2024年3月10日 主日礼拝「宮をきよめる再臨の主」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌89「神は独り子を」
      新聖歌221「ああ主のひとみ」
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書53章7〜9節
讃  美  讃美歌11「あめつちにまさる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌130「よろこべや」
聖書朗読  マタイの福音書21章12〜22節
説  教  「宮をきよめる再臨の主」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌502「いともかしこし」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書21章22節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書21章12〜22節

説教題

「宮をきよめる再臨の主」

今週の聖句

あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。

マタイの福音書21章22節

説教「宮をきよめる再臨の主」

マタイの福音書21章12〜22節

皆さんは神を信じ、神を求める信仰者として、自分がしていることがふさわしくないとどこかで感じたり気づいていたりしつつも、続けてしまっていることはないでしょうか。あるいはしなければならないのにと思いつつもできていないことはないでしょうか。私には色々とあります。どうしてなのかと考えてみると、やはり神の御力(全能)と御性質(愛・聖・義)を心の底から信頼していないからだと思います。「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません」とは、イエス様のみことばです。私たちは使徒信条をもって私たちが信じていることを告白しました。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」との信仰の告白をしましたが、神は全能なるお方、そして神は父の愛をお持ちのお方であることを信じています。その神の全能、愛、聖、義、つまり完全な親心。神の御力と御性質を決して冒瀆してはなりません。汚してはならないし、馬鹿にしてはならないのです。神はどこまでも神であられ、私たちは神ではないことはもちろんのこと、神に並ぶことなどできないからです。祈りにしてみても、神の御力と御性質をとことん信じて、神は全能であり、愛、聖、義なるお方であることをとことん信頼して、「あなたの御心がなりますように」と心の底から祈っているでしょうか。神に肩を並べ、自分の考えが神のお考えよりも優れているかのように、「ああして欲しい、こうしてくださるべきだ」とうるさく申し立てていることはないでしょうか。しかし、神でありながらも膝を折られ、ご自身の身を低くすることさえおできになる全能であり愛である神は、そのような祈りさえも無視することなく、耳を傾けてくださっておられるお方です。本当にありがたいことです。

ある先生が、聖書の中で一番悲しい場面として、あるところをあげておられるのですが、どこだと思いますか。それはエゼキエル書で主の栄光が神殿から去る場面です。エゼキエル書10章で主の栄光が神殿の敷居から東の門の入口へと移動し、11章では神殿の東の門から出て東の山(オリーブ山)へと去って行く場面が描かれます。神殿から主の栄光が去るということは、神殿から神の臨在がなくなることを意味します。もう神が私たちとともにおられない。これほどの落胆、悲しみはあるでしょうか。実際、神はユダの滅亡とともにソロモン神殿を離れ去りました。その神が、救い主イエス・キリストとして実に600年ぶりに完全な救いと新しい契約を結ばれるために再びイスラエルの民のところに戻って来られました。

例えは悪いですが、もし私が私に対する家族の悪態に怒って長期間家出をしたとしましょう。それはきっと反省してくれることを望んでのことでしょう。それがさばきというものです。家を出た私は、恐らく変わらずに家族を養うために働き、家族に何らかの形で生活を支えようとするでしょう。そろそろかな、仲直りしようかなと思って家に帰ってみると、家族は私抜きでご馳走を食べ、好き勝手なことをして楽しそうに暮らしていたとしたら、私はどう思うでしょうか。

600年もの間、全能であり、また愛であり、聖であり、義である神は決してイスラエルを見放さず、眠ることもなく、まどろむこともなくイスラエルを守ってこられました。600年もの間、神は変わらずにイスラエルの民に真実の愛を尽くして来られた。そしてついに約束を果たそうと、東のオリーブ山のふもとでろばを備えられ、子ろばの背に乗って救い主としてご自分の宮に戻って来られたというのに、その神の国の王が目にした光景はと言うと…。

