2024年3月17日 主日礼拝「従順がなければ」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書53章10〜12節
讃  美  讃美歌12「めぐみゆたけき主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌142「さかえの主イエスの」
聖書朗読  マタイの福音書21章23〜32節
説  教  「従順がなければ」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌324「主イエスはすくいを」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書21章31b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書21章23〜32節

説教題

「従順がなければ」

今週の聖句

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。

マタイの福音書21章31b節

説教「従順がなければ」

マタイの福音書21章23〜32節

何年か前に出版された本で「人は見た目が9割」というものがありました。本の紹介にはこのように書かれています。「喋りはうまいのに信用できない人と、無口でも説得力にあふれた人の差はどこにあるのか。女性の嘘を見破りにくい理由とは何か。すべてを左右しているのは『見た目』だった!」。人が誰かを評価するとき、相手の顔つき、服装、姿勢、言葉遣い、距離感、年齢や性別、対格などの身体的特徴など、多くの非言語情報を無意識のうちに判断材料にしているというものです。最近フェイスブックやTikTokで良く流れてくる格言があるのですが、「性格は顔に出る。生活は体型に出る。本音は仕草に出る。感情は声に出る」といったものが非言語情報といわれるものなのでしょう。こういったものを上手く利用して自分を演出することは可能でしょう。ところが日本にはこんなことわざがあります。「人は見かけによらない」。意味としては、見た目の印象と異なっていることを言います。私たちは良く「あの人は見かけによらず良い人だ」とか「見かけによらず悪い人だ」などと言います。前回から登場しているその時代の祭司長たちや律法学者たちは、「人は見た目が9割」を一生懸命生きてきて、イエス様に「人はみかけによらない」と非難されてしまった人たちだったのかもしれません。イエス様がお嫌いな偽善者です。それは私たちにとっても決して他人事ではないでしょう。しかし神はそのような祭司長たちや律法学者たちに大きな期待をしておられたことも事実です。前回の18〜22節で、エルサレムに上られる途中、空腹を覚えられたイエス様が、実を期待して立派に葉を茂らせているいちじくの木に近づくと、なんとその木には実がひとつもなかった。するとイエス様はそのいちじくの木を枯らしてしまいました。そのことを通して、その時代の祭司長たちや律法学者たちがどれほど神の期待を裏切っているかを語られたのです。

神はすべての人に大きな期待をされています。それは「すべての人が救われて、真理を知るようになること」(Ⅰテモ24)。そして信仰の実、悔い改めの実、献身の実を結び、永遠のいのちを得ることです。救われるために、真理を知るためにまずしなければならないことは、聞くことでしょう。聖書に「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことば(福音)を通して実現するのです」(ロマ1017)とあるとおりです。ただ聞くだけではだめです。そこに神の権威、みことばなる神の権威に対する従順が必要です。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。『主よ、私たちが聞いたことを、だれが信じたか』とイザヤは言っています」(ロマ1016)。旧約の時代から今に至るまで、人は本当に強情で、かたくなで、権威を認めようとしない、何とかあらを探して権威に逆らおうとする性質を持つ罪人です。しかし天の御国は、そのような罪から立ち返り、悔い改めて「従う者たち」に開かれているのです。誰に従うのか。もちろん主です。どのように従うのか。主のみことばにへりくだって、自分自身を省み、悔い改めて従うことによってでしょう。そのことが示されている今日のみことばに聞いてまいりましょう。そこに記されている論争は、イエス様が宮に入って教えられる、その時に起こりました。

