたあなたに、罪も咎もあるまま神の前にひれ伏し、信仰を告白する者に、神が膝を折られ近づいてくださる。ともにいてくださる。赦してくださる。「バルヨナ・シモン。アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、ゼベダイの子ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダよ。○○よ。あなたは幸いです。神に祝福された者です。赦された者です」。

イエス様に対する信仰告白をしたペテロに、またすべての弟子たちに、イエス様はそのような信仰告白ができたことは神の恵みであると語られます。「そのことを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父、神である」と。

「明らかにした」。それは覆いが取り除かれるということです。ベールに包まれていたような、もやがかかっていたような、イエス様がまことの生ける神、またメシア救い主であるという考えが、イエス様との出会いから始まったこれまでの経験を思い巡らせるうちに明らかにされた。そしてその気付きと言いますか、悟りは、血肉つまり人間の知恵や力によるものではなく、天におられる父なる神の助けによってのみ可能なのです。私たちの目は見てはいるが見ていない。私たちの耳は聞いてはいるが聞いていない。人間の知恵や力では、イエスは生ける神の子キリスト、イエス・キリストを信じることはできないのです。神が注がれる聖霊の力の助けがあったので、ペテロはじめ弟子たちはそれを告白できたのです。私たちもそれを告白できたのです。

聖霊が注がれた。聖霊の力。その力とは何でしょうか。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ123)。すべてのことを教え、イエス様が話されたすべてのことを思い起こさせることのできる聖霊(ヨハ1426)が与える力というのは、信じる力、信仰を告白する力。そして宣教の力です。聖霊によるのでなければ、自分の中で「イエスは主である」と告白することはできません。そして、聖霊によるのでなければ、世の人々の間で「イエスは主である」と告白することはできないのです。

16章18節    そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

ここにはイエス様による言葉のあやがあります。言葉のあやというのは、なかなか表現しにくい微妙な事柄を言い表すために用いられる巧みな表現のこと。

イエス様はこの時、シモンにペテロという名を与えられました。ペテロはギリシア語で「ペトロス(石または石の塊という意味)」です。そして「この岩の上に、わたしの教会を建てます」。「この岩」の「岩」はギリシア語で「ペトラ(岩または岩盤という意味)」です。ペトロスとペトラと、はっきりと言い分けられているのです。ですからペテロという一人の人間の上に教会を建てるというのではありません。では何の上に教会は建てられるのでしょうか。

イエス様が「あなたはペテロです」と言われたのは、ペテロという人物よりも、イエスを「神の子」と告白した者としてのペテロのことです。イエス様の信仰を告白した者がペテロ(ペトロス・石)と呼ばれ、石が集められペトラ(岩あるいは岩盤)となったその上に教会が建てられる。岩盤というのは良く「きわめて強固で崩しがたいもの」という意味で用いられます。

先ほども申しました偶像の神「パン」の祭壇、そして皇帝の像を安置する大理石の神殿は、大きな岩、岩盤の上に建てられていました。イエス様はペトロス、ペトラと言われましたが、ここにも弟子たちを大いに考えさせる意図があったのでしょう。

教会は、ペテロのその信仰告白の上に建てられる。そして同じ信仰告白という岩盤の上に、きわめて強固で崩しがたいものの上に、ますます強固に教会は建て上げられて行くのです。

教会はまた「からだ」にたとえられます。「キリストをかしらとして、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していく」のだと聖書は教えます(コロ219)。また「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになる」と教えます(エペ416)。ペテロのような信仰告白をする者が集められ、ひとつの教会となる。集められた者たちは神が目的とご計画をもってそこに召し集められた者。自分の思いや計画によって集まってきたものではありません。その教会は神に育てられて、愛のうちに育まれて成長していくのです。しっかりと組み合わされ、つなぎ合わされ、強固なものとされていく。そのような教会であるならば決して「よみの門」に打ち負かされることはありません。よみの門とは、罪と死の力のことでしょう。よみの力、罪と死の力は聖霊による同じ信仰告白のもとに固く建て上げられている教会を打ち負かすことはできません。たとえ押し倒そうともの凄い勢いや力で押さえ込もうとしてもそれはできないのです。