21章12節    それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

エルサレムに入られたイエス様は、エルサレムの中心である宮へと行きました。子ろばに乗って柔和で平和の王として来られたイエス様が、宮で物を売る者たちを追い出し、両替人の台を倒されました。ヨハネによると、細縄で作ったむちをブンブン振るい羊や牛を宮から追い出し、両替人の金をバーッと散らして、その台をドカーン倒したとのことです。柔和でへりくだり、人々をやさしく癒やされたイエス様とは別人のようでした。しかしこのお方も間違いなくイエス・キリストです。どうしてイエス様はそのようなことをされたのでしょうか。それは祈りの場所であるべき神の宮が、強盗の巣になっていたからでした。

21章13節    そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」

イエス様の時代の神殿は、ヘロデ王がユダヤ人の歓心を買うために、ゼルバベルの第2神殿を増築したものでした。神殿の境内には、一番外側に「異邦人の庭」と呼ばれるところがあり、そこに両替人や鳩を売るものたちがいました。この時、年に一度の過越の祭りの期間中。遠く地中海からも多くのディアスポラ(第1神殿崩壊、散らされたユダヤ人)が巡礼者としてエルサレムを訪問したのですが、遠くから来る人たちが羊や牛などのいけにえを持ってくることは容易ではなかったし、その上、いけにえには傷があってはいけなかったので、せっかく大変な思いをして連れて来た動物が万が一、旅の途中で(エルサレムは谷に囲まれた丘の上にありましたから、旅の最後の最後になって道の悪い急な上り下りの坂で)小さな怪我でもしてしまったなら、もう苦労は水の泡。しかも神殿では、ささげる犠牲の動物が、ささげ物にふさわしいかどうかを調べる厳しい祭司の目が光っていたのです。そこで、あらかじめ調べられた物が神殿の境内で売られており、それを買う方が手軽でした。神殿に着いてから、傷のないいけにえを購入することが「許可」されていたのです。誰に。祭司たちに。一見とても親切に見えますが、実際はそうではありませんでした。しかもいけにえとして鳩も売られていました。鳩は貧しくて牛や羊をささげることができない人たちのために定められた動物でした。イエス様の肉の両親であるヨセフとマリアは、イエス様がお生まれになって、モーセの律法に従ってこのエルサレムの神殿に上り、幼子イエス様を主に献げるために犠牲を献げたのですが、それは鳩でした。貧しい夫婦だったからです。神はあわれみによって、貧しい者であっても犠牲を献げることができるようにご配慮くださったのですが、この時の神殿では、神のあわれみさえも利用し商売がされていたというのですから驚きです。イエス様に向かって「神を冒瀆している!」と騒ぎ立てた祭司だか律法学者がいましたが、本当に神を冒瀆しているのは誰なのでしょうか。

また、成人男性に課せられた神殿税(神殿への納入金)があったのですが、それは半シェケルという決まりでした。しかもそれはギリシアやローマの通貨ではだめで、一般的な通貨ではなかったユダヤの通貨で納めなくてはならない決まりになっており、巡礼者はどうしても両替しなければなりませんでした。そして両替人たちは多くの手数料を取って、莫大な金を儲けていたのです。いけにえを献げる理由よりも、人間の利便性を優先させ、それが次第に商業化しながら拡大して行った。商人はこれらのことにより金儲けをしていたのですが、その背後には祭司たちがいて、商人たちの儲けの上前をはねていたという事実。ユダヤの指導者たちは、民を正しく真の礼拝と祈りへと導くことよりも、経済的な利得ばかりを求めた。その堕落やいかに。

強盗の巣。強盗とは、暴行・脅迫してお金や大切な物を奪うもののことです。「神殿を強盗の巣にしている」。あれをしなければ、これをささげなければ悪いことが起こると脅し金品を貪り取るようなこの世の宗教、偶像礼拝と何ら変わりない。がっかりではないでしょうか。救い主、王としてエルサレムに入られたイエス様もまた、がっかりだったのではないでしょうか。神の民の、そして祭司たちの堕落、霊的な鈍感さ。それをイエス様は責められたのです。

それにしても、イエス様が暴れまくったのを、誰ひとり止めようとする人はいなかったのだろうかと、少し疑問に思います。もしかすると、自分たちがしていることが宮にふさわしくないことを知りながらも、あるいはどこかで感じつつもそれを行っていたので、イエス様が暴れまくっても止められなかったし、何も言うことができなかったのかもしれません。