21章23節    それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」

イエス様が神殿で教えていると、祭司長や民の長老たちがやって来ました。彼らは71人の長老からなるサンヘドリンと呼ばれる組織(最高法院、最高議会、長老会とも訳されるもの)の議員でした。当時、ユダヤの宗教に関することはすべてこの議会の権威のもとにありました。議会の許可なしには何も教えてはならないとされていました。また、イエス様は神殿で教えていたのですが、当時、律法の教師であるラビになるためには、3人以上のラビの前で、恩師のラビから按手(頭に手を置いて祈ってもらう)を受け、正式にラビに任命されなければなりませんでした。イエス様がラビに師事して学ばれ、按手の儀式を受けられたという記録はありません。当然サンヘドリンは黙っていません。彼らはイエス様がなさった「これらのこと」つまり、神殿をきよめたこと、病人を癒したこと、子どもたちの賛美を認めたこと、神殿で教えておられたことを、イエス様の自分たちの権威に対する挑戦であるととらえました。また、「この神殿とエルサレムの宗教指導者は自分たちだ」というプライドが許さなかったり、自分たちの立場と地位を守りたいという思い、自分たちの主権を侵害しているという憤り、それらをもって、イエス様を捕らえる口実を得るために罠を仕掛けたのです。ユダヤの指導者たちは、イエス様に対する挑戦的な態度をいよいよ強め、イエス様の言葉じりを捕らえて殺害することにつなげようとしていました。しかし考えて見ると、このような考えは私たちの宮、心の内にも起こり得るものなのではないでしょうか。自分のプライド、立場や地位を守りたい、私こそが私の人生の主役であるのだから邪魔するなと、イエス様に対する私たちの挑戦的な態度を育むならば、やがてイエス様を無視する、つまりイエス様をなき者とする、殺してしまうというとんでもない実を実らせてしまうでしょう。私を救ってくださった救い主を殺すという、本当に恐ろしいことが平然と起こってしまうのです。

彼らはイエス様を殺害することにつなげるために、質問による罠を仕掛けました。もしイエス様が、その権威が神から来たと言えば神に対する冒瀆罪にあたるとし、もし人から来たと言えばサンヘドリンは「もってのほか、とんでもないこと」とイエス様を責めることができました。イエス様がいずれの答えをしたとしても、彼らは群衆の前で公然とイエス様を非難することができます。権威(群衆は非言語情報〈顔つき、服装、姿勢、言葉遣い、距離感など〉からイエス様に何か権威を感じていたようです(マタ729))をもって語られる、群衆に大人気の、そして自分たちの権威を貶めるイエス様を引きずり下ろすことができると考えたのでしょう。しかしイエス様は質問に直接答えられる代わりに、反対に質問されました。これはラビが良く用いた論法で、相手が答えづらい質問を返すことで相手を沈黙させ、回答を避けるというものです。私たちも祈り中で経験することではないでしょうか。「主よ、なぜですか」と問うと、逆に問われるというものです。そして私たちはそこで深く取り扱われるのです。

21章24節    イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
21章25節    ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
21章26節    だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」

マタイの福音書では「天」は「神」を言い換えたものです。堅物マタイは神と口にすることを恐れ多いとし、「天」と言うのです。もし彼らが「天から」と答えようものなら、「神が権威を与えられた預言者の言うことを聞かなかったのか。神に背いた罪ではないか」と責められるだろうし、もし「人から」と答えるならば、民衆が承知しないのです。なぜなら民衆はヨハネを神から派遣された預言者であると信じていたからです。イエス様の逆質問に、自分のプライド、権威、立場、地位を守るために彼らはひと言も答えられないのです。

そこに彼らにとって、真理は重要ではなかったということが分かります。真理よりもただ自分の地位と体面を守るために、人々の目に自分が偉い人、正しい人、良い人と映ることが重要だったのです。そこに真理、神のみことばに対する従順はありません。

21章27節    そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。

彼らはイエス様の質問に対する答えに詰まって「分かりません」と答えました。彼らが本当に分からなかったのなら、あるいは間違って答えてしまったとしても、イエス様は彼らをあわれみ、そして教えてくださったのではないでしょうか。しかし彼らには、はなから聞こうとする心も、知ろうとする心もなかった。たとえイエス様から何を聞いても、自分の保身しか考えていなかった。ここに私たちは「従順」とは何か、考えさせられると思います。従順というのは、素直に従うことはもちろんのこと、それ以前に、素直に聞こうとする心、知りたい、知ろうとする心なのではないでしょうか。実に「信仰は聞くことから始まる」のです。そして聞くことは、キリストについてのことば、福音、みことばを通してなされるのです(ロマ1017)。