教会の歴史は戦いの歴史でもあります。そして「私たち(教会)の格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天井にいるもろもろの悪霊に対するもの」であると聖書は教えます(エペ612)。もし教会が聖霊による信仰告白のもとに固く一致しているならば、そして神に召し集められた一人一人がそれぞれに神に託され任された働きをきちんと果たしているならば、偶像崇拝へと誘う悪の力に負けることはありません。偶像に負けることはありません。元善町の寺に負けることはないのです。2000年の教会の歴史を支えてきたものは何でしょうか。イエスをキリストであると告白する信仰以外の何ものでもありません。多くの信者が殉教したのはなぜでしょうか。イエスがキリストであるという信仰告白を固く守ったからでしょう。それらすべて、人間の力によってなせることではありません。聖霊の力によるのです。このような世にあって、それでもイエスをキリストであると告白できるのは、まさに奇跡であり、恵みであり、父なる神が私たちの心の中に働かせてくださる聖霊の働きによるのです。この聖霊の働きを否定してしまっては、もはや教会は教会ではなくなってしまいます。もの凄い勢いや力で押さえ込もうとしている罪と死の力に、簡単に打ち負かされてしまうのです。倒されてしまうのです。そして聖霊の力。それは宣教(福音伝道)の力でもあると申しました。悪魔、サタン、偶像崇拝へと誘う力に満ちているこの世にあって、なおも宣教をあきらめない力、宣教をやめさせない力。私たち教会は今、この聖霊の力に満たされているでしょうか。この宣教に対する熱い思いがあるでしょうか。神を愛し、また隣人を愛する愛に満たされ、宣教に対するあきらめない力に満たされているでしょうか。そうでないとしたら、もはやそこは神に召し集められたキリストの教会ではありません。

16章19節    わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

鍵というのは扉を開いたり閉じたりするためのものです。何の扉かと言いますと、その鍵が「天の御国の鍵」であるのですから、天の御国、神の国の扉です。その天の御国の扉を開いたり閉じたりするための鍵は、元来イエス・キリストが持っているものでした(黙37)。ですがここではその権限がペテロに、いや、ペテロの信仰告白をする者すべてに、教会に与えられているのです。託されているのです。大きな責任があるのです。教会が、つまり教会に召し集められている一人一人が宣教(福音伝道)することによって、それを信じる者には天の御国、神の国に入る門が開かれ、信じない者にはその門が閉ざされることになるのです。「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」(ロマ1014)。すべての人がイエス・キリストを信じ救われて、永遠のいのちを持つことを望んでおられる神。愛とあわれみ満ちておられる神、神の恵みによって救われた私たち。当時まだ罪人であった私たちに注がれた神の愛。同じ神の愛が、霊的な戦いの中にあるすべての人に注がれているのです。そして神は「わたしを愛しなさい。わたしが愛するあなたの隣人を愛しなさい。わたしのみことばをすべての人々に宣べ伝えなさい」そう仰っているのです。そして私たち教会を、一人一人をそれぞれの場所場所へと遣わされるのです。あなたにしか伝えられない人々の所へと、主は私たち教会を、一人ひとりを遣わしておられるのです。皆さんは先週、何人の方に主を証しされたでしょうか。何人の方の救いを願って教会にお誘いしたでしょうか。

16章20節    そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

イエス様は弟子たちに注意を与えられました。イエスがキリストであることを口外してはならないと命じられました。これはイエス様が復活の後に命じられた「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていないさい」(ルカ2449)、また「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使18)とのおことばと関係があるのではないでしょうか。私たちはすでに力が着せられています。聖霊が注がれています。この世にあって「イエスは主である」と告白することができる力が与えられており、そして宣教の力が与えられているのです。ですから私たちは、しっかりとした信仰告白の上に堅く立ち、偶像崇拝に満ちているこの世に出て行くのです。福音を携えて遣わされて行くのです。行くことができる者とされているのです。

イエス様は今日も、この長野の地においても、私たち一人ひとりに対して「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と問いかけています。私たちはこの問いに対して、何と答えるでしょうか。これまでのそれぞれのイエス様との歩み、経験を一つ一つを振り返り、このお方がどなたであるのか、今一度熟慮し、そして正しい信仰告白へと導いていただきましょう。その信仰告白という堅い土台の上に私たちは一致して堅く立ち、イエス様によってその上に堅固な教会を建て上げていただきましょう。そして私たちは主の期待と信頼に応えて、この地にあって主に守られつつ、力をいただき、力強い働きを成し、霊的にも、教勢的にも立派に教会を成長させてまいりましょう。支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天井にいるもろもろの悪霊に対する戦いに勝利してまいりましょう。神を愛し、隣人を愛し、そして宣教によって、ますます私たちを愛し、また私たちが愛する神の栄光を現してまいりましょう。

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