神への冒瀆に満ちていたこの宮。そこに集まる人々。そのような人々の中にも、イエス様に会おうとみもとに来た人々がいました。

21章14節    また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。

目の見えない人や足の不自由な人は宮に入ることさえ許されていませんでした。しかしイエス様は宮で彼らに会われ、癒やされるのです。宮というのは、その身に傷を負い、心に痛みを抱える者たちが、その傷や痛みを神に差し出して切に祈る者のためにあるのだと、そして宮とは、そのような者が神に会い、触れていただき癒やされるための所。イエス様がきよめられたこの宮は、本来、弱くて疎外された者たちにも開かれた祈りの家です。罪人が罪を洗われて聖なる神に会ってたましいが回復され、心からの感謝と喜びをもって神を賛美するところです。罪赦された者たちが賛美をもっていけにえを、賛美のいけにえを献げるところです。イエス様は目の見えない人たちや足の不自由な人たちをみもとに招き、癒やされることによって、そのことをここに示してくださったのでしょう。私たちもそのようにしてこの宮に主によって招かれ、この宮で主と出会い、癒やされ、赦されたのではなかったのでしょうか。では、他の自分以外の癒やされた人、赦された人を見てどのような感情を抱くのでしょう。他の自分以外の人のイエス様に対する感謝、賛美を見たり聞いたりした時、どのような感情を抱くでしょうか。

21章15節    ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、

民を神の前に導き、神の赦しへと導くはずの祭司長たちや律法学者たちは、なんと腹を立てるのです。イエス様の癒しの恵みを見ても喜ぼうとしないどころか、腹を立てるのです。

祭司長たちと律法学者たちは、イエス様に商業主義の宗教を批判され、核心を突かれたためにぐうの音も出ず、そのイエス様が民衆に歓迎され、子どもたちにまでメシアとして賛美されている様子を見て、もう黙っていられなくなったのです。

21章16節    イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

祭司長たちと律法学者たちは、子どもたちの叫びを聞いても制止しようとしないイエス様に怒り、「子どもたちが何と言っているか、聞いているのか」と尋ねました。「子どもたちが、おまえをメシアだと言っているが、それが聞こえないのか。それを放置しておけば、おまえは自分がメシアだと認めることになる。それは神を冒瀆する重罪だぞ」と。神の宮で神を冒瀆しているのは誰だと言ってやりたいところです。イエス様は詩篇8篇2節を引用し、彼らに問い返しました。

詩篇8篇2節「幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために」。

イエス様は「メシアは幼子や乳飲み子たちから賛美されるのだ」と答えました。そして彼らの「見ているが見ていない、聞いているが聞いていない」そのような霊的無知を叱られました。「真っ先に賛美すべき大人(つまり祭司や律法学者たち)は、その心が頑なで、しかも偏見があるためにメシアであるわたしを賛美しないけれども、幼子や乳飲み子は素直にわたしをメシアと認める。そしてその幼子と乳飲み子の賛美を受ける者、つまりメシアは、このわたしである」と。

イエス様は、祭司長や律法学者たちの敵意を見抜いて暗に批判したのです。その批判に彼らはひと言も返答することができませんでした。自覚があったからでしょう。そしてイエス様と彼らとの対立は、ますます激しくなっていきました。その彼らがわずか数日後に、巡礼者たちを煽り立て、神であり救い主であるイエス様を十字架につけるように仕向け、殺してしまうのです。私たちの内に、イエス様に敵対する心はないでしょうか。もしあるとするならば、私たちは後に残され、イエス様はそこを去って行ってしまわれます。宮から離れ去ってしまわれます。これほど悲しいことはないでしょう。

21章17節    イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。

イエス様は祭司長たちや律法学者たちを後に残し、エルサレムから東に3㎞ほど離れたベタニアに行かれ、そこに泊まられました。過越の祭りの期間中、エルサレムは多くの人々と動物でごった返しており、泊まるのが困難だったからでしょう。ここにはイエス様の居場所がなかったのです。イエス様がお生まれになった時もそうでした。住民登録のために村は人でいっぱいで、宿屋は満杯。そこで聖書は言うのです。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と。