「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」。こうして祭司長たちや民の長老たち、サンヘドリンの計略は見事にはずれました。このように、神の権威は人間の権威とか知恵や策略などによって決して阻まれることはないのです。何によっても邪魔されることはないのです。そしてイエス様にある神の権威は何によっても阻まれることなく、その何によっても阻まれることのない権威によって十字架に真っ直ぐ向かって行かれるのです。ですからイエス・キリストの十字架は敗北ではなく、大勝利なのです。宗教指導者たちはイエス・キリストが十字架に架けられた時に、自分たちの権威が勝利したことを確信したでしょう。しかしそうではなかった。それは3日後にイエス・キリストが復活されたことによって明らかになりました。

祭司長たちと長老たちは、心ではヨハネの権威が神から来たことを否定してヨハネを信じず、悔い改めもせず、バプテスマを受けませんでした。本当は受けさせてもらえなかったと言った方が良いでしょう。しかし、自分たちのプライドが許さず、またヨハネを神から来た預言者と認める民を恐れて、それを口にはしませんでした。

口では神のみこころに従うと言っても、実際はヨハネを通して告げられた神のみこころに逆らう彼らは、そのままでは神の国に入れない。一方、指導者たちの目には神と民に捨てられた罪人と考えられていた取税人や遊女は、それを信じて従いました。取税人や遊女は確かに律法を守らない罪人でした。しかし彼らは律法を守らなかったことを悔い改めてバプテスマを受け、神のみこころに聞き従ったのです。そうする者に、神の赦しが、永遠のいのちが、神の国が恵みとして与えられるのです。

イエス様は祭司長たちと長老たちの態度を手厳しく批判し、神の御心に従う者について教えられます。イエス様は彼らに、2人の息子のたとえを語られます。「あなたがたはどう思うか」と問われます。それは彼らの従順ではない頑なな態度を示すためでした。

21章28節    ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。

ぶどう畑を所有している主人には、2人の息子がいました。息子に対して権威ある父は「働きに行きなさい」ではなく「働いてくれないか」と懇願するのです。原文では招待しているのです。望んでいるのです。この父の態度や言葉遣いに、父なる神の本当の姿、神の権威とはどのような性質のものなのか、また神の国、天の御国にはどのようにして入れられるのかが示されているように思います。

21章29節    兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。

長男は父の願いに「行きたくない」と言いましたが、後で思い直して行きました。「思い直す」というのは、感情的に後悔するという意味だけではなく、その人の心の変化が行動に現れるというニュアンスがある語です。長男の心を変化させ動かしたものは何だったのでしょうか。父の非言語情報だったのではないでしょうか。父が懇願した時の、招いた時の顔つき、姿勢、言葉遣い、距離感などを思い起こしたのかも知れません。そこに父の義、愛、聖さを感じ、心を変化させ動かしたのでしょう。決して父を恐れてということではなかったと思います。おそらく私たちも神の招きにどうして自分は応えたのかと考えてみるなら、それは恐れではなく愛を感じたからなのではないでしょうか。

21章30節    その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。

次男は「行きます」と言ったけれども、結局は行きませんでした。自分で言ったことも守らずに、父の義、愛、聖さに心動かされることもなく、父に不従順することを選んだのです。言うまでもなく、父の願ったとおりにした、父の御心にかなったのは兄であり、弟ではありませんでした。

21章31節    二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
21章32節    なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。

彼らに答えさせた後、イエス様はたとえを説き明かされます。イエス様はこの兄がバプテスマのヨハネを信じ、罪を悔い改めバプテスマを受けた取税人や遊女たちであり、祭司長たちや長老たちは弟の方であると明言しました。

ちなみに、30節で「お父さん」と訳されている語は、31節の「父」とは別の語が用いられています。直訳するならば「主」です。イエス様はここでわざわざ弟に「行きます、主よ」という台詞を言わせているのです。弟にたとえられている祭司長や民の長老たちは、「行きます、主よ」と返事をしながら不従順であったと、イエス様はここで伝えようとしておられたのです。あなたたちはこの弟のようであると、感じて欲しかった、知って欲しかった、悟って欲しかったのです。そして主は言われるのです。はじめは「行きたくない」と言ったとしても、その後で悔い改めてぶどう園に行った兄。父に従順することを選んだ兄。あなたはこの兄のようになって欲しい。この兄のように父に従順することを選んだ者たちが、神の国に入るのだから。あなたがたが罪人だと蔑んでいる取税人や遊女たちのように、神のみことばに聞き、罪を知り、自分のどうしようもない罪、自分ではどうすることもできない罪を認め、ただ神の前に悔い改めの実を結んで欲しいのだ。そして恵みによって赦しを得よ。賜物として永遠のいのちを得て神の国に入れられよ。それがわたしの心であると。わたしのことばに聞き、わたしの心を知ってくれないか。