21章18節    さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

再び、イエス様はエルサレムの都に行かれます。そしてこの行かれることを「帰る」とマタイは言うのです。朝早く都に帰る途中の出来事が記されます。

イエス様は「空腹を覚えられ」ました。この「空腹」という語は、お腹が空くという意味の他に、「むなしい」とか「切実に望む」という意味もある語です。イエス様は朝早く、昨日目撃したあのエルサレムの都、宮へと帰られる途中、空腹を覚えられた。空しさを覚えられた。そして何かを切実に望まれました。

21章19節    道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

イエス様はいちじくの木が見えたので、そこに行かれました。しかし、葉っぱだけで実がなっていないので、イエス様が「今後いつまでも、おまえの実は成らないように」と言われると、たちまちいちじくの木は枯れてしまいました。実に不思議な物語です。並行箇所のマルコの福音書11章13節には「いちじくのなる季節ではなかった」と言われています。実際、いちじくは夏にならなければ実を結ばないものですが、イエス様は過越の祭りの時にエルサレムに行かれたので、時は春でした。ですからまだ実がなっていないのは当然です。そしてある程度時間が経ってからではなく、「たちまち」枯れたと言っています。

神は、時に象徴的行為(ある物事を暗示する)を行わせてご自身のメッセージを示されます。エゼキエルには、エルサレムの町のジオラマを作らせて、戦争ごっこをさせたりして、ご自身のメッセージを語り、そして語らせたなどということもありました。イエス様もここで、いちじくの木をイスラエルの象徴として用いておられます。いちじくの木に実がなかったように、霊的に実りが望めないイスラエルに対し、神は徹底的なさばきを与えられることを教えようとされたのです。実のところ、イスラエルの民、特に祭司長たちや律法学者たちは、マタイの福音書から400年前に記されたマラキ書を見ても分かるように、口先や外見上は神を崇めているように見えるけれど、心は遠く神から離れており、何よりもイエス様をメシアとして受け入れようとしませんでした。これはちょうど、葉っぱばかり繁っても少しも実を結ばないいちじくと同じです。外見上はモサモサで立派だけれども、実がなっていない。実を結んでいない。600年ぶりに戻られた神、イエス・キリストはそのような彼らに、やがて神のさばきが与えられることを示されたのです。「たちまち」どうすることもできず、顧みる余裕もなく、急激に「枯れる」。その木はもはや生産能力を失ってしまう。つまり彼らは、そして私たちも、外見だけは敬虔な信者のように見せかけても、心の中に神に対する真実の信仰がないならばそれは無意味だということです。

21章20節    弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。

イエス様はこの機会を利用して、祈ること、祈りの力について弟子たちに教えられました。

21章21節    イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。

いちじくの木がたちまち枯れたのは、明らかに神の超自然的な力、全能の力によるのですが、もし私たちも本当に信じて祈るなら、神の力によって不可能な事も可能にされると、イエス様は述べておられます。神を信じて祈る真実な祈りは、必ず実を結ぶのです。それは「たちまち」ではないかもしれない。しかし神は最初の祈りを必ず聞いてくださっています。忘れることなどありません。すべてを取り計らわれ、すべてを働かせ、神の時に向かって、徐々にです。神はイスラエルの民が約束の地に入り、すぐに罪深い先住民を滅ぼされることはなさいませんでした。そうするならばイスラエルの民がともに滅んでしまうことをご存知だったからです。良く聞く話しで、宝くじで急に高額当選を果たして億万長者になった人が、その後一生喜びの人生を歩むかと言ったら、実は破滅してしまう人が多いとか。神は私たちの最初の祈りを聞き、忘れることなく覚えておられ、徐々に答えられる。待つ時間を過ごす中で、私たちが滅びることのないようにどっしりとした根っこ、信仰を育ませ、大きく立派で本当に益となる実をならせるのです。

21章22節    あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」

たちまち枯れてしまったいちじくの木を見て驚く弟子たちに、イエス様は「あなたがたが信じて疑わないならば、信じて、信じ続けて祈り求めるならば、何でも受けることになる」と言われました。そうです。何でも受けることになるのです。神を信じて疑わない祈りに、創造主なる神が答えてくださるので、「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えばそのとおりになるのです。創造主なる神の御力と、御性質を心から信頼し、「信じて祈り求めるものは何でも受ける」のです。