取税人たちや遊女たちは、兄が最初のうちは父の言うことを聞こうとしなかったように、神の律法に背く悪い生活を送っていました。盗んではならない、姦淫してはならないという律法を守って来ませんでした。もしかしたら、守りたくても守れない事情もあったのかもしれません。しかしイエス様のみことばを聞いて、またイエス様の非言語情報からも、神の御心を知って、彼らは心動かされ、心新たにされ、これまで自分の行ってきた罪悪を悔い改め、その結果、神の国に入れました。自分を義人だと思っていた指導者たちではなく、自分の罪を認め、イエス・キリストを信じた者たちが義人とされたのです。すべての人は罪人であり、神に逆らっています。すべての人は、兄が態度を改めたように、本当の自分を隠し、高ぶって神に逆らっていた罪を悔い改めなければなりません。そうしてイエス・キリストを信じるならば、すべての罪が赦されて真の救いが与えられます。「あぁ、私は救われた」と心の底からの平安が与えられます。イエス・キリストは取税人や遊女のような罪人の私たちの友となり、悔い改めるならば即座に一切の罪をきよめ、義と認めてくださいます。イエス・キリストは、罪人をさばくためではなく、罪人を召して悔い改めさせ、神の赦し、永遠のいのちを得させるために来られたお方です。そのために自ら十字架にかけられ、ご自分のいのちまでも差し出されたお方です。十字架に架けられ死なれたイエス・キリストの御姿、そこにある非言語情報から、私たちは何を感じ取り、何を知るのでしょうか。

イエス様は祭司長たちや長老たちをも愛し、期待しておられました。イエス様は祭司長たちや長老たちに「あなたがたより先に神の国に入る」と言われました。イエス様の態度や表情はどのようなものだったのだろうか。どのような声色で彼らに語りかけたのだろうか。そこに込められた非言語情報。

「先に入る」をそのまま適用するならば、取税人や遊女たちがまず神の国に入り、その次に彼らも入るということです。祭司長たちや長老たちも、後になって悔い改めてイエス様をメシアとして信じ、権威を認め、神のみこころに従うならば神の国に入れるぞと。彼らの従順を期待されました。私たちの従順を期待されます。

イエス様は彼らの態度を手厳しく批判しつつも、彼らを愛し、期待し、神のみこころに従う者について教えられました。私たちもイエス様が語られる2人の息子のたとえを通して、神に従う者とされたいと思います。イエス様が指摘されたように、神のみことばが正しいと思い、口では従うと言いながらも、実際にはそうしないということが多々あるでしょう。見かけによらず実際は、ということが多々あるでしょう。神に不平を言ったり、神を批判し従わない自分を何とか正当化しようとしているところが多々あるでしょう。私たちの主は、私たちの非言語情報、私たちが神に見せる顔つき、姿勢、言葉遣い、距離感、そういったものからすべてを読み取ることのできるお方です。それでもなお、私たちを愛し、期待し、ご自身に従う者となることを望んでくださっています。

天の御国に入るのは、「主よ、主と」と言う者ではなく、神のみこころを本当に行う者です。神のみことばを実践して、神を偽りなく愛する者となりたいと願います。神のみことばを実践するためには、まず神のみことばに聞かなければなりません。そして神のみことばの権威に素直に従う者とならなければなりません。みことばは私たちに従順を要求します。それが私たちの身分や立場よりも重要なのです。それが私たちを本当に救う真理だからです。従順とは、聞こうとする心、知ろうとする心でしょう。毎日のデボーション、神との1対1の対話の時を大切に、みことばと聖霊を通して親しく主と見(まみ)え、そこから主の非言語情報をもいただき、神に従順することを日々学んでまいりたいと思います。天の御国は、主のみことばに聞き従い、罪から立ち返り、悔い改める者たちに開かれています。

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