私たちは何でも祈って良いのでしょう。神を信じて熱心に祈るべきでしょう。しかし、神には私たちに祈って欲しいことがあるようです。イエス様は弟子たちに祈って欲しいことがあったようです。

イエス様はひとつの文脈の中で祈ること、祈りの力について語られています。21〜22節が単体で語られているわけではありません。「山」とは何でしょうか。ここで信じて祈り求めることにより、弟子たちに、私たちに与えたいと願われていることとは何なのでしょうか。主の御心を無視して自分の願望だけを祈り求めることは間違いだと言わざるを得ません。それでは偶像礼拝とまるで変わらないのではないでしょうか。私たちは神の御力と、御性質を心から信頼し、神を信じる信仰者のはずです。神の全能なる御力、愛とあわれみ、聖と義の御性質。

「山」とは何か。それは祭司長たち、律法学者たちの不信仰ではないでしょうか。見せかけだけで実がない信仰ではないでしょうか。もう動かすことのできない大きな問題。そのままでは彼らは滅びてしまう。そこでイエス様は弟子たちに何を期待したのでしょうか。何を信じて、何を祈って欲しかったのでしょうか。それは神の全能なる御力。不信仰な者に信仰を与えることのできる御力、罪人を救うことのできる御力。そして神の愛とあわれみの御性質。罪人を愛し、あわれまれる御性質。そして聖であり義である神は、罪を認めて何としても救われよ、イエス・キリストにある赦しと、永遠のいのちを得よと願われるのです。

600年ぶりにご自分の宮に再臨された主。その主が見た光景。強盗の巣と化した宮。イエス様は宮をきよめられました。過越の祭りで賑わう多くの人々の心の宮をきよめられました。弟子たちの心の宮もまたきよめられました。それはすべての人が真の信仰が与えられるように願われてのことです。父なる神はすべての人を愛し、あわれまれるお方だからです。聖であり義なるお方だからです。祭司長たち、律法学者たちでさえも愛し、あわれまれ、全能の御力によって救おうとされるお方だからです。そこには信仰者の真実な祈りが必要なのです。神の御力と御性質を心から信じ祈り求める、真の信仰者祈りが必要なのです。大きな山を動かすことができるのは、真の信仰による祈りだからです。イエス様はまず、ご自身に従い、寝食を共にし、ご自身の生き様すべてを通して教えて来た弟子たちにそれを期待されたのでしょう。私たちに期待しておられるのでしょう。わたしの敵を愛し、敵のために祈りなさいと。

考えてみるならば、敵であり、祈りの家を強盗の巣にしてしまった祭司長たちや律法学者たちさえも、それでも愛し救おうとされるその愛とあわれみによって、私たちは救われたのではないでしょうか。そして罪人を救うことのできる神の御力と御性質を信じて祈る、信仰者の祈りがあったのではないでしょうか。この私が救われるために、教会は祈ってくださいました。あんな奴は救われない、救われるはずがないと考えるならば、あんな奴であった、あんな奴である私も救われないでしょう。私たちは神の御力と御性質を本当に信じて、祈りましょう。

いま主は、神の宮、神の神殿である私たちをどのように見ておられるでしょうか。ユダヤの指導者たちのように、イエス様が期待される礼拝と祈りがなく、この世的な豊かさや成功、安楽を求めることに没頭しているならば、イエス様によるきよめが必要です。主の御力、御性質、全能の力、愛とあわれみによって私たちはきよめられ、溶かされて、悔い改めて、神の望まれる実を豊かに結んでまいりましょう。神をほめたたえ、苦しむ隣人のために仕え、神の神殿、祈りの家とされた聖徒としての役割を果たしてまいりましょう。それは神の御力と御性質を信じ、山をも動かす信仰をもって人々の救いを祈ることです。神の御力と御性質を本当に信じるならば、何を祈り求めるべきかも自ずと分かってくるでしょう。宮をきよめられたイエス様に助けを求め、日々、私たちという宮がきよめられることを慕い求めてまいりましょう。主は宮をきよめてくださいます。

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